作品目録
凡例
1. 目録のデータは、カタログ番号、作家名、作品名、制作年、材質・技法、寸法、書き込み、来歴、展覧会歴、文献の順である。
2. この目録の解説等一部は1990年に刊行した『岡田文化財団寄贈作品集』を使用した。
目録執筆者中二名の現在の所属は以下の通りである。
中谷伸生:関西大学文学部
荒屋鋪透:株式会社 ポーラ化粧品本舗美術館設立準備室
3-1
フォンタネージ、アントニオ
沼の落日
Marco Calderini,Antonio Fontanesi,Pittore paesista.1818-1882.Paravia,Torino 1901.2ed.Lattes,Torino1925.
Carlo Carra,Fontanesi“Valori Plastici”ed.,Roma1924.
Massimo Carra,Antonio Fontanesi.“I Maestri del colore”no.122 Fratelli Fabbri,Milano s.d.[1966]
Marzino Bernardi,Antonio Fontanesi.E.R.I.., Torino1967.
隈元謙次郎『明治初期来朝伊太利亜美術家の研究』三省堂1940年pl.4 cf.フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展 東京国立近代美術館1977年
井関正昭『画家フォンタネージ』中央公論美術出版 1984年pp.245-246.
森本孝「アントニオ・フォンタネージ《沼の落日》」『ひる・ういんど(三重県立美術館ニュース〉』第59号1998年
フォンタネージは農村風景や湖、沼などの自然を主題としたバルビゾン派的な風景画を描き、ロマン主義の自然観と写実主義に貫かれた抒情的で詩的な作風で知られている。
1876(明治9)年、イタリアのトリノを中心に画家として評価されつつあったフォンタネージは、58歳で日本政府の招聘画家として来日することになった。当時、アルベルティーナ美術学校教授であったフォンタネージが、経済的な理由とアカデミックなこの学校の教育方針に不満を持っていたことなどが、来日することになった動機であったが、結果として日本の洋画界に多大な功績を残すことになる。滞在は二年にも満たないわずかな期間、彼は工部美術学校(1886年東京大学に併合)で、ヨーロッパでは既に定着していた教育プログラムを基本に、実技と理論の両面から高度な授業を展開した。この学校からは浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠ら明治期の特筆すべき洋画家たちが育ち、年齢制限のために学生となれなかった高橋由一も彼に教えを受けたことで、この時期を境に技術が飛躍的に上達している。
本作品は、公爵・三條公輝氏旧蔵の油彩で三條実美の遺愛品であった。画面に『A.Fontanesi Tokio 29 Auロロ(判読不能)』との署名があることから、滞日中の作品である。『画家フォンタネージ』の著者井関正昭氏によると、この作品は溜池を描いたものではないかとされる。工部省内の彼の宿舎に近い場所であることからも妥当な見解であろう。
夏も終わりに近づいた時期、夕日が木立に隠れようとする、まさにモノトーンの世界へと移り変わる風景である。この画面にふさわしく、茶褐色を基調にしたわずかな色数で描かれているが、なぜか豊かで複雑な色彩を感じさせてくれる。そしてなによりも、力強くのびやかな筆触がこの作品の魅力である。
(田中善明)
3-2
和田英作
富士
1909(明治42)年 油彩・キャンバス 53.3×72.9 WADA,Eisaku |
明治末から大正前半期にかけて発行された美術雑誌『美術新報』の大正2年8月号に、和田英作は「佛蘭西近代風景画家ジャン・シャルル・カザン」という一文を寄せている。カザンは、19世紀後半に活躍したフランスの画家だが、世紀末のサロンで高く評価されていた外光派のひとり。19世紀末から今世紀初頭にかけてフランスを訪れた、日本人留学生の多くが師事した外光派のラファエル・コランの作風に似た農民画を描いたことで知られている。明治・大正期に刊行された美術雑誌には、たびたび登場する芸術家である。この大正2年夏季特別号の美術新報は、風景画特別号と題され、黒田清輝・久米桂一郎・岡田三郎助らも寄稿しており、日本の外光派を代表する画家たちが賑やかに風景画家論を展開している。和田は前述した文章のなかで、自分が敬愛する風景画家としてコローとカザンを挙げ、とりわけカザン描くところの、夕暮れ時から夜半にかけての微妙な色調の風景画に惹かれると告白している。和田の代表作《渡頭の夕暮》(1897年)などに見られる、農民を主題にした風俗画はカザンに影響された作品といえるだろう。この《富士》はカザンからの直接の影響は窺えないものの、和田らしい外光派的な農村風景の一点。外光派とは世紀末に全世界的規模で流行した、芸術運動というよりも潮流のひとつである。彼らの多くはパリの美術学校に学んだ外国人留学生であり、国籍はアメリカ・英国・北欧・東欧・アジアと様々だが、共通している点はそれぞれ帰国後、母国で指導的立場の芸術家として活躍し異国のコロニー(芸術家村)で培った自由で野趣豊かな芸術家気質をモットーとしたことである。彼らの多くは今世紀初頭の国家主義の動向に呼応し、民族主義的な作品を制作し始めるのだが、和田のこの富士のなかに日露戦争後の近代日本の芸術作品に反映されている、民族主義的な象徴性を見るのは性急に過ぎるだろうか。晩年の和田は、いわゆる「売り絵」風の内容の乏しい富士山をいく枚も描いている。それらと比較すれば、この《富士》はめずらしい初期の作例であるとともに、外光派の長所を採り入れた品格のある作品である。
(荒屋鋪透)
3-3
須田國太郎
信楽
1935(昭和10)年 油彩・キャンバス 72.6×116.4 SUDA,Kunitaro |
須田國太郎の名をしるひとはそう多くはないし、かれの油絵をほめてもそれを楽しむひととなるともっとすくない。口当たりよく加工されてはいない。愛想がいいわけでもない。晦渋である、などといった印象をこえて、かれの絵はなにげなく洋画ということばをやりとりするときにうかべている常識にさからうなにかつよい磁場をみるひとにかんじさせずにいない。その力量はだれもうたがえないのだが、この圧倒的なちからがどこからきたのか、どこに根をもつのかがわからないために不安になるということもある。不可解なのだ。たとえば卓上におかれて静物となったのでも又それを弾くひととともにえがかれて演奏のときの風景をつくるわけでもなく、たったひとつ虚空にみずからのちからで直立している《ヴァイオリン》(1933年)や、たしかにそこではドラマがおこっているにはいるが、馬にのった男ふたりと手に槍のようなながい棒をもつもうひとりの男のシルエットとその題がどうしてもむすぴつこうとしない《発掘》(1930年)などはその極端な例か。そういうわけで須田の作品がみとめられたのはわりあいおそい。そのあいだのふかい海の水圧とくらさにも似た孤独を飼いならしてついに筆をすてなかった意志はおどろくべきだが、そのちからをあたえたのは、われに正ありかれに譎ありとする正統性のつよい意識ではなかっただろうか。
美術だったらフランスという風潮にながされて疑うこともなくパリをめざすには、印象主義などながくつづいたヨオロッパの絵画のほとんど最後のかがやきにすぎないとみぬいたことをはじめすこしばかり須田は見識がありすぎたので、絵画が感覚のもんだいにとどまらないことにもつとに気づいている。かれのスペイン留学はそういう熟慮のはてにおこなわれたきわめて知的な事件だった。プラド美術館がかれの大学となる。色は光の函数にすぎないとする近代のニヒリズムにまどわされることなく、エル・グレコやベラスケスやゴヤをさらにさかのぼって、色の実在である固有色のかんがえにたどりつく。光でかかずに明暗でかくこと。ふたたび日本にもどったかれのしごとは、風土に材をとりつつそれまで皮膚のふれあいでおわっていた印象を血肉のもんだいにふかめる、いっけんふるくさいがじつは過激きわまりない実験だった。
たとえば《工場地帯》(1936年)はその精とその神のすべてをとってゆたかにおおきくひろがり、うむをいわせぬ傑作にしあがった。前景の暗と後景の明。水墨であるべきを油彩でかいてしまったような樹木。いやでもめだつ代赭や朱や赤系統の色づかい。ただし朝のすがすがしさはここにもとめるべくもない。ふりみふらずみの空もようのした、水があっても水はながれず、風があっても風がふくことはまれだ。かれの絵の温度はたかい。地の霊からたちのぼってくる熱のごときものが画面にみちている。
《信楽》がえがかれたのはその1年まえ。あたかも《工場地帯》の中景から後景にかけての風景をきりとって独立にしたてた風情がある。さきにあげた須田の特徴はそっくりそのままこの《信楽》にもあきらかで、紅葉にそまった秋の景色にもみえるが、もともと描写というか再現をめざしていないかれの筆からうまれるその山なみはたとえ曾遊の地スペインの土の赤みをおびた山とみたててもそう違和感がないくらい、かりそめの地名や季節の表皮をはぎとった須田好みの風景になりきった。ここであわてて心象風景とよばずに、もっとゆっくりと水墨画にいう胸中山水をおもいだすのはわるくない。このふたつはちがうし、フランス印象派をこえて油彩の伝統につながろうとした須田の正統的なものへの感覚はひとしく又みずからの根拠にむかうまなざしのうちにもはたらくことをやめないからだ。ものがものとして底からかがやくここに光がある。内からでも外からでもなく明暗それじたいであるゆえにあえて精神のとよぶこともいらない光。
(東俊郎)
3-4
藤島武二
大王岬に打ち寄せる怒濤
1932(昭和7)年 油彩・キャンバス 73.3×100.4 FUJISHIMA,Takeji 画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
第13回帝展(東京府美術館1932) 明治・大正・昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館1937) 藤島武二遺作展(東京都美術館1943) 藤島武二代表作展(銀座・松坂屋1951) 巨匠シリーズ 藤島武二展(新宿・伊勢丹1961) 生誕百年記念 藤島武二展(ブリヂストン美術館、大阪市立美術館1967)no.97 藤島武二名作展(岡山県総合文化センター1970) 藤島武二展(日動画廊1977) 藤島武二・岡田三郎助展(西宮市大谷記念美術館1980)no.41 没後40周年記念 藤島武二展(神奈川県立近代美術館、三重県立美術館1983)no.86 Paris in Japan, Washington University Gallery of Art,St.Louis,no.11 藤島武二展(東京都庭園美術館、高岡市立美術館、愛知県美術館1989)no.53 三重の近代洋画展(三重県立美術館1998)no.11 コレクション万華鏡(三重県立美術館1998〉no.1-38 画家と額縁展(西宮市大谷記念美術館1999)no.46 帝国美術院第13回美術展覧会図録 第2部絵画 文部省 1932年 『藤島武二画集』東邦美術学院1934年 『藤島武二画集』春鳥会1940年 『藤島武二画集』藤島武二画集刊行会1943年no、83 『藤島武二』美術出版社1955年 『日本百選画集・藤島武二』美術書院1957年 『藤島武二』ブリヂストン美術館1958年 『藤島武二/佐伯祐三』平凡社1961年 『日本近代絵画全集3 藤島武二』講談社1963年 『藤島武二』日本経済新聞社1967年 『現代日本美術全集7 青木繁/藤島武二』集英社1972年no.63 嘉門安雄『近代の美術31 藤島武二』至文堂1975年p.14 『日本の名画6 藤島武二』中央公論社1976年 『アサヒグラフ別冊 美術特集 日本編 藤島武二』朝日新聞社 1990年no.56 田中善明「館蔵品から 藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒涛》」『ひる・ういんど』(三重県立美術館ニュース)第61号1998年 |
1928(昭和3)年、昭和天皇の御学問所を飾る油絵の制作を岡田三郎助とともに委嘱された藤島は「旭日」を制作することを決意し、取材のため10年にわたる旅行をした。1930(昭和5)年、三重県鳥羽地方におもむき、そのとき本図のモチーフを得た。そして2年後の第13回帝国美術院美術展覧会に本作品を出品、当時の題名は《大王岬に打ちつける激浪》となっていたが、のちに《大王岬に打ち寄せる怒濤》と改題された。この作品は、大王町波切の東端、太平洋に面した高台から写生しているが、どの位置から描いたかを捜してみたところ、そこは現在立ち入り禁止区域になる崖っぷちであった。現地の風景と照らし合わせてみると、両脇に見える崖、岩場など、作為的に位置や形を変更していることがよくわかる。眼前にある風景を作家が意図的に変更を加える行為は、作家が内包するイメージを顕在化させるための必然的な作業である。この景観の場合、遠景から近景にかけて連続的にうつりかわる波の静と動を、全体の構成を考えながら如何に表現していけばよいかがひとつの要所となるであろうが、遠景と近景との位置関係を表す際、Ⅴ字型の崖が線約遠近法のような説明的手法を拒否している。もちろん、遠近表現がこの作品にとって重要な要素でないが、ひとつの手段として藤島は右下がりに連なる大きな波、実在のものより遠方に配置した岩場、そして遠方につづく水平に伸ばした波を経て、水平線上には帆船を浮かべており、結果的にこの景観の位置関係が明瞭となっている。こうした鋸歯状にモチーフを配置する画面構成の方法は《室戸岬遠望》をはじめとする藤島の風景画に多く見られ、ひとつの特徴になっている。
伊藤廉「感想-帝展を見て」によると、この作品が出来上がるまでに、なみなみならぬ経営があったらしい。大王岬を同じような構図で3点制作していることもその現れであろう。構図の変更など、この作品の表面には試行錯誤の痕跡がほとんどみられないが、画布が凹凸していることから、作家が強い筆圧で必要以上に絵具を何層にも塗り重ねたことがわかる。「迷いぬくがよいと思う。絶壁に直面し、直面してそれを打破るものが初めてそこに光輝ある宝庫を発見することになろう」(岩佐新「藤島武二先生語録」生活美術3-6)と、後進に説いた藤島は、「自然を直訳した」写実ではなく、「自然をよく観照し、咀嚼し、翫味」した「本当の写実の効果」(同上)を求めて徹底的に試行錯誤していたその苦労が作品から伝わってくる。
ちなみに、本作品は侯爵細川護立(永青文庫)の旧蔵品である。現在の額縁は入子部分以外当初のオリジナルであることが、帝国美術院第13回美術展覧会図録掲載の写真から判断できる。
(田中善明)