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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2000 > 2 ドヤを住み家に 1936-1940 東俊郎 長谷川利行展図録

凡例

  • 作品の全体を4章に分け、制作の変化を知る目安とした。
  • 作品図版のわきにデータをそえ、作品によっては解説をつけた。
  • データのうち、作品名については、初期作品時につけられた題名を採用し、それのわからないものは、従来用いられてきた題名を踏襲した。その際、旧字体は新字体に改めた。
  • データのうち、署名と年記については、判読不可能な固所には※ノマークをつけ、判読の曖昧な固所は( )でくくった。また、/を付して、改行の場所を示した。
  • 署名と年記以外にも、テーマとかかわる文字の指示が画面の中にある時は、データのうちに「書き込み」欄を設けて、それを記した。
  • 章解説および作品解説の執筆は以下の者が担当した。各原稿の末尾に担当者のイニシャルを記した。

Ⅱ ドヤを住み家に 1936-1940

長谷川利行のそうながくはなかった画家としての生涯を三分するとすればその中間にあたるのが第2章の時期である。つまり、第13回二科展に《田端電信所》が初入選、翌年の第14回二科展で樗牛賞、そしてさらに翌々年の1930年協会第3回展で協会奨励賞を受賞して意気軒昂たる1926(大正15)年から1929(昭和4)年までを前期とし、次第に体力が衰えてゆく自覚のなかで、画商天城俊彦の強引な売り出しにのせられた個展を毎月のようにくりかえしつつ、描きに描いた作品のほうはさらに軽く透明に輝きをますものの、衰弱がさらにすすんで、やがて燃え尽きる1936(昭和11)年以降を後期晩年とすると、そのあいだ、年号でいうとほぼ1930(昭和5)年から1935(昭和10)年の間ということになる。この時期の利行は、ゆくえ定めぬ旅枕ではないが、浅草山谷の木賃宿を根城に、気がむけば友人のアトリエやパトロンの家をわたりあるき、さいごは浅草龍泉寺にあった市営の宿泊所にたどりついている。

雌伏の時代はおわって、毎年二科に数点を出品して、その特異な画風によって画壇の一角に確たる地歩を築いてゆくように誰もが思う、というよりまず利行自身がそう信じ、画家たちとの交友もはじまっている。すでに1929(昭和4)年には傑作《靉光像》(cat.no.15)があるが、靉光をはじめ井上長三郎、寺田政明と利行を認める画家の数はしだいにふえて、「リリオム」という喫茶店での個展などもきっかけとなり気がついたときにはすでにあげた寺田政明、麻生三郎、吉井忠、中村金作といった感受性ゆたかな画家たちといっしょに裸婦のデッサン会をしたりしている。そして利行はこれら年若い友人たちにその風変わりもふくめて愛されていたようである。

そんな交友とはまた別に、かれは友人の矢野文夫や画家熊谷登久平と三日をあけずにつきあって、その頃住んでいた「浅草から隅田川の土手を歩いて、三囲、水神の森、堀切、尾久、南千住、町屋、関屋」(矢野文夫『長谷川利行』)と江東一帯を足にまかせて踏み破り、興がむいたところを写生したという。もちろんそういう日の夜は夜で、浅草近辺の安酒場やビアホール、カフェにくりこんで泥酔、気勢をあげていた。カフェの内部を描いた風景画やカフェではたらく女給の人物画などで現在ものこっている作品はすくなくない。当時の浅草が映画・演劇など大衆娯楽のメッカだったこともわすれてはいけないので、「親もなし妻なし子なし金もなし」と六無斎を地でいった利行も、こういう演芸の魅力にはすこぶる眼がなかったもようで、大流行していた安来節などは演芸場のなかで筆をとりながら歌をうたっていたともいわれる。《安来節の女》(cat・no・47)、《大和家かほる》(cat.no.48)はそんな浅草との出会いのなかから生まれてきた作品だし、《酒祭り・花島喜世子》(cat・no・26)もそうで、彼女は浅草奥山に1929(昭和4)年に創立されたレビュー小屋「カジノ・フォーリー」で梅園龍子と肩をならべる看板女優だった。

ところで30歳を過ぎてから画家として立ったこの遅咲きのひとは、それ以前の青春時代をもっぱら短歌をつくってすごした歌人でもあった。歌集『木葦集』と『火岸』が知られているが、その短歌修行の時代、寵児だったひとりに前田夕暮がある。明治の和歌革新運動の流れをうけた叙景歌から出発しながら前衛に身を投じたあげくやがて「新短歌」を標傍するにいたった夕暮れの活動を利行が知らなかったはずはなく、利行が自らの絵をさして「新絵画」といったという、そのいいかたも、ひよっとしたら「新短歌」のもじりだったかもしれない。それはともかく利行が前田夕暮と面識をもつにいたったのもこの1930(昭和5)年前後らしい。《劇作家(岸田国士肖像)》(cat.no.27)と好一対をなす《ポートレエ(前田夕暮氏像)》(cat.no.28)は1930(昭和5)年の第17回二科展に出品されたもの。正装し紳士然とした人物をとりあげることは、西欧像をその背景とした利行におけるモダニズム憧憬として《地下鉄ストアー》(cat.no.34)などに通ずる感覚といえる。しかしそれより彼の描く人物は、とりわけ女性のばあいがそうだが、昭和初期のさまざまな社会的な矛盾にくるしむ貧しい人々であって、賢明にも狡賢くも生きぬこうとしている、と利行はみている。そういった現実を正面からうけとめざるをえない人の魂を一瞬のうちにつかまえた画面は、しかしかならずしも暗くはならなかった。すくなくとも重くはなっていない。「絵を描くこと」以外のすべての欲望を断念したところにあらわれた利行の視線は昭和初期の日本を蝉脱して、もうひとつの現実を速度をもった明るさのなかにつくりあげている。

(S.H)


26
酒祭り・花島喜世子
Bacchanalia Kiyoko Hanajima
1930(昭和5)年頃
油彩、カンヴァス
40.9×31.9㎝


 「龍ちゃん」とか、「花島あ」とか見物のかけ声が盛んだ。「えらい人気だ。龍ちゃんてどれだい」「梅園龍子って小さいほうよ。」-とかいたのは『浅草紅団』の川端康成である。1929(昭和4)年浅草の木馬館隣の水族館に旗揚げした歌劇団が「カジノ・フォーリー」で、エノケンこと榎本健一が率いた、当時のいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」を売り物に人気を博したこの軽演劇団の二大花形スターが、梅園龍子と花島喜世子だった。浅草に住み浅草をこよなく愛した長谷川利行は水族館の2階3階という奇妙なつくりの、木馬館にもつながったレビュー小屋によく通っている。舞台姿の花島喜世子を描いたこの作品は肖像画というよりも、騒々しくも活気にみちた現実のせかいをはるかにこえた古代のギリシアの春の女神のような印象をあたえる。
27
劇作家(岸田国士肖像)
Dramatist(Portrait of Kunio kishida)
1930(昭和5)年
油彩、カンヴァス
74.0×54.0㎝
左上:TOSHIYUKI HASEKAWA./1930
出品:第18回二科会展(1931年)
東京国立近代美術館蔵


 正装した撫で肩の男がちょっと身をすくめるようにポーズしているこの作品は1931(昭和6)年の第18回二科展に出品された《劇作家(岸田国士肖像)》。新進の劇作家として多忙な日々をおくっていた岸田を利行に紹介したのは矢野文夫で、数時間でしあげる速筆が評判となる利行だが、この作品には4,5日かかったと矢野はかたっている。その年の展評で福沢一郎や三岸好太郎がとりあげて好意的な褒めかたをしているし、好一対である《ポートレエ(前田夕暮氏像)》(cat.no.28)とくらべてみてもおもしろい。詩人高橋新吉が利行との初対面をふりかえって「スマートな洋服を着て、どこかの会社員と言うタイプ」とかたったことをふと思いだす。後年すり切れた福を着ていたときも利行は胸のハンカチを忘れなかったらしい。
28
ポートレエ(前田夕暮氏像)
Portrait of Mr. Yugure Mada
1930(昭和5)年
油彩、カンヴァス
100.0×72.5㎝
右上:TOSHIYUKIHASWKAWA/1930
出品:第17回二科会展
個人蔵


 利行がつくった短歌のなかには自由律の「新短歌」を唱えた前田夕暮の影響かなとみえる作品があるが、じっさいに面識をえたのはずっと遅れて、1928(昭和3)年の頃だという。その初対面から利行は作品を携帯した。「一本の直立した樹木を画面の左の隅にあらはし、稍遠景に、岡の上野窓窓をもつた建物の雪景を描いたもので、たいした特色のある作品ではないが、どこかに詩があるやうに思はれた。私はその画を無理やりに買はせられた」(前田夕暮「長谷川利行の手」)。ここにあげる作品は《ポートレエ(前田夕暮氏像)》と題して1930(昭和5)年の第17回二科展に出品された。制作の顛末についても前田の証言があって、初夏の一夜突然訪問してモデルになってくれといわれ、困惑しながら籐椅子にすわった夕暮れをたった一時間半で描いたという。
29
少女(質屋の子守)
Girl (Pawnshop Baby-sitter)
1931(昭和6)年
油彩、カンヴァス
72.5×60.5㎝
左上:TOSHIYUKIHASEKAWA 1931
個人蔵


 毎年かならず二科展に入選していながら洋画の玄人筋からはいつも量感がない、写実力がない、基礎がないといわれつづけた利行。そういう人からみるとまるでなっていない《春の女》(cat.no.78)とかこの《少女》がかえって現在の油絵好きをよろこばせている。彼の絵が生活と直結していて、そこにひそんだ嘘のない人間性が歳月にあらわれて表面に輝きでてきたからであろうか。しかしそれは無垢は魂のあらわれのためだけではない。利行には利行なりの、しっかりした絵に対する見方があったからである。彼はあるところで、ニーチェのこんな言葉を引用したことがあった。「長い間蓄積され根気よく併置され強欲にも貯蔵された諸知識は信用が出来ぬ、それは用心深さ適応性不変性遅滞等の悪い兆候をもってゐる。」宵越しの知識はもたず、その日その時の身体に宿った一瞬のちからを信じたのである。
34
地下鉄ストアー
The Metro Store
1932(昭和7)年
油彩、カンヴァス
72.0×90.0㎝
右下:TOSHIYUKI HASEKAWA 1932
帝都高速度交通営団蔵


 画面中央あたりで太陽のように光を放射しているのは、じつは地下2階地上9階の「地下鉄ストアー」の大時計。1927(昭和2)年12月に日本最初の地下鉄が上野浅草間に開通。それにあわせて国鉄上野駅の正面出口の向い側車坂寄りに地下鉄ストアーが営業を開始したのはその4年後の昭和6年だった。この絵をよくみると時計の文字盤のところに「地下鉄ストア」の6文字が12時と6時を対称軸にくりかえされている。「浅草には、あらゆる物が生のまま投り出されてゐる。人間のいろいろな欲望が、裸のままで躍つてゐる。」とかいた添田亞蝉坊は、そのあとつけくわえる、「大衆は刻々に歩む、その大衆の浅草は、常にいつさいのものの古い型を溶かしては、新しい型に変化させる鋳物場だ」と。昭和のモダニズムは浅草によって日本の大地にむすびついたのであり、利行の身体をとおしてつかまれたその新しさはいまも古びていない。
35

Woman
1932(昭和7)年
油彩、カンヴァス
97.0×130.3㎝
右上:TOSHIYUKI HASEKAWA/1932-
出品:第19回二科会展
京都国立近代美術館


 1932(昭和7)年第19回二科展に《女》の画題で《水泳場》《ガスタンクの昼》とともに出品された。諸家の批評はいまひとつだったが、利行の死後20年をへてこの作品に再会した井上長三郎は、「このありふれた主婦をこんなに豊かに描いた作品は明治以来の作品群に思い出せない」と絶賛している。井上は生前利行の周辺にあった人として、かれの一視同仁の姿勢をよくみぬき、よく理解していたようである。絵についてもそうで、かれは表現主義やフォーヴィスムとは一線を画して、利行は利行として、たとえば次のようにかたることができた。「表現派は長谷川の色に較べ重く鋭く、フランスのそれは論理的に、長谷川のは飽くまで明るく軽く透明に見えるのである。」
36
二人の活弁の男
Two Silent Film Orators
1932(昭和7)年
油彩、カンヴァス
74.0×58.5㎝
右上:TOSHIYUKI HASEKAWA/1932
信越放送株式会社蔵


「活弁」ということばはめったに聞かれなくなった。「活動写真」の「弁士」とうことだが、ようするに映画がトーキーになるまえの無声映画の時代に、はなしの筋を解説したり会話を代弁したりした職業で、この「活弁」の腕によって映画が面白くもつまらなくもなるから一時はスター並にもてはやされたという。その代表が徳川無声。利行が浅草に住み始めた頃はそろそろの盛りがすぎて、トーキーの影が日毎におおきくなってゆくそんな時代だった。利行は映画館の楽屋にもよく出入りしていたらしい。富岡一刀か笠岡巌か、それともその他の顔見知りになった弁士二人が同席している場面をとらえて筆捌きも一気に呵成に、たちどころに仕上げたような風情である。未完成のようにみせて、その分一歩絵のなかへ人をひきこむのは、技巧というよりもっとふかく人間への共感があるからだろう。
37
矢野文夫氏肖像
Portrait of Mr. Fumio Yano
1933(昭和8)年
油彩、カンヴァス
72.5×60.5㎝
左下:TOSHIYUKI HASEKAWA./1936(Oct.)
個人蔵


 絵のモデルになっただけでなく、ある時期パトロン的な存在でもあった前田夕暮が、利行の歿後詠んだ追悼句のひとつ「三十号カンバス一面に塗りつぶして嵐のやうに私を描いた彼」、は絵の直接的な印象からいえば《ポートレエ(前田夕暮氏像)》(cat.no.28)よりももっとこっちの《矢野文夫氏肖像》にふさわしい。それだけこの絵のなかで圧倒的なのは即興から即興へと止まることを知らない視線の運動感である。利行的にいうならまさに「世界は盲者の如く動いて居る。微粒子のやうなものである。」(「絵画と人間」)なのだ。こういう絵はそれまでの日本にはなかったとかいたのは麻生三郎である。「『ぼくの作品は新絵画』と何かに彼は書いたが、新絵画という意味はこれまでの日本の観念、形式の摸倣に対して人間的な基礎をもった絵画をさしたものと解釈する。」「利行をフォーヴィスムとかたづけるのは反対だ。彼は日本のフォーヴのさかんな時代に傑作を描いた画家なのだ。」
40
街並風景(彩美堂)
Townscape(Saibi-do)
制作年不詳
油彩、紙
27.5×40.8㎝
左下:T.HASEJKAWA
個人蔵


 「東京市下谷区上野谷中坂町二一」。これが彩美堂の住所である。上野桜木から根津へゆく坂道の大通りに店をかまえていた画材屋額縁屋で、上野での展覧会に応募出品する貧乏絵描きたちに額縁を貸して重宝がられていた。いつ頃からかしげしげとこの家に出入りするようになった利行がこの彩美堂をアトリエにして絵をかくようになったのを寺田政明は目撃しているし、この額縁屋をとおして自作の予約販売さえこころみている。しかし展覧会に落選して置きっぱなしになっていた人の作品に手を入れてサインをしたというようなはなしも嘘でないらしく、そのことが利行作品の真贋をいっそうややこしくさせる原因になっている。
45
冬野
Winter Field
1935(昭和10)年
油彩、カンヴァス
15.7×21.8㎝
個人蔵


 根岸、上野、日暮里、墨田公園、荒川、尾久、池之端、向島、浅草、柳橋、花屋敷、田端、両国、三河島、北千住。利行の画題だけからでもこんな地名がすぐみつかる。ようするに利行は新宿池袋を境にして、その西側にはほとんど足跡をとどめていなくて、かれが歩きまわったのはもっぱら上野浅草を拠点とした江東一帯である。その点で『日和下駄』をつっかけ愛用のステッキならぬ蝙蝠傘を携えた荷風散人のフラヌールとだいぶかさなっているが、新都を嫌悪し消えかかった江戸の余香をさがしあてようとする荷風とはちがって、利行の散歩は、雨ふりでなければ追い出される木賃宿にふたたびもどってくる夕暮れまでの純粋な暇つぶしの趣があった。もちろん画題を求めてといってもおなじことで、彼の興をそそった場所はたちまちデッサンにも絵にもなって、そしてうまくいけば、その日の酒手と宿賃をかせぐために、驚くほどやすく売られたのである。
47
安来節の女
Yasuki-Bushi(Ballad)Dancer
1935(昭和10)年
油彩、カンヴァス
34.0×46.0㎝
右に書き込み:※※(駒)千代
個人蔵


 東京浅草に時ならぬ安来節ブームがまきおこったのは常磐座や日本館でオペラ公演がはじまった1917(大正6)年頃だといわれる。客席全体がうなりをあげて興奮したらしい観客参加の日本型オペレッタをサーカスとともに楽しんだ利行が、酒気をおいながら、太鼓手拍子にあわせて鼻歌まじりにえがいたのが《安来節の女》である。利行好みだったのは木馬館でうたう大和家三姉妹のうちの「駒千代」だったと天城俊彦はいっているが、素朴な雛人形みたいにもみえる画面中央の女の・cfルはあるいはそうなのか、右上隅にかすかに「…千代」と読める。
48
大和家かほる
Yamatoya Kaoru
1935(昭和10)年
油彩、カンヴァス
41.0×32.0㎝
左に書き込み:大和家かほる
個人蔵


 これも安来節を興行する木馬館の看板「大和家かほる」をえがいたもの。肩からうえを左半身にとらえたこの眼をほそめ唇をとじた表情は瞑想しているようでもあり、猥雑なエネルギーいっぱいの安来節の現場を瞬間的にうつしたかどうかはともかく、即興の生気にみちながら、この人物は静かに永遠にそこに眼をとじて在る。「彼の描く女人の頬は愛くるしく仏像の如く美しい」(井上長三郎)。「野卑で猥雑な環境の中に生きた長谷川の絵は、そのモデルたちに対しても、形や色のつけ方の点で、なんの美化の努力も払われていないにもかかわらず、総体として汚れがなく、ほのぼのと歌うような印象さえわれわれの記憶のうちに遺す不思議さを持っている」(寺田透)
50
四人の裸婦
Four Nudes
1935(昭和10)年
油彩、カンヴァス
24.4×30.6㎝
左上:T.HASEKAWA/1935
個人蔵


 利行はゴッホとおなじように描きたい対象が眼のまえにないとじゅうぶんその腕をふるえないかったという。いまそこに風景や人物がみえていてもすでにそれが遠い思い出になっているという、そんな時間を螺旋のようにたたみこだ視線があるとしたら、みえるというのは線が運動するためのほんのきっかけにすぎない。みていて、みていない。絵をえがくまでもなく、つねに動きまわってやまない心のゆらぎにちょっと色をつけるだけだ。利行の裸婦にはエロティシズムがないというとき、ふと浮かんでくるのは、いまいったようなことだ。踊り子は踊るのではなく、また女でもない。そう語る詩人をひきついだ別の詩人は水の変身のように遊弋する水母をエロスの夢になぞられていたのを思い出した。不断煩悩得涅槃。利行が描くうつつの夢がさめたところでかれはわすれた鉱物質のエロスの記憶にかえってゆく。
 
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