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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1982 > 明治の洋画 日本近代の洋画家たち展図録

Ⅰ 明治の洋画

日本の近代洋画は、1861年(文久1)、江戸幕府の蘭学研究機関である蕃書調所に画学局が置かれたことから出発する。この画学局の絵図調出役、川上冬崖は西洋の絵画入門書の翻訳や研究を通して、油絵具の特質や西洋絵画の技法に習熟しようと苦心した。川上冬崖が育成した数多くの門下生の中で,近代洋画史上特筆すべき最初の本格的な洋画家といわれるのが高橋由一である。彼は《豆腐》(1875-78年頃)、《花魁図》(1876-82年頃)、《鮭》(1878年)などのきわめて日本的なモチーフを採り挙げ、それらを精緻な形態描写と正確な質感の表現によって描き出している。由一がめざしたものは、傑出した西洋絵画が示す精神的なものの形象化というよりも、客観的かつ迫真的に対象を捉える写実的表現力に他ならなかった。彼は西洋の石版画を見て回想記に「悉皆(ことごとくみな)、真ニ逼(せま)リタル」と記しているが、ここには明治初期の洋画家の西洋芸術に対する素朴な驚きと憧れとが表明されている。1876年(明治9)には明治政府の手によって工部美術学校が創立され、教授としてイタリアのアントニオ・フォンタネージが来日した。彼はイタリアの古典主義絵画に基づく写実的な表現力と、フランスのバルビゾン派の情緒あふれる風景描写力とを身につけていた。その門下生として小山正太郎、松岡寿、浅井忠、五姓田義松、山本芳翠、高橋源吉ら明治前期を代表する洋画家たちの名前が挙げられる。この工部美術学校は1883年(明治16)、国粋主義的思潮の台頭によって閉鎖され、以後1896年(明治29)、東京美術学校に西洋画科が設置されるまで、多くの洋画家たちはさまぎまな苦労を重ねることになったのである。1889年(明治22)、小山、浅井、川村清雄、原田直次郎らによって、わが国における最初の洋画家団体である明治美術会が創設されたが、その代表者と目された浅井忠は、師フォンタネージの画風を忠実に受け止め、日本の農村の一風物を柔らかい色調と神経のゆきとどいた鋭い描線によって写実的に描き出した。代表作《春畝》(1889年)はその好例であり、ここでは対象が正確かつ素直に把握されているのみならず、画面全体に日本人の体質に適(かな)った土着の雰囲気が漂っている。その意味で浅井は日本の写実主義洋画を確立した最初の画家と見なされるのである。

1893年(明治26)、フランスに留学していた黒田清輝と久米桂一郎が官学系のラファエル・コランのいわゆる外光派の作風を学んで帰国した。彼らが師事したラファエル・コラン(1850-1916年)は、一般受けのするアカデミックな写実的技法と、印象派の影響による外光描写とを自己の本領とした折衷的作風を示す画家であった。すなわち黒田が日本の洋画界に移入したものは、印象派そのものではなく、部分的に印象派の特質を受け入れたコラン流の外光描写にすぎなかったのである。1896年(明治29)、黒田は明治美術会から独立して、やはりコランに師事した久米桂一郎らと共に白馬会を主宰したが、彼のもとには、藤島武二、岡田三郎助、長原孝太郎、和田英作、小林萬吾などの明治後期に活躍する洋画家たちが集合した。この年に黒田が描いた《昔語り下絵》(1896年)の習作に見られる的確なデッサンカと明るい色彩は、当時の傑出した風俗画として、黒田の代表作のひとつに数えられるに違いない。この時代の青年画家たちにとって、黒田の印象派的アカデミスムは、革新的な美術様式の出現と考えられたのである。これら白馬会系画家たちのいわゆる「新派」の作風は、陰影の描写に紫を用いたことから、「紫派」とも呼ばれた。

一方、褐色調の暗い画面によって「旧派」あるいは「脂派(やには)」と名づけられた明治美術会には、堅実な写実を基本とする歴史画家ジャン・ポール・ローランスに学んだ中村不折、鹿子木孟郎、満谷国四郎らが名を連ね、1902年(明治35)に太平洋画会を創設して黒田らの白馬会に対抗した。しかし時代の趨勢は東京美術学校西洋画科主任教授の黒田清輝の指揮する白馬会系の洋画が支持される方向に突き進んでおり、黒田らの画風は日本のアカデミスムとして長く洋画界を支配することになったのである。

黒田に続いて明治の洋画史に注目すべき足跡を残したのが藤島武二と青木繁による明治浪浸主義絵画である。1904年(明治37)の第9回白馬会展に,藤島の《蝶》と青木の《海の幸》が出品され、明治の洋軌ま全く新しい展開を示すようになる。初めは黒田流の外光派絵画に追従していた藤島は、やがて文学雑誌『明星』を中心として一世を風靡しつつあった浪浸主義的文芸思潮を反映する作品を制作するようになる。《蝶》(1904 年)は藤島が黒田の作風に訣別を告げた記念すべき作品であるが、その冴えた色彩、すきのない構図、的確なデッサン力、文学的かつ装飾的な画面構成など、藤島独自の様式が明白に示された作品である。しかし、彼がもっとも力量を発揮したのは、数年後に描かれた《黒扇》(1908-09年)や晩年の《大王岬に打寄せる怒濤》(1932年)などの比較的アカデミックな油彩画においてであった。そこには油絵具特有の重厚で艶のあるマチエールと大胆で練達した筆触とが見受けられ、彼が油絵の伝統的な技法にいかに深く習熟していたかが明瞭となる。その点では、藤島ほど体質的に油彩画の性質に適合していた画家は珍しいといえるであろう。彼は「エスプリ(内容)のない作品は皮相なものにすぎない」と語っているが、この言葉は西洋の芸術を表面的に模倣することのみに終始した明治初期以来の多くの日本の洋画家に対する痛烈な批判の発言と解釈できるかも知れない。

さて、明治浪浸主義絵画の典型的作風を示した青木繁は美校在学中の1903年(明治軌第8回白馬会展に《黄泉比良坂-よもつひらさか-》を初出品して白馬会賞を受賞した。『古事記』や『日本書紀』さらに聖書やインドの神話といった主題,また豊かな詩想と深味のある華麗な色彩,加えて稀にみる達者な筆使いなどから、青木は明治浪浸主義絵画の頂点に立つ画家であった。彼は《海の辛》(1904年)に代表される卓抜な構想画を描いたが、自信作《わだつみのいろこの宮》(1907年)が東京府勧業博覧会で最末席の三等賞となったことから、青木は中央の審査員に失望し、その後の文展での落選を境として貧窮と放浪の生活を送り、福岡で29歳の若さで哀れな生涯を終えている。

1907年(明治40)、文部省美術展覧会(文展)が設立されるとともに、白馬会をはじめとする各派が、さまぎまな対立と抗争を内に含みながらも、一応は合流することになるが、この時期と相前後して、フランスに学んだ新進の画家たちが続々と帰国し、新しい時代の到来を告げることになったのである。
 

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