6 日々あらたに/ふるびない/くらしを映す
「コレクション万華鏡」の6つめの部屋は「日々あらたに/ふるびない/くらしを映す」と名づけられているが、メッセージをあまりしぼらずに、ただ空気のふくらんだ陰影さえつたわれば、そのことばはすてていい。はじめの発想はもっと具体的に、ふつう現代美術にわりふられる浅野弥衛の抽象絵画と、茶道という伝統的なせかいを足場にした川喜田半泥子の作陶をならべてみようというところにあった。ふつうのばあい、あたらしいものと古いものとの出会いということになるのだろうが、ここではすこしちがう。
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それぞれの出自をさぐってゆくと、あたらしいものがあたらしくなく、ふるいもの必ずしもふくるはないそんな風景がゆっくりと姿をあらわし、そこからやがて暮らしということばにぶつかるのはけだし自然である。作品たちはけっして息をとめたままの姿勢でいなくて、だから藝術であることさえほとんどわすれかけているそこで、ものはものであった原初の記憶をふりかえり、すべてはすべてにつながる気配をみせる。みずからを主張するかわりに、もっとなだらかに、いうならば連歌のこころに似た自在さでたわむれあうことができる。雪月花のおりおりに暮らす生活をふかく底に沈めながら。
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「あたらしいとは、ふるびないことだ」。あるいは「古びないものにこそほんとうの新しさがある」。日々とおりすぎるひとによって踏みかためられ雑草のはえない道のようなもの。年輪をかさねた大樹が年ごとにしげらせる新緑のような、手入れをたやさず磨きこんで黒光した柱や天井をもった木の家のようなもの。それともシゲッティやハスキルの「ふるい」レコードや小津安二郎のモノクロ映画を思いだせばもっといいだろうか。
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すべてはやがて古くなる、というその自然を素直にうけいれること。それがふるびないための知恵のはたらきで、天地をゆるやかに循環する風水の大なる曲線によりそえば、時間のながれは過去から未来へむかってながれるだけの線であることからときはなたれる。いまあることはかつてあったし、これからもたぶんあるだろう。そういうくりかえし、くりかえす暮らしのありようを、浅野弥衛や半泥子の手からうまれたものたちは知っていて、どこかでその横顔をちらりとみせてくれる。そして穴のあくほどみつめられるのではなく、もっとゆったりと、暮らしのなkでつかわれたい。そういう声でずっとまえからかたりかけていたことに気づく。
(東俊郎)