近世末期のロシアと日本
陰里鐵郎
ロシアと日本、この両国の関係は近年とみに注目されてきている。それには旧ソ連の崩壊といった世界史的な大変動を背景にして日露間の領土問題など政治的な課題が一般の関心を集めているが、またそうした問題とからんで両国間の歴史についての関心もたかまってきているように感じられる。
今年、1992年(平成4)は、ロシアと日本との間で政府(当時の)間交渉が初めて行なわれたときから200年という記念の年にあたる。すなわち、エカテリーナ2世の勅裁によって、日本派遣使節アダム・ラックスマンが、船舶エカテリーナ2世号で日本漂流民の送還と通商関係樹立を要求して北海道根室に来航したのが1792年(寛政4)10月であった。そのとき送還されてきた漂流民は、伊勢神昌丸の乗組員であった大黒屋光太夫、磯吉、小市の3名であった。従って、大黒屋光太夫帰国200年の年にあたることになる。あとで触れるように、光太夫は首都ペテルブルグへ赴いてエカテリーナ2世から帰国の許可をえての送還で、ペテルブルグ滞在時にエルミタージュ宮において女王の謁見をうけたのであった。今回のエルミタージュ美術館蔵品による「ロシア宮廷美術展」は、こうした歴史的事実に基づいたうえでの記念的展覧会ということになる。光太夫は、確実に18世紀末、女王として歴史的名声の高いエカテリーナ2世の宮廷の様子を実見した日本人であったのである。
ペテルブルグが、ロシアのパリといわれたり、またはヴェニスにたとえられたりしているように、ヨーロッパ文化を華やかに反映していた都市であることや、エルミタージュ宮の建物や工芸品もまたヨーロッパ美術、バロック美術の豪華な様式をつたえていることなど、すでに多くが語られている。本カタログにおいても出品作品に即して詳細に述べられるであろう。しかし、振り返ってみて、18世紀末から19世紀初頭にかけての日本においてはロシアについてどれほどの情報や知識がもたらされていたであろうか、また、ロシアにおいてはどうであったろうか、つまり大黒屋光太夫帰国時前後の両国の様子をみてみることも本展を理解することの一助となるかもしれない。ここでは、それらのことに関してすこし述べてみたい。
日本の徳川政権下における鎖国体制を打ち破るのに直接的な契機となったのは、いうまでもなく1853年(嘉永6)のペリーにひきいられたアメリカ艦隊の来航であった。その開国要求はいささか強引な方法によって行なわれ、徳川政権は、結局それに屈する形となったが、ペリー来航と同年のしかもひと月おくれてロシアの使節プチャーチンが長崎に来航したことが思いだされる。浦賀から東京湾へと開国を迫ってきたアメリカに対して、ロシアは日本の当時の国法を尊重する形で長崎へきたのであった。ここまでに至る過程を考えれば、日本はアメリカよりロシアとの接触がより多かったのであったが、開国交渉についてはアメリカに先じられる結果となったのである。もちろん、日本における海外情報のほとんどは当時唯一の通商関係国オランダを通じてであった。それゆえに海外の文化情報の享受は、国内においては蘭学の勃興によって18世紀末、1770年代から急速にすすんだのである。蘭学というと『解体新書』の刊行に代表されるように西洋医学の摂取が中心となったが、暦学、天文学、地理学、さらにはこれらに付随して絵画表現にもそれは及ぶことになるが、徳川幕藩体制と鎖国体制とによって平安をむさぼっていた日本に、最初の一撃をもたらしたのは他のどこの国よりもロシアであった。ロマノフ王朝の成立、ピョートル1世のころからロシアはシベリア以東への進出、さらに南下の政策がすすめられようとしていたのである。直接には、毛皮の取得による利益の大きさを求めての進出であったが、またヨーロッパにおけるマルコ・ポーロ以来の日本黄金郷説の幻想もなかった訳ではない。従ってロシアにあっては日本に関する情報を求めてやまなかった。こうしたなかでその役割をはたすことになったのが日本からの漂流民たちであった。なかでも伊勢神昌丸漂流民大黒屋光太夫の残した貢績は大きいものがあったのである。
15世紀半ば以降、日本における外来国は東洋諸国を除いては南蛮、紅毛、つまりポルトガル、スペイン、イギリス、オランダであった。ロシアが顔をみせた最初は、のちに「元文の黒船」と呼ばれるようになった1739年(元文4)のベーリングの第二次日本近海探検であったといえよう。その分遣隊はスパンベルグ大尉に率いられて南下、初めて日本本土を望見し、陸奥国牡鹿(宮城県)から仙台湾へ、また同行の一隻は安房国天津(千葉県)にきて住民と接触し、紀州沖まで南下した。日本側にあっては当初はどこの船であるかを識別しえなかったが、3年後「オランダ風説書」によって確認したという。「海防御触書」が発せられたのは1739年(元文4)であった。それにつぐ大きな事件は「はんべんごろう事件(ベニョーフスキー事件)」である。1771年(明和8)、流刑者であったハンガリー人ベニョーフスキーが脱走してロシア船を奪い、ヨーロッパへ向う。その途中、土佐(高知県)、阿波(徳島県)、奄美大島に寄港、また長崎のオランダ商館長に書筒をおくり、ロシアの南進を警告したのであった。「天明の黒船事件」は、1786年(天明6)、ロシアの船が津軽海峡を通って松前に姿をみせ、鮑取りのアイヌ人と接触した事件で、北方の防備の必要性が現実味をおびてくることになった。時は恰も蘭学の勃興期にあたっており日本国内のロシア研究はこうした事件を契機として始ったといえよう。林子平は『海国兵談』(1787、天明7)で日本防衛の要を説き、前野良沢、本木良永、桂川甫周といった蘭学者は、ドイツの地理書「ゼオガラヒー」のオランダ語訳によって「柬察加志(カムチヤカ)」(前野、1789)、「魯西亜略記」(桂川、1794)などを著したのであった。ついでに云えばこれ以前のロシア知識としては元禄期の西川如見『華夷通商考』のなかでオランダの通商国のひとつとして「ムスカウベヤ」と書かれていた程度で、一般では「むすこべや」といえば、ルソン革やサントメ革などと並んで唐革の一種として珍重されていたにすぎない。新村出氏によれば「革の名によってのみ、漠然と露国の旧名で伝えていた」のである。
ロシアにおいてはどうであったろうか。前述のように日本漂流民によって日本の情報はロシア側につたえられたが、光太夫らの伊勢漂流民までに、彼らを加えて五回の漂流民があったという。このうち、三回までは日本側にまったく資料が欠けており、ロシア側のみに残っているものである。それらは明治以後、明らかとなった。
1695年(元禄8)、大阪から江戸に向った12艘のうちの1艘が漂流、カムチャッカ南部に漂着、唯ひとり生き残ったのがデンベー(伝兵衛)であった。1701年伝兵衛はモスクワへ行き、ピョートル1世の引見をうけ、漂着の様子と日本事情を物語った。伝兵衛が「ロシアにおける最初の日本人」であり、ピョートル1世は日本への関心をたかめ、同年勅令によって伝兵衛にロシア語を教え、伝兵衛は子供たちに日本語を教えるためにシベリア砲兵省にその身柄を移したという。伝兵衛につぐロシアの日本人としてサニマ(三右衛門)が知られている。1710年(宝永7)漂着、紀州出身説と東北南部出身説とがあるが、1714年(正徳4)ペテルスグルグへ送られ、伝兵衛の助手としてロシア人に日本語を教えたと伝えられている。ついで登場するのが、1729年(享保14)薩摩の若潮丸の漂流民ゴンザ(権蔵)とソウザ(宗蔵)とである。両名も1733年にペテルブルグへ送られ、女帝アンナ・ヨアンノウナの謁見をうけ、36年ロシア科学アカデミー附設の日本語学校へおくりこまれ、デンベー、サニマ歿後閉校状態にあったこの学校の再開校に貢献している。木崎良平氏の紹介するところによれば、このときの日本語学校主幹アンドレイ・ボクダノフは日本人の子であったとの説があるといい、しかし同名で画家であったボクダノフが生年を考慮すればデンベーの子供であったろうと推察されている。漂流民日本人の子で、画家がいたということはわれわれにはまことに興味深い。それ以上のことは不明なので、それは措くとして、ゴンザは数種の日本語関係参考書を著し、最初の露日辞典を1783年に著した。恰度、日本での「元文の黒船」事件のころのことである。
日本側の資料に最初に登場した漂流民は、南部多賀丸のそれであった。1744年(延享元)北千島に漂着、生存者10名中5名がペテルブルグへ送られ、ソウザ、ゴンザのあとの日本語学校教師となった。1753年に日本語学校はイルクーツクに移転している。多賀丸漂流民と日本語学校のことについては1778、79年根室周辺に渡来したロシア人によって日本側に伝えられ、さらに1781年(天明元)の「オランダ風説書」によっても日本側に知らされた。そして1782年(天明2)の伊勢神昌丸漂流民へと推移する。光太夫らは翌年アリューシャン列島に漂着、4年後にカムチャッカへ、漂着から7年後の1791年(寛政3)に光太夫はペテルブルグへ赴き、イルクーツクで知りあったキリル・ラックスマンのつよい援助をえてエカテリーナ2世の謁見をうけることができた。キリルはすぐれた博物学者であり、また企業家でもあった。江戸期の庶民としては比較的高い教養と明朗な気質をもっていた光太夫は、キリルの庇護と援助と、そのすぐれた性格によって首府にあっても高い階層の人びとの助けをうけることができた。明晰を好む精神の持ち主で、モンテスキューやヴォルテールを好んだ啓蒙君主、女帝のエカテリーナ2世は夏の宮殿ツアルスコエ・セロと、さらにエルミタージュ宮殿とにおいて光太夫を引見し、初めて日本人漂流民の帰国を許可した。それは同時に日本と通商関係をもつための交渉の手段でもあった。一方、日本人の海外渡航を禁じた鎖国令の違犯者光太夫と磯吉を徳川政権も帰国を許した。以後、制限された生活ではあったが光太夫は生涯をまっとうすることができた。
帰国後の光太夫は、桂川甫周をはじめとする蘭学者と若干の交友をもった。よく知られていることのひとつに、1794年(寛政6)閏11月11日、江戸京橋水谷町の大槻玄沢の家塾芝蘭堂において開かれた「オランダ正月」の賀宴に招かれて出席したことがある。この日は95年1月1日にあたり、蘭学者社中の29名が出席している。江戸で開かれた最初のオランダ正月であった。このときの宴の情景が、玄沢の門人でもあった市川岳山によって画幅に描かれた。画中で、ワイン・グラスやナイフ、フォークの並ぶ机をかこんで座して人びとのなかで床の間を背にしてロシア文字を書いているのが光太夫であるという。傍らには桂川甫周の弟、森島中良の姿が描かれている。ロシア文字といえば、光太夫自身のロシア文字は、当時の有識者に好まれ、求められ多く書かれたというし、さらには一枚摺の版本となったという。意味は判らなくとも人びとの珍重するところであった。
帰国後の光太夫は自由に活動することは許されてはいなかったが、高橋景保監修下の万国地図の作成を手伝ったり、天文台で蘭学者たちにロシア語を教授し、馬場佐十郎や是立左内がそれを学んだという。19世紀に入ってからの日本におけるロシア研究の一助となったことは凝いない。
大黒屋光太夫に関しての資料、研究は数多い。帰国直後の「北槎異聞」(寛政5、1793年、篠本廉)、「漂民御覧之記」(同、桂川甫周)、「北槎聞略」(寛政6、桂川甫周)以後、その写本類がある。研究としては新村出の「伊勢漂民光太夫等の事蹟」(1910年8月、三重県での講演、『三重教育』153号)、「伊勢漂民の事蹟」(1914年7月)、亀井高孝の「大黒屋光太夫」(昭和39年、吉川弘文館『人物叢書』)などがある。ロシアと漂流民について総体的な研究に木崎良平著「漂流民とロシア」(1991年、中公新書)がある。上記の記述は、これらの資料、研究にしたがっている。
(三重県立美術館長)