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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 三輪勇之助の絵画 陰里鐵郎  三輪勇之助展図録

三輪勇之助の絵画

陰里鐵郎

1982年であったか、83年であったかのある日、三輪さんが三重の美術館の私の部屋におみえになったことがあった。互いに久濶を詑びて雑談したことがあった。そのときに私は三輪さんが三重県四日市市の出身であることを改めて記憶におさめた。三輪さんと初めにお会いしたのは鎌倉の神奈川県立近代美術館においてであったと思う。たしか、三輪さんの作品≪明治の館≫が話題となり、その作品が鎌倉の近代美術館の所蔵するところとなったその前後のことであった。≪明治の館≫以後の作品を私は二紀会や安井賞展などの会場で10数年にわたって見つづけてきていた。二紀展は、毎年、秋に独立展や自由美術展と会期を同じくして東京都美術館で開かれていたが、私の記憶のなかに印象深くのこっているのは≪司令部跡の階段≫(1967年、二紀展)、≪和田倉橋≫(1968年、第8回現代日本美術展)や≪西の京≫(1974年、二紀展)、≪古塔新堂≫(1976年、同展)、≪誕生≫(1978、同展)といった作品である。いま、改めて当時の作品図版を繰ってみてみると、いずれも二重映像(ダブル・イメージ)の作品で、≪誕生≫を除けば、どれも明治や古代の建物や尊像が二重にかさなり合って描かれて、それらの形を織りなす線条が、線によるパースペクティヴによって空間をつくりだすと同時に、作者の心情の遠近感と詩をつくりだしている。≪明治の館≫が第10回安井賞の有力候補となり、宮崎進の≪見世物芸人≫、奥谷博の≪貝と白珊瑚≫といった作品と受賞を競ったことなどが新聞紙上で報道されたこともあったが、≪明治の館≫は、抽象絵画が盛行するなかで、ともかく私には新鮮な具象絵画の作品として印象づけられたのであった。いま、三輪さんの全作品を回顧し、通観してみても、1960年代の後半期、≪明治の館≫から≪濠≫(1969年、二紀展)のころが、三輪さんの画業の最初の頂点であったといってよいように思う。もちろん、その前と後にも三輪さんらしいすぐれた作品があることは、いうまでもない。

三輪勇之助(1920-90)は、三重県四日市市に生まれ、富田中学校をへて、1943年(昭和18)に多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)西洋画科を卒業している。戦前の多摩帝国美術学校がどのようなものであったのかは委しくは知らないが、同校は1935年(昭和 10)創立、杉浦非水校長のもと、洋画科には牧野虎雄、中川紀元、鈴木誠といった画家たちが教授陣に名をつらねている。それにしても今日からは想像を絶する暢気な学校であったに違いない。其の後の三輪勇之助にとって重要な役割をもったのは山崎醇之輔(1904-70)との出会いであったようだ。八田元夫が「夢に生き、夢に死んだ芸術家、山崎醇之輔」と書いているが、山崎はバレー衣裳のデザインや歌劇の舞台装置、浅草の劇場の舞台、さらに人形劇に熱中した特異な美術家であったようだ。三輪は敗戦直後の一時期、山崎と行動を共にして山崎から多くを学びとったという。三輪の1970年代の作品に≪北風の老師 ≫(1973)、≪老師の夢≫(1970)といったものがあり、その画面に描かれている人形遣いが山崎であろう。山崎のもとを離れて絵画制作に専心したあと、山崎の死を迎え、師として山崎への敬愛と自己の過去の体験との二重の映像がこの画面をつくっているのであろう。≪明治の館≫について、それが発表された当時の批評のなかで土方定一は、「三輪の東京風物の建物を構成する二重映像の感傷の作品をぼくはよろこぶ。明治の建物を描くのは追憶の感傷だが、三輪には感傷の詩がある」と書いていたが、自己のなかに刻印をのこして過ぎ去ったものへの愛情ある追憶がこれら「老師」の作品を三輪に描かせたのであろう。

山崎の魅力に憑かれ、多大の感化をうけながらも三輪は山崎から離れることによって画家となった。

三輪は、『西の京を描く──油絵で描く天平の美』なる著書をのこしている。この書は、「新技法シリーズ」の1冊であるが、そのなかで三輪は、自己の歩みを平易に、淡々と記述している。山崎の呪縛から脱して三輪が出会ったのは、スイスの画家、ハンス・エルニの作品であったという。このことを記した部分に接して、私は大きく納得した。1962年ころであったろうか、「ハンス・エルニ」展が開催され、それに多少かかわったことのある私には、三輪の記述はとりわけ興味深く感じた。三輪のエルニ発見は、この展覧会以前のことであるが、画家にとって、自己の内部に得体の知れぬ形で萌え出て、いまだ明確な体をなしていないとき、ふと触れ合うなにかに出会ってそれが体をなしてくる、こうしてひとつの性格ある映像が創出される。三輪の場合は、それが初期の≪パストラル≫(1958)、≪昆虫採集に行ったとき≫(同)という作品であった。こうして画家三輪勇之助の個性的な道程ははじまったようだ。画家にとって視覚の体験が長い時間をへてから、別のなにかによって触発され、そして造型され、作品化する。三輪にとって明治の洋風、和風の建物は、山崎との共同作業のなかで学んだパースペクティヴや、バード・アイの方法のなかで詩的映像となった。山崎への追憶のあと、三輪は日本の古代、大和の風物へと向う。奈良、西の京が三輪に新たな画因を提供し、≪香煙≫(1975)、≪古塔新堂≫(1976)が生まれている。そこにあるものは、宗教の信仰ではなく、古代の信仰へのロマンティックな憧憬であり、線によるファンタスティックな現代的映像であるといえようか。そこにも、三輪の詩がある。

1991年6月

(三重県立美術館長)

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