このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 専修寺伝来の美術工芸品(世俗画、書跡・典籍、工芸) 山口泰弘 高田本山専修寺展図録

専修寺伝来の美術工芸品(世俗画、書跡・典籍、工芸)

 専修寺には、宗教美術のほかに、世俗的な美術工芸品が伝来している。これらは、信仰とは直接関連はないが、中世以降の生活文化をあきらかにする資料として貴重な価値をもつものである。以下では、世俗画、書跡・典籍、工芸の各分野にわたって、専修寺に伝存する作品を概観していくことにしたい。

 世俗画の分野でまず着目すべきは、歌仙絵であろう。専修寺には、三種の歌仙絵が伝わっているが、なかでも「後鳥羽院本」という通称のある三幅(No.34)は重要文化財にも指定され、よく知られるものである。色紙ほどの小さな三幅にはそれぞれ「伊勢」「小大君」「中務」が描かれる。女歌仙絵の醸し出す優美とはいくぶんことなったエキセントリックな表情や姿形の女性像が異彩を放つ。「後鳥羽院本」の称は、鳥丸光広の誌した「此一幅、後鳥羽院宸翰画、亦御同筆也……」の極めに由来する。極めの正否をうらづけるものはないが、いずれにせよ、作風的に鎌倉時代前半にまで制作を遡らせることに無理はない。

 他の二作品はいずれも江戸時代の前期にくだるものとおもわれる。No.35の作品は、現在、三十六点のうち三十四枚がまくりの状態で保管されている。おそらく以前は画帖として纏められていたものとおもわれる。画風は、かなり野卑な印象を与えるもので画派の正系をひく画家というよりも地方作の可能性が高い。いまひとつは、画冊形式の小本(No.36)である。見開きのかたちで右辺に歌仙の画像、左辺に歌を載せる。歌は、金泥または銀泥の施された料紙のうえに墨書されている。この料紙装飾の技法等から宗達作の伝承をもつが、比定の是非はなお検討を要する。

 「山水図屏風」(No.37)は、桃山障壁画の代表的画家雲谷等顔の孫等■(ハン)の作品。雲谷派は山口における雪舟の雲谷庵を代々継ぎ、雪舟正系を称した画派で、金地に濃墨を惜しむように点じて描いた蕭散とした山水景はこの画派の伝統をよく伝えている。「春秋山水図屏風」(No.38)は六曲一隻の画面にふたつの季節の景物を収めたもの。作者や制作年代は不明だが、江戸時代の狩野派や土佐派などの正系からは若干はなれた町絵師、あるいは地方絵師の作品と思われる。景物の表現にいくらか古様が残るが、制作年代はあるいは十八世紀まで降るかもしれない。「春秋草花図屏風」(No.39)は狩野成信なる画家の作品。『古画備考』には、狩野成信と名のる画家が三人記載されている。江戸狩野の系脈にある伊織・素仙、門流にある如泉だが、作風年代などから推定して、如泉にアトリビュートするのが妥当と思われる。如泉は、狩野派宗家松栄(元信の息子、永徳の父)の門人松伯に源を発する門流にあり、『古画備考』には「成信 狩野如泉 文政三年十一月七日死」と記されている。この系脈は長州毛利家に仕えており、このことからこの作品が大名間の贈答に使われて藤堂家に入り、その後専修寺に寄進された可能性も想定される。

 「四季山水図屏風」(No.40)は、画面の款記から長沢蘆洲が1839年73歳のときに書いたことがあきらかになる。蘆洲の経歴は、研究の進んでいない現状も手伝って、ほとんどあきらかにされていない。古筆了仲の『扶桑画人伝』巻四の「長沢氏蘆雪ノ義子ナリ名ハ鱗字ハ呑江ト云フ家法ヲ守リテ能ク画ク弘化四年十月二十四日没八十一歳」という記・魔ヘ簡略にすぎるがたよるべき資料のひとつである。これによって判明するのは、長沢氏に蘆雪の義子として入ったこと、名を鱗、字呑江と称したこと、明和4年(1767)に生まれ、弘化4年(1847)81歳という高齢で没したこと、である。『画乗要略』『扶桑名画伝』『長沢塁世遺印譜』などにもほぼ同様の記述がある。

 蘆洲の画風は、『扶桑画人伝』では「家法ヲ守リテ能ク画ク」と評されている。丹後中部郡峰山町慶徳院の襖絵、木村重圭氏によって紹介された丹波篠山町波々伯部(ほおかべ)神社社務所の襖絵などは、数少ない遺例でしかも規模の大きなものである。どちらも制作年次について正確な手掛かりを欠くところに難はあるが、その作風をみると、たしかに蘆雪の作風に忠実に従った画家であったことがわかる。それに対して、この作品は、蘆雪の作風からはいくぶん離れているが、73歳という晩年の作品であることを考えると、蘆洲の画風展開をあとづけるうえでは貴重な資料となろう。今回の展覧会には出品されなかったが、専修寺には蘆洲の作と目される涅槃図の巨幅がある。いかにも蘆雪の後継者らしい奇想の横溢する作品として興味が惹かれる。

 「咸陽宮絵巻」(No.41)は、中国古代、燕の荊軻・奏舞陽のふたりが、秦の始皇帝に拝謁する機をとらえて、帝を刺そうとする。帝は末期に寵姫花陽夫人の琴を望み、ふたりが曲に聞き入っているのに乗じて、これを討ち取る、という謡曲にも取り上げられた伝説をテクストにしている。画家は不詳だが、江戸時代前期の華麗な彩色絵巻である。

 「花鳥図巻」(No.44)には中国明代後期の呉派画家周之冕の款記が認められる。肥痩の激しい筆線を特徴とする花鳥画を得意としたこの画家の真作であるかどうかはなお検討を要するが、しなやかで洗練された筆線と落ち着いた彩色がうつくしい。「高士図巻」(No.43)も中国から舶載されたもののひとつ。江戸時代には鎖国後も間断なく中国から書籍や絵画が輸入されており、18世紀になると教養人のあいだに中国趣味が盛んになり、大量の明清画が輸入されるとともに、南画の隆盛を派生することになった。中国文人の理想的な山荘暮らしを描いたこの図巻もおそらくはそうした輸入画のひとつであろう。

 室町から江戸初期にかけてお伽草子を中心として描かれた冊子本を奈良絵本と総称する。金箔を貼り粗質の濃彩を稚拙な筆致でほどこした明快な画面がお伽草子にふさわしいあじわいを醸し出す。「富士の人穴」(No.42)は、将軍源頼家の命を受けた仁田四郎忠常の冥府巡りの伝説を描いたお伽草子の代表的主題である。

 絵画のほか、専修寺には典籍・書籍も多数伝えられている。なかでも、きわだっているのは、宸翰の類であろう。

 専修寺は、本願寺との対抗策上、はやくから宮廷への接近を図っているが、永正8年(1511)に常磐井家から真智が入室し、さらに天正2年(1574)には門跡寺院の地位を得、江戸時代には准門跡寺院と定められ、第17世圓猷が伏見宮家から、第18世圓遵、第19世圓祥が有栖川宮家から入室するなどして、宮廷あるいは宮廷文化とのかかわりをふかめていった。

 そのようなかかわりを伝える資料として、本展には「観無量寿経 後柏原天皇宸翰」(No.47)、「後奈良天皇宸翰和歌懐紙」(No.48)、「後陽成天皇宸翰消息(伏見殿宛)」(No.49)、「後陽成天皇宸翰・龍虎」(No.50)、「霊元天皇宸翰和歌懐紡」(No.51)などの宸翰が出品されている。「観無量寿経 後柏原天皇宸翰」は、仏教に深く帰依したとつたえられる後柏原天皇(1464~1526)の書写したもので、銀界を施し、欄外に金銀の切箔を撒いた美しい装飾と流麗な筆致の作品である。本経には後柏原天皇の弟尊盛による奥書があり、それによって尊盛が文亀2年(1502)専修寺第11世応真に授けたものとわかる。また、「後陽成天皇宸翰消息(伏見殿宛)」は、年頭の祝辞に対して伏見宮に宛てられた返翰2通と包紙1枚とが1巻にされたもの。款記をもたないが、筆跡から後陽成天皇にアトリビュートされる。上述のように専修寺第17世圓猷は伏見宮家から入室しており、代々宮家に伝えられたものが、入室を機縁に専修寺に収められたとみられている。

 宗祖親鸞は、9歳の折り、僧慈円(1155~1225)のもとで剃髪したと、「善信聖人親鸞伝絵」が伝えるが、専修寺には、慈円の款記のある消息(No.52)が遺されている。藤原摂関家の出で、台座主に昇り、僧侶として栄達をきわめた。歌人あるいは『愚管抄』の著者としても知られる。

 「水鏡」(No.53)は、中山忠親(~1195)によって著されたとされる平安時代の歴史物語。「大鏡」であつかわれた以前の時代、つまり神武天皇から仁明天皇までの時代を扱う。「水鏡」の伝本はおおいが、専修寺本は鎌倉中期の書写と目される。完本としてはもっとも古いものとして貴重である。上中下3帖からなり、それぞれに筆者が異なる。

 専修寺住職はまた、茶道宗旦古流の家元でもある。系譜としては、京都本誓寺のちの高田御坊山内にあった北之坊の住持至道が千利休の孫宗旦流の自笑につき、至道から第17世圓猷が相伝し、代々伝えられたものという。このような由縁もあり、同寺には膨大な茶道具が蔵されている。また、同寺には18世紀後半から19世紀前半にかけて第18世圓遵が催した茶会記も遺されていて貴重な数奇生活の資料となっている。本展には、圓遵が安永9年(1780)に催した茶会記に従って、同茶会で使われた道具類を現存のものから選んで出陳している。

(山口泰弘)

ページID:000057078