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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2008 > 佐伯祐三交流の画家たち 田中善明 佐伯祐三交流の画家たち展図録

「佐伯祐三交流の画家たち」

田中善明(三重県立美術館学芸員)

人はそれぞれ個性をもって生まれてくる。その個性は当然のことながら、以後の環境や経験だけでなく、交友関係によって大きく変容していく。芸術表現の世界も、芸術家の個性が他者の個性と融合することで広がり深まる。極端に言えば、個性は交流の組み合わせであり、芸術家がどの人に関心をもつのか、そうでないかによって決定づけられる。好みを選択すること自体がそのひとの重要な個性であるともいえるだろう。

 佐伯祐三は、大阪中津の名刹光徳寺の次男として生まれ、父祐哲の、厳格ながらも深い愛情を受けて育った。活発な少年だったが、虫などの殺生は極度に嫌がったという。こうした素性の一方で、14歳のころ、5歳年上の従兄浅見憲雄によって絵画と音楽への扉が開かれた。北野中学時代には勉強はあまりできるほうではなかったが、美術教師は佐伯を可愛がり、17歳頃より梅田にあった赤松麟作の画塾に通いデッサンを学んだ。19歳で同中学を卒業、上京して受験準備のため川端画学校に入り、そこで山田新一と出会う。山田とは東京美術学校でも同級生となり、大の親友となった。そして、山田が佐伯を池袋に住んでいた里見勝蔵に紹介、里見の芸術観と音楽に対する趣味に共鳴し、佐伯は里見を兄事する。佐伯がフランスに渡って半年ほどすると里見は佐伯をヴラマンクに紹介し、佐伯の表現上の個性が激変することとなった。

 人との出会いは偶然の連続であることは、誰もが経験することで、それ自体は不思議なことではない。ただ、今回とりあげた画家仲間をひきつける魅力が、元々佐伯に備わっていたことには注目したい。

 生前の佐伯のことを中山巍は、「みんなに好かれるから、友達をたくさん持った。たくさん広く交際していくっていうんじやなくて、奥さんの関係もありますけれども、人がたくさんあの家に集まってワイワイしているのが好きでね。実際は、わりに付き合っている人の数が少なかったですね。そのかわり、付き合っているものは非常に親しみをもって付き合っとったですね。*1」と回想している。

 口数少なく、筆不精の佐伯であったが、彼のもとに集まった仲間は、画家ばかりではなかった。第一次パリ時代の前半、郊外クラマールに移り住んだ佐伯一家のもとには友人たちが訪れた。

 「この郊外に住む友人達を訪ねる為に巴里の私達の仲間-前田、中野、中山、阿以田治修、木下勝治郎。音楽家では林龍作、川瀬モト子、岩崎太郎、平岡次郎‥・…等は日曜を待ち兼ねて土曜から出かけて行った。そして私なんかは月曜か火曜にもならねば巴里に帰らなかった一人だ。それ程このクラマールの部落は遊び事にも適当であり、愉快でもあった‥…・私はとても善友や悪友の多くを持っているが、この仲間程遊び好きを知らない。朝から夜にかけて、二日も三日も‥‥‥もし私達に仕事と云う用事が無ければいつまでもこの馬鹿さわぎを続けるか解らない。佐伯は全く画を描けば一生懸命だが、又画放して全く遊びつづける事があった。*2

 この里見の回想文からは、何事にも興味があれば熱中して止まない佐伯の性格とともに、集まった同類の輩の多くが関西人で、日本的フォーヴィスムへと傾倒していく気質のようなものが感じられなくもない。ただし、中には小島善太郎のように、佐伯らのアドヴァイスを聞かずに日本から持ってきた印象派の画家たちがよく使う、パレットの絵具の配列をかたくなに守るものもいたし*3、仲間同士で芸術上の激論を交わすこともたびたびあったようだ。

 こうしてパリでの生活をともにした仲間たちが中心となり、帰国後に重要なグループが結成された。それは、佐伯が第一回目のパリ時代を終え、帰国間もない1926(大正15)年5月のことで、絶妙のタイミングであった。そのグループ「一九三○年協会」の名称は、里見が提案した。「コローやミレーたちの最高時代(注:1830年代)、今度はわれわれが一九三○年の最高潮時代を作ろうといって、一九三○年派として、入場料五十銭位取って、西田氏(注:西田武雄、別名西田半峰。この頃京橋日米信託ビルの展示スペースを管理していた)には電灯料二十円だけ払った。おれたちは偉くなるのだから、そうしたらその時に室代も払ってやろう、といった。*4

 第1回目の一九三○年協会展は、朝日新聞の学芸部長坂崎坦による文章が誌上に大きく取り上げられ一定の評価を得た。そして、第2回展では公募型式をとり佐伯らメンバーが審査選定した。仲のよいメンバーであったが、この際は朝から翌朝まで食事もせずにもみあったという*5。この時に入選したのが若き井上良三郎や佐伯らよりも年上の長谷川利行であった。

 この第2回展の合評会で、応募者の作品を前にした佐伯の言葉を拾ってみると、一番多いのが「物質感が欠けている」という指摘、そして「固有色がほしい」「実感味が欲しい」「少し乱暴すぎる」「少し色が多すぎる」などが連なる。靉光の作品については、「独我的で秀れた画だ」と褒め、井上長三郎の作品も3点とも気に入っている。そのほかの傾向としては、描くことを楽しんでいる作品、素直な作品が佐伯の趣向に合っていたようだ*6。この合評会がおこなわれた時期は、すでに帰国して1年以上経過していたが、「物質感」や「固有色」というヴラマンクから投げかけられたキーワードがいまだ意識から離れていないことがうかがえる*7

 佐伯は、1927(昭和2)年の夏、ふたたびパリヘと向かうが、今度はシベリア鉄道を利用した。これは、朝鮮半島にいた友人山田新一に会う目的もあった。山田とは美術学校卒業前後の時期に薔薇門社という団体を結成し作品発表もおこなっていたが、佐伯がパリに渡ってからは手紙だけのやり取りがつづき、山田がようやくパリに着いたときには、佐伯はすでに病床に伏していた。

 この第二次パリ時代の前半の佐伯は、約4ケ月のうちに107枚もの絵を仕上げるという、もっとも充実していた時期であった。路上で絵を描く佐伯に対しては声をかけるのもはばかられるほどであったと何人かが証言している。ただし、制作だけに集中していたわけではなく、ヴァイオリンの学習も再開していたし、後輩たちの面倒を見ることも怠らなかった。とりわけ、荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞実の四人とは、パリ郊外のモランヘ数週間出かけ、彼らに手製カンヴァスのつくり方を教え、午前に1枚、午後に1枚を完成させる修行を共にした。周りの連中からは「佐伯組」あるいは「ドン・キホーテ」と名づけられるほどであったという*8。山口以外は、佐伯の表現に身を投じて自己を変革しようとし、山口は佐伯の制作に対する厳しさを学んだ。そして、佐伯も彼らの表現に良いところがあると感心し、吸収しようと努めた。

 佐伯の性格を理解した面々が、口下手で社交が苦手な彼をうまくサポートしていたことは想像に難くない。どれだけ佐伯が愛されていたのかは、一九三○年協会が発行した叢書第1号佐伯祐三画集の充実ぶりをみればわかる。今回は出品できなかったが、佐伯と交流のあった画家には、大先輩にあたる森田亀之助や曾宮一念、里見と同級の宮坂勝(リュ・デュ・シャトウのアトリエに出入り)、二級上の中野和高(佐伯が世話になった)、佐分真、一級上の田中英之助(地中海で投身)、一級下の板倉鼎、渡邊浩三(マルセイユヘ佐伯が兄祐正を迎えに行く際同行した)、二級下の伊藤廉(佐伯の第二次パリ時代からつきあいがはじまった)、そして美術学校出身者以外では横手貞美、小島善太郎(佐伯の第一次パリ時代、クラマールへ転居したとき、小島は同じ敷地に住んでおり、ネル・ラ・ヴァレの写生にも佐伯、里見と同行。一九三○年協会の創立メンバー)、阿以田治修、高畠達四郎らがいる。佐伯の壮絶な生涯は、けっして不幸の連続ではなかった。
*1中山巍「佐伯祐三との想い出」『求美』361978年夏


*2里見勝蔵「親愛なる佐伯 =クラマールに於ける=」『みづゑ』284 1928年10月


*3里見勝蔵「佐伯祐三」『近代の洋画人』1959年 中央公論美術出版 p.217


*4木下孝則「佐伯と前田」『繪』561968年10月


*5木下孝則 前掲書


*6「一九三○年協会第二回展合評」『アトリエ』4-7 1927年8月


*7第4回展のときには、すでに佐伯が没し、木下孝則はパリにいて不出品、中山巍や野口弥太郎らの新メンバーは入ったが、前田寛治も亡くなり1930(昭和5)年設立の独立美術協会へ発展的に解消した。


*8山口長男「追憶」『繪』56 1968年10月号


*9座談会「この佐伯祐三」『木』16(梅田画廊)1973年5月
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