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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 元永定正の〈かたち〉 毛利伊知郎 元永定正展 図録 1991

元永定正の〈かたち〉

毛利伊知郎

絵画はもとより、版画、オブジェの制作、椅子やタピストリーのデザイン、絵本制作など広い領域で活動する元永定正は、現代の画家の中で、最も多作の画家の一人といえるだろう。それら数多い元永定正作品において、元永独自の〈かたち〉が、色彩とともに、大きな意味をもっていることは今更いうまでもないであろう。それは絵画あるいはオブジェといった作品のジャンルの違いを問わない。明快な色彩も元永作品の特質を決定する重要な要素の一つであるが、ここでは、初期から最近までの作品に共通して認められる、元永定正の作品における〈かたち〉への指向にスポットをあててみることにしよう。

画家自身のことばによれば、具象絵画を描いていた元永が抽象作品の制作を始めたのは、1953年(昭和28年)の第6回芦屋市展に展示されていた抽象画を見たのがきっかけであったという。元永の初期の具象作品は本展にも出展されているが(No.1-9)、特に裸婦などはフォーヴィスム風な表現をみることができる。しかし、なんとか対象の形から離れた作品を描いてみたいという気持ちがそれまでも元永にはあったようで、芦屋市展での抽象画にたいする新鮮な感動が,裸婦や風景などの具象画から抽象画制作へと元永を向かわせることになった。

こうして、1954・55年(昭和29・30)頃にかけて描かれるようになったのが、素朴でおおらかな気分をもった一連の抽象作品である(No.10-24)。現在残るそれらの作品は、その後の大画面作品と比較するとはるかに小さい。色彩も抑制されていて、作品の雰囲気も後に制作されることになる絵具が流された作品とはかなり異なっている。小さな作品ではあるが、それらは技巧を凝らさず、不思議なおおらかさが画面にただよう、暗い雰囲気のまったくない作品である。これらの作品に認められるおおらかな気分は、スタイルが変わった後も、元永定正の作品に共通するもので、元永作品の重要な特徴の一つといえるであろう。

これら初期の抽象作品が生まれた経緯について、当時暮らしていた神戸魚崎の部屋から見えた六甲山系摩耶山の項上に赤・青・ピンクなどのネオンサインが光る夜景に魅せられ、その幻想的な世界を何とか作品にできないかと考えたのがきっかけになったと画家自身は語っている。

山の形は、半円の項をもつ形に単純化され、ネオンサインは小さな色玉となって、画面にあらわれた。この頂が半円をした山の形からうまれたかたちは以後もしばしば元永作品で用いられることになる。また、ネオンサインからうまれた色玉のモチーフも、絵本『ころころころ』などをはじめ、近年の作品にいたるまでしばしば見ることができる。

その他、このころ描かれた作品には、太陽か満月を連想させるようなまるいかたち、海辺の四阿の屋根のようにも、UFOのようにも見える、足のついた三角のかたちなどがあらわれる。

かたちの追及以外にも元永は、この頃、様々な試みを行っている。本展には出品されなかったが、スクラッチのような曲線による作品や半具象的な作品なども制作しており、まだ模索の状態にあったようである。

この1954年(昭和29)から57・8年(昭和32・3)頃に、これらの作品で行われていたかたちの追及は、画家自身の語るところによれば、1966年(昭和41)の渡米以後に再び行われるようになったという。しかし、こうしたかたちにたいする関心が、1959年(昭和 34)頃から制作され始めた絵具を流した作品において見られなくなるかというと、決してそうではない。

1959年頃から元永は、キャンバス上に赤・青・緑・黄など原色の絵具を流した作品を描くようになる。1960年代、渡米以前の元永作品を最も強く特徴づける、この強烈なスタイルは、海外でも注目を集めて元永の画家としての地位を固めることとなった。

絵具を流した作品の制作を始めたことについて元永は、前述のようなかたちによる作品からの展開を模索する中で、日本画の「たらしこみ」の技法を応用することを思いつき、油性絵具でそれを行っているうちに、偶然に絵具がかたちからはみ出したことが契機となったと述べている。「明確なフォルムが底にある。つまり下絵がある」、あるいは「(絵具の流れが)下絵と1センチちがっても消します」と元永自身インタビューで語っているように、それらの作品は絵具の自然な流れにまかせて自動的につくられるのではなく、依然としてそこには画家のかたちにたいする意志が強く働いているのである。

元永の手元には、1960年前後以降の膨大な量のかたちをかきとめたラフデッサン(その大半は、メモ用紙などを用いたなぐりがきに近い簡単なデッサンである)が保管されているが、そこには様々なかたちのアイデアをみることができる。こうしたアイデアは、自然界の観察からうまれることが多いといい、また元永は、作品のアイデアを得るために、大人では思いつかないことを平気でやってのける子どもたちの描画にも目を向けるという。

1960年代を中心とする時期に盛んに制作された、絵具を流した作品については、ややもすると原色を多用した強烈な色彩と、流れあるいは飛び散る絵具によるアンフォルメル風の激しい画面が語られることが多く、かたちについて言及されることはむしろ少ない。

しかし、こうした作品群にあっても、そこにははっきりと元永のかたちが生きていることを再認識しておきたい。表面は、偶然性の衣をまとっているために、観るものはそれに惑わされてしまうが、その底に働いているかたちにたいする作者の堅固な意志は、元永定正という画家がもつ、ある種の強さ・したたかさ、以後の作品にも通有する堅実な造形性と強く結びついているのではないだろうか。

ここで、1960年代に発表された主な作品をみることにしよう。流された絵具によって、かたちは隠れがちであるが、確かにそこには元永のかたちを認めることができる。たとえば、典型的な作品として、1961年(昭和36)の二つの作品(東京国立近代美術館蔵〈No.44〉とPL教団蔵〈No.46〉)を例にとると、そこには画面左の円い頂をもった柱のようなかたちと、右側の大きなアメーバのようなしっぼのある卵形のかたちとの組み合わせをみることができる

この二つのかたちは、赤や黄の絵具に彩られつつ、様々なヴァリエーションをみせて1950年代末から60年代にかけての多くの作品にあらわれる。そのうち、柱状のかたちは、先にも触れた山のかたちから展開したモチーフのようにも思われる。一方のアメーバのようなかたちは、文字通り原始細胞のように様々に姿を変化させながら継続してあらわれ、この時期の作品をもっとも特徴づけるかたちということができよう。

ところで、元永定正の本領が絵画制作であることは疑いないけれども、元永が初期から最近に至るまで、絵画のみならず、立体作品の制作やパフォーマンスも積極的に行っていることは周知のことである。こうした石や水などを用いた三次元的な作品あるいは煙によるパフォーマンスと元永の絵画作品とは、どのように関係づけることができるのだろうか。

郷里上野にいたころ師の洋画家濱邊萬吉から教えられ、また1955年(昭和30)、吉原治良に誘われて具体美術協会に参加して常に吉原から元永が言われたことは、「新しい美は驚きから始まる、他の人のしない新しいことをすること」であった。

元永が具体展などに発表したビニールチューブやビニール袋に水を入れて吊した「水」の作品も、他の人がしないことを実行して人々を驚かそうという意図があったことは確かである。太陽光線によって着色された水の色が地面に映る美しさ、あるいは透明なビニールチューブが夜の電灯の光に映える幻想的な美しさなど、それらの作品が生み出した効果も十分に想像できる。また、水あるいはビニールチューブという可塑性のある素材を用い、それによってつくられる曲線的な形を空中に吊すことによって、ある種のおおらかな、のんぴりした陽気な気分、ユーモラスな雰囲気が生まれていたことも想像される。

作品のそうした雰囲気こそ、元永作品に一貫してながれる特徴と共通すると思われるが、それを生み出している上記のビニールの材料やその中の水によって生まれる丸みを帯びた柔らかい質感のかたちは、前にも述べた元永の初期から1960年代にかけての作品にあらわれるかたちともまた相通じる性格をもつものであろう。

そして、それらの作品では、太陽光線や風による効果、あるいは時間の経過による効果が巧みに取り入れられているが、そうした自然の作用を作品に取り入れることは、先に述べた絵具を流した絵画の制作とも共通することである

話は前後するが、キャンバス上のある1点から流した絵具は、色による粒子の重さの違いなどによって、決して画家の予想通りには流れないという。従って、画家のイメージと大きく異なる結果になった場合、その絵具は消されてしまうというが、一方で予想もされなかった意外な効果をもった画面が生まれることもあったもいう。そこでは、重力と時間という自然の法則が、作品制作に元永独特の柔軟性をもって取り入れられているのである。

ともかくも、1955年前後から1960年代半ば頃にかけて制作された、一見したところかたちが絵具の背後に隠れているかのような作品においても、かたちにたいする意識が強く働き、それが元永作品の重要な骨格をなしていたということは、元永定正の造形を考える上で忘れることができない。

こうした、元永定正のかたちにたいする意識がより鮮明にあらわれてくるのが、1966年(昭和41)の渡米以後に発表されたユーモラスなかたちが浮遊する作品群であろう。

ただ、ここで少し触れておきたいのは、元永の作品が1964・5年(昭和39・40)に少し変化を見せていることである。それ以前にも、たとえば1963年(昭和38)には、キャンバス上に小石を貼りつけて、小石と流れる絵具との関係から生まれる効果をねらった作品(No.57、No.58、No.59、No.62、No.64など)が制作されて、絵具を流す方法にも、新たな試みがなされているが、作品自体の雰囲気に大きな変化は認められないように思われる。

ところが、1964・5年頃の作品(たとえば、No.67、No.68、No.70)になると、かたちの上に絵具を流す方法自体に変化はないけれども、流された絵具の下に隠れていたかたちが、以前よりも強く存在を主張し始め、流れた絵具の周囲に大きな円形や水滴形が描かれて、画面の雰囲気も少し変化し、従来の画面の激しさがやや影をひそめて、その代わりにある種の軽さといったものが強くでてきているようである。

このあたりのことについて、元永自身は何も語っていないけれども、以下に述べる滞米時代の制作技法とスタイルの変化の前ぶれとして、元永の内面にどのような変化が起こっていたのか気になることではある。

元永定正の作品は、66年から67年にかけてのニューヨーク滞在を境として、大きく様変わりするが、そのあたりの事情について、画家自身の回想をまとめると、次のようになる。ニューヨークでの生活にも慣れて、本格的に制作を始めようと、それまで日本で使っていたのと同じ種類の絵具を探したが見つけることができず、当時のアメリカの画家たちがよく使っていたエアブラシとアクリル絵具(リキテックス)を用い、初期に描いていたかたちを再び追及することを思いついたという。

ここで、ニューヨークで描かれた「作品N.Y.No.1」〈No.83〉を見ることにしよう。この作品では、皆既日食を連想させるかのような周囲に暗赤色のぼかしを持った黒くいびつな楕円のかたちと、その後ろから現れ出たような尻尾のついた緑のかたちが描かれる。

その画面から、後年の作品に顕著なユーモラスな雰囲気はあまり感じとれないが、そこに見られる、明晰な色面によるかたちは、まさに元永流のかたちそのものである。

また、本展には出品されないが、同じく1967年の「作品・Funny 79」になると、画面からは明るく陽気な、タイトル通りファニーな気分が立ち昇ってくる。そこに描かれた二つのかたちは、後の作品にもしばしば登場する、踊る人間の姿を連想させるような2本の腕のついたかたちである。

1967年に帰国した元永定正は、この系列の作品を次々に発表することになるが、そこには元永によって生み出された様々なかたちの展開を見ることができる。それらのうちのあるものは、原始的な生命体を、またあるものはUFOや宇宙の生命体を連想させたりするが、共通するのは、いずれも健康的な生命の躍動感をもっていることであろう。

そして、画面上のそうしたかたちたちは、多くの場合に明るい色彩で彩られることになるが、画面にあふれるかたちと色彩、それに作者自身によって与えられた独特のタイトル、これらが元永作品の性格を決定することになる三要素である。

蛇足ながら、ここで元永作品のタイトルについて少し触れておこう。たとえば、「あかいしかくのなかはいろぬり」「しろいひかりのあかまるふたつ」「くろいぼやぼやのごほん」など近作のタイトルは、作者自身によれば、絵の説明をしているだけのことであるという。とはいっても、「Nyu Nyu Nyu」「Nero Nero」「はに、はに」「ぱ、ぽ、ぽ」などの擬態語、擬声語もまじえたそれらの題名は、どことなく江戸時代の俳譜あるいは川柳などとも共通する、知性に裏打ちされた冴えた機知の精神の働きを感じさせる。そこに元永一流の知的なユーモア精神が込められているのは異論のないところであろう。

ところで、元永定正は、立体的な陶製のオブジェの制作や椅子のデザインも行っているが、そうした作品も、元永の豊かなかたちの世界をみせてくれる。

たとえば椅子を取り上げてみよう。本展には、元永によってデザインされた椅子が9脚出品されているが、いずれも腰を下ろすという機能を確保しながらも、その形態は人の意表をつく意外性に満ちている。たとえば、カラフルな彩色が施された多足椅子があったり、どこに座るのか迷っでしまうような階段状の長椅子があったり、あるいは太い鋼鉄線をぐるぐる巻きにした、一見椅子とは見えない椅子があったりする。

これらの椅子の形にも見られるような、深刻ぶらない精神の自由な羽ばたき、これこそ元永作品のよってたつ基盤であろう。そして、この精神ののぴのびした躍動は、元永のかたちに最もよくあらわれているということができよう。

アメリカからの帰国後一貫して描かれてきた作品にあらわれる様々なかたちは、現在に至っても元永定正の作品において重要な役割を果たしているが、昨秋発表された大画面の新作(No.122-125)では、それらのかたちと1960年代に行われていた絵具流しとが、同一画面にあらわれて、新たな世界が開かれた。軽快な色とかたち、重厚な絵具の色面が共存する画面は、元永定正のたくましい創造力を改めてわたしたちに示しているのである。

(もうり いちろう・三重県立美術館学芸員)

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