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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 伊勢型紙について 土田真紀 伊勢型紙展図録

伊勢型紙について

土田 真紀

一般に「染」ということを考える場合、布全体を一色に染め上げる無地染めと、布の上に何らかの模様を染め出す模様染めとに大別される。有史以来、模様染めには世界中で様々な技法が試みられてきたが、とりわけ日本で盛んに行われ、他と比較にならないほど技法として発達し、洗練されるに至ったのが、紙の型と防染糊による「型染」であった。柿渋によって張り合わせた和紙に、刃物によって文様を透かし彫りし、この型紙を板に貼った生地の上に置き、順に型を送りながら篦を使って糊を置いていく。彫り透かした部分に糊が付くため、染めた場合にその部分だけは白く残り(防染)、他の部分は色に染まって模様ができあがるという仕組みである。

こうした工程のなかで、型紙を彫る型彫師と、この型紙を生地に型付けし、防染糊を置いて染め上げる型付師とは、ともに優劣をつけがたい重要な役割を担うことになる。型染が最盛期を迎えた江戸時代の後半、型付師は江戸や京都を中心に、全国各地に存在していたのに対し、型彫師が集中していたのは、伊勢国の白子村および寺家村、すなわち現在の三重県鈴鹿市白子・寺家地区であった。彼らを配下に擁し、強力な株仲間を形成した型売業者たちは、全国各地を行商し、型紙の販売をほとんど独占的に行っていた。こうした独占は「伊勢型」あるいは「白子型」と呼ばれる一種のブランドを形成し、現在なお「伊勢型紙」として、染の型紙用に制作され、用い続けられているだけでなく、伊勢型紙の技法を応用して、絵画のような鑑賞用の「作品」も制作されている。

今回の展覧会は、しかしながら、あくまでも型染の手投としての伊勢型紙のみを取り上げた。後で詳しく述べることになるが、伊勢における型紙の起源については諸説があり、また型紙が今後どのような方向に進むかという問題もきわめて重要であるが、それらを見きわめるためにも、伊勢型紙があくまでも「染の型紙」として、かつてその質と量を誇ったという事実をあらためて見直す必要があると考えるからである。そのため、逆に型染という観点からはゆるやかな選択を行い、厳密な意味での伊勢型紙をはずれる作品も含む結果になっている。しかし型染という日本の染織の重要な一分野の中心に伊勢型紙があることを考えるとき、それもまた許されるのではないかと考える。


1.型染の系譜

すでに述べたように、型染というと、狭義には型紙と防染糊による技法を指すのであろうが、広義には、何らかの型を用いて模様を染める技法全体を含めて考えることができる。いかにして模様をつくりだすかという点をめぐって、世界中で、また日本においても、実に様々の技法が工夫されてきた。ここでは従来の染織史の説をひきながら、広義の型染の歴史のなかで、狭義の型染を位置づけてみたい。あらかじめ述べておくと、一般にこれまでの染織史では、狭義の型染誕生の条件として、紙の型と防染糊という二つが揃うことが重要視されてきた。

日本における模様染めの最古の遺品として挙げられるのは、まず、正倉院に伝わる染織品のうち、「三纈(さんけち)」と呼ばれる纐纈(こうけち)、きょう纈(きょうけち)、ろう纈(ろうけち)である。纐纈は今日でいう絞り染めの技法、一方、きょう纈は、長らく技法の詳細は不明とされてきたが、近年、模様を彫った板の間に布を爽んで防染し、板にあけた穴から染料を注ぎ込むことによって染められていたことが明らかになった。したがって、きょう纈も一種の型染であるが、三つの技法のうちで狭義の型染に最も近いのはろう纈である。蝋によって防染を行い、模様をつくる技法で、手描きも行われるが、正倉院の遺品は、比較的小型の木版を用いていわばスタンプ式に模様の部分に蝋を置いて防染し、単位となる模様の配列によって全体の図柄の構成を行っている。

正倉院に残された模様染めのなかには、これ以外に、筆で直接に描いたものと、凸型を用いた摺り絵と呼ばれるものがある。後者の型は残っておらず、一般には木版によると考えられているが、紙型の可能性も説えられており(明石染人氏説)、かりにそうであれば、狭義の型染との関係が最も深いと考えることができる。また正倉院には、染織品ではないが、「吹絵の紙」と呼ばれる、粗い紙の上に雲、鳥などの形に切り抜いた紙を置き、上から絵具の粉をふりかけて文様を白抜きにしたものも残されている。

これら正倉院の染織品は、大陸から渡来したにせよ、あるいは大陸からの影響のもとに国内でつくられたものにせよ、いずれにしても大陸文化の匂いを色濃く漂わせるものである。これに対して、平安時代に入ると、染織品を含めた服飾一般に和様化の傾向が次第に顕著になり、重ね着の形式が整うにつれて、模様よりも色彩そのものの重要性が強まり、模様も染めによるものではなく、織りによる地紋が中心となり、奈良時代の技法は次第に衰退の運命を辿ることになった。完全に失われたかどうかは定かではないが、三纈のうち平安時代に作例が残されているのは纐纈のみである。しかし、摺り絵と同じ技法による「蛮絵」と呼ばれるものはこの時代にもかなり用いられていたようで、模様染めの衰退期においても、後の型染への命脈が保たれていたことが知られる。

さて、実物資料および二次資料の両面で、防染糊を用いた型による染めの存在が確認、あるいは推測できるのは鎌倉時代である。一つは1980年に東京国立近代美術館で開催された「日本の型染」展にも出品された、現存する最古の遺品、春日大社に伝わる、源義経ゆかりの<籠手>の家地である。藍染めによって、浅葱色の麻の地に直径約5センチの藤巴文が白く染め抜いてある。籠手そのものは金工史家によって鎌倉時代の作と見なされているものの、果して家地が同時代のものかどうか疑問も提出されてきたが、近年の調査によって、現在のところ同時代と判断されている(杉原信彦「日本の型染について」『同展図録』)。

一方、山辺知行氏は、鎌倉時代の絵巻といういわば二次資料に基づいてではあるが、この時代に防染糊による型染が行われていたのではないかと推測している。山辺氏によると、平安の絵巻における、庶民や下人の衣などに描かれた簡単な幾何学的文様が木版による摺り、白く丸文などが抜いてあるのが絞りによると思われるのに対し、13世紀末から14世紀の初頭の絵巻、すなわち<一遍聖人絵伝>や<蒙古襲来絵詞>などには、絞りでは不可能と思われるような白抜きの文様が登場してくるという。当時すでにろう纈に用いる蜜蝋は中国からの輸入が止まっており、また国内ではまだ生産されておらず、蝋でないとすると、糊の使用が考えられるというのが山辺氏の説である(「小紋染漫考」『染織と生活14』)。

先の「日本の型染」展では、<籠手>の家地に続く、型紙に関わる南北朝時代の資料として、紀州の熊野速玉大社に伝わる古神宝頬に含まれる<紅帖紙>を呈示している。これは型紙による文様の表現として重要ではあるが、狭義の型染とは系統の異なる摺箔(すりはく)の技法につながるものである。

こうして、いずれも確証はないものの、鎌倉頃から、型紙と糊による染めが行われていたと推測される資料が登場してくるが、さらに完全な型染の作例ということになると、2世紀ほど間隔が空いてしまい、室町時代末の上杉謙信所用と伝えられる<黄地小花小紋帷子>や上杉景勝所用の<紺地鐙繋矢車文鎧下着>まで下ることになる。しかもこの二つの例は、すでに高度の技術の発達を窺わせるかなり洗練されたものであるため、これらが登場するまでの空隙を埋める作業はきわめて困難になっている。

ここで狭義の型染の成立についての従来の説を整理してみることにしたい。すでに述べたように、型染には、紙の型と防染糊という二つの条件が揃う必要がある。まず紙型に関連するものとして、型としての用途にかかわらず、紙に文様を彫り透かしたものを考えると、古いものでは、辻合喜代太郎氏が染型紙との関連で、「紙截文」と呼ばれる唐招提寺宝庫で発見された一種の切り紙細工を取り上げている。紀元前の中国で贈り物とするために始められたといい、正倉院にも2点が蔵されている。唐招提寺のものは、図版で見るかぎり、染色用の型紙によく似ている。さらに同氏は、高野山の寺院などで一種の飾りとして用いられる「切絵」や、中国の切絵である「剪紙」をも挙げているが(『染型紙』)、後に触れることになる白子に伝わる型紙の起源に関する伝説の一つには、切絵の一種である「富貴絵型」というものが登場する。こうして、紙を彫り透かすこと自体は古くから行われていたことが窺われるが、これを染の型紙として用いるために柿渋で張り合わせるという手法がいつ頃現れたのか、またより古くから染型として用いられていた木版から紙型へいつ頃移行したのかという問題になると、これまであまり明快な説は提出されていないようである。こうした事情は2つめの防染糊に関しても同様で、残された資料がかなり少ない、古い時代の染織に閑してはやむをえないことかもしれない。

こうして、型染の系譜というものはある程度辿れるが、肝心の部分の問題ということになると、不明の点が多い。ただ、成立にあたって大きな関連をもつものとして、研究者が揃って注目しているのは、染韋(そめかわ)の技法である。韋に文様を染めるには、染料を使う一般的な染めに加えて、熏(ふすべ)という煙で燻す方法があり、いずれの場合も型紙や防染糊が用いられたとされている。ただ型の材質も、防染法も何種類かあったと考えられている。染韋は奈良時代以前からすでに行われていたが、平安時代のものでは、大鎧などにかなり細かい文様が施されたものが法隆寺などに伝わっている。しかし、技法的にかなり近いことが推測されるものの、具体的なつながりということになると、資料はほとんどないようである。


2.伊勢における型紙の始まりと展開

型染の成立にも不明の点は多いが、それ以上にわかりにくく、また現在までほとんど答が提出されていないのは、型紀の原料となる和紙や柿渋の特産地でもなく、染物業も特に盛んでない伊勢の白子周辺で、なぜ型彫が行われるようになり、またなぜ型紙の独占的産地となったかという点である。

1929年に伊勢形紙業組合が発行した『形紙の起源と沿革』という冊子がある。現在では鈴鹿市の図書館にもコピーの形でしか残っていないが、型抵の産地でまとめられた最初の資料である。この冊子は、「河藝郡の位置と地勢」(当時白子は河藝郡白子町であった)に続いて「白子町の沿革」のなかで、参宮名所図絵を引いて名産として「紺屋型紙」が挙げられていることに触れ、続く「白子港の繁栄時代」のなかで白子港を「旧慕府時代は関西唯一の貿易港であった」と述べている。そして次に「白子形紙の沿革」として、大正7年編の『河藝郡史』、同じく大正7年編の『三重県史』、および白子で長く続く型紙問屋の寺尾家に伝わる古文書を引いている。『河藝郡史』には型紙の起源に関して、元正天皇の時代に孫七という者が始めたという伝説と、白子山観音寺の執事僧で、美術好きの友禅が草木染めと型紙を発明したという伝説が取り上げられている。また『三重県史』の方は、足利時代の末に、京都の公卿荻原中納言が知り合いの白子山観音寺の住職をたよって都落ちし、観音寺あたりに落ち着いたが、手すさびに人物や花鳥を彫った富貴絵型を発明し、参詣の人々に売ったという言い伝えを紹介し、この富貴絵型が裃小紋の型からさらには友禅、更紗、布団の型へと展開したと述べている。さらに寺尾家の古文書には別の伝説が紹介されており、それによるとやはり白子の観音寺近くに住む久太夫という老翁が境内の虫食葉の穴の形の面白さに興味を引かれて型紙を思いついたというのである。

これらはすべて全く伝説の領域に属するもので、現実との接点を見出しにくいもののように思われるが、『伊勢型紙の歴史』を著した中田四朗氏は、これらのなかでは荻原中納言伝説を若干の真実に触れるものではないかとしている。中田氏は、この地方が早くから京都と関係があったことなどを考慮して、そのままは受け入れられないにせよ、応仁の乱を逃れて白子あたりに下ってきた型彫職人によって、型彫の技術が伝えられた可能性があることを示唆している。明石染人氏も京の型紙がそれぞれ沖縄と白子に伝わって、紅型と伊勢型紙が始められたと論じている(『染織文様史の研究』)。しかし別の意見もあり、上村六郎氏は、型染の技術については京都との関係が考えられるとしながらも、型彫の技術は伝播によるものではなく、1章で触れた、染章用の版木を彫る技術が古くから紀伊国にあり、それが伊勢暦の版木を経て厚紙に応用され、さらに伊勢型紙につながったとしている(「型染めの系譜」『染織と生活23』)。これは、伊勢暦の版木を彫る技術が型紙に転用されたのではないかという、禿氏祐祥氏の説に上村氏が示唆を受けたもので、禿氏氏の『東洋印刷史序説』(1951年、平楽寺書店刊)は、伊勢型紙については全く触れていないが、古代において印刷用の板木が主として織物関係の彫工によって彫られたこと、また印刷の板木も染物の板木もともにカタギと呼ばれ、「模」の字をあてていたことを指摘している。

こうして伝播説、木版からの転化説があるが、いずれも決定的な証拠をつかんでいないというばかりでなく、説得力の点でもやや弱いという感は否定できないであろう。さて、次の問題点は、いずれにしても白子において始められた型彫が、いかにして「伊勢型」というブランドを形成するまでに発展したかという問題である。先の中田氏の『伊勢型紙の歴史』のなかで、型屋が強力な株仲間を形成し、紀州藩の保護のもとに数々の特権を享受しつつ、独占権を広げていった過程は、寺尾家に伝わる古文書類の詳細な解読などを通じて、ほば完全に解明されているといっていい。ここでは簡単にしか触れることができないが、京都などとは異なり、型彫と型染が共存していない土地の商人たちが、何とかして型紙の販路を確保し、さらに強化しようとした過程は次のとおりである。型売商人たちは、まず1621(元和7)年に領主である和歌山城主徳川頼宣に御絵符と駄賃帳の交付を願い、商人駄賃の半分以下の武士荷駄賃で行商できるようにしたのを始めとして、次には出稼鑑札の交付を受けて、株仲間同士で他人の行商区域を侵すことを防ぐと同時に、紀州藩による権威づけを行い、さらには関所を自由に通行できる通り切手を手に入れるなど、仲間間の掟を厳しいものとして、お互いの権利を確保するとともに、藩の保護の強化をはかっていった。その最盛期は18世紀の半ばといわれるが、この頃から江戸に出店を出す型屋が次第に増え、1826(文政9)年に江戸出稼株が公認されることによって、根は一つとはいえ、従来の株仲間による独占は、他の要因も重なって次第に衰退していった。

こうして紀州藩の所領となって以後の経緯はかなり詳しく解明されているが、逆に、1621年の段階ですでに、白子では型抵の生産がかなり盛んで、型売業者も販路をかなり広げていたとすると、起源からその時点までの経緯が疑問点として残る。この点についてもまた伝説めいたものしか残されていない。寺尾家に伝わる「型売共年数年暦控帳」中の「白子寺家紺屋形株式之事」という記載で、型売商人が延暦年中(782-806)に4人、承徳年中(1097-1099)に20人、応長正和年間(1311-1317)に50人、文禄年中(1595頃)には127人おり、当時の領主である分部氏に株仲間を認めさせたというものである。1章で触れた型染の歴史から考えても、少なくとも前半の信憑性は乏しく、杉原信彦氏なども「型売商人が家業の伝来を誇張粉飾した作文と見るべきもの」としてしりぞけている(「日本の型染」展図録)。

以上のように、伊勢型紙の起源についても展開についても疑問点は多く、特に初期の型紙や型彫職人についてはほとんど何も知られておらず、残念ながら、ここでも新しいことを付け加えることはできない。


3.小紋と中形

すでに触れた上杉家伝来の<黄地小花小紋帳子>や<紺地鎧繋矢車文鎧下着>、これらよりやや下って桃山時代の作になる片倉小十郎が豊臣秀吉から拝領したという<小紋胴服>、徳川家康所用の<小花文小紋胴服>など、型染の最も古い作例に属するものは、いずれも武家の日常用の衣服である。これらのうち<紺地鎧繋矢車文鎧下着>は、何色にも染め分けられ、その高度な技術に研究者が驚嘆してきたものであるが、他のはっきりと小紋系統に属する例とは異質なもので、初期の型染における技法的な広がりが窺われる。ところが、主として型染は非常に狭い領域に向かって展開していくことになった。

<黄地小花小紋帳子>や<小花文小紋胴服>などは、後に江戸時代の武士の礼装として一般化する裃の小紋の要素をすでにかなり備えている。文様は充分小紋と呼ぶにふさわしいほど細かいが、後の小紋の中心的手法である錐彫はまだ見られず、型は突彫で彫られている。後のもののような緻密さはないが、いずれもくっきりと文様が浮かび上がっている。後者は舶来の幅広の生地を用いて仕立てられており、型紙も幅の広い特別なものを用いて染めている。

江戸中期から盛んに着用されるようになる裃の小紋は、錐彫を中心とした最も基本的な型紙で染められている。なかでも「三役」と呼ばれる「通し」「行儀」「鮫」はいずれも基本中の基本であるし、各大名が「定め小紋」として他の使用を禁じたといういわゆる「留柄」も、いずれも錐彫を中心とした幾何学的な細緻な柄が多い。錐彫は突彫と並ぶ古い技法といわれるが、桃山頃の文様が次第に整理、単純化され、より細かなものへと向かって裃小紋が成立したと推測できる。そこには技法としての深化、洗練とともに、明らかにより地味なもの、無地的なものへと向かう傾向が見て取れるが、実際に裃から受けるのは、どこか現代のビジネスマンの背広に近い、意外に平凡で生真面目な制服のような印象である。これは、やや遅れて小紋柄が庶民の衣服にも広く浸透し、そこではきわめて江戸的な、遊びの要素の強い洒落た柄が・氈Xに登場してくるのとは対照的である。

型紙を見ても印象は同じで、やや幅広い紙に彫られた裃小紋の型紙は、全く隙なくびっしりと埋まっているのに対し、遊びの要素の強いものなどは、錐彫の穴の配列にそれぞれ緩急があって、その細かさにちがいはないものの、はるかにほっとさせられる。しかし逆に「鮫」や「通し」などは、現代でも異和感なく通用するきわめて普遍的な要素をもっている。小宮康孝氏によると、型紙は透かしてみたとき白くみえるものほど上手であるという。そのことがはっきりと示されるのも基本的な柄である。

職人技は、必ずそういうところに向かうものであるのかもしれないが、錐彫の最も細かいものは1寸四方に千以上の穴が彫られているという。本展の出品作にもすさまじく細かいものや、技術の限界に挑戦したようなものが含まれているが、江戸も末に近づくにつれて、もともと極端に閉じられた世界で無限に差異を求めてきた小紋が、技術の洗練とはいいながら、ほとんど袋小路のような世界に入り込んでいったことに気づかされるのである。それぞれ柄に工夫をこらしながら、遠目には無地に見えるのが小紋の心髄とはいえ、それらのものはほとんど技術のための技術のようにも思われるのである。

同じ型紙による型染でありながら、主として突彫によって、木綿の浴衣用に彫られた中形の型紙の世界は、はるかにのぴのびとしたものがある。白子工業高校が集め、現在鈴鹿市教育委員会が所蔵している、「型紙の変遷」と題された木の箱に収められた百数十枚の型紙群は、いずれも何らかの年記が入っているものばかりで、型紙の展開を知る上で重要なものであるが、そのなかで最も古いものは1694(元緑7)年の<牡丹と菊と爽竹桃>、またこれとは別に寺尾家に残されていた最も古いものが1692(元禄5)年である。どういう理由からか、年記のある古い型紙はほとんど中形のものであるが、古い型紙に共通するある種のおおらかさは技術の巧拙を越えた魅力をもっている。先の小宮氏も古い型紙について「非常に昔の気分の濃いもの」という表現を使っているが(「ゆかたよみがえる」展図録)、それは確かにある時代の雰囲気を伝えている。

これに対して、これまで発見された中形の型紙のなかで群を扱く高い質を誇るといわれる群馬輿前橋市の大黒屋で発見された型紙群は、全く対極の繊細で瀟洒な一つの洗練の極みのような世界を示している。大黒屋型抵の制作年代は、それらに捺された型屋印から推測して1801年から1834年頃と推定されているが、17世紀の末から19世紀初頭までの1世紀あまりの間に中形が大きく性格を変えたことが窺われる。もっとも大黒屋の型紙は、当時のごく一部を反映しているにすぎないかもしれないが、ここに見られる、ほとんど線のみで形作られる文様の世界は、中形の一つの極であることはまちがいない。型染による縞の流行とも合い通ずるものであろう。これらの型紙を復刻し、それによって染められた浴衣を再現する試みが小宮氏を中心に、故長谷川重雄氏などによって行われ、1989年に東京国立近代美術館工芸館で開催された「ゆかたよみがえる」展で紹介されたが、それらは現在の注染やプリントによる浴衣を見慣れたおおかたの人々を驚かせるものであったにちがいない。

同じく型染の技法によるとはいうものの、小紋と中形は、型紙を見ても、また染められたものを見ても、細かい技法や用途の違いなどをはるかに越えて、それぞれ全く異なる世界を構成しているように思われる。どちらも、縞や格子とともに18世紀の後半から江戸末にかけて流行し、同じ江戸の庶民の美意識を反映してはいるものの、型紙あるいは型染というものの可能性を、それぞれ別の方向に最大限に引き出したといえるのではなかろうか。ただし、型紙が生み出す地と図の関係に忠実に、一色のみによる染めを守りつつ、平面的なパターンを洗練されたリズムへ昇華するという、最も基本的な1点で両者は一致している。型は版とともに複製や大量生産の手段と考えられているが、型染における型紙によるパターンの繰り返しは、「型」という普遍的概念につながるものを示唆しているようにも思われるのである。


4.職人的伝統と近代的デザイン性

埼玉県川越市の喜多院に6曲1双の<職人尽絵>の屏風が伝わっている。狩野吉信(1552-1640)の手になる江戸初期の作である。このなかに型付師が戸外で型付を行っている場面が含まれており、桃山時代末には型染が盛んに行われていたことを示す資料として必ず引き合いに出されるものである。中世から近世にかけて成立した職人世界の様々な生態を描き出した職人尽絵のなかに、型彫師は登場しないものの、型付師の登場は、その背後に同時に型彫師の登場をも告げているといえよう。

現在も続いているいわゆる伝統工芸に属する仕事、あるいはもう少し広く職人芸といわれる分野を見わたしたとき、伊勢型紙の占める位置、あるいは型彫と型染の関係は、なかでも興味深い特質を示しているように思われる。たとえば重要無形文化財の指定を受けている工芸のなかで、自らの手で最終的な作品を生み出さない伊勢型紙はやや異質な存在ではなかろうか。こうした他の分野とは性格を異にする型紙が指定を受けたことと関連して、江戸小紋染めの故小宮孝助氏が、指定を受けることになったとき、「型彫師にやってくれ」と言ったというエピソードが残されている。小宮氏の言葉には、型彫と型染とが互いにかみ合った2つの歯車のように、抜き差しならぬ閑係で歩んできたこととともに、それにもかかわらず、型彫師は常に型染の陰に隠れた存在であるということが含まれているように思われる。かつて型彫師と型染師の間の、職人同士の意地の張り合いとでもいうべきものが質の高いものをつくりだしたといい、また、型染師が買う型の何割かは実際には使えないというような話も聞いたが、それだけに型染にとって型紙がいかに重要かということが窺えるのである。もっとも近代以前には、多くのものはこういう形の職人相互の共同作業によって作り上げられてきたのであろうが、型染の場合、型紙と染められたものは確かに独特の密接な関係にあるといえよう。

さて、ここで一旦視点を変えて考えると、伊勢型紙は伝統的な職人の世界に属していると同時に、たとえば、これまでに出版された型紙集をみれば一目で了解されるように、デザインとしてだけ見ても非常に興味深いものである。ここに、型紙がいわば型染の一手段であるにもかかわらず、ある種の注目を受けてきた理由が見出されよう。たとえば、グラフィックな性格ゆえに、とりわけ19世紀末のヨーロッパの工芸・デザインにはかなりの影響を与えていると考えられる。しかし、近代的、あるいは現代的な工芸・デザインの観点から小紋や中形を考えるとき、ふと疑問に思われるのは、それらに現れたデザイン感覚が優れたものであればあるほど、いったいこれらのデザインは誰が担当したのかという問題である。もちろん小紋などのデザインには、青海波や鱗、麻の葉といった小紋に限らない伝統的な文様がかなり含まれており、小紋や中形の文様も、当然のことながら、江戸以前の長い間の文様の蓄積に多くを負っていることがわかる。また、たとえば近代に入ると、白子にも図案研究会が設立され、新しいデザインを組織的に試み始めるし、また日本画家も中形の下絵を描いたことが知られている。本展にもそう思われる型紙が少し出品されている。鏑木清方の年譜にも、18歳の頃中形の下絵を描いていたことが記されている。清方は、若い頃には絵灯籠の絵付けも手がけていた。今日の画家観からみれば、せいぜい若い頃の修業や、明治の日本画家の苦しい状況を物語る一つのエピソードにすぎないように思われるかもしれないが、むしろ、清方は単に江戸以来の職人絵師の伝統にしたがっていたのではなかろうか。加藤一雄が清方について語っているように、清方は近代の日本画家のなかでは稀に、積極的に職人としての画家にとどまろうとした人であった。江戸の職人絵師たちは、種々雑多な細々としたものの絵付けや下絵をこなしながら、生計を立てていたのであり、小紋や中形の下絵も恐らくその一つであったと考えられる。

型紙の文様は、伝統的な幾何学的なものや、自然を象徴化したものに加え、江戸の人々の現実感覚や諧謔精神といったものをそのままに映し出している。恐らく絵師達は、当時の型屋からの注文に応じながら、時代感覚を巧みにすくい上げ、文様にほとんど無数といっていいヴァリエーションを生み出していったのであろう。それは現在様々な分野で活躍している商業的なデザイナーの役割に近いのかもしれない。江戸時代には、現代のモード雑誌やスタイルブックにあたる雛形本が数多く出版されているが、小紋や中形の場合にも、注文を取るための見本帳が毎年のようにつくられていた。それらを見ると、二重三重に制約を受けた閉じられた世界のなかで、文様のわずかの差異のなかに、型紙は商品としての高い価値を付与されつつ、売る側と買う側とを行き来していたような観を受けるが、こうしたあり方は、資本主義社会におけるデザインのあり方に極めて近いものを示しているようにも思われる。小紋に並々ならぬ関心を示し、『小紋裁』『小紋雅話』などで様々に滑稽な小紋のデザインを示した江戸の戯作者、山東京伝は、すでにこうした資本主義社会のなかのデザインを見事に茶化しているのではなかろうか。

しかしここでもう一度型紙そのものに戻るならば、矛盾するようであるが、ここで強調したいのは、型紙そのものは単なるデザインでは決してないということである。すなわち型紙集の形でグラフィックに再現された型紙と、実際の型紙とは決定的に異なるという点である。型紙にはデザインとしての要素が多分に含まれているが、しかしそれ以上に、このデザインが型染に充分生かされるためには、紙づくり、道具づくりから始まり、工程の一つ一つにわたって、職人的勘と技が必要とされることを教えてくれる。用いる道具や素材を最大限に生かすのは、経験を積むことによって修得された、知識を越えた身体感覚としての身のこなしや勘ではなかろうか。

近代的なデザインとしての性格と、伝統的な職人的な部分をともに鮮明に浮かび上がらせる型紙のあり方は非常に興味深いものである。しかし、近代の工芸観、デザイン観、芸術観というものに浸りすぎた頭には、むしろそこに紛れもなく刻み込まれた職人的伝統の方が新鮮に映るようにも思われる。近代以降のものづくり、あるいはデザインといった世界では軽視され、あるいはデザインの理念の背後に覆い隠されてきたがために、いまや相当な危機にさらされている世界である。伊勢型紙にとっても最もむずかしいのは、技術の伝承ということ以上に、かつてある時代のなかで、作り手と受け手が一体となって型紙と型染をあれほどまで洗練させた状況が失われたということであろう。

(つちだ・まき 三重県立美術館学芸員)

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