技法から見る佐伯祐三の油絵
田中善明(三重県立美術館学芸員)
佐伯祐三の「鮮烈なる生涯」を知らなくても、絵に一目惚れしてしまう人がこれまでにも多くいた。佐伯の没後最大コレタターとなった山本費次郎はもとより、医学博士の玉井一郎も親子で佐伯の油絵を愛した。かつて佐伯の作品は大企業の社長室に好んで飾られていたし、学者では谷川徹三、脇村義太郎らがその魅力にとりつかれた。
理屈抜きで惚れ、朝から晩までながめていないと気が済まず、自己の審美眼を佐伯の絵に賭けてしまう人びとにとって、佐伯の絵の魅力は、言葉で表現できる次元を超えたものであろう。古来より藝術は、つくり手の「精神」とそれを鑑賞する人の「精神」との交感によって成立する世界である。ここで技法や素材だけを取り上げて述べるのは、こうした人々からの非難を受けることになろう。しかし、すぐれた佐伯論が数多くある現在、そして、佐伯祐三の場合は精神と技法が一体となった数少ない画家だという確信から、あえて技法のことのみにスポットをあててみたい。
よく知られているとおり、佐伯は輝くほど速く絵を仕上げた。画家里見勝蔵への手紙には、1927年8月からの第二次パリ滞在時代、5ケ月目には107枚、6ケ月日には145枚の絵を描いたと報告している(1)。ヴラマンクとの出会い以前は一枚の絵に数日かかることもあったが、ネル・ラ・ヴァレなどフランス北西部の、オワーズ河周辺風景を集中的に描いた1924年末から1925年はじめ頃にその速度は増した。もちろん、それ以前の、たとえば美術学校時代の《自画像》(No.2)の肩の質感処理や、1923年頃の《裸婦習作》(No.4)の背景のスピード感あふれる処理を見れば、すでに佐伯の天分として備わっていたことはたしかである。それがパリの街にイーゼルを立ててからは描き手順こも迷いが見られなくなった。 そんな短時間で描かれた絵であっても、鑑質する私たちをいつまでも飽きさせないのは、佐伯の絵がとても複雑な表現で成り立っているからであろう。「ガラスの器を石の上に叩きつけると、パーツとはじけて割れるでしょ、ガラスはいろいろな鋭角的な格好でしょ、そういうものを描きたいって言ってましたよ。(2)」と中山巍に語ったとおり、鋭くてしかも複雑な要素が絵の隅々にまで行き渡る表現、それが佐伯の完成イメージにあった。 |
註 1)里見勝蔵「佐伯祐三」『近代の洋画人』1959年p.228 2)中山巍「佐伯祐三との想い出」(談話)『求美』36号1978年7月p.70 |
佐伯のカンヴァス
単純で複雑な描画
佐伯のワニス
佐伯の額縁
佐伯祐三は額縁にも関心をもっていた。画友の前田寛治と木下孝則が下落合の佐伯のアトリエを訪ねたとき、佐伯はたくさん重ねてあった20号大の滞欧作を、一枚きりの額縁に次から次へと入れ替えて見せたという(20)。つまり、額縁を入れた状態を想像しながら佐伯は絵を仕上げていたといえるだろう。甥の杉邨房雄は、佐伯が自分で額をこしらえていたと回想するが(21)、多くは額縁店に自らが考案した額を作らせたようである。東京美術学校時代の山田宛の書簡一(22)には、東京都文京区白山にあった荒川額橡店に額縁を発注してあるので取りにいってほしいとの依頼があり、兄嫁佐伯千代子によると、佐伯の好みはある色の上に銀を塗り適度に磨いて下地を見せる「いぶし銀」のかまぽこ型で、第一次パリから帰国した当時港区の額縁屋に指導して作らせたとある(23)。 ちなみに、第二次パリ時代のものを中心に、その代表作を多く蒐集した山本發次郎は、1937年に東京府美術館で開催した佐伯の遺作展にあわせ、山本の好みで額縁をつくらせた(24)。また、デッサン類などは米子未亡人の依頼でしばしば岩松正智(ヤタヤ主人)が額縁を製作し(25)。 |
20)木下孝則「佐伯と前田」『絵』56号1968年10月p.5 21)佐伯祐三の甥の杉邨房雄氏の回想(2000年)による 22)1920年7月17日消印の山田新一宛書簡 23)1976年10月20日付佐伯千代子の朝日晃宛書簡。この書簡には、続けて「たくさん の画に全部この額ぶちをあつらえましたので毎月毎月大変な請求書がきましてしまいに母と私は悲鳴をあげてしまってしばらく制作を休んでほしいとたのんだ事もございました。」とある。 24)本發次郎「佐伯祐三氏遺作蒐集に就て」『現代美術』1937年3月 p.110 25)岩松正智(ヤタヤ主人)「佐伯祐三との想い出」(談話)『求美』36号1978年7月 P.77 |
おわりに
佐伯の油絵の技法にはたしかに無理があった。麻布が耐えられないほどの厚みをもった、しかも柔軟性の乏しい下地によって、深い亀裂など、上層の絵具にまで影響が及んでいる。それが完成後初期の段階から生じたために、没後からこれまで多くの作品が頑丈に修理された。その方法は、麻布を補強する目的で裏面にパネルを張り込んだりするものであった。こうした早期の処置によって、その後の傷みが軽減されていることは否定できない。 ただ、美術品本来の「か弱さ」を愛おしく思うものにとって、これらの頑強な修理は耐えられない。佐伯自身がどのように考えていたかはわからないが、少なくとも麻布を張ったカンヴァスという素材を選んでいることには注意しなくてはならない。パリの「立派な建物には興味を引かれ(26)」ず、場末の街の壊れかけた壁や剥がれかけたポスターに向けられた佐伯のまなざし。それと、筆庄によって徐々に浮き出たカンヴァスのわずかな凹凸や痛ましい亀裂とは、深いところで共鳴しているように思えてならない。 |
26)里見勝蔵「佐伯祐三」『近代の洋画人』中央公論美術出版1959年 p.220 |