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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 元永定正のユーモアとオプティミズム 土田真紀 元永定正展図録 1991

元永定正のユーモアとオプティミズム

土田真紀

画面を浮遊する様々のどこかとぼけた味のかたち。画面に入れ替わり立ち替わり登場し、無限のヴァリエーションをかたちづくり、そのたびごとに新鮮なおかしみを生み出す。ときには平面だけに留まらず、陶器や椅子にもやすやすと変貌を遂げる。こうしたかたちから構成される元永定正の絵は確かにユーモラスである。またユーモアを抜きにして元永の絵を語ることはできないといっていいのかもしれない。なかでも元永の絵画が大きな変貌を遂げたとされているニューヨーク滞在以後の作品については、必ずといっていいほどそのユーモアが云々されてきたが、それ以前から、というより、彼の作品を論じた最初の批評からユーモラスな性格は彼の最大の個性として指摘されてきた。

全くの自己流で制作を続けていた元永の作品を最初に評価したのは、吉原治良であったが、たとえば、1955年の芦屋市展に出品した石に麦藁をくっつけた作品について、「出合が面白くユーモアがあってほおえましい作品だ」(1955年6月11日付読売新聞)、また翌年の同市展に出品した絵画については「非常に単純な色と形であるが、なにかユーモラスな感じを与える。このような単純な形がユーモアな感じを与えるのは不思議である。」(1956年6月の読売新聞)と評している。この時期の元永の作品は絵画もあればオブジェもあり、作風も一定していなかったにもかかわらず、吉原はすでにその個性の本質を見抜き、高く評価していたといえよう。これに対して元永自身もこの頃、「第1回舞台を使用する具体展」に出品した〈煙〉の作品について、「もやもやした煙のユーモラスな面白みが人を笑いに誘うのだ」とその意図を解説したりしているが、この記事に付された漫画風の説明図がまた何ともいえずおかしみを誘う(1955年11月27日付毎日新聞)。また小原会館での第1回具体展の際に元永が書いたという「具体展鑑賞の手引」を見ると、自身の作品のところに「水も石も油絵にも材料はそれぞれちがうがほと(の)ぼのとした一つの楽しさが表はれていると思う」とある。確かに、一見型破りで奇妙な試みであっても、この「ほのぼの」という言葉に集約される素朴な温かみを含んだおかしみが具体初期の彼のオブジェだけでなく、絵画にもどこか共通している。山のような湾曲したかたちの上に色玉や毛のような点を配したこの頃め作品群は、しばしば自身で種明しをしているように、当時住んでいた魚崎から眺めた六甲山系の山の頂上に夜きらめいていたネオンの奇麗さに魅かれ、それを絵画化しようとしたものであるという。この頃、何とかそれまでの具象ではなく、抽象の作品を描きたいと苦心していたというが、ネオンきらめく夜景がこのはげ山に点や毛が生えたような奇妙な作品に〈抽象化〉してしまうあたりに、そしてその作品に「雪がある」というタイトルをつけるあたりに、元永定正の元永定正たるゆえんが潜んでいるように思われる。

理屈より先にとにかく新しいものを生み出そうという具体の活動の中における元永の個性は、初期において、やはりこのどこかほのぼのとしたユーモアにおいてまず発揮されているといっていいのではないだろうか。そしてもう一つ、具体の活動の中でも最もアクション的側面が強調されていた時期にあっても、元永の場合、視覚的な効果を他の誰の作品よりも強く感じさせるという点を挙げることができるだろう。ポリエチレンの袋やチューブを使った「水」の作品にしても、針金の輪に色セロファンを張った作品にしても、また煉のパフォーマンスにしても、光の効果を計算に入れたきわめて美しい作品である。泥の中をのたうちまわった白髪一雄とも、紙のスクリーンを突き破った村上三郎ともその点ではっきりと異なる。意表をついてはいても、迫力や激しさというより、むしろ繊細で抒情性さえ漂わせている。この点は具体時代の元永の作品について意外に印象に残る特質であるように思われる。

こうした元永のユーモアの源泉を求めて遡って行くとき、彼が上野市の公報や上野高校の図書新聞に連載していた漫画「ヨモヤマ君」と「ライチャンブラリ君」が思い浮かぶ。いずれも元永自身の学生時代を彷彿とさせるキャラクターが主人公の4コマ漫画であるが、連載紙の性格ということもあろうが、そのほのぼのとした素朴さにはむしろ驚くほどである。あまりにもどぎついギャグの氾濫するいまの漫画を見慣れているせいも多少はあるにしても、これらの4コマ漫画の何ともいえないゆったりとした温かみにあふれたユーモアは、元永定正の源泉として忘れてならないもののように思われる。

さて、山型のかたちから出発した元永の抽象は、次第に樹脂系の絵具を用いての〈流し〉の技法を確立していき、やがてまぎれもなく元永独自の〈アンフォルメル〉のスタイルができあがっていく。初期の活動からは想像もできない激しいダイナミズムに満ちた画面が生まれてくるのであるが、ところが、彼の作品についての「ユーモラス」という評はこの段階にもしばしば見受けられる。ごく初期の〈流し〉の作品のひとつ、1958年の芦屋市展出品作「作品2」についでの吉原治長の「単純な赤と緑の形が並んで、対話をはじめそうなユーモラスな感じさえあるのは、この作家の持前のものであろうが」(1958年6月9日付読売新聞)という評、また1963年頃になると、流動する色彩の激しさ、生々しさが指摘される一方で、「ふざけたような、とぼけたような絵」、「無邪気な発らつさ、すべてがむき出しにされたユーモア」(1963年7月16日付日本経済新聞)、「おどけた哄(わら)い」(1963 年10月22日付読売新聞夕刊)という言葉が評にみられ、すでに元永の作品は「非具象漫画」とか「わらいの抽象絵画」と呼ばれていたらしい(同紙)。しかし1963年頃から増えてくるこれらの評や呼び名は、元永自身が1963年8月号の『美術手帖』に発表した「抽象漫画宣言」によるところが大きいのではないかという気がする。というのも、いまの時点でごく素直に、この時期の元永の作品を見たとき、それらがユーモラスであるとは到底思えないからである。確かに彼の作品は、この時期のアンフォルメル風の作品にしばしば見られる切迫感とは無縁で、ある種の解放感があるが、それにしてもユーモア、とりわけ彼自身の以前の作品がもっていたユーモアとは大きく隔たっているといえよう。とすれば、この時期のこれらの評は、初期の元永の作品についての固定観念や、彼自身の「宣言」に大きく左右されていたのではないかと考えざるをえないのである。

ところでこの「抽象漫画宣言」は、「宣言」とはいうものの、実は一切言葉が見出されず、4ページにわたって作品のみが掲載されているが、〈流し〉の作品とは全く異なる、むしろ後年の作品を思わせる線描きのものである。元永自身、何故、〈流し〉の技法がまさに頂点にさしかかったこの時期にこうした「宣言」を行ったのであろうかという点が気にかかる。この点で、国立国際美術館において「現代の作家2」展が開かれた際、そのカタログ論文で中田達郎氏がこの「宣言」を「元永の打ち出したささやかなる『脱アンフォルメル宣言』」と規定しているのは興味深い指摘である。中田氏は、こうした宣言を行いながらも元永がすぐには一旦自己のスタイルとして確立したアンフォルメル風の作品を脱することができなかった様々な事情があったのではないかと推測しているが、それ以前に、元永が〈流し〉の技法の発見からアンフォルメルに入っていった時点ですでに、自己の本来の資質とはむしろ正反対といってもいい方向へ、足を踏み出しつつあったという問題が潜んでいるのではないかと私には思われる。

元永は〈流し〉の技法を始めたときのことを次のように回想している。「最初は流すつもりなんか、全然なかったんや。偶然流れてしもうた。はみだしたから、ワッ、これはしもうたと思ってね。」「よく見ると、意外におもしろい。ようし、これはイケルかもしれん……」(『美術手帖』1966年4月号)。この回想によればいわば偶然に発見された技法ということになるが、初期の抽象の作品からの展開を求めていた元永にとって、それは必然的なものになりうる可能性を秘めていたと考えられる。「私の制作はまずかたちを考えることから始ります。文学的な意味を捨て去って面白いかたちを発見したときの喜びは格別なものです。」(『朝日ジャーナル』1964年8月30日号)という元永であるが、彼の初期の抽象作品を見ると、その出発点においてすでに、自らの創造の最も基本となるかたちを、最も単純で純粋な状態のまま呈示してしまっていたのではないだろうかという気がする。このことは、初期の作品のうちに後の作品のライトモティーフとなるものが見出されるということからも、また今回の展覧会の準備に際して上野のアトリエで見た膨大な数のメモ的なかたちのスケッチからも窺うことができる。元永は祈りにふれて、自分の創造の源泉が自然のなかに見出される様々なかたちの中にあることを語っている。それらのスケッチは、確かにそうして発見された形の覚書なのであるが、そのヴァリエーションはたとえ無限であっても、その基本には幾つかに集約される元永の〈原かたち〉とでいうべきものがあるように思われたからである。そして最も早い時期の作品において、この〈原かたち〉を、何の躊躇もなく、きわめて素直に、その最も純粋な形のまま作品として元永は示しているように思われるのである。とすれば、それは出発点であると同時に到達点でもあり、そこからの展開を求めるのは容易ではなかったと推測されるのである。そのとき、自分の意識以外のものが入り込む余地を与えることのできる一見オートマティックな技法は、ひとつの突破口となりえたのではないだろうか。たとえば1958年の「タピエ氏」などにおいては、く流し〉の技法はすでに始まっているものの、形態は初期抽象作品(たとえばcat.no.21)に通じるところがあり、まだ本来のユーモアは失われてはいない。しかし技法が追究されるにしたがって、その自然な結果としで、これまでとは全く異なる造形世界が、元永も意識しないうちに開かれていったように思われる。恐らくそれは具体全体の流れからいっても、ますますアンフォルメル的な方向へ動き出さざるをえなかったにちがいない。ちょうど「賓がある」といったいかにも元永らしいタイトルを捨ててすべて「作品」と名付けざるをえなかったように。

こうした方向がまさに頂点に達したといえるのが1963年の一連の作品群であり、元永の展開の中でも洗練され、充実した一つの時期を形成しているが、そのまさに真只中に出てきたのが「抽象漫画宣言」である。それは確かに「脱アンフォルメル宣言」であったと同時に、本来の自己の資質に立ち返るための宣言でもあったのではないか。「宣言」の中で線描きで示された単純なかたちと、実際描いていた作品とのギャップは、ニューヨーク滞在までのしばらく間、真に埋められることはなかったが、次第に明確な輪郭をもったかたちが姿を現すようになり、その中には1964年の「作品」(cat.no.68)のように後のユーモラスな形態を彷彿とさせるものがある。また65年の山田画廊での個展に出品された小品では、大作よりもはっきりとユーモアへの回帰が見られ、京都在住のアメリカの詩人シド・コルマンによるユーモラスなタイトルが付けられている。またこの頃から新聞や雑誌のために漫画風のカットを描いたりもしている。

しかしながら、元永自身「1966年私はニューヨークに招聘されたが、それからユーモラスな形と色の作品になった」(『草月』1987年10月号)と後に述べているように、やはり元永が本来のユーモアを完全に取り戻したのはニューヨーク滞在を一つの契機としてのことである。渡米前の65年には今度は言葉で「従来のマンガには人物や動物が登場し、説明性やストーリーが必ず付随している。ボクは、そんな余分なものを一切取り払った、純粋に形と色によって笑いをさそうようなマンガを考えている。」(1965年4月10日付京都新聞)と述べているが、それが完全に作品となって現れるには、どうしても環境の変化が必要であったのかもしれない。ニューヨークで輪郭のはっきりした作品を描き始めたきっかけについては、英語ができずうまく流れる絵の具が見つからなかったとこれも偶然のことのように語っている元永であるが、これが単なる偶然であったとは思われない。

こうして再びユーモラスな形へと回帰し、それを自ら「ファニーアート」と命名した元永の60年代末から70年代にかけての作品は、アンフォルメルの時代と同等の、あるいはそれ以上の質の高さと迫力と個性を誇っているが、そこには、アンフォルメルの時代を経たことによる大きな特徴が加わることになった。具体的には、エアブラシの使用によって生み出されるグラデーションの効果が〈流し〉の技法に替わって登場したことによって、絵具そのものが流動性を帯びることはなくなったものの、かたちは相変わらず常に動き、成長し、展開していくような様相を帯びているという点である。ニューヨーク滞在以後、かたちの輪郭が明確になったとはいうものの、〈流し〉の時期に一貫していた、元永によってあらかじめ定められたかたちと、いくら計算してもそこにやはり思いどおりにならない領域を創り出す絵具の流れとの、重なりつつずれるという相克関係が、たとえば「作品 N.Y.No.1」(cat.no.83)では、光を発する輪郭となり、今度はかたちと調和しつつも、流動していく絵具の止まることのない動きの延長上にあるものとして、固定されない動きと広がりをかたちに与え、画面にある種の曖昧さの領域を残すことになっている。また同時に、初期の水の作品などに通じる、元永の中で不可分に結びついた色と光への関心の復活をここに見ることができるのではないだろうか。元永は以後グラデーションの効果を様々なやり方で用いているが、それは紛れもなく、色を光の媒体として画面に顕現させる効果をもたらしている。そしてこの光は、彼のあの「ほのぼの」という特質に通じるものでもある。彼自身は「ファニーアート」によって「微笑」というより「爆笑」を起こさせたいと考えでいたようであるが(『朝日ジャーナル』1968年9月 29日号)、「爆笑」というより、体の中からゆっくりと楽しさが沸き起こって来るような感じ、まさに「ほのぼの」とした感じこそ彼のユーモアの最大の持味であるように思われてならない。

そうした点で最も元永的だと思われるかたちは、「Piron Piron」(cat.no.99)などに登場する楕円形のどこか生き物めいたかたちである。実際繰り返し彼の作品に登場するこのモティーフは、元永定正の絵画空間というひとつの世界に棲息する様々な住人の代表のようである。その世界は、天地はあるが奥行きはなく、宇宙空間のような無重力、あるいは海底のような浮力の作用する空間であり、その中にいると自然に体が浮き上がってどこまでも漂いながら運ばれて行くような世界である。そこで住人たちは、自由に姿を変えながら、互いに会話を交わし、ふわふわと移動していくかのようである。あるいは「しろいひかりのあか」(cat.no.113)になると、空間自体がそうしたまるで生き物のような表情を帯び、両者の区別は失われてしまっている。

自己と他者、空間とその中で生きる個体が未分化の世界。こうした元永定正の描く世界の変わらぬ構造の根源を探っていくとき、彼が1957年4月発行の『具体』第6号に発表した「オパーリン学説と具体美術」にいきあたる。「私は我々の持っている感覚は原始海洋中に生活をしていたアミーバ状態のときからの習成もどこかに残っている、と云うよりもそれが重大な要素を持っているのではないかと考える。生物はみな感覚を所有している。」この考えは後にも繰り返し語られており、元永定正にとって最も重要な思考のひとつではないかと考えられるが、よく指摘されるように、元永定正のモティーフがこうした「アミーバ」を想起させる原生命的な特徴を帯びているというだけではなく、披の描く絵画空間もまたここに述べられた原始海洋中を思わせる特徴を備えており、さらには元永定正の創作活動の根底にある絶対的なオプティミスム、そしてそれに通じる生命への絶対的信頼は、こうしたごく初期からの一貫した思考ゆえではないかと思われる。元永もまたペシミスムの深淵を覗き見ることがなかったとは到底思えないが、オバーリン学説に結び付けて具体美術の実験の意味を肯定的に捉えようとする彼の思考の背後には、生命が発生したという事実そのもの、人間がその最も原始的な生命に連綿とつながっているということそのものを真実喜ばしいと考えることのできるオプティミスムがある。それは我々日本人の感性一般に抜き難く染みこんでいるある種の「無常感」からは最も遠いところに位置する、きわめて稀な感性であるように思われる。そしてそれこそが元永定正のユーモアの根源に潜むものではないだろうか。ときにはその世界が不気味にもしたたかにも見えるとすれば、それは生命そのものの勁さに由来するものということができよう。

〈流し〉の技法以来、元永が常にある種の無意識を投法のうちに取り込んでいることにも注目したい。エアブラシやスプレーの使用がそうであるし、児童画への深い関心、最近では、カリグラフィックな線がそれであろう。「線は心と直結している」(年少版・こどものとも135号『せん』折り込みふろく1988年6月)と元永はいう。彼の線は、動いていくもの、変化していくもの、つまりは〈いま〉という時を直接画面に映し出す媒体であり、流れていく時間の〈無常〉を嘆くのではなく〈いま〉を信頼しようとする元永のやはりオプティミスティックであろうとする時間論の具現であるといえよう。人間の意識を離れた瞬間に顕現する何ものか、そのときまさに最も古い生命の生き残りである感覚が顔を覗かせるのではなかろうか。緑やブルーを休息の色、赤を闘争の色と捉える彼の色彩論も同じところに根差している(『甘辛春秋』1973年春号)。彼の「阿呆派」宣言や「駄作論」にしても同様に思われる。要するに元永は人間の意識や知恵の及ばない領域の存在をはっきりと感じ、それに最大の敬意を払っているのである。したがって、作品の中に意識や知恵以外のものが入り込む余地を残しておこうとする。かといって決して単なる偶然にすべてを委ねるというのではなく、自分のうちにもあるはずの太古からの感覚の残滓を信じ、だからこそ自然のなかに様々な面白い形態や色を探し出そうとするのである。ただし元永定正のいう「自然」とはいわゆる自然も人間が生み出したものもすべて含んでいるようである。子供の頃に見た夜店の風景も、神戸に移り住んで間もない頃に見た山項のネオンも、元永定正にとっては自然なのである。彼が過去の美術にも、同時代の動きにもほとんど関心がないというのも、彼の歴史感覚が、いわゆる美術史や人間の歴史といった範囲をはるかに越えて、すでに述べたような、生命の発生以来、さらには宇宙の発生以来という時空の感覚ですべてを捉えているからではなかろうかと思われてならない。

こうしたオプティミスムは、彼の絵画に対するオプティミスムでもある。彼のいう「抽象漫画」あるいは「ファニーアート」は、〈いろ〉と〈かたち〉で成立する絵画に対する絶対的な信頼なしには成立しえない。折しも彼がこれらの宣言を行い、制作を続けてきたのと並行して、芸術の成立基盤そのものに疑問を呈示するコンセプチュアル・アートが登場してくる。元永も一方ではこうした動きを意識していたにちがいない。しかし彼自身の制作活動は、一見柔を粧いながら、〈いろ〉と〈かたち〉のもつ力への信頼を失うことなく、今日まで強靭に続けられてきたのである。

(つちだ まき・三重県立美術館学芸員)

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