出品目録
凡例
- 配列は油彩と素描に分け,それぞれの制作順とした。
- 記載事項は,作品番号,作品名,制作年,寸法(縦×横),材質,署名・年記,出品歴,関連文献,所蔵者名の順とした。
- 署名・年記に関しては確認できたものに限って裏書きも記載した。
- 出品歴に関しては原則として初出展覧会及びそれに準ずるものについては年代を記し,他の展覧会については個展及び主要な展覧会に限った。特に以下の展覧会については略記し,出品番号を付した。
●森芳雄・麻生三郎二人展(神奈川県立近代美術館,1962)-神奈川
●森芳雄展(渋谷・東急百貨店,1975)-東急
●森芳雄教授作品展(武蔵野美大美術資料図書館,1962)-武蔵野美大
●森芳雄展(渋谷区立松濤美術館,1981)-松濤
●森芳雄展(名古屋画廊,1986)-名古屋
●森芳雄展(日本橋高島屋,1989)-高島屋 - 関連文献に関しては主要な文献に限って記載した。とくに以下の文献については略記し,作品番号を付した。
●『日本百選画集・森芳雄』(美術書院1957年)-日本百選画集
●『森芳雄画集』(日本経済新聞社1974年)-森芳雄画集
●『森芳雄作品集』(日本経済新聞社1975年)-森芳雄作品集 - 主要作品の解説は下記のものが執筆した。
中谷伸生(三重県立美術館)
中泉多詔(茨城県立近代美術館)
山口和子(茨城県立近代美術館)
中谷伸生・編
12 1950(昭和25)年 1950年に発表されたこの作品は,圧倒的な量感と凝縮された画面構成,そして静かで,哀感漂わす清潔な詩魂の表現によって,終戦後まもない美術界に新鮮な衝撃を与えたという。画家自身の回想によると,「あれは,戦争中から十年ほど構想をねっていた作品です。そのイメージが戦争でおさえられ生活もふりまわされ,これをかいた年が物質的にも最低でした。それとは関係なく美が訪れる,皮肉な話ですね。(中略)終戦直後も,不器用で何もできない,結局絵筆しかないという状態。でも「二人」をかいたときはふしぎに,すらすらと絵ができた。大げさな意図も,画壇を意識することもまったくなかった作品でしたね」(「戦後美術と私の五十年代」『赤旗』1981年9月27日)。この〈二人〉を描いた年の暮れに,森芳雄は貧乏のどん底に陥り,年越しの金もなく,思い切って,新宿の紀伊國屋書店に出かけ,店主の田辺茂一氏を訪れて,〈二人〉を買って欲しいと頼み込んだ。田辺氏が,年の暮れと年明けの2回に分けて,大金を払って購入し,画家は,ようやく年を越せたということである。この作品はその後長らく同書店に飾られていた。 |
38 1960(昭和35)年 ピカソやブラックのキュビスム風の静物画を思い起こさせるような厳しい構成的作品である。テーブルとその上に置かれた果物を中心に,直線が幾何学的な形態を強調する。画面上部の広い色面に施された鮮やかな黄色と対照的に,渋く抑えられた褐色の色彩は,この時期の森芳雄の人物画と共通する。単なるリアリズムを越えて,しかも,より一層の実在感を獲得すること。つまり,画家が,造形の問題をどのように考えていたかを如実に示す作例である。今泉篤男は「この画家の油絵になった静物はやはりユニークな世界で極めて、単純なうちに見事な静謐さと豊かさを醸し出す表現を持っている」(『森芳雄素描集』彌生画廊)と語っている。森の数少ない静物画は,いずれも,がっちりとした構成の力強さによって印象深いものであるが,それぞれの作品は,微妙に性格を異にしている。例えば1957年作の透明感あふれる色彩を誇る〈卓上静物〉(Cat・nO・27)などは,イタリアの静物画家モランディの静かで構築的な画面と共通する造形感覚をのぞかせている。また,軟らかい線描が効果的に駆使されている1980-81年作の〈妻が置いた『みかん』〉(Cat.no.84)は,いわゆる静物画ではなく,画家の生活に根ざした作品である。1981年には,妻きみが亡くなっている。 |
44 1963(昭和38)年 この作品を制作する前年の1962年に,森芳雄はギリシアやエジプトなど,地中海世界に深い感銘を受けたという。〈街角-カイロにて〉は、その旅行のときに出くわした一情景を,土のぬくもりを感じさせる暖色でまとめた絵画である。一瞥では,広い空間内に人物や荷車などが,ばらはらに描かれているように見えるが,実のところ,それぞれのモティーフは,微妙なバランスを保つように配置されている。つまり「この作品は、カイロのスケッチから作品化されているが、フレスコ画の調子を感じさせ、構成にはマッシモ・カンピリの画面を想起させる」(陰里鉄郎「街角-カイロにて」『原色現代日本の美術』第10巻現代の洋画、小学館1980年)というわけである。今年の春,成城の森家を訪問したときに画家自身から説明を受けたところ,この〈街角-カイロにて〉では,他の多くの森の作品と同様に,幾何学的な構成を重要な狙いにしたとのことである。様々なモティーフが点在する画面は,知的な構図の鋭さに裏付けられながら,大きくゆったりした空間として把握されている。この作品には,構想の出発点になった素描によるスケッチ(Cat.no.D-21)があり,それを見ると,厳しい画面構成の背後に,森芳雄がカイロの街で感じた人のぬくもりが表現されていることに気づかされる。 |
50 1963(昭和38)年 1962年8月に森芳雄は,ヨーロッパおよび中近東への旅に出た。フランス,スペインをはじめ,ギリシア,エジプトに足をのばし,翌1963年1月に帰国した。ここでは,アクロポリスの丘をモティーフにして、崩れ落ちた古代の建造物の破片が転がっている様を描いている。西原のアトリエで,画家自身から直接聞いた話によると,この作品は,制作当時,どの展覧会に出しても評判が悪かった,ということである。しかし,淡い茶褐色を主調にしたマット(光沢消し)な絵具の塗りは,森芳雄の本領というべき渋く抑制された性格を露にし,森芳雄が愛したイタリアのフレスコ壁画に通じる品格を示している。画家の回想によれば,「若い頃,幸にも二ヵ年程パリ滞在が出来て,ルーブル美術館に通い,ルイニの壁画の小品を見つけて以来,私は,ルネッサンス前期〔十二世紀-十四世紀〕頃の絵画に或る魅力と,尊敬を抱いて今日に至っている。(中略)中国の西安の永泰公司の壁画,今は見る事が出来ないが,法隆寺の壁画,敦煌の仏画,皆,フレスコであり,いずれも,私の気持ちを魅きつける」(森芳雄「フレスコの魅力」『From the Town』1985年)と語っている。裏面の木枠に鉛筆でメモ風に「63.4-63.10.7」と走り書きが見られ,帰国後,数カ月経って制作に取り掛かった作品である。 |
99 1990(平成2)年 母と子という主題とモティーフに森芳雄は,強く魅了されているように思われる。構図においても,この作品と類似した同年の〈母と子〉(Cat.no.103)が挙げられるが,モティーフをわずかに変化させることによって,この主題を,より一層深く追求しようとする画家の造形思考が理解できそうな気がする。これらの作品は,森芳雄の重要な実験の秘密を物語るものだ。母と子の主題は戦前から描かれているが,そのあたりに,この画家の目指す,言葉にし難い何かがある。母と子というモティーフについて、画家から聞いたところでは、母親とその子供、つまり親子とか家族といった人間同士の気持の触れ合いが念頭にある、ということであった。つまり孤立した一人の人間ではなく、人と人との繋がりを重要な主題として追求している、ということである。いずれにせよ,〈母と子〉あるいは〈母子像〉というのは,人間像の画家森芳雄のライト・モティーフであり,おそらく,形態と主題とを一体化させるにあたって生じる緊張感,あるいは作品の奥深さを狙うこの画家の基本的な姿勢を教えられるようで興味深い。 |