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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1997 > ワークショップを体験して 森本孝 三重の子どもたち展 発見! わたしの村 わたしの町 記録集 1997.3

ワークショップを体験して

森本孝

大きなシンポジウムが1992年に開催されて以来、美術館教育が日本でも美術館を中心に注目される度合が強くなっている。一般的には先生の指導によって創作活動を行う学校での美術の授業や公民館などで行われている美術教室とは違う、体験に焦点をあてたワークショップ。一方的に講義される授業や講義とは異なり、「はい」「いいえ」のように簡単には答えられそうもない質問をしながら、作品の前で参加者一人一人に語りかけるように進められるギャラリートーク(インタープリテーション、あるいはワークショップという言葉も使われる)。質問がプリントされたワークシートなど、来館者の興味と関心を引き出すように工夫されたセルフガイドの3つが新しい美術館教育の核となっている。もともと欧米で発達した理念であり方法論であり、それを翻訳しようとしても該当する適当な言葉が日本語にないため、長いカタカナ文字になってしまっている。これらは参加者の心が能動的に動くように配慮されているのは共通するが、ワークショップはその効果が他との比較を許さないほど大きいと思う。

ワークショップが何を意味するのか、そのルーツを探ってみると、フランス語では工房を意味する言葉であり、一般的には仕事場、作業場を意味する言葉であった。アメリカでは専門的な技法やアイデアを試験的に実施しながら検討を進める研究会やセミナーにもワークショップという言葉がしましば使われたりしていた。1960年代になるとアメリカの演劇界では、新しい形態を創造する母体としてのワークショップに大いに関心が持たれるようになり、演劇の世界では世界的にこの言葉が使われるようになった。教える側と教えられる者とが確実に区別され、固定化された理念に基づき科学的に究明された方法論によって教育活動がなされる場とは完全に異なり、ワークショップは、常に新しい理念と技術を求め、参加者を含めて模索しながら流動的に活動を展開していくような場を意味する言葉として使われている。

しかしワークショップは多様に用いられ、その概念がまちまちであり、私自身も理解に苦しんでいたとき、開口怜子さんが「ワークショップとは、ワークとショップというふたつの言葉が組み合わされてできています。ワークには仕事、作為、作品、行程、労働、努力などの意味があり、賃金労働(LABER)とは違って、主体的、自主的な行為(仕事)ということがいえます。ショップには場所、店という意味があります。ショップを店と考えるとよく分かりませんが、場所と考えると、ワークショップの意味が何となく分かってきます。つまり、ワークショップとは、身体や心をいろいろ動かしながら、何かをつくったり考えたりする場なのです」という説得力のある定義をFAXで送付下さり、以後私はこの定義でワークショップを把握している。

宮城県美術館、目黒区美術館、世田谷美術館、横浜美術館をはじめかなりの美術館がワークショップを実施している。意義深いワークショップを行っている美術館には経験に裏付けされた独特の方法を持った専門家がいる。仙台にあるハート&アート空間「ビー・アイ」の関口怜子さんにしろ、宮城県美術館の斎正弘さんもそうであるが、参加者をいつの間にかその気にさせてしまうという、他の誰も持ち合わせていないような何かを持っている。当館には残念ながらそんなユニークなスタッフはいない。ワークショップを実施できる空間もない。当舘では実施できない重大な欠陥と認識していた私であるが、館長から「考えを逆転すればいい。これは長所と考えるべきだ。専門家を招き、美術舘から出てやればいい」という提案が出され具体案が作成されていった。

三重県は南北に長く、約20kmごとに10数万の人口の市が連なっていて、大きな都市の回りから放射状に広がる形態となっていない。三重県立美術館は津の美術館ではなく、三重県の美術館であるから様々な市町村に出かけて行って一緒に事業を実施することは意義のあることに違いない。

当館と開催地が協力して行うワークショップにはまちおこしの観点が含まれている。子どもたちが豊かな感性を獲得するために、大人がまず頑張らないといけない。ワークショップという一つの事業をみんなで協力して実施することも大きな要素である。

もっと重要なことは、ふるさと発見である。子どもたちが生活するどこの村や町にも素晴らしいものが必ずある。それは海、山、川などの自然であったり伝統・文化であったりそれは様々であろう。慣用化されてしまっているという場合がかなりの比率になることだろう。見ていても意識しないため、子どもたちには見えなくなってしまっていることがほとんどである。意識して本当にみる、きくということからワークショップをはじめ、フレキシブルになった五感で改めて自分自身や自分のまわりを見つめてみると感じるものがある。平易にいえば「ほ-」とか「ヘー」といった言葉になるのだろう。子どもたちは感じたものを表現したり、表現するなかで発見していく。様々な驚きを伴って発見するように専門家(ファシリテイター)がそれなりのプログラムを計画することで実現できる。ふるさと再発見ということであるが、子どもたちにとっては初めての発見ということだろう。大人の方々には子どもたちが精いっぱい頭を動かせたり感じたりしながら活動するところを見とどけてほしいと思う。そんな子どもの気持ちと心かよわせてほしいと願う。

美術館を出て様々な地域でワークショップを実施することによって、美術館内で実施されるワークショップと違って、子どもの生活そのもの、子どものまわりにある自然も生活文化も視野にいれて実施することができる。フレキシブルになった五感でまわりを見て感じた体験があることによって、まわりを見つめる意識は必ず違ってくると思う。

ワークショップはプロセスが重視される。これは当然のことで当館が夏に実施するワークショップも基本的にはまったく同じであるが、「三重の子どもたち展」の第1部として、1地域1展示室に展示することで完結する目的を持っている。ワークショップで子どもたちがつくったものは作品と呼べるものばかりではないが、とりあえず作品ということにするが、子どもたちが制作した作品を重視してワークショップを実施する意味ではない。あくまで夏のワークショップは子どもたちの体験を重視して実施し、子どもたちが制作したものをもちろん展示するわけであるがそのまま展示するのではなく、体験に基づき展示室に再構成するようインスタレーションして子どもたちの体験が表出するように展示したいと考えている。だから夏には各地でワークショップを実施するが、展覧会の展示作業のときに今度は美術館で、しかも展示中の空間でワークショップを実施して、夏の体験との連続性をもたせるとともに、展示そのものに関係した大人だけでなく子どもが参加し痕跡を残していくことに意義がある。

ファシリテイターがワークショップの中核に存在するのは当然のことであるが、ファシリテイターだけでなく、最終的には展覧会として皆さまにご覧いただくこともありアーチストも一人入っていただくことにした。村や町のいいところと関わってつくられたプログラムで最も適切なアーチストにも参加していただき、ファシリテイターとアーチストの共同作業によってワークショップを実施し展示することによって大きな効果が生まれる。

今年度実施した桑名市のワークショップは「いろいろな紙・ふしぎな紙、紙も頭ももめばもむほど柔らかくなって」、大王は「なみの音 木々のざわめき 人々の元気な声、大王町 いいとこ なんどもおいで」をテーマとすることになった。桑名には伝統文化、伝統工芸が三重県としては比較的色濃く存在する地域であり、そのなかで江戸時代からその技法が伝わる折鶴に注目した。だから紙的素材を使って祈るかたちを表現することとし、大王町は昨年4月に「絵描きの町」宣言をしているように、素晴らしい自然があり石垣など生活空間に特筆できるものがある地域である。今回はそのなかでも特に波に注目して実施した。現在、アーチストとファシリテイターが展示のプラニングの最中で、どのような展開になるのかまだわからない。

眼の前にあるものをきれいに描くことが表現であるように考えられているように思えてならない。眼の前にあるものを美しく写実的に描く能力を身につけさせることが美術教育でかなり重要視されている傾何にあるようだ。しかし美術はじょうずに美しく描くことだけではない。表現は精神的・主観的なものをかたちにするものであり、感じたものをかたちにすることが表現であろう。表現するのは子どもであり、表現に腐心しているときに「こうしたら」という提案を子どもにするのは避けなければならない。自分はどうしたいのか、どんな材料でどう表わすかを、子ども自身が試行錯誤を伴いながらも人まねではなく自分のオリジナルとして決めていくのが表現である。子どもたちは桑名では祈るかたちの原型を求め様々に表現している岡本潤三さん、大王では青森の彫刻家であり水墨画家でもある鈴木正治さんと出あい、その制作とも出あった。気持ちがすっと一つになったような雰囲気がしていた。おそらく子どもたちは創作の根源と心通わすことができたように私は思う。

県下の小中学校では「子どもたち一人一人が良さを生かして、その子なりに豊かさを求めて進んで活動する自己実現的な過程である」という新しい学力観に立ち、子ども中心の授業、子どもの良さや可能性を引き出す授業へのアプローチが試みられている。また、みんな同じという意識がいじめの根底にあることが指摘され、一人一人の良いところを子どもたちが認め合うことも大きな課題となっている。しかし充分な教育効果を上げるにはかなり困難のようである。

その原因は根が深く、子どもの置かれている環境そのものに原因があり、容易に改善することは困難である。子どもの思考や表現が類型的になり、バイタリティに欠け、自分のまわりにどんなに素晴らしいものがあっても何も感じないない状況が生じているという指摘がなされている。自分自身や自分のまわりに関心を持って様々な驚きや発見を体験し、いきいきとした感性を育むような状況をつくらないと現状の克服は難しいようだ。

第1部を「生活の現場から」として二つの地域で実施したワークショップの会場となり、県内の保育所・幼稚園、小中学校、養護学校などから出品された作品を第2部「教育の現場から」として展示する。会場はそれぞれ別であるが「三重の子どもたち展」として皆さまにご覧いただく。今後どんな展開になっていくかそれは現在ではわからないが、「三重の子どもたち展」を舞台に、試行錯誤を繰り返しながらあるべき姿を求めていきたい。

(三重県立美術館普及課長)

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