丹波
『本朝陶器攷証』によると,「舌丹波は惣体作もよく薬青白などにて色合ともさびたるものなり,土も薄赤み色にてこまかくかたき土なり,遠州丹波は奇麗にて瀬戸薬立もあり,土もざんぐりと荒し,茶入水さしよりなし,茶入には名物あり」と記されている。
丹波焼も中世からの古窯の一つで,鎌倉・室町の時代には,種壺などの焼締陶を生産していた。最も古い作例としては,「元久四年」(1207年)の銘がある「丹波大甕」が現存している。『丹波の古窯』(杉本捷夫著)では,丹波焼は,「第1期小野原時代」の鎌倉から慶長年間(1596-1615)まで,「第2期釜屋時代」の慶長末期から宝暦元年(1751)まで,「第3期里窯時代」の宝暦2年(1752)以降,という3期に分けられている。
茶道具として焼かれた丹波焼が茶会記に初めて見られるのは慶長16年(1611)のことで,丹波での焼成は慶長末期頃から始まり,伊賀・信楽・備前などと比較すると,かなり遅れてから始まったと考えられている。しかも中世陶である小野原時代は焼締陶であったが,釜屋時代には唐津焼の技法が取り入れられて焼締めの上に施釉するように様変わりしている。施された釉薬はドペ釉,灰ダラ釉,飴釉,白釉などであるが,特に光沢を持った赤く鮮やかなドベ釉は,丹波焼を特色づける釉薬である。
またこの期の丹波焼に,「丹波山椒壺」(東京国立博物館蔵)などの山椒壺がある。丹波名産の朝倉山椒の器として,「朝倉山椒」の文字を刻んだ六角形の壺である。
桃山時代の丹波焼は,「丹波矢筈口耳付水指」(No.2-25,京都民芸館蔵)が伊賀の水指を摸したような雰囲気を呈しているように,他の窯業地の影響をかなり受けているようである。この時期の丹波は作品数も多くなく,伊賀のように個性的で強い印象を与える作品も少ない。
丹波焼で代表作と考えられるのは「丹波耳付茶入 銘生埜」(湯木美術館蔵)である。『宗甫居士道具置合拵』によると寛永 8年9月4日,22日に茶会で用いられたことが記されている。遠州好みの松平不昧公に伝わった茶入である。
出品された作品のなかでは,紫褐色の素地に黄褐色の釉が施された「丹波耳付花生」(No.2-29,兵庫県陶芸館)は,丹波の特徴を最も示す作例である。