日本近代彫刻史上最もよく知られれた作品のひとつ、荻原守衛の遺作《女》[pp.100-01]には、ひとつのエピソードが残されている。それは、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・黒光夫妻の子供たちがこの作品を見たときに、「母さんだ!」と叫んだというものである。
相馬夫妻は、荻原守衛と同じ長野県穂高の出身。愛蔵と黒光(旧姓は星、本名は良)は、1897〈明治30)年に郷里で結婚後、上京して東京の本郷にパン屋を創業したが、のちに新宿に移転して新宿中村屋を創業した。
1908(明治41)年に帰国した荻原守衛は、新宿角筈(現在の新宿駅あたり)に夫妻の支援でアトリエを構え、黒光への恋愛感情に苦しみながらも、このアトリエで《女》をはじめとする作品を制作することになる。荻原は中原悌二郎、戸張孤雁らに大きな影響を与えて、彼らを彫刻の道に進めることとなったが、彼らが交流をもったのもこの中村屋を中心とした空間であった。荻原をはじめとする青年作家たちを支援した相馬夫妻は、明治末から大正期の新しい美術の支援者として大きな役割を果たした。
夫妻は美術のほか、文学、演劇にも強い関心をもち、彼らのまわりには荻原、中原、戸張ら彫刻家以外にも、柳敬助、中村彝、鶴田吾郎といった画家たち、作家で社会運動家の木下尚江や歌人の会津八一、「静坐法」という精神修養法で知られた岡田虎二郎、さらにはロシアの盲目の詩人エロシェンコ、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ポースら海外の文化人も集っていた。
このサロンからは、相馬黒光の面影を宿した守衛の《女》をはじめ、明治末から大正期の多くの名作が生まれた。詩人工ロシェンコは、中村彝の《エロシェンコ氏の像》を生み、中原悌二郎は中村屋に身を寄せていた亡命ロシア人ニンツァをモデルに、のちに芥川龍之介から激賞を受ける《若きカフカス人》[p.103]を制作している。また、相馬夫妻の愛娘俊子は、中村彝のモデルをたびたび務めることになった。
相馬夫妻が支援したのは、新しい芸術創造に燃える、若く貧しい芸術家たちであった。彼らは、個人の自由を尊重する新しい芸術思想を作品に結実させようと苦難の道を歩んでいたが、その多くは貧困と病のために若くして世を去ることになる。そうした意味では、中村屋サロンは、個人を尊重する自由な空気が流れていた大正という時代を象徴する空間でもあったといえるだろう。
(毛利伊知郎)
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