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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1986 > サロンの外光派 パリ・1884-1893・黒田清輝 荒屋鋪透 黒田清輝展図録 1986

サロンの外光派
パリ・1884-1893・黒田清輝

荒屋鋪 透

Ⅰ.はじめに

 1982年にニューヨークのブルックリン美術館で開催された『北方の光:スカンジナビア諸国の写実主義と象徴主義1880-1910』と題する展覧会カタログに、ニューヨーク大学のカーク・ヴァーンドーは、19世紀末にパリに滞在した北欧の美術留学生──1889年、政府奨学生として留学したエドワルド・ムンクも含めて──が、その近代都市が弥縫している「進歩主義」と、多くの留学生が写生に訪れたパリ郊外のバルビゾンやグレーといった寒村に見られる「褊狭性」の迫問に置かれて、精神的なアンビヴァレンスに侵されていく過程を解析した論文の中で、「1890年代のスカンジナビア諸国の美術を特徴づけている民族主義的なまた象徴的な傾向というものは、既に1880年代のフランスにおける北欧の芸術家の体験の中に潜在し、主要な関心事として育まれていたのである。」と論定している(註1)。文明社会からタヒチに逃避せざるを得なかったゴーギャンやアルルに旅したゴッホの例にたがわず、北欧の留学生も、1880年代から1910年代のパリ・サロンの美術作品に散見できる「価値観の転倒」──例えば、都市に住む中産階級が抱く田園生活への憧れであるとか、文明の創造に労働力として荷担しながら、その恩恵に浴することのできない最下層の悲歎といった類の──を主題に採っているが、そこに内包された問題を認識することによって、都市が繕っている「進歩主義」の裏面が看破され、文明の摂取という本来の義務を眩惑された留学生たちは、自らが背負っている「辺境としての祖国」に拘泥し始めるのである。世紀末にパリを訪れた北欧の画家たちが、バスティアン・ルパージュやピュヴィス・ド・シャヴァンヌに私淑したことを例証しながら、カーク・ヴァーンドーは、19世紀の末期レアリスムは既にサンボリスムを予示していたと指摘するのである。

 このヴァーンドーの論旨を受けたかたちで、マイケル・ジェイコブスは昨年、世紀末から今世紀初頭にかけて、パリを中心にヨーロッパ各地、アメリカヘと旅した文字通りの「ボヘミアン」放浪芸術家の生態を、詳細な記録として上梓したし(註2)、1984年、アイルランド国立美術館では、同時代古こフランスとベルギーを訪れたアイルランド印象主義の画家の展覧会を企画した際、彼らを「1880年代の外光派画家」という枠組みから再考し、外光派を芸術様式ではなく、1920年代のエコール・ド・パリと同様、世紀末にパリ郊外などの芸術家村で、高等(踏)遊民として制作を続けた外国人画家の総称であるという前提から出発して同展を構成している(註3)

 翻って、折しも同時期(1884-1893)パリに留学していた黒田清輝を、前述した様な今日的視点で捕えようとするならば、北欧やアイルランド画家の歩んだ道程が、黒田の修業の過程と余りにも符合していることに驚かされよう。今仮にこの時期──特に1889-1893年──の黒田清輝をこれら「高踏的な資質をもった外光派画家」のひとりと規定してみると、帰納的にこの結論を導き出すための助けとなる事例の一つに、黒田が1893年のアンデパンダン展に6点の油彩画を出品していた事実が挙げられる(註4)
1. Varnedoe,Kirk.Northern Light : Realism and Symbolism in Scandinavian Painting,1880-1910.Exh.cat.,The Brooklyn Museum,New york,Nov.10,1982-Jan.6,1983,p.15.


2. Jacobs,Michael.The Good and Simple Life : Artist Colonies in Europe and America.London,1985.


3. Campbell,Julian.The Irish Impresionists : Irish Artists in France and Belgiun,1850-1914. Exh.cat., The National Gallery of Ireland,Dublin,Oct.9-Nov.18,1984.


4. 1893年3月18日から4月27日まで、シャンゼリゼの PavilloTl de la Ville de Parisで催された同展カタログにはKOURODA,Séïki,né à Kagoshima(Japon)・D-68,rue Madame,Paris.
729 La neige sur les bords du Loing.
730 Des vagues.
731 Repose en été.
732 Jardin en automne.
733 Chrysanthèmes.
734 Passe-temps sentimental(poésie de M.Yoshida).とある。
( Société des Artistes Indépendants,Catalogue des OEuvres exposées,1893,pp.50-51.)


黒田清輝は同年3月9日付父宛書簡で、各々に以下の様な邦題をつけている。

「ロアン河邊の雪景」、「波」、「納涼」、「秋の園」、「菊」、「花下美人索句(吉田義静の詩一首書き添え)」(隈元謙次郎編『黒田清輝日記』第一巻 314頁)

Ⅱ.ル・サロン

 興味深いことに、偶然の一致とはいえ、アンデパンダン展を組織した独立芸術家協会(ラ・ソシエテ・デ・ザルティスト・ザンデパンダン)は、黒田清輝が初めてパリの土を踏む年、1884年に創設されている。無鑑査、無褒賞の公募展を実施するこの美術団体は、同年6月11日に会を結成する以前、1884年5月15日から6月30日まで、チュイルリー公園(註5)の建物で独立芸術家サロン展(サロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダン)を開催している(註6)。黒田が同年5月22日(木)の日記書簡に「……余ハ別レテ獨リ畫ノ見物ニ行キタリ 此ノ畫トハ此頃畫ノ共進曾ノ如キモノ有リ其ノ見物也……」(註7)と記している「共進会」とは、当時シャンゼリゼの産業館で5月1日から催されていた、フランス芸術家協会(ラ・ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセ)主催のサロンと見做すのが至当であろうが、同時期に地理的にもさほど遠くはない、チュイルリーで開かれていた「アンデパンダン展」を、黒田が見なかったという証拠はない。ともあれ、1884年にル・サロンの入選率が低下し、多数の落選者を出したことへの抗議に端を発する、独立芸術家協会の設立と、1884年12月の同協会第一回展の前哨戦に、この「独立芸術家サロン」があった訳で、同展カタログには、クロスやシニヤックと共にジョルジュ・スーラの「アニエールの水浴」も記載されている(註8)

 17世紀以来の官設展覧会として、美術行政当局と学士院・芸術アカデミーおよびパリ国立美術学校の委員会によって組織、運営されてきたル・サロンは、1880年12月27日付の法令によってフランス芸術家協会の名のもとに民営化された。同協会発行の1882年のサロン・カタログに抜萃所載されている、1881年6月25日付の「公報紙」によれば(註9)、90名の委員からなる同協会は20万フランの基金によって創設され、教育美術省の承認によって委員会が1881年1月12日に招集されている。ル・サロンのカタログ表紙には従来「教育美術省」と明記されていたが、それが「フランス芸術家協会 主催」に変わったのである。──ただ同協会が官展を継承していることを示すために「創設1673年」exposition depuis l'année 1673の標示は怠らなかった。~1881年以降のル・サロンは官展 exposition officielle ではなく、一美術団体の公募展 exposition になったのである。

 パリ・サロン史上、このル・サロンの民営化は、サロンが~というよりも公募団体展が──その後急速に分裂し始める前兆であった。1891年のフランス芸術家協会サロン・カタログに所載された「1890年7月3日付公報紙抜萃」によれば(註10)、新しい協会──国民美術協会(ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボサール)──のサロンがシャン・ド・マルスで開催されたことが記述されている。ここに事実上、民営サロンは二つに分裂し、「フランス芸術家協会」と「国民美術協会」の二団体が、各々「ル・サロン」を主催開催することになった。新しい国民美術協会は、1889年の万国博覧会における特別展でメダルを受賞した者は、今後、サロン招待作家として審査免除 hors-concours にすべきであると主張したメソニエ、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ロダンらによって創設されたが、既にその母体となった協会は、1864年2月と1883年9月に独自の展覧会を組織している。19世紀のパリ・サロンは幾度か官展入選率の低下→落選者の急増→落選展の開催という動揺を繰り返した後、民営化、分裂を招き、新たな団体を独立させたのである。

 黒田清輝は1893年、国民美術協会のサロンに『朝妝』を出品したが、応募する前に師ラファエル・コランの紹介でピュヴィス・ド・シャヴァンヌの添削を受けている(註11)。国民美術協会会長のメソニエが1891年歿したことから、後任となっていたシャヴァンヌの推薦は、黒田の入選をより確実にしたと思われる。

特記すべきことは、1891年、フランス芸術家協会のサロンに『読書』が入選した翌々年1893年には国民美術協会のサロンに『朝妝』を応募し、同年のアンデパンダン展には、一存で6点もの意欲作を黒田は出品しており(註12)、短期間ではあるが、年を追うごとに、より革新性の強い団体に応募していることである。

 もっとも、帰国後の1895年(明治28)、京都の第四回内国勧業博覧会において、所謂「裸体画問題」を惹起した『朝妝』(参考図版1.)も、世紀末のパリ・サロンやリュクサンプール美術館では、類似した作品をしばしば目にすることができる、当時流行した「裸婦画」の一枚であり、『朝妝』制作にあたり黒田は、1890年の国民美術協会のサロンに陳列されたジャン・アンドレ・リクサン(註13)の『化粧』(参考図版2.)や、リュクサンブール美術館の常設展示作品(参考図版3.)を参考にしたものと考えられる。当時のサロンでは、マネの『草上の昼食』(1863年)や『オランピア』(1863年)の騒ぎは既に過去の出来事になっており、画家は神話というような、女性を裸にするプリテクストなしでも裸婦を描くことが可能になっていた。サロン受賞作品をコレクションの中心に据えていたリュクサンブール美術館では、今日では、コピー・シャッツと思われても仕方のない程よく似た作品が、寧ろ展示効果を強調して並陳されていた。当時、工部省派遣の留学生としてパリに滞在していた藤雅三が、1886年リュクサンブール美術館でラファエル・コランの『花月(フロレアル)』(参考図版4.)を見た時、その展示室にある他の3点の酷似した裸婦画にも気がついたことだろう。カバネルの有名な『ヴィーナスの誕生』(参考図版5.)エネーの『ナイアス(水の精)』(参考図版6.)そしてフリーの『梢の下で』(参考図版7.)である。ところで黒田清輝の穎脱した先見性の源泉である「パリ留学体験」を析出するためにより重要なことは、藤雅三がリュクサンブール美術館でコランの『花月(フロレアル)』に感銘してその作者に師事することを望み、藤の通訳となった黒田がコランに邂逅するという挿話以上に、藤や黒田のみならず、多くの留学生画家が足しげく通った世紀末の「近代美術館」こそ、このリュクサンブールであったという点である。
5. Baraquement B,cour des Tuileries,Paris.


6. 少なくとも展覧会カタログにSalonと明記してあるものは同展のみで、独立芸術家協会設立後の第一回展以降、カタログ表紙には、ただSociété des Artistes Indépendants, Catalogue des OEuvres exposéesと記されSalonの字はない。


7. 前掲『黒田清輝日記』第一巻 19頁。


8. 同展カタログには Une baignade(Asnières).とある。


9. Extrait du Journal officiel du 25 juin 1881.cat.exp., Salon de 1882.


10. Extrait du Journal officiel du 3 juillet 1890.cat.exp., A salon de 1891.


11. 黒田清輝1893年(明治26)3月18日父宛書簡(前掲『黒田清輝日記』第一巻 314頁)黒田清輝「ピュヰス先生会見談」(「美術新報」第15巻10号大正5年8月、陰里鐵郎編『絵画の将来 黒田清輝』昭和58年 161頁に再録。)


12. 「…獨立美術家組合と申私立の共進合ヘハ六枚種差出シ置申候…」黒田清輝1893年(明治26)3月9日付父宛書簡(前掲『黒田清輝日記』第一巻 314貢)「…こないだからひらけてをるちいさなきょうしんくわいに六まいほどゑをだしてをきましたら……」黒田清輝1893年(明治26)3月26日付母宛書簡(前掲『黒田清輝日記』第一巻315頁)


13. ジャン・アンドレ・リクサン Jean André Rixens1846-1924は、フランスの歴史画・肖像画家。パリ国立美術学校でジェロームとイヴォンに師事。1868年のサロンに初出品した後、1889年の万国博覧会で金賞を受賞。1900年の万国博覧会では審査委員・アめる。国民美術協会会員。

参考図版1.
黒田清輝
『朝妝』
1893年



参考図版2.
J.A.リクサン
『化粧』
1890年



参考図版3.
F.フリゼーク
『鏡の前』



参考図版4.
R.コラン
『フロレアル(花月)』
1886年



参考図版5.
A.カバネル
『ヴィーナスの誕生』
1862年



参考図版6.
J-J.エネー
『ナイアス(水の精)』



参考図版7.
A.フリー
『梢の下で』


Ⅲ.リュクサンブール美術館

 リュクサンブール美術館は、第二次大戦直前の緊張した国際情勢のもと、「近代生活における芸術と技術」をテーマに謳った、パリ万国博覧会が開かれた1937年、その収集品を、万博を機に新たに建造したパリ国立近代美術館(パレー・ド・トーキョー)に移管し閉館されたが、その歴史は大きく、①1750-1815年。②1818-1937年の二つの時代に分けることができる。

 リューベンスがリュクサンブール宮殿の装飾のため、1625年に完成させた連作『マリー・ド・メディシスの生涯』を始めとして、現在はルーヴル美術館が所蔵する、フランソワ一世以来の歴代の王の蒐集品、いわゆる「国王のコレクション(ル・キャビネ・デュ・ロワ)」94点が公開されたのは、1750年10月14日のことである。初代館長はジャック・ベリーJacques Baillyで、当初、館長は王室管財人であったベリー家の世襲であった。1780年、このコレクションはリューベンスも含めて全てルーヴル宮殿に移転されている。フランス革命を挟んで、リュクサンブール宮殿は1795年来、行政府の機能を開始したが、再び100点程の油彩と20点程の彫刻によって美術館が蘇生するのは1801年で、コレクションは展示されていた部屋の名前をとって「パリ議会陳列室(ル・ギャリル・ド・ラ・シャンプル・デ・パリ)」と呼ばれた。

 王政復古の時代1818年に、ルイ十八世はこのパリ議会陳列室を現存する芸術家の作品を所蔵、収集していく王立美術館とする決定を下した。同年4月24日から開館した美術館は、1848年の二月革命によって、リュクサンプール委員会が同館に設置されるまで、その王立近代美術館の役割を果たしている。宮殿を現存の芸術家に開放するという画期的な構想を提案したのは、ルーヴル美術館史の上でも忘れることのできないフォルバン伯爵 Le Comte de Forbin であるといわれているが(註14)、既にナポレオン・ボナパルトは「現存の芸術家のオランピア美術館」を発案しており、開館当時、リュクサンブール美術館は、ダヴィッドやプリュードンなどの寄託作品74点を所蔵していた。美術館のコレクションは、寄贈、寄託のみならず、パリ国立美術学校が推奨する作品の国家購入、サロン受賞作品の買い上げなどで収集された。油彩に限ってみると、1818年開館時には74点であった収蔵品は、1886年には262点となり、1912年には800点に増えている。(註15)19世紀末のコレクション充実に貢献したのは、1873年からシヤルル・プランの後任として第三共和政下の美術大臣になったフィリップ・ド・シュヌヴィエール Philippe de Chennevières(1820-1899)(註16)で、彼は1861年から68年までリュクサンブール美術館長を務めた関係で、美術館と美術学校の結び付きを強化し、サロン官展運営委員の立場から、同コレクションの拡大をサロン官展に求めた。シュヌヴィエールは、美術学校──サロン──リュクサンブール美術館という図式を教育的配慮から確立したのである。(註17)ところが皮肉なことに、パリ国立美術学校の教授法に則った厳正な規範を、リュクサンブール美術館所蔵作品に託した筈のシュヌヴィエールの意図は、サロン官展受賞と作品の国家購入への野心に奔った美術学校の生徒から、かつて美術学校教育の窮極の目的であった「ローマ大賞コンクール」受賞への意欲を喪失させ、いたずらにサロンで持て囃される類の作品制作へ学生を向ける結果を招いたのである。また黒田清輝も含めて、当時のパリ美術留学生の抱いた念願も、サロンで受賞することであった。そのため19世紀末のフランスでは、画家がローマに留学することの意味が稀薄となり、一部の特権的な芸術家によって制作されていた、もっぱら記念建造物や教会を装飾するしかない歴史画や宗教画よりも、新興ブルジョワジーに歓迎される、小さな画面の印象派風の風俗画が、多く描かれるようになる。画家は──ローマではなしに──パリ近郊の寒村に出向き、一年の半分以上を、その田園での制作に費したのである。パリを訪れた外国人画家の場合も、新しい制作の拠点での生活、環境に慣れると、次の年のサロンに備えて郊外の寒村を旅行し、習作、エスキース類を写生する。大抵はその地に秋まで留まり、秋から冬にかけてパリのアトリエで、春のサロンに応募するタブローを仕上げるという生活パターンを繰り返すようになる。ただここで注意を要することは、こうした19世紀末の田園風俗画の普及を、絵画がロマン主義から脱却して写実主義へと進んだ、芸術運動の動向の必然的帰結と見做すことは、誤解を招く恐れがあるという点である。感傷性や逸話に頼ることなしに、農村の貧困を率直に描写したジャン・フランソワ・ミレーでさえ、観念的な反物質主義を唱え、農村で共同生括を営み、サボ(木靴)を穿いてブルーズ(農夫の服装)を身に纏い──もっとも農村の泥濘む道を歩くにはサボが最適だし、ブルーズは画家の作業着としても快適なのだが──素朴な田園生活に同化することで、道徳という名の因襲に拘束される都市の中産階級に対して、ある種の優越感を抱いていたであろうと思われる。ミレーの描いた、恰も聖書の一場面の様な、時間が静止した農村風景が、何よりの証言である。ミレーが礎をつくり、ブルトン Jules Breton が第二帝政期の特権階級に向けて、感傷的情趣で人口に膾炙した、捏造された農村のイマージュを多く発表した後に来る、新しい世代の農民画の代表は、バスティアン・ルパージュ Bastien-Lepageである。ルパージュはグレーで制作を能くしたのでグレー派とも呼ばれた。黒田清輝の師ラファュル・コランは、この外光派 Pleinairisme の旗手ルパージュとロレーヌ地方の同郷人であり、コランは、その制作態度のみならず、主題、技法の多くをルパージュから学んでいる。黒田は、アカデミー・コラロッシのコラン教室で素描教程から油彩教程に進級した年(註18)、1888年に、パリ郊外フォンテーヌブローの森の寒村グレー・シュル・ロワンに遊んでいるが(註19)、当時のグレーは一体どの様な村であったのだろうか。
14. Bénédite,Léonce.The Luxembourg Museum-Its Paintings.London,1913.p.10.


15. リュクサンブール美術館の油彩点数
 西 暦  ─  油彩点数
 1818年  ─  74 点
 1822年  ─  103 点
 1825年  ─  131 点
 1836年  ─  140 点
 1850年  ─  164 点
 1865年  ─  188 点
 1871年  ─  225 点
 1882年  ─  280 点
 1886年  ─  262 点
 1894年  ─  396 点
 1898年  ─  459 点
 1912年  ─  800 点


16. シュヌヴィエールはパンテオン装飾にも関与し、その一部をピュヴィス・ド・シャヴァンヌに委嘱している。


17. Le Musée du Luxembourg en 1874.cat., Grand Palais,31 mai-18 novembre 1974,Paris.同カタログ所載のGeneviève Lacambreの序文を参照。


18. 黒田清輝 1888年1月20日付父宛書簡(前掲『黒田清輝日記』第一巻 126頁)


19. 黒田清輝1888年5月11日付父宛書簡(前掲『黒田清輝日記』第一巻 128貢)

Ⅳ.グレー・シュル・ロワン

 ルパージュは、バルビゾン派の色彩画家(コロリスト)と区別して、外光派 Pleinairisme の画家と呼ばれるが、その制作の特徴は、モデルを直接田園の風景に置いて描いたことであった。バルビゾン派の画家の多くが、風景と人物を切り離して制作し、戸外でスケッチした背景に、室内のモデルを組み合わせる方法を採用したのとは対照的である。陽光に晒された人物は、裸婦をモデルにした場合は「アルカディア」、農民をモデルに「ボヘミアン」として画面に定着される。外光のもとで描かれた人物は、もはや、風景に添えられた点景人物ではない実在感をもって迫ってくる。ルパージュは、人物が陽光の中でシルエットになることを好まず、特に秋の弱い光線の中に人物を立たせた。そして画面全体を、微妙なニュアンスをもたせた灰色で覆うことを奨励した。

 19世紀を通していわゆるアカデミックな作品には、写真以上に緻密な細部を滑らかに仕上げる、技巧上の「小器用さ」manipulation と、古典古代や宗教上の主題のあらゆる場面に精通しながら、作品に意外性を加味する目的で、時にそれらを微妙に操作して、舞台設定 collocation を変則させる、主題上の「瞞着」mystification という二つの顕著な特徴があったが、1880年代のグレー派の画家は、今日では顰蹙を買っているこれらの技法を逆手に取って、サロンの観者が困惑することのない、農村の現実を創り上げることに成功している。ただ、黒田清輝を同時代の外光派画家に組込む場合、例えば──グレーで描いた作品ではないが──『プレハの少女』(参考図版8.)を、ルパージュの『村への帰り道』(参考図版9.)や レルミットの『小さなガルドゥーズ』(参考図版10.)、そしてパリ画壇の領袖ブーグローでさえ採り上げた(参考図版11.)、当時流行した主題「貧しき村の少女」の範疇に直ちに帰属させることは、性急に過ぎよう。黒田が1888年6月8日付の父宛書簡の中で「…右グレにて久し振ニ蛙の馨を聞き左の通り例のごまかし歌を作り申候…」と照れながらも、「蛙なく孝を聞つゝまとろめは夢は遥に故郷の空」(註20)と詠む時、その歌には異邦人のみがグレーの田園風景から感じる望郷の念とともに、村への親近感──パリの多くのサロン画家が抱いていた、多少屈折した優越感とは明確に区別される──が表現されているのである。

 グレーGrez-sur-Loing は丘の斜面が森となって緩やかに下り、曲りくねった長い硬粘土の小道が、平坦になったところで交差しながら、ポプラ並木へと続く風光明媚な小村である。ロワン河の緩慢な流れは、時に渓谷を過ぎ、やがて村に入ると両岸の葦に出迎えられる。村には様々な灌木が繁り、百合の花や虞美人草が咲き乱れ、中世の教会、廃墟の城館、古い橋がその地を訪れた外国の画家たちに、恰好のモティーフを提供している。グレーの硬粘土は灰色タイルを産出するが、このグレー特有の灰色の土は、ロワン河に白銀色のトーンを与えている。1880年代にグレーを訪れた英国の画家ジョン・レィヴァリ Sir John Lavery は、この灰色の色調とその地名を頼って『灰色(グレー)の夏の日:グレーにて』A Grey Summer's Day-Grez という作品を描いている(註21)

 フォンテーヌブローの森をロワン河に沿って南下して辿り着く寒村、グレー・シュル・ロワンが外国人画家の芸術家村になるのは、1870年代以降のことである。村には、画家のための賄い下宿シュヴィヨン館もあり(註22)、多くの英国やアメリカ人芸術家が逗留している。もっとも、グレー派の創始者ともいうべきバスティァン・ルパージュと外光派を不朽のものとしたのは、1882年春にこの村を訪れたスカンジナビア諸国――特にノルウェー、スウェーデン――の芸術家たちである(註23)

 北欧の閉された自然の中で、冬の遮られた陽光と夏の白夜によって、光に対して非常に鋭敏となっているスカンジナビアの画家たちは、グレーの景観と光線から、独特の外光表現を展開させた。彼らは戸外に人物を置くばかりでなく、室内にモデルを配して、外光を窓から採り入れる方法を多く用いた。開口部としての窓を、肖像画に巧みに組み込む伝統をもつ17世紀フランドル絵画や、19世紀ドイツ・ロマン主義を継承した北欧画家にとって、室内の光を操ることは寧ろ手慣れたものであった。窓辺にモデルを配置した場合、人物は逆光線によって画面の中にシルエットとして暗く沈むことになる。北欧の外光派は、以前は否定的に扱われたこの「逆光表現」contre-jour を積極的に用いた。スカンジナビア諸国の画家の中で頭角をあらわしていたのは、サロンで水彩画にメダルを受賞したスウェーデンの画家カール・ラルソンCarl Larsson であったが、先に掲げた論考の中で、グレーを訪れた外国人画家を詳細に調査したマイケル・ジェイコプスが指摘している様に(註24)、我々にとってより興味深いのは、その水彩画以上に、ラルソンが1870年代にストックホルムにおいて、ある一人の劇作家に出会っている事実である。

 1883年にその劇作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリは、妻シリ・フォン・エッセンを伴ってグレーを訪れるのだが、ストリンドベリにこの村を紹介したのはラルソンであった。当時ボヘミアン芸術家を題材にした小説『赤い部屋』(1879年)を執筆していたストリンドベリにとって(註25)、グレーでの生活の魅力は、何よりもそこに滞在する人々が、自らが望むままに振舞っていたことであった。その村には、社会的義務から開放され、儀礼や因習にも無縁なボヘミアンの共同生活があった。ストリンドベリは画家たちが各々、半ズボンにバスク風ベレー帽、ブルーズに寝間着という姿で、シュヴィヨン館の周りを散歩する光景を目撃している。ボヘミアンとしての芸術家たちは、保護された環境の中で、完璧なる高踏を演じ得たのであった。1885年以降、ラルソンとストリンドベリらがこの地を去ると、スカンジナビア諸国の芸術家の集いは、以前の――仮装舞踏会、そして歌と踊りに明け暮れる――活気を失い次第に静穏となり、芸術家同志の結びつきも稀薄になっていく。黒田清輝が訪れた当時のグレーは、村がパリに急増していたアマチュア女子学生の憩いの場に変貌する過渡期であったが、それでも尚この芸術家村は、パリでの鎬を削る競争に疲れた外国人留学生を、家庭的な暖かさをもって迎え入れ続けたのである。黒田が1888年6月8日付父宛書簡で「…私二三日前畫かき部屋一つ借リ受ケ申候 一ケ年分五百五拾拂ニテ三ヶ月分ヅゝ拂ふ事ニ御座候……日本ニ取りてハ随分高き者ニ御座候得共宮地ニてハーケ年七八百佛より千佛位出さねば一寸したる畫室ハ無御座候…」(註26)と報告し、また1890年5月23日付父宛書簡に「…右の次第にて當地の百姓等外国人を見付け居候て若き女子などにて手本ニ雇れ候者も有之便利なる事ニ御座候 私も仕合せニ一人可成形ちよき者を雇ふ都合ニ相成候 巴里ニ比すれバ値段も殆んど半分ニ御座候…」(註27)と述べている様に、グレーのアトリエ代、モデル料は安価であり、経済的に決して恵まれているとは云い難い留学生にとっては、何かと居心地の好い村でもあった。

 黒田清輝も含めて世紀末の外光派を、写実主義と象徴主義の中間に位置する、高踏的な資質をもった、主にパリの外国人による芸術家集団と規定できるか否かは別問題としても、世紀末のフランス文化の状況は、カーク・ヴァーンドーが解く様に、際立った「二分法」――例えば物質主義と精神主義、科学万能の進歩主義と呪術的な神秘主義――の上に成立しており、その対立は芸術の場合には、説話的な叙景と架空の幻想世界すなわち写実主義と象徴主義という表現形体を生み出している(註28)。しかしここで見逃してはならない点は、そのいずれの側も、印象主義者たちが1874年から1886年にかけて、八回のグループ展の中で提示してきた主張を、もはや、等閑視できなくなっていたことである。

 印象主義者は、①画家は、サロン展設展覧会や学士院・芸術アカデミー、また国家による美術支配機構から離反し得ること。②パリ国立美術学校が重要視した光と形の関係――即ち明暗法――に力点の置かれた美術教授法から画家は解放され、新たに生まれた光と色の問題を分割主義や点描主義といった技法で克服し得ること。③主題を神話や聖書のみに頼らず現代生活から取材したものに拡張し、画家はアトリエから戸外に立ち向かうべきことを主張してみせた。この余りに当時としてはラディカルであった印象派の方法と、従来のアカデミックな保守的伝統を折衷した画風juste-milieu が、19世紀後半に一般化し普及したのである。面白いことに折衷主義の画家たちは、印象主義者が本来的に持っていた技法上の芸術至上主義と、アカデミスムに巣くっていた主題上の芸術至上主義を、抱き合わせて継承することになった。世紀末から今世紀初頭にかけての、国際的な印象主義の伝播は、外光派の様な所謂「折衷主義」の段階を経過して起こる。黒田清輝は世紀末のパリにおいて、その過中に巻き込まれた訳であり、グレーでボヘミアンの生活を営みながら、「…此の田舎ニて愉快なる事ハ蛙の馨を聞くにて御座候 月夜などニ田舎道を散歩する時ハ中々よき心地致し候……」(註29)と二年前に故郷を懐しんだ音に再び心を動かし、「……よるらんぷをつけておんながはりしごとをしてをるゑをいまかきかけてハをりますが……」(註30)と北欧のグレー派の画家同様、一筋の光にさえも拘り続けるのである。

 黒田清輝は帰国後暫く経った1901年(明治34)、箱根の旅程で、『室内(元箱根村)』(参考図版12.)という小さな一枚の素描を残しているが、その絵の中心に置かれたランプは、粉れもなくグレーの冬に制作した『洋燈と二児童』(参考図版13.) を投影した構想であろう。黒田はパリ滞在中に見ることのできた何点かのサロン作品(参考図版14.15.)を意識しながらも、その主題、モティーフ、技法を日本の小さな、天井の低い室内に持ち込もうと苦心している。この時ランプは既に光源以上の何ものかを象徴しているのではなかろうか。

(三重県立美術館 学芸員)
20. (前掲『黒田清輝日記』第一巻 130頁)


21. Jacobs,Michael.op.cit., p.30.


22. Jacobs,op.cit.,
Ho(^)tel Chevillonの
他にも、1880年代のグレーには、Hôtel Beauséjour や Laurent といった下宿が軒を並べていた。


23. Jacobs.op,cit., p.33
スカンジナビア諸国の芸術家には、ノルウェー出身のクリスチャン・スクレスヴィク Christian Skredsvig,クリスチャン・クローグChristian Krohgら、後にムンクに影響を与える画家が含まれていた。


24. Jacobs,op.cit.,p.33


25. 優雅なテラスと金魚を放った池のある「シュヴィヨン館」を、ストリンドベリはこう描写している。「そこには葡萄の木、桃の木や無花果(いちじく)の灌木──スウェーデン中部でもよく見られるものだが──があり、また大きな菜園があった。その野菜畑には、人参、鞘豆類、アスパラガス、アーティチョーク、カリフラワーそして四種類のレタスが植えられている。周囲はポプラの木によって型取られていた。そして何本もの枯れた林檎の木があったが、それらは画家が好んで描くために伐採を免れているのだ。この林檎の木々が、洗濯の物干し代りを務めているのはそれ故であった。」(Jacobs.op.cit., pp.35-36.)


26. 前掲『黒田渚輝日記』第一巻 130頁。


27. 前掲『黒田清輝日記』第一巻 169頁。


28. Varnedoe,Kirk.op.cit., p.19.


29. 黒田清輝1890年6月6日付父宛書簡。(前掲『黒田清輝日記』第一巻 172頁)


30. 黒田清輝1891年1月23日付母宛書簡。(前掲『黒田清輝日記』第一巻 192頁〉

参考図版8.
黒田清輝
『ブレハの少女』
1891年



参考図版9.
B.ルパージュ
『村への帰り道』
1892年



参考図版10.
S.レルミット
『小さなガルドゥーズ』



参考図版11.
W.ブーグロー
『毀された甕』
1891年



参考図版12.
黒田清輝
『室内(元箱根村)』
1901年
紙、鉛筆 17.5×26.4cm



参考図版13.
黒田清輝
『洋燈と二児童』
1891年



参考図版14.
E.デュエズ
『ランプのまわりで』
1889年



参考図版15.
ベナール
『紅茶』
1891年
ページID:000056696