このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2001 > 画面形式から見た大観作品-連作と絵巻を中心に 毛利伊知郎 横山大観展図録

画面形式から見た大観作品-連作と絵巻を中心に

毛利伊知郎

 明治二〇年代後半に始まり、一九五八(昭和三三)年に幕を閉じた半世紀以上に及ぶ横山大観の画業については、これまでも様々な視点から論じられてきた。大観が明治・大正・昭和の三代にわたって制作活動を行い、しかもわが国の社会・政治の動向とも密接な関わりを保っていたことからすれば、大観の作品、あるいは画家としての在り方について語ることは、日本の近代美術そのものを語ることになるということも可能だろう。

 これまでの大観論の主要な論点は、明治三〇年代半ばの「朦朧体」をめぐる諸問題、大正期に完成を見たと言える大観画の特質、昭和初期以降の体制翼賛的性格を帯びた作品に対する評価の問題などであった。

 しかし、今回の展覧会を準備するに当たり、改めて大観の作品を通覧していて、筆者はその画面形式も大観の作品成立の背景を考える際に、看過できない要素ではないかとの考えを抱くようになった。そこで、本稿では大観作品に特徴的と考えられる瀟湘八景のような多幅対の連作と絵巻を対象として、大観が抱いていた制作上の問題意識の一端について検討を加えることとする。

一、多幅対による連作

 はじめに、瀟湘八景に代表される掛幅形式等による連作を取り上げたい。大観はその生涯に八幅対の《瀟湘八景》を三シリーズ(大正元年、大正二年、昭和二年)制作した他、四幅、一〇幅等の連作を多数描き、四幅対以上の主要作品だけでも次の一三作品をあげることができる。

 《四季の雨》一八九七(明治三〇)年
 《夏日四題》一八九九(明治三二)年
 《海四題》一九〇三(明治三六)年
 《瀟湘八景》一九一二(大正元)年
 《瀟湘八景》一九一三(大正二)年
 《洛中洛外雨十題》一九一九(大正八)年
 《竹十題》一九一九(大正八)年
 《霊峰十趣》一九二〇(大正九)年
 《山四趣》一九二五(大正一四)年
 《瀟湘八景》一九二七(昭和二)年
 《春風・雨余・秋雨・雪霽》一九三九(昭和一四)年
 《山に因む十題・海に因む十題》一九四〇(昭和一五)年
 《月四題》一九四五(昭和二〇年)

これ以外に三幅対・双幅も多く、またほとんど同じ図様と大きさの単独作品を幾種類も描いていることも考え合わせると、大観がこの種の連作に強い関心を抱いていたことが知られる。これらの連作では、伝統的な画題は瀟湘八景のみで、《洛中洛外雨十題》のように名所絵的性格を帯びたシリーズが一つある他は、いずれも大観自身の創案による風景を主題としている。そうした画題のあり方にも、大観がこれら連作で意図したもの、あるいは彼の絵画観を見ることもできよう。

 はじめに最も早い時期の《四季の雨》を見ることにしよう。この作品は「空気を描く工夫はないか」という岡倉天心の問いにこたえた作といわれ、雨に打たれる竹林の四季折々の情景が四幅に描き分けられている。本図が制作された年初めに、大観は雪舟の《四季山水図》(東京国立博物館蔵)を模写しており、伝統的な四季山水図からヒントを得つつ、師天心の課題に答えようとしたのではないかと推察される。

 もっとも、《四季の雨》の表現は雪舟画とは全く趣を異にしている。大観は、季節とともに姿を変える竹叢や水面の情景に加えて、四季折々の雨の視覚上の相違を、円山四条派的な要素と西洋画的要素双方が認められる柔らかな描法と色調で描き出している。そこに、前年春までの京都時代の痕跡を指摘することも的はずれでないと思われるが、いずれにしても大観の意図が季節のうつろいとともに変化する自然の様子を描き出すことにあったことは明らかである。

 こうした意識は、二年後の《夏日四題》に継承されていく。この作品は、夏の一日の朝・昼・夕・夜それぞれの空気の変化を表現しようとした作で、枝垂れ柳や竹林など各図で場面設定を変化させることによって、《四季の雨》に見られた単調さを払拭しようとする画家の意志を見て取ることができる。さらに、一九〇三(明治三六)年の《海四題》では、季節、あるいは時刻によって表情を変える海面と空、光線の様子を絵画化することに強い関心が寄せられている。

 このように、春夏秋冬、朝昼夕夜という自然の変化に対応した四幅対は、伝統的な日本絵画では意識されてこなかった大気や光線の表現を目指して、日本東洋絵画固有の画材による新しい絵画表現の可能性を模索していた大観にとって、格好の画面形式であった。そして、明治三〇年代に始まった多幅対作品が一つの完成を見たのが、 一九一二(大正元)年の《瀟湘八景》であった。

 そうした意味では、多くの優れた先行作品を生んだ伝統的な画題であると同時に、八幅対で描かれることが多い瀟湘八景を大観が選択したことは、西洋絵画への指向と日本東洋絵画への新たな視点からの接近という大観が持つ二つのベクトルが、多幅対という伝統的な画面形式と密接に結びついていたことを示しているといえよう。

 大観は、一九一〇(明治四三)年六月七日に寺崎廣業、山岡米華とともに新橋駅を出発し、同月一一日に日本郵船加茂丸で神戸港を出港、上海、蘇州、南京、洞庭湖、北京などを訪問し、長江の舟行も体験して、七月二五日に帰京した。この中国旅行からは彼の画業に重要な意味を持つ作品がいくつか生まれたが、その代表作の一つが第六回文展に出品され、夏目漱石をはじめとする多くの美術批評家によって取り上げられた《瀟湘八景》八幅である。

 本作品は、伝統的な瀟湘八景の表現とは一線を画し、各所に大観の創案が盛り込まれている。水墨が基本であったこの画題に色彩表現を導入したこと、各二幅を対にして春夏秋冬に対応させたこと、いわゆる山水図の範疇にとどまらず、画中人物を多数登場させて近代的な生活感・人間の存在を表現したこと等々である。

 そもそも、瀟湘八景の画題は一一世紀北宋の画家宋迪に遡るといわれ、晴雨による大気と光線の微妙な変化を水墨技法を駆使して描き出すことがその眼目であった。

 こうした大気や光線などの自然描写と密接に結びついた瀟湘八景の画題と八幅対の画面形式が、三〇代の頃から大観が取り組んできた大気や光線、風雨などの自然現象の表現という課題と様々な面で重なり合うことはいうまでもない。

 大観は、その翌年にも竪幅形式による《瀟湘八景》の異作(茨城県近代美術館蔵)を描いた後、しばらく時間をおいて昭和二年に横構図を採用した水墨のみによる《瀟湘八景》(大倉文化財団蔵)を制作している。本作品には、山岳や煙雨の描写などに一九二五(大正一四)年の《山四趣》(大倉文化財団蔵)との関連が認められるが、一九一二(大正元)年の《瀟湘八景》に見られた生活感の表出はほとんどなく、画家の関心は専ら自然描写へと向けられている。おそらく、一九二三(大正一二)年の《生々流転》で一つの頂点に達した水墨表現のその後の展開のあり方と同時に、連作形式が成熟した段階に至ったことが本作品に示されているということができるだろう。

 連作の系譜をたどると、一九一九(大正八)年に大観は水墨と彩色をまじえた、《洛中洛外雨十題》を制作している。この作品は、その題名からも窺えるように、平安時代に遡る名所絵・四季絵の伝統に連なる性格を帯びているが、そこには場面設定に応じた多様な水墨と賦彩の技法を見ることができる。ここで注目されるのは、水墨に限っても、線描と没骨描・墨色の変化など様々な要素を使い分けて、各図に連続性と同時に独立性をも与えることに成功していることである。

 一九二〇(大正九)年には、昭和前期以降の大観作品との関連を窺う上でも興味深い、富士山を主題とした連作《霊峰十趣》が描かれている。このシリーズは、春夏秋冬に朝・夕・夜と三保・山・海を加えた一〇図で構成されている。そこでは、季節の変化だけでなく、一日の時刻の変化、さらには三保・山・海というパースペクティブの差異を加えることによって、富士山のシンプルな山容をモチーフに、多様な視覚表現の可能性が提示されている。  刻一刻と移り行く多様な自然の表情をいかに絵画化するかという連作の主目的からいえば、昭和一五年の《山に因む十題・海に因む十題》は、その制作要因の一つとして先の《霊峰十趣》での体験を踏まえているということができるだろう。

 《海山十題》、あるいは《山海二十題》とも呼ばれるこのシリーズは、富士山を主題とした《山に因む十題》、海浜を主題とした《海に因む十題》の二〇作品によって構成されている。この連作は、その売上金を陸海軍に献納する「彩管報国」という制作動機から、戦時体制下での大観の国家に対する姿勢を象徴する作品として、あるいは辛口の美術批評家として知られた児島喜久雄が激賞したように、昭和一〇年代の代表作として言及されることが多い。しかし、絵画作品としての造形性に焦点を絞れば、季節や時間の変化、光や音など自然の様々な要素を描き分けたいという、明治三〇年以降続けられてきた画家の強い意志が底流としてあることは間違いない。  《山に因む十題》は「乾坤輝く」「霊峰四趣(春・夏・秋・冬)」「黎明」「朝暉」「砂丘に聳ゆ」「雨霽る」「龍躍る」の一〇図、また《海に因む十題》は「黒潮」「松韻濤声」「曙色」「浦澳」「濱海」「波騒ぐ」「海潮四題(春・夏・秋・冬)」の一〇図だが、各図の題名から窺うことができるように、ここには季節・時刻の変化とともに、《霊峰十趣》にも見られた視点の変化も取り込むことによって、複雑なバリエーションが展開されている。

 《山に因む十題》における、雲や樹木、砂浜などサブモチーフの取り合わせ、あるいは《海に因む十題》における様々な視点の導入、さらには《山に因む十題ー龍躍る》のように、江戸時代以来の富嶽登龍図の形式に拠りながらも、後に《或る日の太平洋》へと展開する一種のイリュージョンの導入等々によって、各図が主モチーフの単調な羅列に陥らないように周到な注意が払われているのである。

 以上のように吟味してくると、彩管報国という制作動機を別にすれば、《山に因む十題・海に因む十題》は、その内実において三〇歳の頃から大観が追究してきた多幅対作品による自然表現の一つの帰結であったということができよう。

 そして、これら多幅対の連作において大観が追い求めていた、多様な自然の表情をいかに描き分けるかという課題は、同時に絵巻という画面形式でも試みられていたのである。次節では、こうした視点から大観の絵巻について触れておこう。

二、絵巻

 『大観画談』の中で「昔から絵巻物を私ほど描いたものはありますまい。・・・(中略)・・・絵巻物という日本に伝来しているあの形式で物象を描くということは作者にとっては楽しみであり、また意義のあることだと思います」と画家自らが語っているように、大観は絵巻には格別の思い入れを抱き、合作を除くと生涯に次の絵巻九巻を制作している。

 《楚水の巻》一九一〇(明治四三)年
 《燕山の巻》一九一〇(明治四三)年
 《長江の巻》一九一四(大正三)年
 《荒川の巻》一九一五(大正四)年
 《鳰の浦絵巻》一九一八(大正七)年
 《宇治川絵巻》一九一九(大正八)年
 《生々流転》一九二三(大正一二)年
 《輝く大八洲》一九四一(昭和一六)年
 《四時山水》一九四七(昭和二二)年

 九巻のうち五巻が大正期に描かれていること、また水墨表現による作品が大部分を占めていること、三〇数メートルに及ぶ《生々流転》を筆頭に、いずれも十数メートル以上の長巻であることなどを全体にかかわる特徴として挙げることができるだろう。

 その最初の作例で、もともと一具として描かれた《楚水の巻》《燕山の巻》は、一九一〇(明治四三)年夏の中国旅行の成果で、三重県松阪の収集家小津與右衛門がかつて所持していた作品である。小津に宛てた大観の書簡が作品とともに伝来しており、それによって制作の経緯・背景の一端を知ることができる。

 大観によれば、《楚水の巻》は「長江沿岸一帯の風光を理想化」したもので、「湿潤の気に富み 気候の変化も多く候」ゆえに、「全巻を一日の内朝、昼、雨、夕の四段ニ分ち」描いたという。一方の《燕山の巻》では、「南に比して乾燥に候」ゆえに「一日の大気の変化ハ試み不申」と述べ、続けて両巻で趣向を変えたのは「重複の表現ヲ好み不申」であったからだと記している。

 この書簡からは、次々と場面を展開していく絵巻が、多幅対の連作で大観が試みた、時刻や天候に応じて様々に変化していく自然の表情を描き出すには格好の画面形式であったことを読みとることができよう。

 しかも、各幅を独立して鑑賞することが可能な多幅対作品とは異なり、絵巻は各段の独立性と連続性とを自由に使い分けながら、水墨あるいは彩色それぞれの多様な表現を試みることができる画面形式ということができる。

 《楚水の巻》は、遠山を望む長江下流の朝景に始まり、昼時の集落、雨模様の平原、烟雲湧き立つ山岳が続いて、夕月浮かぶ山寺の景で終わっている。風景絵巻という性格のためか、空や水面などが各所に配され、巻首から巻末に至るまで自然な場面展開が見られるが、より注目されるのはそこに繰り広げられる多様な水墨技法であろう。

 この絵巻を描く際に、大観は「驪龍珠りりゅうしゅ」という中国の墨を使用したと先の書簡に記しているが、この絵巻では変化に富んだ水墨技法による風景描写が最大の見どころになっている。すなわち、墨の濃淡、線描と没骨描、擦筆と潤筆、米点やたらし込み等など多彩な描法が全巻を通じて示されているのである。さらに、絵巻という画面形式と密接不可分な関係にある様々なパースペクティブによる風景描写がこの絵巻の重要な要素であることも忘れることができない。

 こうした水墨表現の可能性を模索した風景絵巻は、その後やはり中国旅行の成果である《長江の巻》を生んだ後、一九一八(大正七)年には琵琶湖とその周辺の景物に取材した《鳰の浦絵巻》へと展開している。さらに、その翌年には掛幅形式の連作《洛中洛外雨十題》との関連を窺わせる彩色をまじえた《宇治川絵巻》が制作されている。

 《鳰の浦絵巻》は二種制作され、そのうち一本は全長二〇メートルを越す長巻で、《宇治川絵巻》もやはり二三メートル余と、大正中期に至って大観の絵巻は一層長大なものとなった。

 こうした絵巻の長大化と、水墨表現の多様化・深化が一つの頂点に達したのが、一九二三(大正一二)年の《生々流転》(全長三六・六四メートル)ということができるだろう。それまでに制作された大観の風景絵巻は、いずれも基本的に中国、あるいは日本の実景に基づいていたが、この絵巻は実景描写とは性格を異にして、画家の心象風景によって構成されている。

 《生々流転》は日本の風景が基本であること、部分的に実景取材に基づいて構成されていることは、《宇治川絵巻》中の図様等と似通ったところがあることから明らかだ。しかし、中国宋元画や琳派など古典作品からの転用も含めた多彩な水墨技法と、巻首から巻末に向かって繰り広げられる物語性を伴った画面展開は、《生々流転》が表現の多様性のみならず、作品の内容においても従来の風景絵巻と一線を画していることを示している。

 《生々流転》以降も大観は、《輝く大八洲》と《四時山水》を制作しているが、その思想的な性格づけを別にすれば、絵巻形式の特性を活かした画面展開、表現の多様化と深化は、《生々流転》でその頂点に達したことは明らかだろう。

 他の画家たちと比較しても、大観の絵巻はその数量と内容において群を抜いている。そこには絵巻に対する大観自身の積極的な姿勢が強く現れている。大観はこの伝統的な画面形式を、新しい絵画表現創造を促す大きな可能性を持つものととらえていたのである。

 このように多幅対による連作と絵巻は、大観が目指していた時刻や天候に応じて様々に変化していく自然の表情を描き出すには、絶好の画面形式であったといえるだろう。しかも、多幅対の連作が各図の独立性をより強く持つ傾向があるのに対し、絵巻は各段の独立性と連続性とを柔軟に使い分け、物語性を導入することによって、より複雑で変化に富む絵画表現を可能にする画面形式であった。

 しかも注目されるのは、「多幅対による連作」および「絵巻」という形式が、いずれも伝統的な日本絵画の大きな特徴をなす画面形式であった点だ。そうした伝統的形式を積極的に採用し、その形式固有の特性を新しい絵画表現の創造に活かすこと、それは大観作品の基盤をなす重要な要素であったといえるだろう。

 もちろん、横山大観の膨大な作品群は師天心の教えに強い影響を受けた独自の思想、西洋と日本東洋双方にわたる先行作品研究の成果など様々な要素が複雑に絡みあって成立している。しかも、大観の大衆性と権威性、戦中期の社会的行動、富士山に象徴される国粋的モチーフ等々造形面以外の諸要素が大観作品の評価を難しくしてきた。

 大観作品成立の複雑な背景を考慮すれば、本稿のように画面形式だけをとりあげて大観画の造形性を論じることは大きな危険を伴うかもしれない。しかし、画家の社会的姿勢や思想とは別の次元で、その作品を純粋に造形的な視点から検証し日本の近代絵画史に位置づけていくためには、作品を成立させているこうした造形要素のレベルでの検討を積み上げていくことも必要な作業ではないかと筆者は考えている。

ページID:000057068