伊勢型紙年譜
西暦 | 和暦 | 事項 |
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800年頃 | 延暦年間 | この頃、「白子地方に型売り四人あり」と『形売共年数暦扣帳』に記載されている。 |
1467年頃 | 文正2頃 | 中田四朗の説によると、この頃、京都方面から型紙技術伝来したものと推定されている。 |
1595年 | 文禄4 | 奄芸郡上野城主へ願出の型売り商人は、白子・寺家にて127名であったことが『形売共年数暦扣帳』に記載されているが、真憑性は低い。 |
1619年 | 元和5 | 徳川頼宣が和歌山藩主となり、白子地方紀州領となる。 |
1621年 | 元和7 | 型紙業者、行商の特権を申し出る。 |
1622年 | 元和8 | 頼宣から絵符、駄賃帖、ついで鑑札等が下付される。(『形売共年数暦扣帳』) |
1634年 | 寛永11 | 寛永11 白子に紀州侯の御殿が建立され、代官所が設置される。 この頃、松阪・津などの伊勢商人が江戸に進出する。これに伴い白子回船も盛んになる。 |
1669年 | 弘文9 | 佐兵衛の先祖がこの年に寺家村から江戸へ進出したと記されている。 |
1683年 | 天和3 | 奢侈禁止令が出され、型染の流行が始まる。 |
1692年 | 元禄5 | 『勢州河曲郡江嶋村郷指出シ』に、江島村に型屋が4人いたことが記されている。このことから、白子・寺家両村にはかなりの型屋がいたことが想像される。 |
1716年 | 享保元 | 徳川吉宗が将軍職に就く。江島村は旗本小笠原氏の知行地となる。 |
1751年 | 宝暦元 | 徳川吉宗没。 |
1753年 | 宝暦3 | 白子・寺家両村の型売り商人群が株仲間として公認される。ただし江島村の型売り商人は支配関係が異なるため公認から除外されたため、販売に支障を来した。株仲間は白子村37人、寺家村90人、江島村12名、合計139人に固定される。通り切手(御定賃銭)、鑑札、その他改めて下付される。 |
1764年 | 明和元 | この年以来、行商中は苗字を用いることを許される。 |
1788年 | 天明8 | この年、型彫り職人として、寺家村の彦平が江戸に出たことが、1806年の文書に記載されている。 |
1789年 | 寛政元 | 江島村の型売り商人群、株仲間として公認される。 |
1801年頃 | 享和元頃 | この頃、寺家村の喜右衛門が江戸に進出。 |
1823年 | 文政6 | 型彫職人は、寺家村185人、白子村23人、合計208人。(『型売名前帳并に職人名前帳』) |
1826年 | 文政9 | 江戸出穣株12名を認定する。 |
1841年 | 天保3 | 天保の改革が始まり、幕府は問屋仲間を禁じたため、これに関連して白子港の回船業は、衰退に向かう。 |
1852年 | 嘉永5 | 通り切手再下付される。これより「相対雇賃」となる。 |
1872年 | 明治4 | 廃藩置県が実施される。 |
1873年 | 明治5 | 営業自由の原則により、株仲間解散する。 |
1875年 | 明治8 | この頃より北村庄之助等による渋の改良が始まる。 |
1877年 | 明治10 | この頃、北村治兵衛により「室枯らし」が考案される。 |
1880年 | 明治13 | 株仲間解体。業界の振興策として、共同販売を目的とする「竃賑社」設立(1882年解散)。 |
1881年 | 明治14 | 『竃賑社規則条例書』によると、「竃賑社」に加入した白子・寺家両村の型売り商人は52人であった。 |
1883年 | 明治16 | 9月、中島秀吉生まれる。 |
1889年 | 明治22 | 江島、白子、寺家の3村が合併して白子町となる。 |
1894年 | 明治27 | 9月、南部芳松生まれる。 |
1897年 | 明治30 | 「白子町型紙業組合」が設立される。 |
1902年 | 明治35 | 白子小学校に「町立工業徒弟学校」(夜間3年)が設立され、後に「町立工業学校」と改称する。『販売人売場分区簿』によると、白子・寺家両村の型売り商人は40人に減少。9月、中村勇二郎生まれる。 |
1907年 | 明治40 | 2月、六谷紀久男生まれる。 |
1909年 | 明治42 | 10月、児玉博生まれる。 |
1917年 | 大正6 | 1月、城之口みゑ生まれる。 |
1921年 | 大正10 | この頃、富山県の井波義兵衛が「紗張り」の投法を考案する。 |
1923年 | 大正12 | 組合名を「伊勢型紙業組合」と改称する。この年、関東大震災。これにより業界に好況が続く。 |
1928年 | 昭和3 | 『形紙の話』に、型彫り職人350戸、型地紙業者20戸、販売業者50戸と記載され、明治末頃と比べて数的にかなり増加し、復活の兆しが見られる。 |
1929年 | 昭和4 | 組合より 『型紙の起源と沿革』刊行。 |
1941年 | 昭和16 | 太平洋戦争始まる。戦時中の業界は、衰退の一途をたどる。 |
1942年 | 昭和17 | 鈴鹿市に市制が実施される。 |
1946年 | 昭和21 | 敗戦から業界復活。「伊勢型紙彫刻組合」、その後「伊勢型地紙製造組合」、「日本注染型紙協同組合」、「伊勢染型紙販売組合」などが結成され、後年、これらを連合体として「伊勢染型紙業連合組合」が成立した。 |
1952年 | 昭和27 | 文化財保護委員会より「江戸小紋伊勢型紙」の技術保存の指定を受ける。 |
1954年 | 昭和29 | 文化財保護委員会より江戸小紋型染の小宮康助が、重要無形文化財技術保持者として認定されるに際して(認定は翌年)、江戸小紋という名称が誕生した。 |
1955年 | 昭和30 | 2月15日、文化財保護委員会より、中島秀吉(道具彫)、南部芳松(突彫)、中村勇二郎(道具彫)、六谷紀久男(錐彫)、児玉博(縞彫)、城之口みゑ(糸入れ)の6名が、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者として認定される。 |
1963年 | 昭和38 | 鈴鹿市による伊勢型紙伝承者養成事業(5年1期)が始まる。同時に資料収集にも着手。 |
1968年 | 昭和43 | 中島秀吉(道具彫)没。 |
1970年 | 昭和45 | 中田四朗編『伊勢型紙の歴史』発行。 |
1973年 | 昭和48 | 六谷紀久男(錐彫)没。 |
1975年 | 昭和50 | サントリー美術館で「江戸の型紙」展が開催される。 |
1976年 | 昭和51 | 南部芳松(突彫)没。 |
1978年 | 昭和53 | 小宮康孝、重要無形文化財(江戸小紋)の技術保持者に認定される。 |
1979年 | 昭和54 | 三重県が『伊勢型紙業界産地診断報告書』発行。 |
1980年 | 昭和55 | 東京国立近代美術館で「伝統と現代 日本の型染」展が開催される。 |
1985年 | 昭和60 | 中村勇二郎(道具彫)没。 |
1989年 | 平成元 | 東京国立近代美術館工芸館で「ゆかた よみがえる」展が開催される。 |
1991年 | 平成3 | 11月28日、「伊勢型紙技術保存会」が組織される。 |
1992年 | 平成4 | 4月、「伊勢型紙技術保存会」が三重県の無形文化財の指定を受ける。児玉博(縞彫)没。 |
1993年 | 平成5 | 4月、三重県立美術館県民ギャラリーで「伊勢型紙展」開催。 |
(森本孝・編)