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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2002 > 現代の工芸-伝統と革新 白石和己 現代の工芸・伝統と革新-京都の6人-展図録

現代の工芸 ― 伝統と革新

白石和己(三重県立美術館長)

工芸は、分野の如何を問わず、素材をどう扱い、素材の持っている特性をどう表現するかと言うことが、基本でありもっとも重要である。そのため素材についての深い研究、洞察が必要となってくる。土、木、繊維などと、工芸作家が作家としての全生涯をほとんど一つの素材に拘わり続けることはそのためであり、素材についての研究は、それだけ奥の深いことの証明でもあるのだろう。そして現代に生きる作家としては、素材の特性を生かしながら、作品をどう作り出して行くかということと同時に、芸術家としての自らの個性を表現しながら、現代人として、時代の感性を取り入れるための努力が必要とされるのである。

ところで、工芸は素材をどのように扱い、どのように表現するかということが基本であるということは、素材を思い通りに表現できる技術が必要ということであり、必然的に技術との関わりが強くなる。技術は長い年月をかけて少しづつ改良され、道具や他の技術の発展に伴って進歩してきたものが多い。そうした複雑で精緻な技術の習得には、やはり長い時間を必要とする。技術が表現の大きな部分を左右するため、工芸作家にとって、どのような形であれ、技術への関心は深くならざるを得ない。個性を生み出すためにも、現在伝わっている技術を伝承するだけではなく、習得した技術から新しい技術を展開したり、失われた技術を復元することや、さらには単純な技法を用いることによって素材を生かそうと試みたり、高度に発達した技術に反発して素朴な技術に立ち返るなどといったことも行われる。技術への関心は、作家の伝統との関わり方とつながってゆくのである。ただ、伝統とは墨守するものではない。それはこれまでの工芸の歴史を見れば明らかだろう。

ここまで、技術と伝統について、やや強調して述べた感がある。技術の力が大きいとはいえ、伝統とはもっと幅の広いものである。広義に取れば伝統は歴史そのものとも言えるが、ここでは歴史から生み出されてきた現在の工芸の姿を、どのように解釈し、自分の制作の方向を求めて行くかという姿勢の問題として考えたい。制作のための技術は、先にも述べたように、まず技術ありき、というものではない。素材を生かし、自らの思想、美的感覚などを作品としてどう表すか、そのための過程としての技術である。そしてそこにはその時代に生きている者としての作り手が存在しなければならない。師匠や手本とする優れた古典にいくら近づいたとしても、芸術作品としては成り立たない。さらに言えば、時代が変われば、作者を取り巻く環境も当然変化する。以前と同じ材料の入手が困難になる場合も多いだろうが、材料を作る道具や、作品を制作する道具などの発達もあり、技術や道具についての作者の選択の幅は広がっている。要は何を表現しようとするのかという作者の態度の問題であろう。そこから材料が選択され、技術(道具)が要求されるのである。ただそこには長い修練と深い洞察が求められるのだが。

この展覧会では、多様で動きつつある現代の工芸の状況を、伝統と革新という二つのキーワードによって捉えてみようと試みた。伝統と革新の問題は、これまでもさまざまな場で議論されたり、展覧会等でも主要なテーマとしてしばしば取り上げられている。もっともこうした課題は工芸の分野だけではなく、いろいろな場面で議論されているのだが、工芸界においても依然として大きなテーマであることに変わりはない。もちろん伝統とは、単に古いものの継承を意味することではないことは先に述べた。現代に生きた作品、現代人の感覚を表現した作品を創作しなければ、本当の意味で伝統を受け継ぐとは言えない。それではただ単に表面的な継承でしかないのである。また、革新といっても現状をただ単に打ち壊すようなことだけでは、真に革新と言うこともできないだろう。なにを見据えて新しいものを創造して行くのか、なにを表現したいのか、そしてその理念は、等々である。厳しい理念と姿勢がなければならない。そしてまた、伝統と革新は裏腹な関係にあることも確かなことである。伝統をうち破って新しいものを創造すると言うことは、新しい伝統を創造することなのだから。

今回の展示では京都で活躍している工芸作家・6人の近作に絞っている。これは京都という土地の持っている、問題意識の顕在性のためである。もちろん伝統と革新という問題は、京都だけが抱えているものではない。しかし、千数百年以上に亘り、連綿として日本の文化の中心として在り続けている京都は、それだけ伝統の意識が強く、また逆に、伝統に対して革新的な方向を目指す作家が輩出している。伝統と革新というテーマは、一人の作家のなかで同時に意識されていて、伝統性の強い作家であっても革新ということは重要な問題であり、また前衛的な制作を行っている作家にあっても、伝統は意識され創作の中に生かされている。今回出品している6人は、用いる素材も制作の傾向もさまざまであるが、いずれも脂の乗りきったとでも言おうか、現在最も意欲的な制作を展開している人たちである。そして国内だけではなく、海外でも高い評価を受けている人たちである。海外での個展やグループ展の開催、外国の美術館のテーマ展への招待出品、ワークショップ等々で活躍し、認められているのである。伝統と革新という立場は、作家個々について見れば、必ずしも明確ではない。先にもふれたように、この二つは微妙な関係にあり、たがいに絡み合って一人作家の中に存在している。伝統的とされている作家にあっても、現代に活動している一人の作家として革新性、創作性を追求しているし、前衛的な作品を制作していると見られている作家にも、伝統を無視しているわけではなく、重要と考えていることに変わりはないであろう。

木工は我々の身近にある素材、木を材料とした工芸分野で、指物や挽物などさまざまな技法があるが、村山明の得意とするのは刳物である。木工、特に刳物はやわらかさ、落ち着いた色、肌合い、木目の模様など、一つ一つ異なった表情を持つ材料の持っている素材感を生かすことが最も重要である。刳物は木の塊をノミやカンナ、刀などで削ったり、彫ったりしながら成形してゆく方法で、ボリュームのある木塊を、少しずつ手作業で削りだして成形して行くため、こうした材料の持ち味を吟味しつつ、自由な曲面を表現することが出来る。村山はこうした刳物の技法の特色を生かしつつ、木の持っている性質、量感、生命感を表現した制作を行っており、作品が明確な用途を持っていることなど、大変素直だといえよう。しかし、鋭く削りだした稜線、微妙な起伏を持つ曲面を表すことによって、動きのある独創的な形を作りだし、作者の意志をはっきり示している。

截金の江里佐代子は、長い伝統のある技法を、現代の工芸に生かそうと努力している作家である。截金は仏教文化とともに大陸から伝わり、のち日本で独特の発展を遂げ、平安時代、鎌倉時代に仏像、仏画の装飾として隆盛した技法で、金箔、銀箔を細い線や三角形、四角形に切って模様にして装飾とするものである。江里はこの技法を応用して、工芸作品の中に取り入れ、伝統性を強く感じさせながらしかも新鮮な感覚の作品を制作している。仏像の装飾のために学んだ截金を、箱や盆、棗、香合といった器の他に屏風、結界さらには建築空間の中で生かされる、壁面装飾など新しい分野を切り開いている。技法そのものには大きな違いはないのだが、表現されるものは大きく異なっている。箱などの作品に見られる美は繊細な雅びであるが、屏風や壁面装飾などにはアクリルや金属など新しい素材を積極的に活用し、華やかで力強く、動きのある表現の作品を制作している。

楽吉左衛門は、言うまでもなく、楽焼の本家・楽家の15代当主である。楽焼は初代長次郎が、侘茶の祖・千利休との出会いによって、天正10年(1582)ころ始められたとされている。侘茶の精神を具体化したものとして、自然発生的ではなく初めから芸術的意味付けをもって作られた楽茶碗は、創始以来の技法を守り、手捏ねによる成形、窯の形、焼成等、ほとんど当初の技法によって、現在まで続けられている。ただし釉薬に関しての家伝はないという。楽の茶碗は、轆轤を使わず手のひらの中に包み込みこんで成形する手捏ねの手法、それを篦によって大胆にそぎ落とし削り上げた緊迫した形、独自に開発した釉薬の鮮やかな用法、そして楽家独特の窯による一点ずつの焼成という制作工程を経て生み出されたものである。楽吉左衛門の創り出す茶碗は、土という素材とこういった独特の制作技法を通して生み出されたものであり、大胆で研ぎ澄まされた厳しい形、釉の調子、強い肌の質感など、作者の個性が強く感じられる。

深見陶治の作品は鋭い稜線とカーブを持った抽象的な立体造形である。そしてその技法的特色は、鋳込成形による青白磁である。鋳込というと量産品を思い起こしそうだが、そのような単純なものではない。さまざまな試行錯誤を経て工夫開発し、大形作品の制作が可能になった独自の精緻な方法である。型によって生み出された作品は、さらに削られ、特有の鋭いエッジと張りのある曲面をもったフォルムに仕上げられる。そして素焼き、施釉、本焼成などを経て、鋭利なエッジ、強く伸びやかな曲線のある、そして繊細で美しい色彩をもった作品として完成されるのである。彼が鋳込の技法を採用したのは、作品を制作する際の手跡を消したかったためだという。土味や手作りの味といった工芸の世界でよく言われる、「味わい」によりかかることを拒否しているのだ。しかしそれは磁器という素材の特質を無視することではない。作者の求めているのは、あくまで磁土による表現であり、鋳込・施釉・焼成等の過程を経て生み出された、「思想を持った」工芸を目指しているのである。

ファイバーワークの作家として小林正和、小林尚美を取り上げた。ファイバーワーク(ファイバーアート)とは従来から使われている有機質の繊維の他に、合成繊維、金属線などもとりいれ、これまでの染織の概念を越えた作品のことである。日本では1970年ころから登場してくるが、小林正和はファイバーワークの作家として、海外で早くから評価された。スイス・ローザンヌで開かれていた国際タペストリー・ビエンナーレで頭角を現し、ヨーロッパやアメリカでの展覧会に出品して、国際的な評価を得るようになった。さまざまな素材のファイバーを組み合わせることによりバラエティーに富んだ、豊かな造形を作り上げている。そこには従来の染織の概念を越えた新しい独特の世界が構築されている。用いられる素材も絹、綿のほか、竹や木といった天然のもの、あるいはレーヨン、アクリル糸などの合成繊維、アルミの線までも取り込んで、多種多様な素材を組み合わせた制作をおこなっている。

小林尚子は小林正和と同様に、海外での展覧会に積極的に参加し、国際的評価を得ている。前衛的な作風という点では同じだが、彼女の場合は、天然の繊維である木綿や和紙、和紙を用いたこより糸を主として用いていることからも窺えるように、やさしくナイーブな雰囲気の作品が印象的である。。「永遠に繰り返される自然の営みの摂理、宇宙と同じエンドレスの周期への共感が近年の作品の意図になっている」(『NAOMI KOBAYASHI』1997)と述べているように、和紙やこより糸など日本の伝統を強く意識させると同時に、素材の特徴を素直に生かした作品からは、自然に対して抱く強い共感が伝わってくる。

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