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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > ごあいさつ 高田本山専修寺展図録

ごあいさつ

 真宗高田派本山専修寺は、津市一身田に広大な寺地を占め、伊勢地方を代表する寺院として知られています。専修寺は、寺伝では1226年(嘉禄2)下野国高田(現在の栃木県芳賀郡二宮町高田)で親鸞聖人が創建したと伝えられていますが、実際には配流の地越後を離れ東国布教に赴いた親鸞聖人が、高田の如来堂で人々の教化を行ったことにさかのぼると考えられています。

 ここで教化を受けた人々は高田門徒と呼ばれ、専修寺第二世真仏、第三世顕智らの指導者に率いられて、関東の真宗教団の中で大きな力を持つようになり、東海北陸地方へも勢力を拡大するようになります。

 室町時代に、専修寺中興の祖といわれる第十世真慧は、朝廷への接近をはかりつつ、東海北陸地方で積極的な布教活動を行います。この真慧が伊勢地方での布教活動の際に一身田に建立した無量寿院(のちに無量寿寺)が、現在の専修寺の前身と考えられています。真慧没後、高田の専修寺が火災にあったために、第十一世応真の跡を嗣いだ十二世堯恵は一身田を本拠地とし、一身田専修寺が高田派本山として機能するようになりました。

 近世以前の専修寺に、既に大規模な阿弥陀堂、祖師堂が存在したと伝える史料もありますが、詳しいことは明かでありません。当時の伽藍は1580年(天正8)に焼失し、1588年(天正16)再建の堂宇も1645年〈正保2〉再度火災にあいます。

 現在の如来堂と御影堂は、正保2年の火災後再建されたもので、御影堂は、1666年(寛文6)に完成しました。その間、1658年(万治元)、津の藤堂藩2代藩主藤堂高次の援助により、専修寺の寺地は大きく拡大しました。

 如来堂再建は御影堂よりもかなり遅れ、1719年(享保4)に第十七世圓猷上人が発願し、1748年(寛延元)にようやく落成しました。如来堂の建立経過や建築技術については、1983年(昭和58)から行われ1990年(平成2)3月に完成した修理工事によって、多くの新発見がありました。

 御影堂と如来堂造営に前後して、山門、対面所、桐鳳書院、膚門や、庭園「雲幽園」、茶室「安楽庵」も整備されて、専修寺は現在まで多くの人々の信仰を集め、また一身田の町は、周囲に濠をめぐらした専修寺の寺内町として発展しました。

 また、専修寺は江戸時代には准門跡寺院として位置づけられました。有栖川家や近衛家から入寺して、茶の湯や詩歌に秀でた住職があらわれ、専修寺は京の門跡文化につながる文化的雰囲気を強くもっていました。

 専修寺には、宗祖親鸞聖人の書跡を中心に、多くの歴史史料や美術工芸品が伝えられています。本展では如来堂修理工事の完成を記念して、「西方指南抄」、「三帖和讃」をはじめとする親鸞聖人の書跡と関係文書類、善信聖人親鸞伝絵など中世から近世の仏画、世俗画、専修寺と宮廷文化とのつながりを示す文芸関係の書跡や工芸品、専修寺の歴史を伝える古文書、如来堂に関する古文書や建築資料など、専修寺伝来の美術的・歴史的遺産58件112点を展示して、その歴史と美術について紹介しようとするものです。

 最後に、展覧会開催に当たりましてご協力いただきました関係各位にあつくお礼申し上げます。

1991年5月

三重県立美術館
真宗高田派本山専修寺
(財)岡田文化財団
朝日新聞社

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