日露交渉史関連年表
土田真紀・編
年代 | 日本 | ロシア | ヨーロッパ |
---|---|---|---|
1579 | コサックの隊長エルマークがウラル山脈を越えてシベリアに進出 | ||
1639 | ロシア人、オホーツク海に達する | ||
1697 | アトラソフのカムチャッカ探険(-99)。その途中、カムチャッカに漂着した大阪の商人伝兵衛に出会う | ||
1702 | 伝兵衛、ピョートル1世に謁見。伝兵衛の話はロシア語に訳され、シベリア局に提出される | ||
1705 | ペテルブルグに日本語学校の前身が設けられ、伝兵衛が教師となる。 | ||
1710年代 | ロシア人、千島列島に進出 | ||
1713 | モスクワよりペテルブルグへ遷都 | ||
1714 | 日本人漂流民の1人がペテルブルグに送られ、伝兵衛の助手となる | ||
1725 | ベーリングの最初の北太平洋探検(-30) | ||
1733 | アカデミーによるシベリア学術探検(-43) | ||
1736 | 閉鎖状態にあったペテルブルグの日本語学校が再び開校。2人の日本人漂流民が教師となる | ||
1739 | 陸奥・安房の海上に、ロシア探検船が出没 | ||
1742 | イルクーツクに日本航海学校創立 | ||
1745 | 南部藩の竹内徳兵衛の一行が千島に漂着。うち9人は後に日本語学校教師となる | ||
1751 | 松前藩士加藤嘉兵衛、蝦夷地を探検 | ヴォルテール『ルイ14世時代史』 ディドロら、『百科全書』を編集(-52) ブーシェ「ヴィーナスの化粧」 |
|
1752 | 将軍、琉球使節を引見 平賀源内、長崎に遊学 |
『百科全書』の最初の発禁 マドリッドにサン・フェルナンド王立アカデミー創設 |
|
1753 | 鳥取藩藩校尚徳館創設 | 大英博物館創立 ブーシェら、フォンテーヌブロー宮の装飾 ホガース『美の分析』 |
|
1754 | 千島の国後に「場所」を設ける | ラストレルリ、ペテルブルグに冬宮を建設(-62) 日本語学校がペテルブルグからイルクーツクに移転 |
フラゴナール「使徒たちの足を洗うキリスト」 ガブリエル、ルイ15世広場を設計 チッペンデール『家具装飾図案集』 |
1755 | 熊本薄藩校時習館創設 | ロシア最初の大学がモスクワに創立 イギリスと同盟を結ぶ |
ルソー『人間不平等起源論』 ブーシェ「春」 ヴィンケルマン『ギリシャ美術模倣論』 |
1756 | 平賀源内、江戸に出る | ペテルブルグに常設のロシア職業俳優劇場創立 | 七年戦争始まる(-63) フラゴナール、ローマ賞を得てイタリアに留学 |
1757 | ペテルブルグに美術アカデミー創立 七年戦争に参加(-62) |
ガブリエル、ヴェルサイユ宮の劇場に着手(-70) ティエポロ、ヴィチェンツァのヴィルラ・ヴァルマラナの装飾 |
|
1758 | 小倉藩藩校思水斎、松江藩藩校文明館創設 賀茂真淵『源氏物語新釈』 |
ロバート・アダム、イタリアから帰国 ブーシェ「ポンパドゥール夫人の肖像」 |
|
1759 | 伊藤若沖「鹿苑寺大書院障壁画」 | クーネルスドルフでプロイセン軍に大勝 | ヴォルテール『カンディード』 ポルトガル、イエズス会を追放 ディドロのサロン評始まる |
1760 | 江戸城二の丸上棟 徳川家治十代将軍となる 高知藩藩校教授館創設 賀茂真淵『国意考』『万葉集考』 |
領主に農奴のシベリア送りを許可 ロシア軍、ベルリンを掠奪 |
ルソー『新エロイーズ』 ウーバン、ヴェルサイユ宮のルイ15世の机 |
1761 | ピヨートル3世即位(-62) | キュヴィイエ、ミュンヘン宮の家具デザイン チェンバース、王室建築家となる |
|
1762 | エカテリーナ2世即位(-96) | ルソー『エミール』『社会契約論』 ガブリエル、ヴェルサイユのプティ・トリアノンの建築(-66) ティエポロ、マドリッドに招かれ、王宮の天井画制作 |
|
1763 | 平賀源内『物類品隲』 本居宣長『紫文要領』『石上私淑言』 |
モスクワに貧民のための病院付き養育院創立 | |
1764 | 朝鮮通信使、琉球使節登城 本居宣長、賀茂真淵に入門 |
エカテリーナ2世、ベルリンの画商から225点の絵画を購入し、冬宮に展示、エルミタージュと称する 貴族と富裕な家の娘のためのスモーリヌィ女学院創立 |
ヴィンケルマン『古代美術史』 ロバート・アダム『スパラトのディオクレティアヌス宮殿遺構』 |
1765 | カピタンのウィンケム、寒暖計を平賀源内に見せる 後藤梨春が『紅毛談』を刊行したが、幕府によって絶版となる 幕府、奥医師多紀元孝に医学館を設立させる 伊藤若沖、動植綵絵24幅ほかを相国寺に寄進 鈴木春信らにより多色刷りの錦絵始まる |
自由経済教会が発足 | ワット、蒸気機関を発明 イタリアのグリッチ、マドリッドのアランホエス離宮の「陶磁器の間」を完成 ブーシェ、宮廷の首席画家になる |
1766 | ファルコネ、エカテリーナ2世に招かれ、ペテルブルグに滞在し、「ピョートル大帝騎馬像」制作 リナルディ、モスクワのガトシナ宮殿の建築(-77) |
||
1767 | 田沼意次、側用人となる | エカテリーナ2世、立法委員会をモスクワに召集し、ここで『訓令』を発表 | ロベール、ヴェルサイユ宮庭園の改造 |
1768 | 上田秋成『雨月物語』 | ポーランドヘの軍事干渉(-72) トルコと戦争(-74) リナルディ、ペテルブルグの大理石宮殿のファサードを設計 |
『エンサイクロペディア=ブリタニカ』の編集始まる(-71) イギリスのロイヤル・アカデミー創立 初代会長にレイノルズ就任 クック、第1次南太平洋探検に出発(-71) |
1769 | エルミタージュのため、ザクセンのブリュール伯コレクションを購入 トルコ支配下のルーマニアを征服 |
フランスで初めて真の磁器がつくられる | |
1770 | エルミタージュのため、パリのクロザ・コレクションを購入 | ブーシェ、ティエポロ没 | |
1771 | 杉田玄白ら、『ターヘル=アナトミア』の翻訳を開始 池大雅・蕪村「十便図」「十宜図」 |
クリミア半島を征服 | この頃、フラゴナール、「愛のなりゆき」シリーズを制作(-73) |
1772 | 田沼意次、老中となる | オーストリア、プロイセンとともに第1次ポー ランド分割を行う |
ルドゥー、ヴェルサイユにデュ・バリー夫人の館を建築 サバティーニ、アランホエス離宮(マドリッド)を完成 |
1773 | 平賀源内、秋田藩に赴き、小田野直武に西洋画法を伝える | プガチョフの反乱(-75) エカテリーナ2世、ディドロをロシアに招待 |
ローマ教皇、イエズス会解散を命ずる ロバート・アダム、家具デザイン集を刊行 |
1774 | 飛騨屋久兵衛、松前藩債務の代わりに根室・国後等の場所を請け負う 杉田玄白ら『解体新書』 |
トルコとクチュク=カイナルジ条約を締結し、黒海に進出 | ゲーンズボロ、ロンドンに移住 ルイ15世没。ルイ16世即位 |
1775 | エカテリーナ2世、「県行政令」を発布し、地方行政の改革に着手 | ダヴィッド、ローマに赴く(-80) | |
1776 | ツンベルグを従え、オランダ商館長、将軍に謁見 池大雅「楼閣山水図屏風」「山水人物図襖」(遍照光院) |
モスクワにボリショイ劇場創立 | スミス『国富論』 ゴヤ、王室タピスリー工場のための下絵を描き始める |
1777 | この年以前に小田野直武「不忍池図」成る | ||
1778 | ロシア船、蝦夷地厚岸に来航 佐竹曙山『画法綱領』『画図理解』 蕪村「奥の細道図巻」「野ざらし紀行図屏風」 |
フランス、アメリカの独立を承認 | |
1779 | 松前藩、ロシア船の通商要求を退ける 塙保己一、『群書類従』の編纂に着手 平賀源内、獄死 浦上玉堂『玉堂琴譜』 |
||
1780 | 小野蘭山、学塾衆芳軒で『大和本草』の講義を始める 中国船、安房国の海岸に漂着 |
武装中立宣言 モスクワに大劇場が完成 |
ゲーンズボロ、王室から初めて注文を受ける |
1781 | クァレンギによるペテルホフの英国館、着工 | カント『純粋理性批判』 | |
1782 | 伊勢の神昌丸、遠州灘で遭難し、大黒屋光太夫ら漂流 | クァレンギによるペテルブルグのエルミタージュ劇場の建築(-85) カメロンによるパヴロスク宮殿の建築(-85) |
フランス国立第二劇場(オデオン座)創立 |
1783 | 工藤兵助、自著『赤蝦夷風説考』を田沼意次に提出 大槻玄沢『蘭学階梯』 司馬江漢、初めて銅版画「三囲景図」の制作に成功 |
クリミア汗国を併合 大黒屋光太夫ら、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着 |
イギリス、アメリカの独立を承認 |
1784 | ディドロ没 | ||
1785 | 幕府、蝦夷地調査を行う 前野良沢『和蘭訳筌』 本居宣長『漢字三音考』『詞の玉緒』 |
ダヴィッド、「ホラティウスの誓い」をサロンに出品 モーツァルト「フィガロの結婚」 |
|
1786 | 田沼意次、失脚 徳川家治没 最上徳内・大石逸平、蝦夷地を探検し、徳撫島に到る 林子平『海国兵談』 |
エカテリーナ2世の学校建設計画 | フリードリヒ大王没 |
1787 | 徳川家斉十一代将軍となる 松平定信、老中となる 円山応挙、松村呉春ら、但馬大乗寺の障壁画を制作 司馬江漢銅版画「両国橋図」 |
トルコと戦争(-91) | ミック、プティ・トリアノンの内部をマリー・アントワネットのために改装 ロベール、ルイ16世の依頼でフォンテーヌブロー宮のサロンのための絵画を完成 |
1788 | 司馬江漢、西遊の旅に出る | スウェーデンと戦争(-90) | イギリス『タイムズ』紙創刊 |
1789 | 松前藩、国後の蝦夷を鎮圧 | 大黒屋光太夫ら、イルクーツクに到着 | フランス大革命 ゴヤ、宮廷画家になる |
1790 | 将軍、琉球使節と会う 幕府、湯島聖堂において異学の講究を禁止 長崎奉行所、浦上のキリスト教徒19人を密告により逮捕 本居宣長『古事記伝』刊行始まる(-98) 禁裏造営のため、狩野派、土佐派、円山応挙らの画家が召集される |
ラディーシチェフの農奴制批判の書『ペテルブルグからモスクワへの旅』刊行 | |
1791 | 最上徳内ら、択捉島に到る 長門、石見両国海上に外国船出没につき、幕府、来航時の措置を命ずる |
トルコとヤッシー講和 大黒屋光太夫、ペテルブルグでエカテリ-ナ2世に謁見 |
フランス革命議会、アカデミーを解散 |
1792 | 林子平『三国通覧図説』『海国兵談』を発禁にする 松平定信、蝦夷地警備を諮る 大黒屋光太夫を送還するため、最初のロシア使節ラクスマンが根室に来航 幕府、ラクスマン応接の使者を松前に遣わす |
フランス共和国と断交 エカテリーナ2世、自由思想家ノヴィコフを投獄 クァレンギによるツァールスコエ・セローのアレクサンドル宮殿の建築(-96) |
フランス、オーストリアに宣戦布告 フランス第一共和制成立 ゴヤ、聴覚を失う |
1793 | 松平定信ら、伊豆・相模の海岸巡視を命ずる ラクスマンら、箱館に入港。幕府の使者、ラクスマンを松前に招き、長崎入港許可を与える 将軍、吹上園で大黒屋光太夫らに引見。 翌年、桂川甫周が『北槎聞略』にまとめる 谷文晁「公余探勝図巻」 |
オーストリア・プロイセンとともに第2次ポーランド分割 | ルイ16世処刑 ルーヴル美術館、開館 ゴヤ、「気まぐれ」の制作開始 |
1794 | 新井成美、祖父白石の『西洋紀聞』を幕府に献上 大槻玄沢ら、江戸の芝蘭堂で初めてオランダ正月を祝う。大黒屋光太夫も招かれる 東洲斎写楽「江戸三座役者似顔絵」 |
テルミドールの反動 | |
1795 | 第3次ポーランド分割 | フランスに総裁政府、成立 フランスのアカデミー、再結成 ゲーテ『ヴィルヘルム=マイスターの修行時代』 |
|
1796 | イギリスの航海者プロートン、海図作成のため絵鞆(室蘭)に来る 亜欧堂田善、松平定信の御用絵師となる |
ペルシアとの戦争(-97) エカテリーナ2世没 パーヴェル1世即位(-1801) |
ナポレオン、イタリアに遠征 |
1797 | 幕府、外国船漂着時の措置を諸大名に令する 南部・津軽両藩に松前・箱館守備を命ずる対馬沖に外国船出没。ロシア人、択捉島に上陸 湯島の聖堂・学舎の管理を幕府の直轄に移し、学問所と改称 |
ペテルブルグとカザンに神学アカデミー創立 | アングル、パリに出てダヴィッドに学ぶ |
1798 | 幕府、蝦夷地を巡見 近藤守重、択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる |
第2次対仏大同盟に参加 ペテルブルグに医学=外科医学校をもとに医学=外科アカデミー創立 |
ナポレオン、エジプトに遠征。美術家、学者を随行させる ネルソン、フランス艦隊を破る |
1799 | 松前藩の東蝦夷の地を7年間幕府直轄とする 高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く 司馬江藻『西洋画談』 |
スヴォーロフの北イタリアおよびスイス遠征 | クーデターで執政政府が樹立される。ナポレオンが第一執政官となる ゴヤ、宮廷首席画家になる |
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地測量に出発 昌平坂学問所に幕府の諸士の入学を許す |
バーヴェル1世、ナポレオンと同盟 | ナポレオン、イタリアに遠征 ゴヤ「カルロス4世の家族」 |
1801 | 松平忠明、石川忠房ら幕命を受け、蝦夷地測量に出発 中村小一郎ら、樺太を巡視 志筑忠雄、ケンペルの『日本見聞録』を抄訳し、『鎖国論』と題する 田能村竹田、初めて谷文晁を訪れる |
宮廷革命でバーヴェル1世暗殺 アレクサンドル1世即位(-25) イギリスと外交関係復活 フランスと平和条約締結 東グルジアを併合 ペテルブルグに文学・科学・芸術愛好家 自由協会創立 |
ジロデとジェラール、マルメゾン宮の装飾に携わる |
1802 | 幕府、蝦夷奉行を創設(後に箱館奉行と改称) 谷文晁「木村蒹葭堂像」 十返舎一九『東海道中膝栗毛』刊行 |
省および大臣委員会の設置 ドルパット大学創立 ペテルブルグに音楽協会創立 |
ナポレオン、終身執政官となる 「エルギン・マーブル」が大英博物館に収蔵される |
1803 | アメリカ船が長崎に来航し、貿易を求めるが、幕府、拒絶 イギリス船、長崎に入港 |
ヴィリノ大学創立 クルンゼンシュテルンとリシャンスキーの指揮でロシア最初の世界一周航海(-06) |
|
1804 | ロシア使節レザノフが、漂流民送還のため長崎へ来航し、通商を求める 葛飾北斎、江戸護国寺で大達磨図を描く |
ペルシアとの戦争(-13)、北部アゼルバイジャンを併合 カザン大学、ハリコフ大学創立 |
ナポレオン、皇帝となる ナポレオン法典発布 ベートーヴェン「英雄交響曲」 タヴィッド、宮廷首席画家となる |
1805 | 幕府、沿岸諸大名に、ロシア船来航につき警戒を命ずる 幕府、遠山景晋を長崎に派遣し、通商拒絶の旨を伝える レザノフ、長崎を退去 華岡青洲、自家発明の麻酔剤を用いて乳ガン手術に成功 |
第3次対仏大同盟に参加(-07) アウステルリッツの会戦で敗れる |
トラファルガーの海戦 |
1806 | レザノフの部下フボストフとダビドフが南千島とサハリンの日本人集落を襲う(-07) 池大雅『大雅堂画法』 |
トルコと戦争(-12) 第4次対仏大同盟に参加 |
神聖ローマ帝国、滅びる ナポレオン、ベルリンで大陸封鎖令を布告 ナポレオン戦勝記念の凱旋門等、着工 |
1807 | ロシア船、択捉島、樺太、利尻島を次々と襲う 幕府、国後島、利尻島を巡見させる 幕府、箱館奉行を廃し、松前奉行を置く |
ティルジットの和約締結。イギリスと国交関係断絶し、大陸封鎖に参加 | フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(-08) タヴィッド「ナポレオン1世の戴冠式」を完成 |
1808 | 間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出発 イギリス軍艦フェートン号、オランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、オランダ商館の引渡しを求める 幕府、長崎通詞6人にフランス語を学ばせる |
スウェーデンとの戦争(-09) | ゲーテ『ファウスト』(第1部) アングル「ヴァルパンソンの浴女」 |
1809 | 長崎通詞にロシア語、英語をも兼習させる 幕府、樺太を北蝦夷地と改称 |
スペランスキーの国家改造案成立 フィンランドを併合 |
ナポレオンのオーストリア戦争始まる メッテルニヒ、オーストリア宰相に就任 |
1810 | 国家評議会設置 大陸封鎖に不服従 ペテルブルグに交通技術大学創立 |
フランス、オランダを領有 ベルリン大学創立 |
|
1811 | 松前奉行所の下役、国後島でロシアの海軍士官ゴロブニンを捕え、松前に連行 幕府、天文方に蕃書和解御用掛を新設 |
カラムジン、『古きロシアと新しきロシアについての覚書』をアレクサンドル1世に提出 ペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セローに博物館開館 ペテルブルグに森林研究所創立 |
|
1812 | ゴロブニン、脱獄を計り失敗 リコルド、日本人漂流民とゴロブニンの交換のため国後島に来航するが、失敗。 国後島海上で高田屋嘉兵衛を捕えて去る |
スペランスキー追放 6月、ナポレオン、ロシア領内に侵攻 9月、ポロディノの戦い、ナポレオンのモスクワ入城 10月、ナポレオン軍、モスクワ撤退を開始 |
|
1813 | 幕府、馬場貞由らに、ゴロブニンについてロシア語を習得するよう命ずる リコルド、国後島に来航し、高田屋嘉兵衛を介してゴロブニン釈放を交渉 オランダ商館乗取りのため、イギリスのワルデナール、長崎に来航 幕府、ゴロブニンを釈放 |
プロイセン・オーストリア、フランスに宣戦布告 ライプツィヒの戦い(諸国民戦争) |
|
1814 | イギリス船シャーロット号、長崎に入港 伊能忠敬、幕府に「大日本輿地沿海図」を献上 幕府、箱館・松前以外の蝦夷地守備撤兵を、津軽・南部両藩に命ずる 葛飾北斎ら『北斎漫画』刊 曲亭馬琴『南総里見入犬伝』刊 |
ペテルブルグに帝室公共図書館開館 | ナポレオン、退位し、エルバ島に流される ウィーン会議、開催 アングル「グランド・オダリスク」 ゴヤ「5月2日」「5月3日」(-15) |
1815 | 司馬江漢『江漢西遊日記』 | エルミタージュ、ナポレオン1世妃ジョゼフィーヌのマルメゾン城のコレクションを購入 オーストリア、プロイセン、イギリスと四国同盟を結ぶ |
ナポレオン、エルバ島を脱出し、復位するが、ワーテルローの戦いに破れ、セントヘレナ島に流される |
1816 | 1813年漂流の尾張の船頭重吉、ロシア船で得撫島に送還される 鉄砲鍛冶国友能島ら、オランダ銃を摸して空気銃を製造 吉雄権之助ら訳『ドゥーフ・ハルマ』(蘭和字典) |
ゴロブニン『日本幽囚記』 画家キプレンスキー、ローマに赴く(-23) イルクーツクの日本語学校、閉鎖される |
|
1817 | イギリス船、浦賀に来航 | 聖イサーク寺院建設(-57) ペテルブルグに鉱物学協会創立 |
|
1818 | イギリス人ゴードン、浦賀に来航し、通商を要求するが、幕府は拒否 | ペテルブルグにアジア博物館開館 カラムージン『ロシア帝国史』 |
アーヘン会議が開かれ、オーストリア・ロシア・プロイセン・イギリス・フランス五国同盟成立 |
1819 | 塙保己一『郡書類従』の刊行、完了 | 教育大学をもとにしたペテルブルグ大学創立 ペテルブルグに中央技術大学創立 べリンスガウゼンとラザーレフの世界一周航海と南極大陸発見(-21) |
蒸気船サヴァンナ号、大西洋横断に成功 |
1820 | スペインとポルトガルで革命が起こる ブレイク『ヨブ記』(水彩) |
||
1821 | オランダ翻訳書の出版を許可制にする 幕府、東西蝦夷地を松前氏に還付 渡辺崋山「佐藤一斎像」 |
ペテルブルグに芸術振興協会組織 | ギリシア独立戦争起こる(-29) フリードリヒ「希望号の難破」(第1作) |
1822 | グリボエードフ『知慧の悲しみ』 画家ブリュローフ、ローマに留学(-34) |
ギリシア、独立を宣言 ドラクロワ、「ダンテの小舟」をサロンに初出品 |
|
1823 | ドイツ人シーボルト、長崎オランダ商館医師として着任 | プーシキン『エヴゲーニィ=オネーギン』第1章、2章 | ベートーヴェン「第九交響曲」 |
1824 | シーボルト、長崎郊外に鳴滝塾を開き、博物学・医学を講ずる 幕府、足立左内の『露西亜学筌』翻訳を賞する |
モスクワ小(マールイ)劇場創立 アメリカと太平洋国境条約を結ぶ 科学アカデミー附属植物博物館と植物園創立 |
ドラクロワ「キオス島の虐殺」 コンスタブル、「干し草車」をサロンに出品 |
1825 | 幕府、沿岸の諸大名に対し、異国船無二念打払い令を出す 平田篤胤『古史伝』刊 |
ボーヴェ設計の新しい劇場にボリショイ劇場が移る ニコライ1世即位(-55) ペテルブルグでデカブリストの乱起こる |
イギリスで最初の鉄道運転に成功 ドラクロワ、イギリスに渡る |
1826 | 書物奉行兼天文方高橋景保、江戸滞在中のシーボルトを訪問 | 検閲法発布 | クレンツェによるミュンヘン絵画館、着工 |
1827 | 頼山陽『日本外史』、松平定信に献上される | ペルシアと戦争、アルメニアを併合 キプレンスキー「プーシキンの肖像」 画家イヴァーノフ、イタリアに留学し、長くローマに留まる |
|
1828 | シーボルト事件が発覚し、シーボルトは出島に幽閉される | トルコと戦争(-29) サンクト・ペテルブルグ技術研究所創立 |
第1次バルカン戦争起こる(-29) ドラクロワ、「サルダナパールの死」をサロンに出品 |
1829 | 帰国を命じられたシーボルト、日本を去る | アドリアノーブルの和 | 『シルエット』紙にドーミエの石版画が初めて発表される |
1830 | この頃、葛飾北斎「富嶽三十六景」 | 『ロシア帝国法律大全』 ポーランド反乱(-31) |
ベルギー、オランダからの独立を宣言 フランス七月革命。ルイ・フィリップ即位 漫画雑誌『カリカチュール』創刊 |
1831 | ゲーテ『ファウスト』第2部 | ||
1832 | ポーランド憲法廃止、ポーランドはロシアの一部となる ペテルブルグに民需技術大学創立 |
ダーウィン『ビーグル号航海記』 『シャリヴァリ』創刊 |
|
1833 | 対ロシア密貿易の嫌疑で、蝦夷地場所請負南高田屋を処罰 オランダ人、海外事情報告書を幕府に提出 歌川広重画『東海道五十三次』刊行開始 |
『ロシア帝国法典』 ブリュローフ「ポンペイ最後の日」 トルコとウンキャル=スケレッシ条約を締結 |
|
1834 | 水野忠邦、老中となる | ドイツ関税同盟成立 | ドラクロワ「アルジェの女たち」 |
1835 | オランダ人、海外風説書を幕府に提出 井伊直亮、大老となる |
ヴラディーミルとキエフに大学創立 | コロー、バルビゾンを訪ねる |
1836 | ロシア船、択捉島に漂流民を護送してくる 天保の大飢饉 |
チャアダーエフ『哲学書簡』が発表され、スラヴ派と西欧派との論争の発端となる ボリショイ劇場で、ロシア最初の民族オペラ、グリンカ作『皇帝のための命』初演 ゴーゴリ『検察官』初演 |
|
1837 | 大塩平八郎、大坂で乱を起こす 日本人漂流民を乗せたアメリカ船、浦賀に入港し、砲撃を受ける 徳川家慶十二代将軍となる 渡辺崋山「鷹見泉石像」「市河米庵像」 |
ペテルブルグとツァールスコエ=セロー間に最初のロシア鉄道開通 イヴァーノフ、「民衆の前に現れたキリスト」に着手(-57) |
イギリスのヴィクトリア女王即位 カーライル『フランス革命史』 |
1838 | 緒方洪庵、大坂に適々斎塾を開く | ドラクロワ、国会議事堂図書室の天井画に着手(-47) | |
1839 | 渡辺崋山、高野長英ら逮捕される(蛮社の獄) 渋川六蔵、オランダ関係書取締意見を水野忠邦に提出 長州萩に洋学会、起こる |
レールモントフ『現代の英雄』(-40) ペテルブルグ郊外のプルコヴォ天文台創立 1812年のフランス軍侵攻からのモスクワ解放を記念した救世主キリスト教金の起工式 |
シュヴルール『色彩の同時対照の法則』 ダゲール、写真術を公表 |
1840 | 売薬の看板にオランダ文字の使用を禁止 平田篤胤、禁書と江戸退去を命ぜられる |
||
1841 | 天保の改革 土佐の中浜万次郎、太平洋でアメリカ船に救われる |
アングル、イタリアより帰国 | |
1842 | 異国船無二打払令を緩和し、薪水給水令を出す 高島秋帆、外国人との交際の廉で投獄される |
ゴーゴリ『死せる魂』(第1部) |
ターナー「吹雪、港口を離れた汽船」 |
1843 | 老中水野忠邦、罷免される 五姓田芳柳、出奔し、長崎で洋画を学ぶ |
ラスキン『近代画家論』第1巻 | |
1844 | オランダ軍艦パレンバン号が、開国勧告国書を持参して長崎に来航 幕府、箱館・国後等12カ所に守備兵を置き、砲台を築く 狩野養信ら、江戸城本丸障壁画を制作 越前大野藩、明倫館を創設し、洋学を教える |
ターナー「雨、蒸気、速力」 | |
1845 | 幕府、オランダ国王の忠告を謝絶 | ロシア地理学協会設立 |
マルクス・エンゲルス『ドイツ=イデオロギー』 ボードレール『1845年のサロン』 |
1846 | イギリス艦、フランス艦、アメリカ艦などが、次々と琉球、長崎、浦賀に来航する 琉球来航のイギリス人宣教師ベッテルハイム、那覇に居住し、布教・医療に従事 |
ロシア考古学協会設立 ドストエフスキー『貧しき人々』 |
|
1847 | ネクラーソフの雑誌『同時代人』創刊(-66) ツルゲーネフ『猟人日記』(-52) オストロフスキー『破産者』 ベリンスキー『ゴーゴリへの手紙』 |
マルクスら、ロンドンに共産主義者同盟を結成 大英博物館、完成 |
|
1848 | アメリカ捕鯨船、松前に漂着し、船員を長崎に護送 本木昌造ら、オランダから鉛活字印刷機を購入 |
フェドートフ「小佐の求婚」 | フランス二月革命ほか、ヨーロッパ各地で革命運動が起こる マルクス『共産党宣言』 |
1849 | ハンガリー独立運動に干渉軍を派遣 ドストエフスキー、シベリア流刑 |
ドイツ帝国憲法制定 ラスキン『建築の七灯』 |
|
1850 | 幕府、蘭書の自由翻訳を禁ずる 箕作阮甫、欧洲史会をおこし、西洋史の研究・講習を始める 勝海舟、江戸赤坂に蘭学・兵学塾を開く |
アイヴァゾフスキー「第九の波」 | ミレー、「種まく人」「干し草を束ねる人」をサロンに出品 クールベ、「オルナンの埋葬」をサロンに出品 |
1851 | 中浜万次郎ら、アメリカから帰り、琉球に上陸 本木昌造、新造活字で『蘭和通弁』を刊行 佐久間象山、江戸に砲術の私塾を開く |
モスクワーペテルブルグ間のニコラエフ鉄道開通 エルミタージュ、公共の美術館として開館 ロンドン万国博覧会にロシアが出展 |
ロンドン万国博覧会、開催 |
1852 | ロシア船、漂流民を護送して下田に来航 五姓田芳柳、洋風画を試作 |
レフ=トルストイ『幼年時代』 | フランス第二帝政(-70) |
1853 | ペリー、浦賀に来航。久里浜に上陸し、国書を手交 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航 徳川家定十三代将軍となる |
クリミア戦争、勃発 | |
1854 | 日米和親条約、締結 日英和親条約、締結 プチャーチンの船、津波のため伊豆で大破し、沈没 下田で日露和親条約、締結 吉田松陰、米檻に密航を求め、拒絶される |
ロシアの軍艦、朝鮮に来航 | |
1855 | 松前藩、幕府の命により、樺太のロシア陣営を焼く 日蘭和親条約、調印 天文方蕃書和解御用掛、洋学所となる 福沢諭吉、大坂の適塾に入門 |
チェルヌイシェフスキー「現実に対する芸術の美学的関係」 | パリ万国博覧会、開催 |
1856 | アメリカ総領事ハリス、下田に入港 | パリ講和会議、クリミア戦争終結 トレチャコフ、ロシア絵画の収集を開始 |
|
1858 | 日露通商条約、締結 | ||
1861 | ロシア軍艦、対馬に来航し、基地を設けようとする(対馬事件) ギリシア正教会司祭ニコライ、箱館に来航 |
〈主要参考文献〉
『日本文化総合年表』、岩波書店、1990年
岩間徹編『ロシア史』、山川出版社、1979年
『大系世界の美術17 ロココ美術』、学習研究社、1972年
『大系世界の美術18 近代美術』、学習研究社、1971年