華麗なる世紀末・ロンドンとパリ ジェームズ・ティソ展 図録 作品解説 土田真紀編
作品解説はクリスティーナ・マティヤスケーヴィッチの資料をもとに翻訳・執筆された。
土田真紀・編
31 |
テムズ河添いの船着場で連絡船の到着を待つ人々という主題は,同じ構図で,少なくとも3点が描かれている。最初の1点は1874年頃,この作品ともう1点(所在不明)は1878年頃の制作と考えられる。 これら3点に共通する背景となっているのは,ティソがすでにしばしば描いているロンドンのイーストエンドの辺り,グレーヴス・エンドの船着場である。恐らく最初の作品の際のものと思われる鉛筆と水彩による風景スケッチが残っている。ティソはこの構図を用いて三つの作品を仕上げたわけであるが,それらは少しずつ異なる雰囲気を有しており,とりわけ,キャスリーン・ニュートンを中心に据えた後の2点と,他の女性をモデルにした最初の作品の相違は大きい。 1874年頃の作品では,《船上舞踏合》(1874年頃)の左手前に描かれた縞模様の最新流行の衣裳に身を包んだ女性を中央に,新聞を広げる紳士然とした男性,退屈をあらわにした可愛らしい少女が描かれているが,彼らは整いすぎているがゆえに,かえっていかにも冷たく無個性な人物群で,煙突から流れる煙や風にはためく各国旗が,むしろ水辺の陽気な気分を漂わせる風俗画となっている。 これに対して後の2点ではまず人物群がはるかに個性的な相貌を帯びている。というのもそこに描かれているのはすべてティソの最も親しい人物だからで,それと同時に冷たさは影をひそめ,画面は親密さを帯びたものに変貌している。女性がキャスリーン・ニュートンであることはすでに述べたが,右端で,椅子に後ろ向きに座り,頬杖をついている男性は,これまでティソ自身とされてきたが,マティヤスケーヴィッチはキャスリーンの兄弟のフレデリック・ケリーである可能性の方が高いとしている。同時期のもう一つの油彩(挿図1)にはさらに彼女の息子セシル・ジョージと姪のリリアン・ハーヴイーも描かれている。こちらに関しては,当時ティソがしばしば行なっていたように,グローヴ・エンド・ロードにあるティソの自宅の庭で撮った写真(挿図2)から人物群の構成やポーズがそのまま引用されている。すなわち全体の構図は,実景のスケッチと別の場所での人物群の写真の合成で成り立っているのである。したがって今回展示されている作品の人物像にも,元になった写真が存在したとも推測される。 ところでここに描かれたキャスリーンの衣裳は,最初の作品に現われた女性の華やかさとは対照的に,装飾のないベージュ色のケープ付きのコート,黒のヴエール付きの帽子に手袋という旅行用の地味ないでたちである。男の方は明らかに待ちくたぴれた様子で,彼女の方もぼんやりとこちらを見つめている(もう1点ではむしろキャスリーンの方が疲労をあらわにしている)。流れる煙もはためく旗もなく,旅立ちの前の一種重苦しい気分がここには立ちこめている。
PROVENANCE:Leicester Galleries by 1936;Mr Alec Guiness c.1955;SOld Christie’s,London,13 MaY 1977(173)as Waiting for the Boat at Greenwich, bt.Owen Edgar Gallery;Roy Miles Fine Paintings. |
33 |
以前は《病みあがり》と呼ばれていた作品であり,1984年に出版されたウェントワースの著書でもこのタイトルが冠されている。しかし最近,1879年にダッドリー・ギャラリーに展示された《軍人の娘》と題された作品と一致することが明らかにされた。この年の11月27日付けの“Athenaeum”に,「いつも父親の眼の届くところにいるとは限らない若い女性に付き添われた,事椅子の年老いた傷ついた将校」とある記述が,この作品と一致するからである。 もう1点,ティソの署名のあるサイズのやや小さいヴァージョンの存在が知られているが,その描き方から判断するとティソ以外の画家の手によるレプリカである可能性もある。いずれにせよ,今回展示される作品がダッドリー・ギャラリーの展示作品とは断定できない。 老人の方のモデルとなった人物は特定されていないが,彼に付き添っている若い女性はキャスリーン・ニュートンで,《港を望む部屋》(図版34)と同じグリーンのタータンチェックのドレスと毛皮のついたジャケット,それに同じチェックのマフを身に付けている。スコットランドの伝統的なパターンであるタータンチェックは,フランス人であるティソの眼には,いかにもイギリス的な風俗を示すファッションと映ったであろう。襟元には黄色い花が留めつけられているが,全体の沈んだ色調の中で,このわずかな黄色は、効果的なアクセントとして全体を引き締めている。 背景となっているのは,リージェント・パークの一部,カンバーランド・テラスである。建物,木,棚を含んだこの場所での油彩スケッチが残っている。ティソはこの横長のスケッチを人物群を含んだ縦長の画面につくりかえたのである。 来歴・展覧会歴・参考文献 PROVENANCE:Purchased from the Leicester Galleries,1925. |
37 |
《出勤》は,仕事のためロンドンのシティに向かう馬車の中で新聞を広げる紳士という日常生活の1コマを描いた作品で,ロンドンの都市生活というテーマへのティソの関心が窺われるが,同時にティソが好んで扱った旅行というテーマのヴァリエーションとしても捉えられる。ウェントワースはこの作品が,ティソがエドモン・ド・ゴンクールに語ったという次のような言葉を思い出させるとしている。「彼は私にイギリス,とりわけ石炭のにおいがするロンドンが好きだと言った。というのもそこには生活の闘いがあるからだ」。 雨の降り出したロンドンらしい重苦しい曇り空のもと,馬車が走っていく。非常に縦長の画面と相俟って画面には強い緊張感が漂っている。場所の背後にそびえ立っている建築物はセント・ポール寺院であるが,日常的な光景の背景に実在のモニュメンタルな建物を配するという方法はティソが好んでとりあげたものであった。パリではコンコルド広場やルーヴル美術館の建物を背景としているものがあり,ロンドンでも,《軍人の娘》(図版33)におけるリージェント・パークのカンバーランド・テラスのほか,ナショナル・ギャラリーなども背景にとりいれられている。ここに描かれたセント・ポール寺院は《ロンドン市長の行進》(1879年頃)にも登場している。 《出勤》は1879年のグローヴナー・ギャラリーでの展覧会に展示されたが,同時に展示された《静かな午後》(個人蔵〉や《ハンモック》(所在不明)と共に手厳しい批判の対象となった。というのは,結婚後すぐに離婚され,しかも二人の子供のいるニュートン夫人とティソとの法的な手続きを踏まない同居生活は,そうでなくとも道徳に厳しいヴィクトリア朝の社会のなかで非常にスキャンダラスなものであったのに加え,ティソが彼女の姿を頻繁に作品に登場させるのは,それをさらにおおっぴらに公表しているとして怒りをかったのである。《静かな午後》ではティソの自宅の庭の木蔭で,籐椅子でうたた寝をする老人とハンモックに寝そべって読書するキャスリーンが,《ハンモック》ではキャスリーンだけが描かれている。恐らくこの2点を頭においてであろうが,《出勤》にはキャスリーンが描かれていないにもかかわらず,この作品をとりあげて彼女とティソとの関係を皮肉る次のような詩が雑誌『パンチ』の記者によって書かれた。「急げ,御者よ。ああ,彼女は可愛いんだろうね。あのセント・ジョンズ・ウッドのアベイ・ロードに住む彼女は」。そのためティソは同じ年に,トゥース画廊で再びこの作品を展示した際には,テーマが曖昧に受け取られるのを警戒して,《シティへ行く》と改題している。 来歴・展覧会歴・参考文献 |
39 |
グローヴ・エンド・ロード17番地にあったティソの自宅のアトリエと温室に通じる階投に腰掛けたキャスリーン・ニュートンの2枚の写真がある。ティソはこの写真から数点の油彩と版画作品を制作している。1枚では(挿図1),キャスリーンは姪のリリアン・ハーヴィーと共に絨毯の上に腰掛けており,本を膝の上に広げ,左手を腰にあてている。背後では籐製の椅子に一人の女性(恐らくキャスリーンの姉妹のメアリー・ハーヴィー)がもたれ掛かっている。もう1枚(挿図2)では,キャスリーンは石段の上に直に一人で頬杖をついて腰掛けており,本は脇の石投の上に広げられている。背後の籐椅子に腰掛けているのはこちらでは男性(ティソあるいはキャスリーンの兄弟のフレデリック・ケリー)である。 この《お姉さん》は前者にもとづいて制作されたもので,他に2点の油彩と銅版画によるヴァージョンが知られている。いずれも写真に比べると上下にかなり引き伸ばされた構図になっており,背景が写真とは異なっている。階段は温室に通じるものというより,温室の中の階段に見え,籐椅子に腰掛けた人物は除かれている。この作品は1882年にダドリー・ギャラリーの展覧会に出品された油彩(カンブレ美術館)のレプリカと考えられるが,さらに上下に引き伸ばされており,ティソが縦長の構図を当時かなり好んでいたことが窺われる。ここでは階段の背景がこうした縦長の構図に生かされている。この2点には,他にキャスリーンの髪型,少女の視線の方向,描かれた植物の種類など,幾つかの小さな相違が見出される。他の1点の油彩(個人蔵)は,背景はむしろ写真に忠実で,アトリエの窓と籐椅子が描かれているが,視点及びキャスリーンのポーズが異なっており,別の写真にもとづいているとも考えられる。銅版画はダドリー・ギャラリー出品作に最も近い。 ティソは写真を絵画制作に用いる際に,こうした造形面での変形を加えたのみでなく,現実には叔母と姪であるキャスリーンとりリアン・ハーヴィーの関係を,作品としては姉妹という形で呈示していることになる。その点ではこの作品もフィクションには違いないが,たとえば60年代に同様のテーマを扱った《姉妹》(パリ,オルセ美術館)などと比較すると,後者の当時のファッション・プレートを思わせる冷たさに対し,彼のグローヴ・エンド・ロードの生活を題材にした作品に共通する温かみと親密な雰囲気が感じられる。 ところでもう1枚の写真からは《物思い(庭にて)》と題された別の数点が制作されている。このようにティソは,スケッチの代わりに写真を利用し,細部に様々の変更を加えることによって,幾つかのヴァリエーションを生み出しており,彼の作品に対する需要に応じていたことが窺われる。またこの頃写真を多用し始めたことについては,次第に悪化しつつあったキャスリーンの健康状態が関係していたとも考えられる。
|
40 |
1881年にロイヤル・アカデミーに《さようなら,マージー川にて》(図版38)と共に出品された作品である。夏の年後を思わせるグローヴ・エンド・ロードの家の庭の栗の樹の下に置かれたベンチで,キャスリーン・ニュートンが膝の上に本を広げ,こちらを見つめて坐っている。彼女の傍らに繰り返し登場する姪のリリアン・ハーヴィーが,《お姉さん》(図版39)におけるように退屈して,甘えるように彼女にもたれ掛かっている。他のモティーフもティソが好んだもので,犬は《ハンモック》(1879年頃)に,ベンチに敷かれた毛皮の敷物は《庭のベンチ》(参考図版91)をはじめとする作品にしばしば描かれているが,これらは,ベンチの背に脱ぎ置かれた帽子やショールと共に,これらの作品に漂う家庭的な親密な雰囲気をつくりだす小道具となっている。 しかしそうした意図やタイトルの《安らぎ》とは裏腹に,この頃,キャスリーンの健康状態は悪化の一途を辿っていた。この作品に現われた彼女も非常に痩せており,顔色は青白く,眼ばかり目だって見える。同時期の作品には《長椅子で休むニュートン夫人》(1881-82年頃)や《夏の宵》(1882年)のようにキャスリーンが長椅子に横たわっているものがあり,これ以前にもティソは《病みあがり》(図版27)など病気のテーマをたびたび扱っていて,これらはキャスリーンの病気の進行を窺わせる作品である。やがて1882年11月9日に披女はティソの家で肺結核のため亡くなり,その5日後にティソはロンドンの家を引き払い,パリに戻るのである。 この作品には水彩によるレプリカが存在するほか,本を膝の上に広げたキャスリーンの姿は,《公園での読書》(1881年頃)というこの作品の左半分を切り取ったような作品などに繰り返し描かれているが,それらの元になった写真がティソのアルバムの中に残っており,これもまた写真をスケッチ代わりに用い,そこから様々のヴァリエーションを生み出した一例と言える。 展覧会歴・参考文献 |
102 |
アトキンソン・グリムショーはイングランド北部のリーズに生まれ,生涯を通してリーズを中心に活躍した。非常に大衆的な人気を博した画家で,月光あるいはランプの光に照らされた街や川辺の風景を描いた作品によって最もよく知られているが,他に多くの牧歌的なおとぎ話風の絵や彼自身の家庭を背景にした日常生活を描いた作品をも残してい・驕B彼は鉄道会社で働きながら絵を描き始めたが,初期の風景画はラファエル前派の影響を受けており,細部表現とほとんどけばけばしいほどの色彩表現を特徴としている。 マティヤスケーヴィッチによれば,グリムショーの日常的な主題の作品群は,女性の肖像と共にティソの影響を強く受けているということであるが,この《秋の哀しみ》はその一例と考えられる。確かにここにはキャスリーン・ニュートンを連想させる黒い服を着たほっそりとした女性が描かれている。彼女は色づいた樹木と落葉を背景に,頬杖をついて右のベンチに寄り掛かり,何か物思いに耽っている様子である。女性の姿や全体に漂うメランコリックな雰囲気が,ティソがキャスリーンをモデルにした秋の光景を想起させる。また背景を彩る樹木と落葉の繊細な表現は,ティソの《カムデンパレスの庭に立つウジェニー皇后と皇太子》(1874年頃)を思わせる。 このように1882年に描かれた《秋の哀しみ》に,1870年代後半から1880年代の初めにかけてティソがキャスリーン・ニュートンをモデルに描いた作品と共通する雰囲気が感じとれるのに対し,マティヤスケーヴィッチは,グリムショーのもう少し早い時期の作品,たとえば1875年から76年にかけて制作された《春》,《夏》,《物思い》などについては,キャスリーンが現われる以前のティソの作品の影響を指摘している。主題のみでなく,細部の表現,布地や質感の描写に対する強い関心,あざやかな色彩表現などがティソを思わせるという。1876年に『ヨークシャー・ポスト』で,ある批評家が《色彩の問い》という1点を「ティソが構想し描いたような」作品と見ているのは,彼女の説を支持する同時代の言となっている。 またグリムショーの波止場付近の光景を描いた作品にもティソの同主題の作品に類似する部分があるという指摘があり,グリムショーはティソが同時代に及ぼした影響を最も端的に示す画家の1人に数えられるかもしれない。 グリムショーがティソの作品に接した機会としては,1つにはリーズやリヴァプールで開かれた展覧会や図版を通して直接あるいは間接にティソを見る機会があったということが考えられる。また彼は1878年のグローヴナー・ギャラリーの展覧会にも出品しており,ロンドンを訪れた際に見たとも考えられる。さらには,彼はティソをよく知っていたホイッスラーの知り合いであったと言われており,あるいは1880年から82年にかけて彼がロンドンにアトリエを構えていた頃にティソ本人の家で作品を見た可能性も考えられないではない。 また彼はティソと同様,絵画制作に写真を利用した最も早い画家の1人でもあり,彼の描く街の光景はしばしばこれに基づいている。 来歴・展覧会歴・参考文献 |