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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 増山雪斎の中国趣味 山口泰弘 増山雪斎展図録

増山雪斎の中国趣味

山口泰弘

写実的な虫類写生図譜『虫豸帖』(ちゅうちじょう)の作者として知られる増山雪斎即ち増山正賢は、宝暦4年(1754)10月14日、伊勢長島藩主正贇(まさよし)の長子として江戸に生まれ、父対馬守の死去とともに、安永5年(1776)23歳で遺領2万石を襲封した。長島藩領は木曽川・長良川・揖斐川の三川が運ぶ土砂が堆積してできた三角州地帯を占め、その南端は伊勢湾に臨む。中世には河内といい、河内御堂と呼ばれた願証寺を本拠にした一向宗徒が織田信長と争って壊滅に追い込まれたことで有名な、長島一揆の舞台として知られる。土地が水位より低く、そのため輪中の形成して開発が進められたが、水害の脅威にしばしばさいなまれ、治水は累代藩主の最大の治政上の課題であったが、宝暦年間の大規模な治水工事の結果、雪斎の時代にはその脅威もいくぶん緩和されるようになっていた。

48歳を迎えた享和元年(1801)、正賢は致仕して巣鴨の下屋敷に隠棲し、文政2年(1819)1月29日、66歳で病没した。墓所は増山家累代の菩提所である上野の東叡山勧善院に定められた。

雪斎はその号で、致仕ののち巣鴨に隠棲したことから巣丘隠人、石をことに愛でたことから石頂道人などと号し、ほかに君選、括嚢小隠、玉園、灌園、雪旅、長洲(長州)、愚山、松秀園、蕉亭など多くの別号があった。大坂城御加番などを歴任したが、生前はむしろ文芸に秀でた風流の人として、尊敬を集めていた。

田能村竹田は『山中人饒舌』(上巻 天保5年)で、雪斎を「画の本質である気韻生動は、かつては士大夫や逸人の描いたもののなかに現れたものである。近年になって士大夫の中にこの本質を尽くすものがあることを聞いていない。そのなかにあって雪斎の書画は、通り一遍の骨法用筆を脱して絶妙の域に達している。すなわちこの人こそ人格と地位を兼ね備えた士大夫であって、その画は気韻生動の筆墨である。」と評している。大名である雪斎は、その高い身分ゆえに、竹田には、我が国に稀有な士大夫と映ったのである。

ところで、雪斎の嗜んだ芸域は、書画のほか、囲碁、煎茶など、文人が嗜みとすべき諸方面にわたっていた。ちなみに『国書総目録』を引くと雪斎の著作として、『観奕記』(1冊 享和3年)・『松秀園書談』(3巻3冊 寛政5年)・『煎茶式』(文化元年刊)などがあげられている。それぞれ囲碁・書・煎茶についての著作であるが、ほかにも『松秀園書談』の奥書には、「雪斎滕侯著追刻書目」として『礼談』『楽談』『射談』『御談』『通雅』などの出版が予告されているから、著作でみるかぎり、文人として非常に広範囲に関心をひろげた人であったことがわかる。

蘭亭曲水の宴

雪斎の文人としての風雅は、こうした彼自身の志向に加えて、さまざまな階層にわたる同好の人々と交遊を重ねることによって、よりいっそう幅と深みを増すことになった。

彼の交遊のありさまを彷彿させてくれるような資料は決して豊富に残っているわけではないが、大田南畝の日記『細推物理』のなかに、南畝自身のほか、雪斎も参加した宴の記録があり、その風雅を知る数少ない資料のひとつとして貴重である。

享和3年(1803)3月3日、ちょうどこの日南畝は55回目の誕生日をむかえたが、昼過ぎから、姫路藩主酒井雅楽頭に招かれて同藩上屋敷で催された宴に出向いた。そこで彼が目の当たりにした光景は次のようなものであった。

   上屋敷の庭に新たに曲水をほり、茶亭四つばかりあり。一亭には長島老
   侯増山河内守殿御隠居烏山世子大久保佐渡守殿新井みなと犬塚印南唯助な
   どあり。一亭には主人おはす。一亭には明楽あり。童子数人紅の服をきた
   り。一亭には渡辺映玄対が輩、画をなす。永原痴翁のかける書どもを壁に
   おせり。活文といへる僧、長崎にて華音を学べるとて、庭の石上に蹲りて、
   もろ人の詩を華音にて吟詠す。曲水の辺にも氈しきて碁うつもあり。水の
   上には、盃に鍾をいれてうかべり。

この日の宴は、引用文から察せられるように、蘭亭曲水を模して行なわれた。この日に備えて酒井家では上屋敷の庭の一部に新しく曲水を掘り、曲水のほとりには茶亭を四つばかり設えた。そのひとつに主人酒井忠道が座を占め、ほかに招かれた大名・儒者などが座す亭、画人渡辺玄対や書家永原痴翁の構える亭、明楽の奏団が占める亭があった。亭のほかにも、曲水の辺には多くの参会者がおもいおもいに宴を楽しんでいた。南畝もそのなかに混じっていた。

南畝は、引用文のあとに、宴の主人酒井雅楽頭の詩に加えて参会者中ただひとり雪斎の詠んだ詩を書き留めているが、多くの参会者のなかでも、とりわけ南畝の関心を惹く存在が、「長島老侯増山河内守殿御隠居」すなわち雪斎であった。この年50歳、「御隠居」と書き添えられているように、すでにその前々年(享和元年・1801年)には致仕して、自適自娯の余生を送る身となっていた。

この宴に招かれた顔ぶれは多彩であった。一亭に座を与えられて画を描いていた渡辺玄対は、谷文晁の師であり、南畝とは同い年で、「今都下此人の右に出る者無之、画家の一人としていふ可也、山水に善く気韻骨法実に当世の画宗なり。」(『雲室随筆』)といわれる、江戸きっての漢画家であり、若いころから雪斎とも親しい間柄にあった。別の一亭には楽団が陣取っていて、「明楽」を演奏していた。楽周の童子には紅色の服をきせていたというが、おそらくは華服かそれを模したものであったにちがいない。このように当日は、蘭亭曲水という中国故事に則った宴をメインとして、中華冬くしの趣向が繰り広げられたのであった。おまけに、活文という長崎帰りの僧をわざわざ招いて、かの地で身につけた「華音」つまり中国語の音韻で出来上がったばかりの詩を吟詠させるという趣向が加わって、中華尽くしの趣向はさらに盛り上げられたのであった。

また、渡辺玄対の画、永原痴翁の書のほか、曲水の辺に毛氈を敷いて棋の席も設けられていた。松浦静山の『甲子夜話』の記事などから類推すると、「明楽」には琴も基本編成に加わっていたはずで、琴棋書画つまり文人の嗜むべき四芸がアトラクションとして加えられており、それが宴の副次的な趣向になっていた。

この贅を尽くした宴は主催者や同好者の強い文人意識=中国趣味を反映したものであり、参加者は、普通なら画中で楽しむしかない逸事を、身をもって楽しんだのである。

木村蒹葭堂送別の宴

蘭亭曲水の宴は隠退後の交遊史を飾るエピソードであるが、雪斎の交遊史に深くかかわった人物となると、まず、思い起こされるのが木村蒹葭堂であろう。

木村兼葭堂(1763~1802)は大坂北堀江で酒造業を営み、通称を坪井屋多吉郎、のち吉衛門と改めた。名は孔恭、号を巽斎または遜斎、堂号を蒹葭堂といい、一般にこの堂号でよばれることが多い。

平戸藩主松浦静山(1760~1841)は、当時雪斎とならぶ風流大名であり、蒹葭堂とは親しい間柄にあった。彼は、退隠を契機に文政4年(1821)11月甲子の夜に随筆を綴りはじめ、結局20年間にわたり正編100巻続編100巻にのぼる膨大なものを遺すことになった。この随筆は『甲子夜話』と名付けられ、当時の政治経済外交風俗などさまぎまな分野で貴重な資料となっているが、その正編巻40で蒹葭堂に触れている。

    浪華に木村吉右衛門と称する賈人あり〔名孔恭〕。蒹葭堂と号す。多識博
   覧、旧年より其名を聞く。一歳、旅次に遇て同気相求の習ひ、互に好古の
   壁を以て、是より厚く接遇せしなり。又は蒹葭堂を其所貯の物を見るに、
   書画、草木、石玉、鳥魚に至迄、和漢の品物皆あり。其上は古人の真蹟、
   古器、珍奇、品異聚積す。彼堂を訪はざる時は、旅次に孔恭自ら数物を携
   来て予に示す。因て古碑の打搨、古書、真蹟等、彼に依て得しもの多し。
   皆我楽歳堂に蔵む。また庚戌〔寛政2年=引用者註〕の書牘に云ふ。蔵書二
   万巻と。その富知るべし。

蒹葭堂は、少年時代から、狩野派の流れをひく大坂の画人大岡春卜や南画の先駆者のひとり柳沢淇園の教えを受け、さらに淇園の紹介によって池大雅に入門するといったように、熱心に絵画を勉強し、漢詩も捻ったが、蒹葭堂の名がひろく世に知られるようになったは、静山が指摘している諸点、つまり内外の典籍、書画骨董、博物標本類等の蒐集家としてであった。静山は、蒐集家としての蒹葭堂の名声に惹かれて、「旅次」の際、つまり参勤交代の途次に機会を捉えては蒹葭堂に会い、同好を深めたのである。同じような関心が、雪斎を蒹葭堂に結びつけ、その後の長い交遊を契機づけたとみられる。

その機会は、雪斎が、幕府から大坂城御加番を命じられ、大坂に着任して実現する。もちろん、蒹葭堂の風聞は、江戸の雪斎の耳にも届いていたであろうから、この大坂行きは、雪斎にとっては願ってもない機会の到来だったに違いない。御加番はあしかけ3年以上にわたったが、その間、ふたりがしばしば交遊の機会をもったことは、蒹葭堂の有名な日記(『蒹葭堂日記』以下『日記』と表わす)から窺われる。『日記』には散逸した部分があるが、雪斎の名が現れるのは、現存分では天明2年(1782)3月27日の条が最初で、この日、御加番としてすでに大坂にあった雪斎が、通りがかりに蒹葭堂の家宅を訪れたのであった。『日記』によると、蒹葭堂が大坂城中の屋敷に雪斎を訪ねることが幾度となくあり、「彼堂を訪はざる時は、旅次に孔恭自ら数物を携来て予に示す。」という静山のばあいと同じようなかたちの交わりが雪斎と蒹葭堂との間にも交されていたわけである。そればかりか、雪斎の家中のものも入れ替わりたち替わり蒹葭堂宅を訪ねており、ふたりの接触が直接に交されない場合でも、珍器や情報の行き来は頻繁におこなわれていた。

のちに蒹葭堂は、酒の過造がもとで咎めを受け、家産没収のうえ大坂から追放の憂き目に遇うという事態が生じた。このとき、蒹葭堂を助けて自領に引き取って住まわせたのが雪斎であった。

天明4年(1784)8月のことであったが、大坂城御加番が明けて江戸に戻る雪斎に、蒹葭堂は同道した。一ケ月ほどの江戸滞在を終え、帰坂を前にした9月13日、雪斎は親しいひとびとを自邸に招いて送別の宴を張った。

さいわい、当夜蒹葭堂のために参会したひとびとの名が、立原翠軒(1744~1823)の手記(『聞見漫筆』、相見香雨「蒹葭堂と立原翠軒」『郷土研究 上方』146 昭和18年所収)からわかっている。翠軒は、水戸藩士でのちに彰考館総裁として『大日本史』の校訂に携わったことで知られる。

  (天明甲辰4年)九月十三日増山河内守殿ニテ蒹葭堂餞別ノ宴ヲ開ク来会ノ人々
   稲垣若狭守長門守嫡    朽木隠岐守伊予守嫡
   千葉茂右衛門         国山五郎兵衛杵築儒官
   首藤半十郎西條儒官    内田叔明渡辺文蔵兄
   東江              ぶん嶺
   伊藤長秋立川柳川      宋紫石
   渡辺文蔵           吉田七五郎
   橋本某長崎ノ人       浜村六蔵
 増山ハ大番頭ニテ大坂在番ノトキ坪井生同道ニテ江戸二至ラレシナリ以上板
 倉

翠軒自身も蒹葭堂とは親しい間柄であったが、このときは水戸におり、後になって高松藩士板倉十進から聞いた、当夜の参会者である。

「朽木隠岐守」は丹波国福知山藩主朽木昌綱(1750~1802)。前野良沢に師事して大槻玄沢らとともに蘭学を学び、玄沢の長崎遊学に際しては資金を給し、また彼の『蘭学階梯』に序文を書くなど、蘭癖大名として知れわたっていた。杉田玄白・桂川甫周・司馬江漢ら蘭学者や洋風画家とも親しく、ことに長崎のオランダ商館長イザーク・ティツィングとは、しばしば蘭文の信書を交換するほどであったという。蒹葭堂とは気脈を通じる同好の人であり、漢学にも深い造詣があった。千葉茂右衛門(1727~92)・内田叔明(1736~96)はいずれも儒者であり詩人、国山五郎兵衛・首藤半十郎はそれぞれ杵築藩・西条藩の藩儒。沢田東江(1732~96)は、当時唐様の書の第一人者。朱子学を学び、篆刻にもたくみであり、戯作者としても知られた。芝田(柴田)ぶん嶺(1756~1801)は、書家で東江の弟子。伊藤長秋(?~1787)も書家。浜村六蔵(蔵六)は、篆刻を家職とした浜村家の初代(?-1794)。宋紫石は南蘋派の画人、渡辺文蔵も漢画家、姫路侯邸で催された宴に加わっていた玄対である。内田叔明の実弟で、当夜は兄とともに招かれていた。

送別の宴にかこつけて風流を集い楽しむために、当夜、増山郎に集まったひとびとの顔ぶれは、さすが文人らしい、身分の上下を分かたぬ公界をおもわせる多士済々ぶりであった。漢詩人あり、唐様の書家あり、篆刻家あり、漢画家あり、という顔ぶれが想像させる当夜の宴では、詩文の応酬あり、席画ありの中華趣向に彩られた文人趣味の色合いの濃いものであった。

春木南湖・十時梅厓の長崎遊学

部屋住みの身に加えて、出家遁世していよいよ容易く市井に混じるようになった酒井抱一などとは違って、隠退前の雪斎は、藩主なりの多忙と不自由とを常にかこっていた。この点、秋田藩主で洋風画家として知られる佐竹曙山と似かよった境遇におかれていたといえようか。曙山は、行動を思うに任せない自分の代わりに、小田野直武など家臣に命じて様々な絵画情報の収集にあたらせた。

ちょうど曙山における直武に当たるのが、雪斎においては十時梅厓と春木南湖というふたりの家臣であった。いずれも譜代の家臣ではなく、雪斎が自身の風雅をいっそう豊かなものにするために新たに召し抱えるようになった新参の家臣であった。

十時梅厓(1749~1804)は大坂の生まれ。儒学を伊藤東所、書を趙陶斎に学んだという。天明4年(1784)2月に雪斎は藩の儒員として梅厓を長島に迎え、藩校文礼館の祭酒即ち学長にすえた。

しかしその人となりは、なかなか個性的であったらしい。岡本撫山の『浪華人物誌』(巻一)は「酒好き、磊落奇偉、言語快活、世人狂とみなす」と評する。酒に溺れて落魄し祇園で幇間をしていたとか、東海道で駕かきをしていたとか、その「狂」ぶりを伝える逸話には事欠かない。雪斎との出会いも、『雲烟逸話』には、書の師趙陶斎に従って雪斎の宴席に出向き、座興に艶曲を作って歌舞したところ、雪斎が幇間と勘違いして祝儀をあたえようとしたが固辞し、座を改めて書画を作って驚かせ、その結果召し抱えられるようになったという逸話が載る。いくぶん潤色もあろうが、梅厓の人柄にそれなりの火種があったことは疑えない。

梅厓は、和歌にも造詣が深く、上田秋成とは小沢蘆庵の門で同輩であるだけでなく、親しい間柄にあり、『膽大小心録』では、無類の毒舌家秋成の舌鋒を免れた数少ない人物のひとりである。

蒹葭堂とはやくから親しい関係にあった梅厓は、雪斎に仕えるようになってからは、雪斎と蒹葭堂の間を頻々と往き来してさまざまな情報の媒介に一役かっていたらしい。

梅厓は、寛政2年(1790)、数ヵ月の暇をもらって長崎遊学に出た。このときの来舶清人との交歓の記録をのちにまとめたものに『清夢録』があり、それによると、詩文の応酬があり、また、画について費晴湖、書について陳養山と問答を交わしている。

費晴湖は、杭州の出身で、唐船の船主として、記録に残るだけでも天明7年(1787)から寛政8年(1796)まで毎年のように長崎に来航していた。もとより専門画工ではなく、余技で画を描いたにすぎなかったが、それゆえ南宗とみられ、拙に味わいを求める文人たちには好のもしいものとして受け入れられた。『近世名家書画談三編』は、「伊孚九ハ工拙ヲ以テ不可言、尤モ風致ヲ存シテ逸ニ類シ、筆墨ノ閑雅ナル、獨自ヲ樂ム者ニシテ、頗ル高蹈ノ風アリ。彼土ニ於テ名顯レズ、反テ此邦ニ知ラル、彼土人ヲ以テ以下ナル人トスルヤ。近來張谷、江大來或ハ費晴湖等、又伊ニ繼グ。」と、来舶清人南宗画人のなかでも伊孚九に次ぐ評価を与える。
 梅厓の長崎遊学の前々年の天明8年(1788)、すでに春木南湖は長崎を訪れて費晴潮に会っている。費晴湖の名が江戸の画人のあいだに膾炙されるようになったのは、南湖の接触を契機としているところが大きい。

春木南潮(1759~1839)は、名は鯤、字は子魚、烟霞釣叟、通称門弥。蒹葭堂とも親しく、『日記』には、この通称でしばしば登場する。

南湖は長崎遊学に当たって詳細にわたる日記を綴った。これは『西遊日簿』と題されており、現在東京芸術大学附属図書館に自筆本が所蔵されている。『西遊日簿』によると、9月7日、大坂の蒹葭堂宅を発つところから旅が始まり、途中、岡山で浦上玉堂を訪ねたり、同じころ長崎をめざしていた司馬江漢と出会ってしばらく同道するなどしながら、同月28日夕刻長崎に到着した。10月26日まで滞在し、11月29日夜伊勢長島に帰着して、三か月ほどの長途の旅行を終える。

斎藤月岑『武江年表』の文政2年(1825)7月8日の条には、詩人柏木如亭の死に当たって次のようなくだりがある。南湖にも話が及んでおり、南湖の長崎遊学が後の江戸でどのような評価を受けたかが知れる。

きん庭云フ、人モハヤル時アルモノト見エタリ、如亭ハ上方へ行カザル前ニハ名モ聞エタリ、其後ハナキガ如シ、画家ニハ如圭ナドモ然リ、再発シテアラハレシハ、大岡成寛、青木(ママ)南湖ナドアリ、去レド雲峯勤仕ニヨリテ画ヲ発シタル間ニ、文晁ハ盛リニシテ大家トナレリ、初ハ文晁、成寛、馬孟熈、伯仲ノ間ニイハレシモノガ、其中ニモ馬孟熈優レタリ、南湖ハ増山雪斎公ノ命ニテ、費晴湖ニ画ヲ学バシム、山水家ナルヲ後ニ狂ウテサマザマ書タル皆ワロシ。

大岡成寛は、現在では無名の画人だが、幕臣で、南蘋派に転じたあと「精妙迫真」(浅野楳堂『漱芳閣書画銘心録』)という評価を得るようになった。『武江年表』でも、文晁や酒井抱一などともに文化年間の名家のひとりに数えられている。成寛のばあい、南蘋派への転向がその評価を一変させることになったわけだが、それが「再発シテアラハレ」たという評言につながっている。いっぽう南湖のばあいも「南湖ハ増山雪斎ノ命ニテ、費晴湖ニ画ヲ学バシム」とあるように、長崎で清人費晴湖から直接手ほどきを受けたことが、「再発」の転機とみられたのである。南湖を扱う江戸時代の画論類からこの事実が漏れていることはほとんどなく、南湖について言及するとき、欠くべからざる著名事であったことがわかる。竹田が『屠赤瑣瑣録』で「近日江戸にて文晁、南湖抔画に名家多し」と指摘するように、南湖は文化文政年間の江戸では意外にも文晁に並ぶ大家の扱いを受けていたのであるが、それが、この「再発」に起因していることは紛れのない事実である。

南湖は、遊学に当たって雪斎の画と雪斎の所蔵する中国画を携えていった。清人に批評と鑑定を乞うためであったが、雪斎の画をみた費晴湖から得た評は、「日本ノ風致ナシ」つまり和臭がないというものであった。雪斎の画をみると実際には和臭芬々としたといったほうが相応しく、費晴湖の識眼が疑われもするが、むしろ、和臭を抜き去ることが純粋な文人に近づく不可欠の要諦と考えていたらしい雪斎ら日本の文人たちの意向を酌んだ好意的評言、と受け取ったほうが費晴湖の真意に近いのかもしれない。いずれにせよ、この賛辞を得た南湖の安堵と南湖からそれを聞いた雪斎の喜びはひとしおであったに違いない。

このほかにも、長崎滞在中の南湖は、張秋谷や費晴湖に画手本を乞うたり、画法・書法の初歩を清人に問うたり、あるいは中国製の画筆・画嚢等を貰い受けたりと、文人たるべき知識・技術の収集に余念がない。清人に対する南湖の卑屈なまでに遜った態度は、彼が実際に作り出した画の和臭芬々たる出来からみると奇異にさえ映るが、かの田能村竹田でさえ、長崎滞在中弟子の高橋草坪に宛てた書簡(文政10年・4月16日)に、「唐人」の画にも善悪巧拙はもとよりあるが必ず「一種の妙処」があり日本人には及びかねる、と書いているほどであるのをみると、中国文化をそれこそ手放しで崇敬するような態度が、当時の文人たちをひとしく被っていたようにもみえる。

明治以降の洋画家たちが、西洋近代の画法を積極的に取り入れながら、一方で日本人としてのアイデンティティの確保に躍起になったのとは異なった受容の意識が、江戸の文人たちを被っていたらしい。しかし、彼らの作り出した画をみると、彼らが規範と仰いだ清人の画風からは大きくずれて「和臭」を甚だしく漂わせているのもまた事実で、彼らの意識とはべつに、その「和臭」に結果としてある種のアイデンティティがこもっているのは興味深い。

(やまぐちやすひろ・三重県立美術館主任学芸員)

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