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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1992 > 蕭白の作品と俳諧 山口泰弘 三重の美術風土を探る2 第2部・その後の蕭白と周辺展図録

蕭白の作品と俳謔

山口泰弘

1987年に「曾我蕭白展」が開かれてから5年になるが、その間にも当館では、機会がある毎に蕭白画の調査を進めてきた。その過程で実にさまぎまな蕭白画に接することができたし、また、いく人かの蕭白に出会うことになった。いうまでもなく、本当の蕭白はたったひとりに過ぎないわけだから、そのひとりを除くと、すべて偽蕭白ということになる。この偽蕭白の存在はなにもいまになって知られるようになったわけではなく、はやくも明治時代にその存在に気づいた人がいた。桃沢如水は、実質的に蕭白の発見者ともいえるビゲローやフェノロサらアメリカ人を除くと、当時日本人としてはめずらしく熱心な蕭白フリークであった。彼の論文でその名も「曾我蕭白」と題された一文は、その熱意の割には冷静な客観的姿勢で蕭白にまつわる逸話が収拾されているために、後の蕭白研究者に多大な貢献をしているが、その中にも「伊勢地方に蕭白の偽物で屏風などに密画の山水や十二鷹などあるが其原産地は伊賀であるとか彼地には原本或は下図などがあって夫を種に偽物を作る様である」という一節がみられる。 如水のいう「十二鷹」は六曲一双の各扇に鷹をひとつずつ合計12頭描いた押絵貼屏風と解されるが、蕭白を調査するようになったここ数年間のうちに、これに類するものを数点目撃することになった。それらは、小さなモティーフの異同や各扇の配置の違い程度の相違をみせるだけにすぎない。そのなかで突出して優れた出来栄えを示すものが一点、三重県四日市市の文化財調査の過程で発見され、それは1987年の展覧会で展観したが、その他のものはいずれもはるかに出来の劣ったものであった。それは、蕭白の不調あるいは手抜きといった類のものではなく、彼に較べてはるかに技量の劣った別人の手になったと解釈すべきもので、如水のいうように蕭白の死後もその粉本が残った可能性を示している。

ところが、この鷹の押絵貼屏風以上に出くわす機会が多かった贋作は、鷹の代わりに仙人を各扇に配した六曲一双の押絵貼屏風であった。私の記憶に残るものだけでも十数点を数えるので、実作数となるとあるいは三桁に近いかそれを超えるほどであったかもしれない。どれも同じ筆致を示しており、ひとりの画家の手になるものとみてまちがいない。ある時期、おそらくは明治ころ、伊勢地方を中心にして伊賀地方、さらには近江あたりでも大量に売りさばかれたらしい。もちろん、現在の判断基準からすれば誰の目にも贋作であることは明らかだが、この画家は、妙にどろどろとした独特の墨の暈せん技法を駆使して、本家蕭白すら及ばないほど薄気味悪い仙人を描いている。歴史的といってよいほど長い間蕭白につきまとって離れなかった狂気のイメージが、いきつくところにまで高じている感さえある。ある意味でこの贋作家こそ、如水以上に蕭白フリークであったというべきかもしれない。

このように明らかに贋作とわかり、それなりに見るほうを楽しませてくれるものばかりならいいが、見れば見るほど一層戸惑いを増幅させてゆく類のものも実は少なくない。それは、蕭白が与えるイメージがあまりに多彩で、十人いれば十様の蕭白像があること、技法の大胆さが逆に贋作を容易にしていることから知らず知らず植えつけられた警戒心、などが私たちをかなり臆病にしているからだろう。

今回の展覧会を開催するに当たっての最大の困難は、評価(あるいは真贋)のある程度定まった作品が中心であった前回の展覧会にはない、まさにこの点であった。しかしまた、前展に匹敵するほど優れた出来栄えの作品が新たに登場してきたことも事実で、それが、今展を実現をしたといってもよい。


その最右翼に置かれるのが「鷲図屏風」(図37)である。もともと一双あったと考えられるが、残されたこの一隻だけでもその圧倒的な迫力は決して損なわれてはいない。二頭の鷲に与えられた、画面からはみ出さないばかりに異様に大きなヴォリュームとその体表の稠密な描写の対比、鷲の凄まじい威勢に煽られるようにしなる槇の枝や気迫のこもった土坡の筆捌き等々、蕭白がもつ大胆さと細心さが言い様のない相乗作用で、迫力をいやがうえにも高めている。

昨年秋に滋賀県の水口町で発見されたが、水口といえば、東海道の宿場のひとつで京都と伊勢の中途に位置しているから、伊勢遊歴の途次あるいは帰途、ここに滞留して描いたと考えてよかろう。

蕭白は20代末から30代前半まで、かなりの年数を伊勢地方で過ごしたらしい。蕭白にとっては最初の伊勢行だったらしいが、津市の近郊黒田というところにある浄光寺には30歳の年紀のある十六羅漢の大作があったというし、津市の乙部(むかしの寺町)の西来寺には29歳の年紀のある襖絵群があった。空襲などで失われていなければ、津市付近は初期蕭白画の宝庫であったに違いない。このあたりにいまわずかに残っているのは、「小野妹子・迹見赤榑図」(図1)のみにすぎない。この作品を所蔵する上宮寺には太子堂と呼ばれる堂があり、本尊として聖徳太子十六歳孝養像が安置されていた。この像は本堂もろとも第二次大戦中の空襲で焼失したが、この双幅は本尊の両脇掛けとして蕭白に委嘱され、檀家から同寺に寄進されたものである。『聖徳太子伝暦』や『三宝絵詞』には、仏敵物部守屋討伐戦のさなか、太子が舎人迹見赤榑に命じて守屋を射殺させたという太子十六歳のくだり、また、太子が前生において中国の衡山で暮らしていたときに持ち馴染んでいた法華経一巻を遣隋使として遣わした小野妹子に持ち帰らせたという三十六・七歳のくだりがある。だから、ふたりの人物はともに、仏教興隆に力を尽くしたとして伝説化され信仰を集めた太子とは密接なかかわりをもつ人物であった。

落款印章からみて、初回の伊勢滞在中の制作であることはまちがいない。このころの蕭白は、「寒山拾得図屏風」「桃に蝦蟇図」(前展図録参照)など稠密な作風を得意としていたようだが、この双幅も、特に赤榑図の衣紋にみられる、度を越したと思えなくない細かな描き込みや顔貌のなめらかなグラデーションなど、この期の特徴をよく表わしている。

水口でみつかった上記の「鷲図屏風」は、この双幅の稠密さと、「唐獅子図」(朝田寺)や「永島家襖絵」など奔放な筆遣いが勝るようになる三十代半ばの作品のちょうど中間の過渡的作風を示していることからみて、最初の伊勢遊歴の帰途の制作である可能性が高い。

今回の展示では、これまで必ずしも作例が豊富とはいえなかった三十代後期から四十代にかけてのものと思われる作品に大作や作ぶりの充実したものが多い。

そのなかで当館が今年になって収蔵した「松に孔雀・許由巣父図」(図54・55)は、四枚続きの襖絵の表裏に貼られたものだが、三十代後半の基準に置ける作品として重要である。やや痛みが見られたため、収蔵に当たって改装修理を行なったが、その際に出た裏貼りには享保年間から宝暦7年を下限とする地方(ぢかた)の文書が使われており、しかも現在の兵庫県高砂市近郊の村名があった。蕭白は34歳ころと38歳ころに高砂に滞在しているが、落款印章や作風からみて38歳滞在時の制作と判断される。

どちらも優れた出来栄えを示すが、ことに「松に孔雀図」のほうは、濃墨を刷毛に含ませて一気呵成に捌いた松や、土坡を孔雀の尾羽の形に塗り残してそこを後から柔らかな筆で丹念に羽根で埋めていくところなど、きわめて技巧的な筆墨が印象を強いものにする。

「虎溪三笑図」(図27)は、以前『水墨美術大系14若冲・蕭白』(講談社)に紹介されたことがあったが、その後しばらく消息が絶えていた。大正8年、旧岡山藩主池田家の売り立てに出されたが、池田家と蕭白といえば、『近世名家書画談一編』(安西雲煙編 天保元年刊)に、蕭白が九州へ赴く途中、岡山で藩主の命に応じて「金地の屏風」を描いたという記事ではやくから関係は知られていた。硬質の筆で山岳を組み上げていく作法は晩年の山水画の特徴だが、これほど息苦しさが充満する空間構成は類をみない。溪流に架かる橋の上の三人の点景人物から、この図の主題がようやく判定できるが、これは蕭白が意識的に設定した謎解きの仕掛けだろう。いわば山水画見立ての虎溪三笑図、あるいは山水画紛いの虎溪三笑図である。

「近江八景図」(図34)も晩年期のものとみられる。蕭白の名所絵はほかに記録の上では、浪花(なにわ)名所を描いた押絵貼屏風があった(巻末資料「横山喜兵衛宛書簡」)ことが知られる。ここには三十代前半から半ばの激しさはみられず、幾分落ち着きの出た穏やかな山水景に変質してきている。京中を一変させたという円山応挙の影響が穏やかに蕭白を取り込みかけているようにもみえる。点景の人物表現などを見ていて興味が惹かれるのは、東京芸術大学が所蔵するあのキューピスム的怪作「楼閣山水図押絵貼屏風」との類似点がみられることである。最近はこの押絵貼屏風を贋作視する傾向が強い。だとすると、贋作に共通点をもつ「近江八景図」も贋作か、ということになるが、私は、むしろ、工房制作の可能性を探ってみたいように思う。今回の展覧会には、蕭白の周辺にいたと思われる何人かの画人もあわせて取り上げている。晩年の蕭白は京都の上京に工房を置いていたが、弟子の協力を得て成った作品も晩年には少なくないはずだ。


ところで、蕭白の生きた十八世紀には、産業や交通の発達によって、それまで公家や武家、都市の上層町衆が独占していた文化が、地方都市へ拡散してゆく。たとえば、蕭白の足跡の残る高砂は瀬戸内の海運を担う港湾都市として繁栄をみせ、ここを根拠にする回漕問屋のもとには、江戸や上方から多くの文人や画人が集まり、彼らがもたらす都会の最新文化情報を求める在地の豪商や豪農が寄り集って、そこに一種の文化サロンが形成された。

また、伊勢地方を本貫とする豪商(いわゆる伊勢商人)たちは、京都に本拠を構え、江戸に出店を置くことが多かったため、彼らによって三極構造の緊密な経済的紐帯がかたちづくられていた。京都に生まれ伊勢松坂の豪商中川家に養子に入った書家韓天寿、その従弟で画家の青木夙夜、彼らの師友でその縁を頼ってしばしば松坂を訪ねた池大雅、あるいは松坂出身の豪商三井家や小津家の庇護に応えて多くの作品を描いた円山応挙らのように、伊勢と親密な関わりをもつ京都の文人画人は少くない。経済的紐帯が、伊勢地方に京都の文化上の後背地とも呼ぶべき連携関係を派生させていた、といえようか。蕭白を迎え、交遊を広めたのもこうした環境に育った知識人たちであった。京都の文化に対する憧憬の念が、画家の訪遊と活動の契機をつくったのである。

彼らのもとでは、頻繁に書画会や詩歌の会が催されたが、そこで主役として歓待されたのが江戸や上方の文人や画人たちであった。「松に孔雀図」には「平安独夷蛇足軒曾我左近次郎暉雄蕭白筆」と例によって長い落款があるが、ここの「平安」ということばには、地方にあって彼が都の画人であることの誇りが込められていると同時に、地方文人の文化的欲求をくすぐるブランドとしての機能も隠されている。

彼ら地方文人のあいだでなによりも盛んだったのは、俳譜であった。俳諧は教養を高め、機智を磨き、社交を深める必須の課目であった。

蕭白も地方にあって俳諧をとおして彼らとの交わりを広げることに無関心ではいられなかったはずだ。今回の展覧会には、彼自身がその取り巻き連とともに親しんだことを想わせるような、簡潔でおかしみのある味わい深い俳画風の作品がいくつか出品されており、彼の別の一面をのぞくことができる。

たとえば、新巻鮭に白鼠が取り付いた図(図38)などはそのひとつである。題材を平明な日常の景物にとって、荒い筆捌きで型取った鮭の塗り残しを白鼠に見立てる機智と滑稽味に俳味がにじむ。

蹴鞠に興じる貴公子と猫をひく女性を描く双幅(図21)は、源氏物語の若菜の帖に主題をとったものである。蹴鞠に興じる貴公子を覗き見ていた女三宮が、逃げた猫が開けた御簾の隙間から柏木にみとがめられる、という場面である。しかし、鞠ばかりに気を取られている柏木に、なぜか鼠をくわえた猫を紐で引く女三宮。これでは、決定的な出会いの場面はお預けとなる。

「許由巣父図」(図55)は、さきの襖絵「松に孔雀図」の裏面に貼り付けられていたものだが、ここでも、古典を洒落のめす機智と滑稽、卑俗さが姿をのぞかせている。

許由巣父といえば、ともに中国古代の伝説の聖帝堯の時代の高士。許由は、堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いてその耳が汚れたと頴川で耳を洗い、巣父は、そんな汚れた川の水は飲ませられないといって牛を牽いて帰った、という故事中の高潔の士であった。しかしそれにしてはともに弊衣を着せられ、容貌はといえば、野卑な笑いを浮かべて、高士のそれではない。室町や桃山の正統な許由巣父図だと、巣父のつれない要求に従順な牛も、蕭白にかかると欲求を露わにして決して恥じていない……。この古典を卑俗化する俳謔は、俳諧を愛好する市民の感覚に生な感覚の悦びを与えたはずだ。

この展覧会には出品されていないが、奈良県立美術館のもつ「美人図」も古典を当世化する俳謔の作法のひとつときわめて近い相にある機智的絵画である。これについては当館の発行するニューズレターで触れたことがあるのでそちらを参照してもらいたいが(「曾我蕭白の見立趣向」ひるういんど・三重県立美術館ニュース30号 平成元年)、ここに描かれた当世美人は、中国古代の楚の宰相で詩人として知られる屈原の「漁父の辞」をもじった見立てである。この美人が実は屈原であることは、画のなかに隠されたヒント―蘭、千鳥、山水模様の着衣など―を解き明かしてゆくうちにあきらかになるのだが、見るほうは、古典の知識を動員し、機智を閃かせてこの絵の解読を試みるわけである。おそらく古典知識や生活常識が現代と全く異なっていた当時の人々にとってはさして困難な謎解きではなかったことだろう。

蕭白は、伊勢では連句の席に招かれて、連衆としてみずからも句作りを楽しんだようだ。彼の交遊圏には、二日坊宗雨という伊勢の宗匠の名もある。

そもそも俳諧自体、近世の爆発的な識字層の増加にしたがって溢れ出た新しい愛好者を次々と取り込みながら、ときには卑俗平明に傾き、あるいは奇矯に走ったりしながらも、一貫して近世の庶民にもっとも身近な文芸として親しまれた。本稿ではとくに触れることはなかったが、蕭白の奇矯ももしかするとこうした近世庶民の俳諧的感性が背景にあるのかもしれない。

(三重県立美術館主任学芸員)

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