このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 年譜 土田真紀編 飯田善國展図録

年譜

(三重県立美術館学芸員 土田真紀・編)

1923年 栃木県足利市に生まれる。
1941年 群馬県立館林中学校(旧制)を卒業する。
1943年 この年から46年まで軍隊生活を送る。
1948年 慶応大学文学部を卒業する。美学美術史専攻。
1952年 東京芸術大学油絵科(梅原教室)を卒業する。但し最後の一年は林武教室。
1953年 油彩の個展(東京・丸善画廊)を開く。
1954年 7月 油彩の個展(東京・丸善画廊)を開く。「夜」シリーズを初めとする25点を出品する。
1955年 4月 粕三平、石井茂雄、河原温、池田龍雄らと制作者懇談会を結成し、研究活動を行う。
油彩の個展(東京・サエグサ画廊)を開く。
第9回新樹会展(東京日本橋・三越)に出品する。
「八人の会絵画展」(村松ギャラリー)に出品する。
1956年 8月 第10回新樹会展(東京日本橋・三越)に油彩4点を出品する。
11月 ローマに渡る。
1957年 ペリクレ・ファッツィーニの私塾に入り、塑造を学び、初めての彫刻作品、ブロンズの女性裸体像をつくる。
8月 ローマを離れ、ミュンヘンを経由してウィーンに到着。居を定める。
1958年 ヴェネツィアのビエンナーレ展を見に行き、ヴォルスの大回顧展を見て衝撃を受ける。
ヴェネツィアからローマに旅行する。この年から翌年にかけてウィーンの国立版画教育実験学校で聴講生としてエッチングの技法を学ぶ。50枚ほどの試作をつくる。
1959年 ウィーンからローマに再び旅行する。
1960年 3月 アイスランドに渡る。氷河を探検する。
5月 コペンハーゲンに着く。
6月 ウィーンヘの帰路、ミュンヘンに立ち寄り、ノイエ・ピナコテークで開催されていたヘンリー・ムアの大回顧展を見る。彫刻のためのエスキースを描き始める。
10月 ミュンヘンのグルリット画廊で銅版画の個展を開く。
1961年 2月 ウィーンのコーラージュ劇場で“KATAKI”の主役を演じ、ウィーン演劇界の話題となる。
6月 カール・プラントルの招きで鉄鋼会社の組織したカップフェンベルグ市の芸術祭に参加し、初めて3m大の鉄の彫刻2点を制作する。
8月 ウィーン近郊のザンクト・マルガレーテンで開かれた「ヨーロッパ彫刻家のシンポジオン」に招待され、2mの石彫“Das Kind”を制作する。
11月 ウィーン市より美術奨励賞を受ける。
11-12月 ウィーンのアフロ・アジア研究所で彫刻、絵画、素描の個展を開く。
コーラージュ劇場で彫刻のための下絵の個展を開く。
1962年 4月 ウィーンのグリーヒェンバイスル画廊で開かれた「シンポジオン参加者の展覧会」に木彫を出品する。
ミラノのパガーニ画廊で開かれた「現代彫刻展」に出品する。
ウィーンのヴュルトゥル画廊で開かれたグループ展に出品する。
1963年 1月 ウィーンのグリーヒェンバイスル画廊で彫刻(木彫)の個展を開く。
3月 ミラノのパガーニ画廊で彫刻の個展を開き、前年からこの年にかけて制作した“HITO”シリーズの木彫及びブロンズ彫刻を出品する。
7-8月 ユーゴスラヴィアの彫刻シンポジウム“Forma Viva”にオーストリア代表として参加する。樫の大木を彫って「Hito」(男と女)を制作。
9-10月 べルリン市主催の「ヨーロッパ彫刻家のシンポジオン」に参加する。赤色砂岩の石彫を彫る。
10月 ヴェネツィアのイル・カナレ画廊で彫刻の個展を開き、前年からこの年にかけて制作した“HITO”シリーズを初めとする銅及び真鍮の彫刻を出品する。
11月 ウィーンから西ベルリンへ移住する。
パリのサロン・ド・マルクッシに出品する。
1964年 ローマの日本文化協会の「ヨーロッパの日本人作家展」に出品する。
1965年 9-10月 ハノーヴァーのブルスベルク画廊企画のスガイ・モリタ・イイダの三人展に木、銅、ブロンズによる“HITO”シリーズを出品する。
10-11月「在外日本作家展 ヨーロッパとアメリカ」(東京国立近代美術館)に木にペンキ彩色の“COSMOS”シリーズの3点、「作品NO.20」、「作品NO.21」、「作品NO.22」(3点共1965)を出品する。
この年、「アムステルダム・ベルリン・フランクフルト65年展」と「国際彫刻シンポジウム展望展」に招待参加する。
カタリーナ・バイテルと結婚する。
またベルリンのスプリンガー画廊と契約する。
1966年 西ドイツのオランジェリー美術館で開かれた、西ベルリンの中堅彫刻家10人が参加した野外の展覧会「我々の時代の彫刻」に“HITO”シリーズを出品する。
館長ヴェルナー・ホフマンが組織したウィーンの国立20世紀美術館の展覧会「彫刻、ロダンから今日まで」に“HITO”シリーズを出品する。
この年から翌年にかけて一年間、ドイツ・アカデミー交換機関より「アーティスト・イン・レジデンツ」のフェローを受ける。
1967年 1月 ベルリン市主催の「モニュメント彫刻指名コンペティション」に参加する。参加彫刻家6名のなかで一位となり、西ベルリン消防署本部の正面玄関に「見張る人」(ステンレススティール)を制作する。完成は1967年8月。
5月 第9回日本国際美術展(東京都美術館)に“COSMOS”シリーズを立体へと展開させた「Zwielicht」(1965)を出品する。
5-9月 「第9回アントワープ国際彫刻ビエンナーレ」に出品する。
6-7月 ベルリンのシュプリンガー画廊で彫刻の個展を開き、62年から67年にかけて制作した木、銅、真鍮による“HITO”シリーズの彫刻21点を出品する。
10-11月 宇部市で開催された「第2回現代日本彫刻展」(宇部市野外彫刻美術館)にベルリンから参加、真鍮の作品「存在」を出品する。
11月 カナダの万国博を訪れた後、ニュー・ヨーク、ロス・アンジェルスを経て帰国する。
1968年 5月 「第8回現代日本美術展」(東京都美術館)にステンレススティールの「作品=Werk」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受ける。
10-11月 「第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展」に「ミラー・オン・ザ・コンストラクション」(1968)を出品し、最高賞を受ける。
11月 翌年にかけて、「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」の準備のため、ヨーロッパ、アメリカを訪問する。
この年、東京・大日本インキ化学工業本社ビル3階テラスに「動くコスモス」を制作する。
1969年 3-4月 日本で初めて彫刻の個展(東京・南画廊)を開き、ステンレススティールの鏡面磨きによる「作品」シリーズを出品する。
5月 「第9回現代日本美術展」(東京都美術館)の第2部門「現代美術のフロンティア」に鋼材に麻縄を組み合わせた彫刻「時間=空間」を出品する。
6-8月 「現代世界美術展 東と西の対話」(東京国立近代美術館)に「ミラー・オン・ザ・コンストラクションNO.2」(1969)を出品する。
8-10月 「第1回現代国際彫刻展」(箱根・彫刻の森美術館)の第二部国内招待部門に「空から空へ」(1969)を出品する。
9-11月 大阪万国博「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」に実行委員、運営委員として参加し、「時間の風景」(1969)を出品する。カタログの編集も行う。
10-11月 「第3回現代日本彫刻展」(宇部市野外彫刻美術館)に「WERK・SPIEGEL」シリーズ3点を出品する。
西ベルリンで開かれた「アンデパンダン展」に「COSMOS-WHITE」(1964)と「COSMOS-BLUE」(1964)を出品する。
この年、東京・菊池色素工業本社ビルに「傾くコスモス」、足利市民会館に「風鏡」、滋賀・日本バイリーン守山工場に「鳥人」を制作する。
1970年 3-9月 大阪「万国博美術展 調和の発見 Ⅴ現代の躍動」に「時間の風景NO.2」を出品する。
西ベルリンで開催されたドイツ・アカデミー交換機関とゲーテ・インスティテュートの共催の「ベリルン芸術家プログラム」の完遂記念展にベルリン時代の作品を出品する。
ウィーンのグリーヒェンバイスル画廊の開設十周年記念展に木彫の“HITO”シリーズを出品する。
この年、大阪・千里ニュータウンのセンター広場に「ステンレスの林」を制作する。
1971年 5月 「第10回現代日本美術展」(東京都美術館)に鉄板による立体作品「條件」を出品する。
この年、千葉県・行川アイランドに「宇宙軸」を制作する。
1972年 5月 語人西脇順三郎との共同制作になる『詩画集クロマトポイエマ』の展覧会(東京・南天子画廊)を開く。
6月 カッセルのドクメンタ5を訪れ、そのレポートを書く。
11月 二期会の創立20周年記念のオペラ、リヒャルト・ワーグナー作「ワルキューレ」の公演で舞台美術を担当する。
この年、栃木県立美術館に「星と人間の間」、長野県・美ヶ原高原美術館に「時間の風景NO.3」を制作する。
1973年 5月 「現代日本美術展─現代美術20年の展望」(東京都美術館)に「WERK-NO.6」(1969)が出品される。
6-7月 「戦後日本美術の展開 抽象表現の多様化」(東京国立近代美術館)に「ミラー・オン・ザ・コンストラクションNO.2」(1969)が出品される。
10-11月 「第5回現代日本彫刻展─形と色」(宇部市野外彫刻美術館)に初めての色紐を用いた作品「MARILYN MONROE」(1973)を出品する。
この年、国務省の招待によりアメリカ南部、西部、中部を旅行する。
ロンドンのアネリー・ジュダ画廊で「クロマトポイエマ展」を開く。
チューリッヒのレネ・チーグラー画廊で「クロマトポイエマ展」を開く。
1974年 5-6月 ニュー・ヨークのドゥニーズ・ルネ画廊で「クロマトフィロロギア展」を開く。「クロマトポイエマ」を展開させたキャンヴァスにアクリリックの絵画13点と、ステンレススティールや木にビニール・ロープを組み合わせた彫刻11点を出品する。
10-11月 国内でも「クロマトフィロロギア展」(東京・南画廊)を開き、多面体シリーズの最初の作品「HEXAHEDRON」(1973)を含む彫刻9点、絵画11点、素描16点を出品する。
この年、ケルンのシュピーゲル画廊でも「クロマトポイエマ展」を開く。
ユーゴスラヴィアのリュブリアナ、西ドイツのマンハイム美術館、カナダのヴァンクーバーを巡回した「ジャパン・アート・フェスティバル」に出品する。
また西ドイツのデュッセルドルフ市立美術館で開催された「日本─伝統と現代」に出品する。この展覧会はその後、「北欧巡回日本現代美術展」としてデンマークのルイジアナ美術館等を巡回する。
1975年 5月 パリのラ・ボエシーのドゥニーズ・ルネ画廊で「クロマトフィロロギア展」を開く。
5月「第11回現代日本美術展」にクロマトフィロロギアの方法による3点の作品「NOZUI-BRAIN」(1975)、「SHINKEI-NERVE」(1975)、「HANA-NOSE」(1975)を出品する。
6-11月 「第2回彫刻の森美術館大賞展」(箱根・彫刻の森美術館)に「六面体」(1973)を出品する。
9月 「日本現代美術の展望」(西武美術館)に「男・女」(1974)、「ウー」(1974)、「円周と球体」を出品する。
9月 パリのサン・ジェルマンのドゥニーズ・ルネ画廊で「クロマトポイエマ展」を開く。
10月 「現代彫刻20」(東京・セントラル美術館)にガラスにナイロンロープを組み合わせた2つの作品「1つのガラス球」と「2つのガラス球」を出品する。
この年、沖縄海洋博政府出展館アクアポリスに「七色の舞台」を制作する。
1976年 小沢書店より『見えない彫刻』を刊行する。
1977年 8月 「ジャパン・アート・フェスティバル10周年記念 日本現代絵画展」(高島屋)に出品する。
「立体と平面展」(東京・ギャラリーせいほう)に出品する。
1978年 3月 「飯田善國展〈物質と形態〉クロマトフィロロギアによる」(東京・南画廊)を開く。鉛とステンレスの同形の立体を着色ナイロン・ロープでつないだシリーズなど4点の彫刻と「Relation」と題されたエスキース12点を出品する。
この年、東京・野村ビルに「風の舞い」、新前橋駅前広場に「Mの噴水」を制作する。
第一詩集『ナンシーの鎧』を刊行する。
1979年 9月 「多摩の作家’79 日本現代美術の20人」(伊勢丹立川店)に“HITO”シリーズ2点を出品する。
この年、北海道立近代美術館に「時間の風景」を制作する。
1980年 2-3月 「開館5周年記念 現代彫刻の歩み展─41人の作家による戦後彫刻の足跡」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)に「円盤Disk」(1977-78)、「六面体-Hexahedron」(1977-78)を出品する。
5-6月 滞欧期の素描による個展「彫刻のための素描・1962」(東京・雅陶堂ギャラリー及び京都・ギャラリーなかむら)を開く。
10-11月 ロンドンのアネリー・ジュダ画廊で多面体シリーズの彫刻と素描の個展を開く。このため、翌年2月にかけて渡欧する。
この年、足利市立筑波小学校に「子供たちの太陽」、東京・原美術館に「風の息吹き」を制作する。
書肆山田より第二詩集『円盤の5月』を刊行する。
1981年 6-7月 彫刻の個展(東京・雅陶堂ギャラリー)を開き、多面体シリーズ4点を出品する。
7-8月「開館30周年記念展第Ⅱ部 日本近代彫刻の展開」(神奈川県立近代美術館)に「HITO Ⅰ」(1962)、「HITO Ⅱ」(1962)、「HITO Ⅲ」(1962)、「WERK」(1968)の4点を出品する。
8月 軽井沢財団法人高輪美術館の開館記念展に「円筒」(1977-78)を出品する。
9-11月「現代美術の動向I 1950年代─その暗黒と光芒」(東京都美術館)に初期の油彩3点「片方の長靴」(1955)、「坐った女」(1955)、「戦争B(原題不詳)」(1955)を出品する。
11月 「日本現代美術展 70年代日本美術の動向」(韓國文化藝術振興院美術会館)に「Hexahedron」を出品する。
この年、東京・慶応義塾大学新図書館のために「知識の花弁」、箱根・彫刻の森美術館に「光る翼」、パリ市野外彫刻美術館に「光る翼」を制作する。
小沢書店より『震える空間』を刊行する。
1982年 オーストリアのモンタフォン地方に滞在し、作家論「ピカソ」を執筆する。
大津・西武百貨店で開かれた展覧会に「八面体─OCTAHEDRON」(1981)を出品する。
この年、東京・菊池色素工業本社研究所に「光の樹」、京都・立石電機OMRON研修センター啓真館に「メタルツリー」、横浜市伊勢佐木町モール街に「かもめ」を制作する。
1983年 4月 法政大学工学部建築学科教授となる。
6月 「五人の画家による六月展」(東京・雅陶堂ギャラリー竹芝)にデッサンを出品する。
9-10月「飯田善國の世界」展(煥乎堂3Fギャラリィ)を開く。
11月 「飯田善國 谷・間─CANYON」展(東京・雅陶堂ギャラリー竹芝、雅陶堂ギャラリー)を開く。「SCREEN-CANYON」を初めとする多面体シリーズの彫刻5点と北村太郎詩集『冬を追う雨』よりの素描連作を出品する。
岩波書店より20世紀思想家文庫の一冊として『ピカソ』が刊行される。
また思潮社より第三詩集『見知らぬ町で』が刊行される。
1984年 8-9月 「現代日本彫刻の流れ」(大津・西武ホール)に「円筒─シリンダー」(1977-78)が出品される。
10-11月 「動く彫刻展─4人の作家からの贈りもの」(呉市立美術館)に従来の鏡面のモビール作品のマケットに加え、木と和紙を素材としたモビール「木に吹く風 I」(1984)、「木に吹く風Ⅱ」(1984)を出品する。
この年、東京・慶応義塾大学三田キャンパスに「星への信号」を制作する。
1985年 1-2月 「開館10周年記念 現代彫刻の歩み─木の造形」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)に「木の吹く風 Ⅰ」(1984)が出品される。
12月 イギリスのオックスフォード近代美術館で開かれた「再構成─日本のアヴァンギャルド1945-1965」展に「制作者懇談会」時代の油彩「戦争A」(1955)と「戦争B」(1955)が出品される。またシンポジウムのパネラーとしてオックスフォードを訪れ、「ニュー・リアリズム─1950年代における芸術家の討論グループ」と題した講演を行う。
この年、筑波・国際科学技術博覧会松下館に「水の火炎」、神戸・アシックス本社ビルに「夢みる円盤」、横浜・トーヨコ本社ビルに「透きとおる夢」、呉市立美術館に「天の小さな柱、鴎よ」を制作する。
1986年 2月 「読むオブジェ 文字と物質」(京都・ギャラリー射手座)に出品する。
3月 箱根・彫刻の森美術館で開かれたシンポジウム「第1回 建築と彫刻の出会い」に出席する。
5月 「つかしんアニュアル’86 HANGING─吊された美術」(尼崎・つかしんホール)と天井と床をナイロンロープでつないだ「CEILING-FLOOR」と素描5点を出品する。
9-10月 フランクフルト・アム・マインのシュトルヴェルピーター美術館で個展を開く。同市へ赴く。
10月 「芸術─平和への対話」展(横浜市大倉山記念館)に素描「戦争と平和」を出品する。
11月 滞欧期の“HITO”シリーズ及び“COSMOS”シリーズの彫刻29点と素描20点による個展「飯田善國 ROMA-WINE-BERLIN 1957-1967」(東京・雅陶堂ギャラリー竹芝)を開く。
この年、東京・サントリーホールに「雲への挨拶」、札幌市・芸術の森に「大地からの閃光」、宇都宮市・新市庁舎のために「光の舞」を制作する。
1987年 美術出版社より作品集『飯田善國・ミラーモビール』を刊行する。
1988年 1月「つながれた形の間に─飯田善國展」(三重県立美術館、目黒区美術館、京都国立近代美術館の共同主催)が三重県立美術館で開催される。
5月 同展が目黒区美術館で開催される。
8月 同展が京都国立近代美術館で開催される。
ページID:000056552