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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 作家解説 荒屋鋪透 写真のエコール・ド・パリ展図録

作家解説

荒屋鋪 透

Blumenfeld,Erwin
エルヴィン・ブルメンフェルト

1897 Berlin - 1969 Rome



 1897年ベルリンに生まれる。1907年、伯父のカールから9×12cm感光板カメラを贈られる。1913年に父が死去したため、服飾店で働く。1915年、画家エヴァ・グロッスと会う。1916年から18年までザクセン=ヴァイマール軍に召集され、傷病兵輸送車の運転手となる。1918年、ドイツからオランタに脱出し、そこでグロッスと再会。1918年から23年まで、グロッス、シトロエンらとともに、ダダ運動の主要メンバーとなる。1919年から31年まで、フォト・モンタージュを試みる。1922年から35年まで、アムステルダムに服飾店を開業。1935年、服飾店を閉じパリに上京。最初の写真が紙面を飾り、写真家となる。1936年、新しいブリーチ(漂白)技法を実験する。シュルレアリストと交流。ヴェルヴ出版と契約する。1937年、「ラ・ベル・エレーヌ」を発表。1938年、ヴォーグの仕事。1939年、ニューヨークのハーパース・バザー社と契約。第2次世界大戦中、アトリエが没収される。『ライフ』誌が最高の写真家のひとりと讃える。1941年、アメリカ合衆国に移住。1941年から47年まで、ハーパース・バザー社の仕事に従事し、人気を博す。1943年から65年まで、マンハッタンのセントラルパーク222番地のスタジオで制作。1960年から69年まで写真集「マイ100ベスト・フォト」の制作。1969年ローマにて没。
Boiffard,Jacques-André
ジャック=アンドレ・ボワッファール

1902 Epernon - 1961 Paris



 1902年パリ近郊エペルノンに生まれる。医学生の時にシュルレアリスム運動に参加。1924年、機関誌『シュルレアリスム革命』の編集者ピエール・ナヴィルらと同誌の創刊にあたる。シュルレアリスム宣言への最初の署名者のひとりで、1924年から約6年間、マン・レイの助手であった。アンドレ・ブルトンから「ナジャ」(1928年刊)のための写真を依頼され、一連の作品を撮影している。1928年にシュルレアリストから除名され、エリー・ロタールとスタジオ・ユニを創る。ジョルジュ=アンリ・リヴィエールとノアイユ子爵の経済的支援にもかかわらず、このスタジオを本拠とするグループは、3年しか続かなかった。1933年と1934年にモスクワを訪問し、後にロタールと世界旅行をする。ボワッファールは1927年、共産党員となり、革命家の作家や芸術家の仲間から政治的な洗礼を受けている。1935年、10年前に断念した医学の勉強を再開。その後生涯、放射線技師の開業医として暮らした。1961年パリにて没。
Doisneau, Robert
ロベール・ドワノー

1912 Gentilly -



 1912年パリ近郊ジャンティーイに生まれる。1925年から29年まで、パリのエコール・エスティエンヌで銅版画と石版画を学ぶ。1930年、製薬会社ウルマンにレタリング技師として勤務。1931年、写真家アンドレ・ヴィニョーの助手となる。1934年から39年まで、ルノー社で工業写真の仕事をするが、39年にシャルル・ラド(ラフォ通信社)と会い、写真家として独立する。

 1944年、モーリス・バケに会う。1945年、アリアンス・フォトで報道写真を担当し、『ル・ポワン』誌に写真を掲載。1946年、レイモン・グロセと会い、ラフォ通信社に戻り『アクシオン』誌のためルポルタージュに従事。1947年コダック賞受賞。1949年から52年まで、ヴォーグ社でルポルタージュ、広告写真の仕事。1949年、R.ジローと「夜の人々」を主題に制作。バケと本の制作。1956年、前年に出版した「パリのスナップショット」でニエプス賞受賞。1960年、ジャク・デュボワと〈アラムニケ〉を制作。アメリカ合衆国に旅行。1968年、『ラ・ヴィ・ウーヴリエール』誌のために、ソ連の革命50年を特集した写真を撮影。1971年、デュボワとルコットとともに、フランスの地方美術館を訪問。1973年、短篇映画《ドワノーのパリ》に出演。1979年、映画《三人のカメラマンとの3日間》に出演。1881年、《詩人と歩行者》に出演。1982年、テレビ『持続する思考』1983年、テレビ『5人の写真家』に出演。
Tabard,Maurice
モーリス・タバール

1897 Lyon - 1984 Nice



 1897年リヨンに生まれる。1903年、6歳頃からバイオリンの練習をし、1913年にコンセルバトワールの試験を受けるが失敗。父の経営する絹織物の店でデザイナーとして働く。

 1918年、父とともにアメリカ合衆国に向かう。1918年から22年まで、生活のためにさまぎまな仕事をしながら、ニューヨークの写真学校(校長エイミール・ブルーネル) に通う。1922年、父が死去し破産する。父のポートレイトを写真家のバカラックに見せる。バカラックはタバールに、オハイオ州シンシナティーに行くよう勧めたが、タバールはワシントンで成功する。この頃、ポートレイトと平行してシュルレアリスムの作品を撮影。1928年、フランスに戻る。1928年から38年まで、さまぎまな雑誌(『ヴュ』など)と契約して、フリーランスの写真家として活躍。この頃、シュルレアリストと仕事をする。1943年から45年までゴーモン・フィルムの仕事。1946年、バカラックがニューヨークに戻るよう説得し、ニューヨークでペンやアヴェドンと会う。1946年から48年まで、『ハーパース・バザー』のスタッフとしてイギリスを訪問。1948年から49年まで、ポール・リンウッド・ギッティングスのスタジオで働く。1950年、インディアナ州ウィノーナの写真学校で教える。1951年、フランスに戻り、パリでフリーランスの仕事。1975年、国際写真サロンに参加し、再び注目される。1983年、パリ市からグランプリを贈られる。1984年ニースにて没。
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