個の表現の成立
毛利伊知郎
1.これまでの日本近代彫刻史研究
明治時代の終わり近く、ひとりのフランス人彫刻家に日本から熱い視線が送られることになる。その彫刻家の名は、オーギュスト・ロダン(1840~1917)。フランス近代彫刻の父と称されるロダンヘの傾倒は、明治末から大正期以降の日本彫刻にひとつの変革を起こす原動力となった。 その変革とは、作家個人の芸術的自由と内面表現の重視であった。こうした動きは、美術、文学、思想など文化全般に広く認められたが、彫刻の分野に閑しで特徴的な点は、「個」の自由、内なるものの表現の重視とロダンヘの傾斜とが軌を一にしていたことである。日本へのロダン紹介は、青年彫刻家たちの間に、彫刻を「面、量(塊)、動勢、肉づけ」からなる空間構造と捉えるロダンの考え方と、作家という個の重視、内なるものの表現を求める動きを引き起こしていった。 明治政府は富国強兵を旗印に、欧米に対抗可能な近代国家建設を進めてきたが、そこでは個という存在を超えた社会や国家を優先する意識が強く働いていた。そうした国家主義的政策に対するアンチテーゼとして、明治維新から半世紀近い年月が経過したこの時期に、「個」とその生命を重視する意識が顕著になってきた。 そうした状況下に日本に紹介されたロダンは、単に彫刻家という存在にとどまらなかった。ロダンは、芸術的才能、人格、すべてを含めて理想的存在であった。それは、ロダンと相前後して紹介されたゴッホに対する日本人のスタンスとも共通している。 |
近代彫刻の父ロダンと日本
内的生命の表現
「ロダン以後」の世代
第一次世界大戦中の1917年11月17日、ロダンはこの世を去った。彼の死は、わが国の知識人や彫刻家たちにとって大事件であった。翌1918(大正7)年1月に発行された『白樺』第9巻第1号には、ロダン追悼記念の記事と作品の写真が付録としてつけられたが、そのなかで尾崎喜八は、「今はぢつとこらへてロダンのことを考へませう。父の喪にゐる心地がします」と述べ、また長与善郎も「彼の死に対しては全世界、全人類が心から脆いて祈らなくてはならない。悔まなくてはならない。等しく謹慎すべき運命的事件だ」と記して、深い哀惜の念を表明している。こうした熱情的なロダン追慕が沈静化して、フランス近代彫刻をより冷静に研究する作家が現れるのは1920年代以降のことであった。 1921(大正10)年、保田龍門がパリでアントワーヌ・プールデルに師事したのを皮切りに、渡仏しでプールデルに師事する日本人彫刻家が相次いだ。保田以外では、木内克(1922年渡仏)、金子九平次(1922年渡仏)、佐藤朝山(1922年渡仏)、清水多嘉示(1923年渡仏)、武井直也(1924年渡仏)らがプールデルに学んでいる。また、1924年(大正13)に渡仏した山本豊市はアリスティード・マイヨールを師とした。 わが国にロダンを伝えた荻原守衛、高村光太郎を第一世代とし、彼らに感化されて1910年代から活動を始めでいた中原悌二郎、戸張孤雁、石井鶴三らを第二世代とすれば、渡仏してプールデルやマイヨールに師事した日本人作家たちは、いわば第三世代の作家たちといっでもよいだろう。 1920年代にヨーロッパに留学した日本人彫刻家たちは、より広い視野をもちながら自己の造形世界を築いていった。この時期、高村光太郎や岸田劉生らがロダンの作品に対する疑問を呈した文章を記しでいるのも、ロダン熱が沈静化してきた現れといえるだろう。 しかし、熱狂的なロダン賛美から始まり、荻原守衛や高村光太郎らによっで日本へ紹介された内的写実主義と個の表現を重視する流れは、わが国の彫刻界でひとつの潮流を形成して第二次世界大戦後まで継承されることになる。 (もうり・いちろう/三重県立美術館) |