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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1985 > 橋本平八の生涯 森本孝 橋本平八と円空展図録 1985

橋本平八の生涯

森本 孝

1.彫刻家橋本平八の出発

 橋本平八は,1897年(明治30年)10月17日三重県度会郡四郷村大字朝熊46番屋敷(現在の伊勢市朝熊町1185番地)に父安吉、母ゑいの長男として生まれる。姉にふみがおり,次男健吉,三男正二,次女ゆき子の5人の兄弟姉妹であった。平八は祖父の名を嗣いで命名されたものである。

 弟の健吉は,前衛詩人として知られる北園克衛(1902-78)である。彼が幼少期を回顧して次のように書いてある。

 私の生まれた家は今の朝熊町の真中あたりにある。私はそこで生まれ,その家に十六歳になるまで住んでいた。その頃は朝熊村であって,村の人々は田と畑と山の仕事をしていた。田や畑のあい間に朝熊山から材木や薪や粗朶を運びだす仕事である。(中略)

 その頃私の家は味噌醤油の類から反物まである雑貨屋をしていた。屋号は「酒屋」といった。それは祖父の時代には酒屋であったからで,酒檜を舟で運んだらしく,大きな艪がのこっていたのをおぼえている。(「私の心の原風景としての朝熊村」『芸術三重』No.6)

 朝熊村は朝熊山の麓にある小さな寒村であった。父安吉は雑貨屋をしながら「平助屋」という居酒屋を経営したり,果樹園を造って梨や桃を作り市場に出荷していたこともあり,水車や風車などの工作は得意であった。また,ブンゼン電池の製作,被覆線をつくる機械の考案,電話機の製作を行ったり,ときには撮影から現像まで行う写真家であったりしたという。これらはそれ程うまくいかなかったようであるが,小さな村にあって安吉の行為は極めて進歩的であった。そして,父母とも文学的な素養を持ち,平素の生活のなかで新古今風の和歌を嗜む文化人であったことが,彫刻家平八と詩人健吉(北園克衛)を生み育てた大きな要因となっている。安吉は皇学館大学の前身である皇学館に学んだようで,「槐堂」という号があった。母ゑいも田舎の女性としてはめずらしく英語や数学を学んだ人物であると伝えられている。

 平八の生家の側には朝熊川が流れ,四季折々の風情を楽しむ父と母のもとにあって,早くからそうした教養を身に付けていったと想像できる。平八は1904年(明治37)朝熊尋常小学校尋常科に入り,同校卒業後四郷尋常高等小学校高等科に入学している。当時校舎は生家の隣にあった。図画,修身等の成績は優秀で.何事も真剣にそして情熱的にとりくむ性分を生まれながらに持っていたと伝えられている。しかし,身体が弱かったことから,1910年(明治43)四郷尋常高等小学校を卒業すると,農学士である森政雄につき宇治山田市(現在の伊勢市)常磐町の蓮随山に赴き,植物生態学果樹園芸学等を修めることになる。鉢植えの薔薇や菊を作ることにかけては専門家といえる父は,身体の弱い平八に果樹園を経営させようとしたのであろう。

 しかし,1910年(明治43)に創刊された雑誌『白樺』によって印象派や後期印象派の作家,特にミレーやゴッホに感銘を受けた平八は,彫刻家になる決意をして,1915年(大正4)伊勢の彫刻師先代三宅正直に師事することになった。このとき平八は18歳であった。正直といえば1890年(明治23)75歳で没した鈴木正直が動物の根付や床置の名手としてよく知られている。先代三宅正直もこの系統の彫師で,動物を主題にした精巧で写実的な置物あるいは根付が今も郷土伊勢では愛玩されているが,雑誌『美術新報』あるいは『白樺』のロダン特集によってロダン(A.Rodin,1841-1917)の作品に感動を受けた平八にとって,彫刻の技術を伝承するのみで「表現する心」を持たない正直から,最早学ぶものはなかったことであろう。

 この頃の平八について「少年時代には兄が買ってくる文芸雑誌をよく読んだことを覚えている。(中略)また荻原守衛の『彫刻真髄』という本を買って来て、しきりに感心していたこともあった。多気大正五六年頃であろう。」(「橋本平八のこと」『現代の眼』昭和30年10月号)

 「自然」をして君達の唯一の神たらしめよ。

 彫刻家諸君。君達の内に奥行(深み)の感を強めよ。

 何よりさきに君達の彫刻する人物の大きな面(プラン)をはっきり建てよ。……肉づけする時,決して表面で考えるな。凹凸で考えなさい。

 形は君達に向って突き出したものと思いなさい。一切の生は一つの中心から湧き起る。同じ様に,美しい彫刻には,いつでも一つの強い内の衝動を感じる。これが古代芸術の秘訣です。

 芸術は感情に外ならない。しかし,量と,比例と,色彩の知識無く,手の巧み無しには極めて鋭い感情も麻痺されます。最も偉大な詩人でも言葉を知らない外国ではどうなるでしょう。……すべての君達の形,すべての君達の色彩をして感情を訳出せしめよ。

 肝腎な点は感動する事,愛する事,望む事,身ぶるいする事,生きることです。芸術家である前に人である事!

 これは,「若き芸術家達に」と題された「ロダンの言葉」で,高村光太郎が訳したものである。平八は作品だけでなく,こうしたロダンから彫刻する精神を学び,ギリシャからルネッサンスに至る彫刻の盛期以後,衰退していた彫刻界にあって古代芸術に学びながら新しい表現をロダンがなし得たように,平八は日本の伝統に流れる源を探り,絶対なるものを希求し,その表現の追求へと傾いていった。橋本平八は,度会郡浜郷尋常小学校において2年間代用教員の後,1919年(大正8)11月17日東京へ出て内閣印刷局雇員を拝命,当時の印刷局長池田敬八の紹介によって翌年2月11日再興日本美術院同人佐藤朝山の内弟子となり,本格的な彫刻の修業に入っていく。

橋本平八の生家






アトリエでの橋本平八(左)






千光寺境内風景






代用教員時代の橋本平八






奈良時代の橋本平八と北園克衛

2.日本近代彫刻の流れ 院展再興まで

上代から中世までの間,日本において優秀な彫刻が造られていたが,室町時代以降衰退の傾向を強め,円空や木喰の例外はあるとしても江戸期に入って彫刻は日常生活にかかわる小工芸に浸透し,根付・欄間などの「彫りもの」「細工もの」でしかなくなっていく。明治維新の混乱の後,外国人の嗜好に応じた根付や象牙彫刻,あるいは鶴や亀の木彫置物が人気を呼び,政府主催の第2回内国勧業博覧会が1881年(明治14年)に開催されているが,牙彫作品が大半を占める状況にあつた。

この間、1876年(明治9年)に設立された工部美術学校に彫刻科が置かれ,招聘されたラグーザ(Ⅴ.Ragusa,1841-1927)によって洋風彫刻術が導入された。また一方において,1887年(明治20年)に設立された東京美術学校では木彫のみで洋風彫刻すなわち塑造は排除され,国粋主義的風潮が強くなったことも相まって木彫の盛隆もみられるが,黒田清輝が帰国して洋画界に新風を起こしたことと関連して西洋美術の接取が盛んとなり,洋画とともに塑造も発展への足がかりが生まれ,東京美術学校に1896年(明治29)西洋画科が,1899年(明治32)には木彫科と並んで塑造科が設置され,洋風彫刻はより一層活気を呈すに至っている。1907年(明治40)に創設された第一回文部省美術展覧会(文展)では出品作品のほとんどが塑造で,木彫家も石膏像を出品する状況にあった。初期文展では,新海竹太郎(1868-1927),朝倉文夫(1883-1964),荻原守衛(1879-1910),石井鶴三(1887-1973),北村四海(1871-1927),中原悌二郎(1888-1921)らの塑造家と,米原雲海(1869-1925),山崎朝雲(1867-1954),平櫛田中(1872-1979),内藤伸(1882-1967),吉田白嶺(1871-1942)らの木彫家が活躍した。

主として日本画においてであるが,国粋主義の台頭と骨董的趣味の流行を背景に,古画などを鑑賞しその鑑識眼を培うことを主なねらいとした竜池会が新作の展観を目的とする日本美術協会に発展し,明治30年代には華々しい全盛を迎えるが,彼らは伝統的な技法に拘っているとされて「旧派」という称号がつけられた。それに対し,フェノロサ,岡倉覚三(天心)らは鑑画会を設立し,岡倉が「旧派」の策略によって東京美術学校を去ることになり,伝統を尊重しながら新しい表現を樹立しようとする岡倉の意思に賛同する作家によって1898年(明治31)日本美術院が創設されているが,彼らは「新派」と呼ばれ,結集した作家の数は「旧派」と比べれば極めて少数にすぎなかったが,表現する内容が希薄で旧態依然としている旧派に対して,明治末頃から「新派」が優位となっていた。天心は日本の,そして東洋の古美術研究から,西洋の芸術に対抗できる東洋的な表現を確立させようとした。それが新日本画創造であり,彫刻では上代の彫刻における伝統をふまえた木彫による新しい表現を樹立しようと試みられている。それが1907年(明治40)設立の木彫家による日本彫刻会の設立であった。

日本の美術界は文展を中心に展開していく様相にあったが,官展である文展に対して1914年(大正3)天心の遺志を継承して日本美術院が再興されている。この再興日本美術院では平櫛田中,吉田白嶺,内藤伸,佐藤朝山(1888-1963)の木彫家4人を同人に推挙して彫刻部の基礎をつくり,以後石井鶴三,藤井浩祐(1882-1958),戸張孤雁(1882-1927),中原悌二郎,高村光太郎(1883-1956)らの俊英が加わり,やがて下村清時(1865-1922),橋本平八,武井直也(1893-1940)喜多武四郎(1897-1970),牧雅雄(1887-1935),新海竹蔵(1897-1968),大内青圃(1898-1981),木村五郎(1899-1935)が同人となり,官展に対峙あるいはそれを越えるといってもよい勢力を有し,充実した展観をみせていた。


3.修業時代の平八

橋本平八は佐藤朝山に師事してから2年後め1922年(大正11),日本美術院再興第9回展覧会に出品した木彫の『猫』が認められ,再興美術院の研究会員となり,美術院彫刻部研究室に入ることができた。研究所には,研究所三則として

一、日本美術院ハ新日本の芸術樹立こ益スル所アランガ為メニ再ビ其研究所ヲ起ス
一、日本美術院ハ芸術ノ自由研究ヲ主トス,故二教師ナシ先輩アリ,教習ナシ研究アリ
一、日本美術院ハ邦画ト洋画トヲ従来ノ区別ノ如ク分画セズ,日本彫刻ト西洋塑像ト亦然リ

と掲げられていた。平八もこの研究所内で塑像を学び,また粘土で造った原型をもとにコンパスを使い等寸あるいは拡大して木彫する方法によって制作したり,様々な技術を研究しているが,この期の平八にとって最も大きな収獲は美術院の人たちと交わり,日本の彫刻そして世界の彫刻を知り,自由な雰囲気のなかで研究会員の人たちと議論を交え,自己の彫刻論を構築していったことであろう。

この頃,最も親交を重ねたのは,同じ年の生まれで研究所では2年先輩の喜多武四郎であった。「土を持たしては喜多君,木を持たしては橋本君」が優れていると石井鶴三がよく言ったという記述が,平櫛田中によって書かれた『純粋彫刻論』(橋本平八著,昭和17年,昭森社)の序文に出てくるが,素材は異なるが2人は共に「純粋彫刻とは何か」を求め,平八は木彫,武四郎は塑像においてその表現を真撃に追求していったことから,二人は「魂の作家」と呼ばれていた。喜多武四郎は当時のことを振り返って次のように述べている。

橋本平八の如きは現代彫刻界第一流の人物として充分価値ある存在と思ふ。

平八君と相識ったのは大正11年頃かと思う。其頃佐藤朝山氏の内弟子であった君が,院展に出品した木彫『猫』が認められて,美術院の彫刻部の研究所に入所を許され,自分は些か先進の立場にいて共に塑像研究の側ら語り合ったのが最初である。平八君とて最初から造型の名手では無かった。容赦の無い石井鶴三氏の意見なども与って空間に於ける立体表現の基礎的部門を成していると思う。然し其頃から己に,彼との接触の間に於いて,詩的精神とも云ふべきか一種の神秘的意志に於て完全に飛躍しつつあったことは認められた。自分は漸次彼の芸術観の聞き彼に廻されて,午前中の研究が終ると連れ立って帰宅の途次芸術談の尽きざるまま,谷中の町から当時欝蒼たる上野の山を越え,喧騒の広小路から黒門町を抜け萬世橋を渡り,尚本石町から東京駅に至り,屡々(しばしば)待合室に数時間を過すこともあるのであった。彼は大森へ自分は本所の私宅に,又翌日も芸談尽きざれば東京駅まで行ったことが常習の如く記憶に遣っている。其頃の彼は木綿袴を佩いた書生風で応対は礼儀正しく活達であったが,どこと云って目立つ人物ではなく,寧ろ小柄でくすんでいると云ってよいくらいな存在で,彼が朴歯の下駄を履いて歩く姿は腰に力を入れて前方にかしゃぐような恰好で,これは彼の武術精神の心構えから来ている由であったが,鉄縁眼鏡を掛けた彼の眼光はそう鋭いと迄は感じられなかったが,顔貌がゆがんでいて,額頬等の凸凹の探さに自ら異常なものがあった。(『純粋彫刻論』序文)

また,大正14年の橋本平八の日記のなかに,喜多武四郎宅に泊まった翌日の朝,研究室で制作した自分の塑像習作を壊したという記述がみられるが,こういったことから再興美術院研究所時代の平八を窺うことができる。

喜多武四郎は東京本所の生まれ。1918年戸張孤雁に師事,1920年に院展に初入選し,翌年院友に推され1927年に平八と共に日本美術院同人に推挙され,1961年日本美術院彫刻部解散後無所属となり,1968年日本画府彫塑部の会員に迎えられている。主として女性を主題として,地味ではあるが精神性の高い塑像を発表し,1970年に没している。

平八が師事した佐藤朝山は本名清蔵,1888年(明治21)福島県相馬市に生まれ,宮彫師であった父や伯父に幼少期から木彫を習い,1904年から山崎朝雲の内弟子となる。1914年再興日本美術院第1回展に『呪咀』などを出品,同人に推され,第2回展ではインドの戯曲に取材した『シャクンタラ姫とドウシャンタ王』を,第15回展にはエジプト彫刻に対する深い理解を示しながらも日本の伝統との融合を図った『牝猫』を発表するなど,振幅は大きいけれどもそれぞれの作品に高い水準をみせている。なお,朝山は1922年から3年間,美術院創立25周年記念に際しフランスに派遣され,プールデル(Bourdelle,1861-1929)に師事,またルーヴル美術館等においてギリシャ彫刻などの古典彫刻を研究して帰国,院展彫刻部で中心的作家の一人として活躍し,1963年(昭和38)京都市で老衰のため死去している。

橋本平八は後年「代表的な自分の作品」10点をあげている。

  1. 猫(大正十一年)
  2. 鷲(大正十二年)
  3. 猫(大正十三年)
  4. 少女立像(大正十四年)
  5. 成女身(大正十五年)
  6. 裸形少年像(昭和二年)
  7. 石に就て(昭和三年)
  8. 花園に遊ぶ天女(昭和五年)
  9. 幼児表情(昭和六年)
  10. アナンガランガのムギリ像(昭和七年)
     (『純粋彫刻論』P20-21)

そして続けて各作品について,代表作である理由を書いている。1~3について,

猫  自分の肖像であり身構え心構えであり技巧の上には方式である。

鷲  老子の肖像であり自分の行進曲でもあり趣味性の動向でもある。

猫(第二次)  動きと艶美と男性的な魅力を表現するものであって最初の猫の欠点を補い自分の彫刻をより完璧ならしむるものである。

以上三部の動物に依り作品第一課の終結をなすものであって右様の観念と方式とは遂に是を以て行きづまりを示している。一つの特異性でもある。(『純粋彫刻論』P21)

とある。平八の研究は完璧を期したものであった。猫を飼いその動きを隈なく調べ,あげくの果てには解剖して骨格・内臓・筋肉まで理解しなければ満足しない平八の姿がみられる。しかし,弟の北園克衛が「デカダンな親方の無礼を耐えているピュウリタンの弟子」(「橋本平八のこと」1955年『現代の眼』No.11)と記していることから,師・朝山の指示によって猫を解剖したと考えるのが妥当であろう。また猫や鷲を主題としたのも朝山の存在を無視することはできない。冷徹にまで朝山に鍛えられたことと,美術院研究所での研鑽によって,以後にみせる平八の表現の基礎がつくられていった。平八は精神主義者であるとよくいわれるが,この頃,美術院研究所での制作あるいは通学など,平素の生活をまったく変更しないということを厳守した7日間の断食をして,「物事の極所を洞察する真理を会得することが出来た。例えば剣のとり方,その握り方の量度総て正しいと信ずる物の観方,考え方に就て悟る所があった。断食は自分に取って心智の扉を開く鍵であった。」(『純粋彫刻論』P25)と平然と書いている。平八はこの他,20歳のとき寒中朝早く河で冷水浴をして「耐寒力と心智の覚醒との確信を得ることができた」という。21歳のとき二町四ケ村を一気に走り医師の薬をもらったり,22歳のときには力尽きるまで食事もとらずに遠泳して溺れそうになり危うく助けられ,「死は楽しく,軽いことを実際に体験することが出来た。死は苦しいものでないことを知った。このこと以来自分は死を恐れなくなった。」と述べ,その経験を喜ぶところは異様である。

1923年(大正12)11月に起った関東大震災のため,平八は北園克衛と故郷に帰り,奈良へ見物に出かけたところ奈良郊外に貸家があったので,2人はしばらくの間ここに住み,奈良近郊の社寺をまわり,平八は仏像について研究を深めている。

平八は1924年(大正13)日本美術院院友に推され,佐藤朝山のアトリエを出て独立することになる。一時帰郷の後,北園克衛と共に府下世田ヶ谷町太子堂105番地に住み,代表的な作品として『少女立像』『成女身』『片履達磨』を制作している。『少女立像』と『成女身』は院展へ出品作。この2点について平八は,

少女立像  童女震憾を表現するものである。

成女身  化して女身となるの意である。偏円幾何形態を基調とする立体の構成についての試みをこの作品の特色とす可きであるが所謂ユウクリット系の先入主から見た日には変異にも見えることと思う。(『純粋彫刻論』P20仙21)

と記している。動物をモチーフにしては限界を感じた平八は人物像を主題として,自己の魂を刻んでいく。


4.橋本平八伊勢朝熊に帰る

1926年,平八は朝熊村に帰り,角前正治の次女千代と結婚,以後朝熊の生家に定住することになる。平八は高山を「原始的神秘境」と考え,「是れぞ私の目標彫刻の極秘堂奥」と確信しているが,朝熊もまた山河に囲まれ花鳥に恵まれた,高山に準ずるところとして平八は四季折々の風情を楽しみ,経済面で生活に苦しみながらも制作に没頭していった。

帰郷してから初めての院展への出品は1927年(昭和2)第14回展の『裸形の少年像』で,この作品によって平八は美術院の同人に推挙されているが,平八にとっても自信作であった。平八はこの作品について「寒中の裸形である。技巧に独自の墳域を開拓し得たと確信する。」(『純粋彫刻論』P21)「裸形少年像に至って体得した方式は恐らく自分の最奥のものであろうと思われる。自分の最も得意とするところである。其の素質に於てである。」(同P21)あるいは・「自分は天下に恥じない程度の彫刻的純真を得たと自信する。」(1928年4月、日記)と書き第2課の代表作としていることからうかがうことができる。右足をわずか前に出してエジプト彫刻の雰囲気を持ち,アルカイックな表情を合わせ持ち,部分的な彩色が効果的であるが,顎の下で両手を寄せているのは奇怪である。これは「古木に木仙あり」(P208)と考える平八が像の中心と木の心を一致させ,木の持つ特性に添って彫刻したことを物語っている。この少年像の背面には縦に大きな亀裂が起っているが,平八は熟知の上であったろう。

木に仙があるという,アニミズム的な感覚を持つ平八は「彫刻の驚異或は彫刻の芸術的価値はその平然の模倣でないことは勿論であるがそれと全く撰を異にし而も平然自然の実在性を確保する性質のもの即ち同じ石にも石であり乍ら石を解脱して石を超越した生命を持つ石そんな石が不可思譲な魅力でもつて芸術的観念に働きかけてくる。」(P239)として,1928年(昭和3)原石を極めて正確に拡大した『石に就て』を院展に出品,平八は「数年来の研究の発表であって仙を表現するものであるが専門的には裸形少年像の製作に因って体得するところより精緻に導くものである。」(P22)と解説している。彫刻の種類として「地水火風空草木花鳥獣人物魚貝幻覚等人界神界等無限」(P85)があると記しているが,平八は人界に存在する対象を彫刻しながら「地水火風空」を表現し,もって人界を超越し得ると考えていたから,こういった作品が生じることになった。

『石に就いて』の次に「来るべき転回が即ち『花園に遊ぶ天女』となって空想的に現われて来るのである。その全裸の肌の刻線は肌に映る花に他ならない。」(P22)と平八は解説している。幼い少女が中腰で右足を少し上げ,窮屈そうな感じがするが,本間正義氏によるとこの「デフォルメは要するにいわゆる彫刻的な閉ざされた形からきたもので,造形を木材の円筒の中にはめて,求心性をのがさぬように考えているためではないか」(近代の美術16『円空と橋本平八』至文堂)ということで,窮屈にみえる足・手・首などの形に必然性が隠されているという。この作品は全身に花蝶が刻みこまれ,それが格調高いリズムと美しさを醸成している。線刻については,1923年の奈良滞在中に唐招提寺の『木造如来形立像』、法隆寺の『木造観音菩薩立像(百済観音)』などを見てヒントを得,『少女立像』『成女身』にその一部をみせ,『花園に遊ぶ天女』に至り一気に昇華させている。また、平八の仏教芸術研究はその源流を遡り中国・インドにも至っているが,それは,この天女が古代インドにおけるヤクシニー像に似たポーズと表情を持っていることから想像できる。

なお,『花園に遊ぶ天女』には仏像の光背に匹敵する樹木があり,この作品の魅力をより一層高める効果を担っていたが,ブールデルの『月桂樹になるダフネ』『木の精』などの作品に同じような樹木があり,平八に対してブールデルの模倣とする批判が当時の新聞に出されたことが原因して,平八は院展終了後その樹木を壊してしまった。

この翌年の1931年(昭和6)は平八にとって記念すべき年となる。高山に出かけ,大和民族の原始精神に接し「心の土に帰る町」とその気分を書いている。そして偶然の機会であったが千光寺において円空仏に出合い,激しい共感を示している。

円空に出合う少し前,この年院展に『幼児表情』を出品し,「野獣性と人間性との交叉を取扱ったものであって歓喜の情である。女優クララボオの芸能に就て資する所があったことを附記して置かなければならない。」(P22)あるいは8月30日の日記に「寝起の姿の全く野獣的なる如く,或は二人の少女の追い合うところ,或は夏の水中に潜入する人間の如く,或は山に登り食物を食う如く人間にて野獣と何等異るところなき表情,生活に於ても然も人間であることが如何に人間の野獣的であることか。自分は今日こそその観点に立って総てのものを観察するであろう。勿論或時代に達すれば全く別個の世界に観点を移すことがあるとしても。今年院展出品の『幼児表情』なるものは即ち野獣より人間に進展する発作を取扱いたるものにして他なし。」(P134)と平八は述べ,さらなる絶対的な表現追求をみせている。

平八が円空に精神的な共感を示したのは,平八自身の芸術哲学に合致する刃法を円空がみごとに成し得ていたこと,霊が宿る木それぞれの特性・形態を生かしきっており,自己の制作方向に確信をもったことにある。

1932年(昭和7)3月4日高山より円空の作品6点と作者不詳の作品1点が到着し,それを見た平八は「私は気分がどんなに悪くても円空の作品を見れば愉快になる。今日では此円空仏なくして一日も過ぎられない迄に信仰し愛敬している。」(P160)と狂喜した様子を表わしている。同年6月27日の日記に「今夕円空作品に水をかける。不自然なる磨滅を去らむが為なり。意外に水を吸い込む。気味悪き程なり。深夜秘かに起き出で是を見るに生気溌刺としてさながら生人に会する如し。聊(いささ)かに驚く。上人の精魂ここに甦るか。頓首感佩(とんしゅかんぱい)の至なり。(中略)最後の勝利は神秘主義形態を脱して精神に就く可く芸術の深玄ここに存って未来に甦る。起るものは魂のみなり。魂を表現する技巧は精神を表現するにあり。拙作亦必ず甦る。生前これを知ることを円空上人の徳に因る。感謝す。」(P200)と記しており、絶対的な東洋的精神主義者平八は,自己の魂をこめて『アナンガランガのムギリ像』を造っている。この作品について平八は第3課を代表するものとして掲げながら「熱国美人像に他ならないがその異国情緒と今一点日本萬葉文化の感動をここに言己念しようとするもので朱地金箔を以てその木彫面を滅没することにより木彫以外の彫刻感を表わし木彫石彫の区別撤廃総括的に彫刻と改めなければならない一つの運動の序幕である。」(P22-23〉と記述している。

もともと身体は丈夫でなかった平八は,身体的能力の限界にまで自身をいじめていたのであろう。「更に清新なる意識を以て第四課に移動する計画をたててい」(P23)たが、1935年(昭和10)11月1日の昼食後ある新聞社の取材に応じ、記者と対談中脳溢血で倒れ,午後7時3分逝去,無理が平八の命を短くし、第4課の作品群は未完となってしまった。平八は郷土朝熊に葬られたが,その墓の側面には「昭和十一月一日寂俗名 橋本平八 明治三十年六月二十九日朝熊村ニ生レ 大正八年二十三歳上京ノ翌年日本美術院同人 佐藤朝山氏ニ学プ 大正十一年院展ニ入選シ院ノ研究会々貞トナリ彫刻部研究室ニ通学スルコト三年 昭和二年同院ヨリ日本美術院同人ニ推挙セラレ 昭和十年 新帝展創立ト同時ニ第三部指定ニ推薦セラル 享年三十九歳」と弟北園克衛によって書かれた銘が彫り込まれている。法名は「黙堂玄悟居士」,小さい墓であるが墓地の中でも平八の墓はよくめだっている。

1965年(昭和40)「橋本平八顕彰碑」が朝熊山の山頂,金剛証寺の奥の院に通ずる道の左側に建てられている。


(もりもと たかし 三重県立美術館学芸員)

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