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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 作品解説 シャガール展図録 1993

 

シャガール展(1993)図録

 

作品解説

(荒屋鋪透、石崎勝基、土田真紀、東俊郎)

1.ロシアの町

cat.no.3
ランプのある静物
Nature morte à la lampe

1910年
油彩・カンヴァス
80.5×45cm
個人蔵
 身近な題材だったのだろうか、シャガールは好んで、食卓の上の静物を人物とくみあわせて描いている(cat.no.49参照)。本作品もその一例である。俯瞰した視点と装飾的なモティーフの強調は、ハフトマンが記すように、ゴーギャンの影響をうかがわせる。それにしてもここでの装飾は、画面の秩序を破壊しそうなくらい、独自の生命をもってうごめいている。テーブルは平らな面とはとても見えず、うねり、滑りおちていく。これは、厚塗りや太い輪郭などのプリミティヴィスム、縦長のフオーマットとともに、色彩の力に負うところが大きい。調和をくずすまでに対比される濃い黄、オレンジと深緑、紺。その点、フォーヴィスムの影響以上に、これもハフトマンが指摘するとおり、ロシア的性格を見てとることができる。実際、本作品とともに、カンディンスキー、さらにチェコのクプカを想起するならば、それらが確実に、西ヨーロッパ絵画の色調とは異なることに気づくはずだ。

(石崎)
cat.no.7
理髪店(叔父ズーシィ)
La salon de coiffure (Oncle Zussy)

1914年
油彩、グアッシュ・紙
49.3×37.2cm
国立トレチャコフ美術館、モスクワ
 シャガールは『わが回想』の中で、リョズノの町で理髪店を開いていたズーシィ叔父のことをのべている。この作品は、叔父の店の内部を描いたものである(cat.no.14参照)

 俯瞰した視点のため画面下方にむかって拡張していく床、鏡や窓、画中画といった空間を錯綜させる小道具、各モティーフの整理されない配置、水色、明るい茶色、白などからなる淡い調子によって、軽快な空間がうまれる。この点、マティスの1910年代以降の作品と比較することができよう。

(石崎)
cat.no.9
荷車を引くロバ
L’âne transportant en charrette

1914年
鉛筆・紙
10.7×16.1cm
三重県立美術館
 荷車というモティーフはこの時期、バーゼル美術館の油彩《家畜商人》(1912年)やテル・アヴィヴ美術館のグアッシュ《ヴィテブスク》(1914年)に見られるが、それらは馬車であり、ロバはポンピドゥー・センターの油彩《ロシアとロバとその他のものたちに》(1911-12年)に登場する。ユダヤ人にとって、ロバは特別の動物であるが、「ロシアとロバとその他のものたちに」という題名が、スイス出身の詩人プレーズ・サンドラールの命名によるとすると、パリの「蜂の巣(ラ・リュッシュ)」においてシャガールとサンドラールとの間で交わされたであろうロシアの思い出(この素描は《ロシアとロバとその他のものたちに》制作以後の年記をもつが、ここに描かれたような情景)などが、そのロバの源泉であると思われる。

(荒屋鋪)
cat.no.10
窓からの眺め、ヴィテブスク
Vue de la fenêtre, Vitebsk

1914-15年
油彩、グアッシュ、鉛筆・厚紙に裏打ちされた紙
49×36.5cm
国立トレチャコフ美術館、モスクワ
 建築に付随するモティーフは遠近法的視覚の成立以来、絵画空間を構成するための道具として、さまざまなやり方で用いられてきたが、窓というものは、必ずしもめだつ役割をふりあてられてきたわけではない。そうした中では、空間を人間の等身大でとらえることの多かったネーデルランドの室内画、とりわけフェルメールに代表される17世紀の風俗画が、多少とも積極的な機能を窓にもたせたといえよう。しかし、窓が独立した主役の位置をしめるのは、遠近法的視覚が崩壊しつつあった19世紀以降においてである。フリードリッヒやルドンでは、窓を正面からとらえ、手前の室内を暗く、窓のむこうを光でみたすことによって、窓を異界への通路たらしめた。これに対しボナールやマティスは、線遠近法によらない空間構成のためのしかけとして、窓を用いている。

 シャガールは1908年以来、しばしば窓から見た戸外の風景を描いている。そこにはボナールらと共通する意識を認められないではないが、ただ、ボナールにおけるごとく、黄色やオレンジを軸に、光と水分にみちあふれた空気が浸透しているわけではない。しばしば寒色系によってまとめられることもあって、シャガールの場合、光や空気は欠如しているのではないにせよ、むしろ淡く、すりぬけてしまいそうなものとして表わされるのだ。窓枠が、画面の緑に接しそうなほど大きく配されるのも、空間を分割・錯綜させるというより、風景を全体として奥に遠ざける役割をはたす。これがロシアの風土に由来するものといえるかどうかは不明だが、本作品にもそうした性格は共通している。後になると、窓から空を飛ぶものたちが舞いこんでくるだろう。

(石崎)
cat.no.12
死せる魂
Les âmes mortes

1923-25年
銅版画・紙
22.6×29.4cm、他
北海道立近代美術館/名古屋市美術館
 1923年パリにもどったシャガールに、アンプロワーズ・ヴォラールが挿絵本の制作を依頼した。ゴーゴリの小説『死せる魂』を選んだのは、シャガール自身である。1925年の末までには、全頁大の挿絵96点と縮図11点が完成していた。ただし、挿絵本として出版されたのは、1948年になってからである(テリアードによる)。

 ゴーゴリの『死せる魂』には、以前から挿絵が描かれており、なかでもアレックス・アーギンの木版画(1846年)は、シャガールにも影響を与えている。ただし、深谷克典の分析がしめすとおり、アーギンの説明的な描写に対し、シャガールは物語の核心をダイナミックな線や視点で一気にとらえようとした(『名古屋市美術館研究紀要第1巻』参照)。

 物語の諷刺的な内容に即したためか、ここには、シャガールと聞いて思いうかぶような、柔らかく甘美な人物像はあまり認められない。むしろ、グロテスクに誇張されたカリカチュアが目につく。それでいて、形を描きだすドライポイントの細く鋭い線は、決して重苦しくはなく、軽快に、生動感をもって走りまわっている。この軽やかさは、地の自が多くそのまま残されていること、しばしば俯瞰された視点、それにともない散らばったモティーフの配置などによるものだろう。なお、ここに描かれた情景は、パリにいたシャガールの、故郷ヴィテブスクによせた記憶に由来すると考えてまちがいではあるまい。

 《プリューシキンの村》で、景観にかかわりなく表面を覆う線は、原作の「プリューシキンの村は、なにもかもが黒ずみ古びてひどく荒廃していた」という描写によるものらしいが、それ以上に重要なのは、線を走らせる活力であろう。また、《曳船人足》の構図は、大ブリューゲルの《盲人の寓話》を連想させる。実際、本版画集はカリカチュアや地方色、空間構成の点で、16世紀ネーデルランドの巨匠に接近しているといえるかもしれない。

(石崎)
cat.no.14
赤い家
La maison rouge
1926年
グアッシュ・紙
51.5×65.7cm
個人蔵
 本作品は、1914年に制作された《リョズノの叔父の店》(トレチャコフ美術館蔵)の改作である(cat.no.49参照)。構図はほぼ忠実なくりかえしだが、色彩が大きく変更されている。木造の家屋をくすんだグレーと褐色で写実的にとらえた旧作に比べ、ここでは、赤、緑、白など、現実にあるとは思えない強い色が与えられている。これを記憶の魔術というべきだろうか。

 建築物を独立した主題とするジャンルは、線遠近法および劇場の舞台装置の展開に歩をあわせて、15世紀に成立した。ただその際、18世紀ロココ絵画における疑似アルカディア趣味の作品をのぞけば、描かれた建築物が廃墟もふくめ、ほとんどの場合石造のものであることに注意しよう。木造建築がなかったわけはなかろうから、ここには、モニュメンタルなものを尊ぶという、価値観に左右された選択が働いているものと思われる。それに対し、シャガールは早い時期から建築物を描いているが、少なからぬ比率を木造の家屋がしめる(後にはエッフェル塔が常連メンバーに加わる)。これは当然、シャガールにとってなじみのあるヴィテブスク周辺の景観が描かれただけなのだが、そこに、2O世紀における価値観の瓦解という事態が作用していると考えてもまちがいではなかろう。さらにまた、木造のテクスチュアが、寄木細工的なプリミティヴィスムとあいまって、ある種の軽快さをもたらしている点に、シャガール固有の性格を読みこむことができるかもしれない。

(石崎)

2.聖書

cat.no.18
七つの大罪
Les sept péchés capitaux

1926年
エッチング、ドライポイント・紙
16.2×10.8cm、他
兵庫県立近代美術館/神奈川県立近代美術館
 各大罪にそれぞれジャン・ジロドゥー、ポール・モラン、ピエール・マッコルラン、アンドレ・サルモン、マックス・ジャコプ、ジャック・ド・ラクルテル、ジョゼフ・ケッセルのテクストをつけ、シモン・クラーにより1926年パリで出版された。挿絵は16点の銅版画からなる。

 中世以来の主題にあわせて、人物の表情などは諷刺的に処理されているとはいえ、罪を弾劾するといった調子は画面からは認められない。むしろ、同時期の『死せる魂』(cat.no.12)同様、重力に拘束されることなく走りまわる線が、登場人物にエネルギッシュな生命を与えている。何点かではさらに、寓意という口実を利用して、動物と人間の区別もとりはらわれる。また、主題上中心人物を大きくとった構図が多いが、そこここにかいま見える情景描写は、やはり『死せる魂』同様、ヴィテブスクの思い出に由来するものだろう。

(石崎)
cat.no.19
嘆きの壁
Le mur de la lamentation

1932年
油彩・カンヴァス
73×92cm
テル・アヴィヴ美術館
 シャガールは1931年、『聖書』の挿絵制作のための取材旅行として、エジプト、パレスティナを訪れた(cat.no.22参照)。エルサレムのソロモンの神殿趾を描いたこの作品は、左方になだれかかる方向性がかすかに暗示されるとはいえ、シャガールには珍しくオーソドックスな線遠近法にしたがっており、視点も目の高さで一点に固定されている。『聖書』挿絵にあっても大地の引力がはたらくであろうことを思うならば、そこにやはり、主題がユダヤ人としてのシャガールにおよぽした影響を察するべきなのだろう。他方うち重なる岩の描写は、シャガール独自のぽかしににじむもので、雲のような流動性をはらんでいる。このため、ひとつひとつの岩が、堆積された時間の物語をつぶやきだしそうに見えはしないだろうか。

(石崎)
cat.no.22
聖書 
La Bible

1956年
銅版画・紙
30.4×23.9cm、他
名古屋市美術館
 『死せる魂』(cat.no.12)、『ラ・フォンテーヌの寓話』(cat.no.57)につづいて1930年、ヴォラールはシャガールに『聖書』の挿絵を依頼した。『寓話』同様グアッシュによる下絵から出発し、取材をかねた1931年のエジプトおよびパレスティナ旅行、第二次大戦中のアメリカ亡命をはさみ、105点の作品が完成、テリアードによって出版されたのは1956年のことである。

 『寓話』において形態をのみこむまでに画面全体をおおいつくしたニードルの線は、霧雨のように細くなり、形態をかたどるために奉仕している。形態は、柔らかく空気ととけあいながらも、確固としたイメージとして現前しようとする。それにともない、人物は多くの場合近接してとらえられ、俯瞰した視点も用いられていない。彼らは地面にしっかり足をつけており、天使たちをのぞけば、シャガールの他の人物たちのように宙に浮くこともない。こうして作品群は、モニュメンタルな重量感を獲得し、神話的とも悲劇的とも呼べる相貌をおびるのである。これは、単に様式上の展開にとどまるものではなく、ユダヤ人としてのシャガールが旧約聖書にいだく想念に呼応しているのだろう。メイヤー・シャピロはシャガールの場面選択に、「強い倫理的、共同体的内容とシオンへの熱望を含むユダヤ人の自覚の独特のまとまり」(二見史郎訳)を見てとった。『エレミアの嘆き』で預言者の顔は、浸蝕された風景を連想させる、宇宙的なスケールを獲得している。

(石崎)

3.サーカス、楽師

cat.no.32
サーカス
Le cirque

1967年
リトグラフ・紙
42×32cm、他
三重県立美術館
 1967年、テリアードによって刊行された版画集『サーカス』は、ヴェラン・ダルシュ紙に刷られた23点のカラー・リトグラフ(うち3点は見開きの大判サイズ)と15点のモノクロ・リトグラフから成り、シャガール自身の序文が付されている。全部で250部が出版され、それぞれローマ数字の番号と署名入りであるが、他に、やはり番号と署名入りの非売品の2O部と、広い余白のある紙に23点のカラー・リトグラフのみを刷ったものとが制作された。

 よく知られているように、サーカスは、シャガールにおいて最も長期にわたって、最も頻繁に取り上げられた主題の一つである。ロシア時代から時折散見されたこの主題は、ヴォラールからサーカスを主題にした版画集の制作を持ちかけられ、ヴォラールとともにシャガールがサーカス小屋「冬のサーカス」に通い始めたことによってますます重要性を持つことになった。この結果、1926年から27年にかけての冬に、《ヴォラールのサーカス》と呼ばれているグアッシュによる19点の作品が制作された。その後もサーカスに関連する主題はしばしば取り上げられたが、肝心の版画集の計画は、1939年にヴォラールが急死したため、宙に浮くことになった。

 しかし、1950年代の半ばから、再びサーカスの主題はシャガールの中で重要な位置を占め始める。1956年にはリトグラフでサーカス・シリーズを制作するとともに、大画面の《大サーカス》(ニューヨーク、ギュスタヴ・スターン財団蔵)を初めとする油彩を描いている。マイヤーによれば、この頃シャガールはかつてヴォラールと通った「冬のサーカス」の映画を撮る計画に参加しないかと誘われたという(フランツ・マイヤー、1963年、p.554)。こうして外的な刺激などを通じて、再びサーカスに対するシャガールの関心は高まりをみせたが、その最終的な集約点となったのが、テリアードの勧めによって刊行されたこの版画集である。ヴォラールの計画から実に40年の歳月を経ての実現であった。その間に、シャガールの中で、サーカスのイメージは、じっとあたためられつつ次第に展開され、ごく初期のモティーフに次々と新しいモティーフが加えられるとともに、その舞台も次第にスケールの大きなものに移っていった。

 たとえば2O年代にはサーカスの個々の登場人物に絞られていた視点が、それ以降、徐々に観衆をも含めたサーカス小屋へと広がり、この版画集においては、演技者と観衆の双方を包み込んで、色彩と光が織りなすサーカス小屋の魔術的な雰囲気そのものが、どの画面にも現われている。この点でいえば、23点のカラー・リトグラフはより直接的な表現によってこれを実現しているが、15点のモノクロ作品も、モノクロ版画において常に優れた表現効果を生み出してきたシャガールにふさわしく、カラー作品に劣らぬ出来映えを示している。

 シャガール自身、この版画集に、詩的な言葉でサーカスへの思いを語った文章を付しているが、「サーカスは最も悲しいドラマのように私には思われる」という有名な言葉どおり、サーカスが人生そのものや宇宙の暗喩として、聖書に匹敵する位置をシャガールの中で占めていたことは、作品からも明らかである。そして、現実と幻想が入り交じった内容の点でも、また光と色彩という表現の点でも、この版画集は、シャガールの晩年の芸術の全体像をよく示している。

(土田)
cat.no.33
サーカス(大)
Le grand cirque
1968年
油彩・カンヴァス
160×170cm
個人蔵
 サーカスを描いた数多くの作品のなかでも、本作品は、きわめて独自の性格を示している。まず、色彩の問題であるが、ここでは大部分を占めるモノクロと、多色とがきわめて意図的に、しかも単に美的な効果以上の意味を帯びて使い分けられているようである。画面の両わきの緑と青の帯が中央のモノクロの部分を縁取っているが、ハフトマンは、「カーテンのように、この色彩の帯が視覚の精神領域を仕切っている」と指摘している(ヴュルナー.ハフトマン『シャガール』、1976年、p.150)。すなわち、この画面があたかも幕の向こう側の舞台であるかのような印象を与えているというのであろう。「この絵はサーカスを世界の劇場にみたてて、遠大な暗喩となっている」(同上)。

 鶏の頭をした馬の上でヴァイオリンを弾く女曲芸師を初めとして、シャガールによるサーカスの絵画でなじみの様々なモティーフが混沌と描かれている点では他の作品と変わりないが、この場面に突然現れたかのような印象を与える巨大な羽をもつ双頭の生き物、及びこの右上の弧の中から左下を指した手は、きわめて特異である。両者はサーカスの場面に登場する通常のモティーフではない。とりわけ後者は、すでに指摘されているように(同上)、ビザンティン絵画における「神の手」にほかならず、光を発している。シャガールは「私は常にピエロや軽業師、俳優を、私っては、ある種の宗教画の中の人々と似たところのある非常に悲しい人々だと考えた」と語ったこともあるが(シャガール「サーカス」)、ここでははっきりとサーカスの主題に宗教画のモティーフが入り込んでいるのである。しかも画面の右上端で、あたかもこうしたすべてをじっと見守っているかのような人物は、パレットを手にした画家のようにも見える。数多いサーカスの絵画の中でも、最も壮大かつ入り組んだ構造をもつ作品である。

(土田)
cat.no.38
アルルカン
L’arlequin

1968-71年
油彩・カンヴァス
136×97cm
大成建設株式会社
 町並みをはるかに見おろして、巨大な人物が宙を浮遊し、その周囲を様々なモティーフが取り巻くという構図は、シャガールに最も特徴的なものの一つである。浮遊しているのは、恋人たち、楽師、聖書中の人物、天使など様々であるが、サーカスの芸人たちも、この時期の作品では、サーカス小屋を離れて自由に町の上を翔んでいる例がしばしば見られる。本作品では、両手を広げたアルルカンが、セーヌ河とノートル・ダム大聖堂によって象徴されたパリの夜空に浮かんでいる。

 このように構図の点では典型的な作品であるが、ほとんど青一色の背景に浮かび上がったアルルカンの表現には独自の点が見て取れる。アルルカンの身体は、赤、青、緑という鮮やかな色彩のパッチワークで構成され、かすれるような白の輪郭線によって、かろうじてまとまりを保っているが、今にもばらばらに分解し、色の塊として夜空に散っていくかのような非実体的な感じを与える。また、かつてのキュビスム的な表現を思い起こさせる顔は、アルルカンの生身の顔というより、その下には何も実体のない仮面といった印象を喚起する。ここでの表現様式は、1952年にシャルトル大聖堂のステンドグラスに触発されて以来、シャガールが熱心に取り組んだステンドグラスの仕事と関連があるようにも思われる。

(土田)
cat.no.45
生命
La vie

1989年(原画:1964年)
つづれ織
360×478cm
フジカワ画廊
 シャガールには、数多くはないが、モスクワのユダヤ劇場のための壁画(1921年)、《革命》(1931年)、モザイクによる《オデュッセウスの教え≫(1967-68年)など、大規模な横長の作品がある。当然壁画やモザイクといった発注時の条件に左右される部分は少なくないだろうが、その際シャガールは、一種のパノラマないしページェントをくりひろげる。横長という型が、絵巻物のように、時間の展開をひきおこすのだろう。宇宙が神の物語る書物、一冊のトーラーであるという、ラビの教えをシャガールは思いだしていたかどうか。本タピスリーも例外ではない。青とオレンジの対比の中で、赤子を抱いた花嫁花婿、楽師たち、サーカスの芸人たち、太陽と月、鳥や牛、魚、パリの都とロシアの小屋が尺度もまちまちのまま、宇宙的な舞踏をくりひろげるのである。そこでは重力はもとより、空間も時間も固定したものではない。記憶の中に沈澱したさまざまなイメージが、時間のへだたりをこえて、同時に現前してくる。飛翔が重力からの解放であるように、記憶は時間からの解放なのだ。いっさいは響きあい、嵌入しあう。この時、シャガールにおける重力からの解放は、ミロともども、1940年代後半のアメリカ絵画におけるオールオーヴァーな空間に接近するともいえようが、あるいはむしろ、死の直前に一生のできごとが通りすぎるというパノラマ現象、さらにフェリーニの『8 1/2』のラストシーン、近代神智学のいうアーカーシャ・クロニクルといった語などを思いかえすことも意味がなくはあるまい。

 なお、万華鏡かフレスコ画におけるジョルナ一夕を連想させるモティーフを区切る面の区画は、シャガールの作品に時期をおいて現われるが、エル・グレコ、あるいはかつて影響を受けたオルフィスムのなごりだろうか。本タピスリーは、1964年の同じタイトルの油彩(296×406cm、マルグリット&エーメ・マーグ財団蔵、サン・ポール・ド・ヴァンス)にもとづき、イヴェット・コーキル=プランスによって制作された。

(石崎)

4.人、人物

cat.no.46
ソファーに座った少女(マリアシュカ)
Jeune fille au divan (Mariaska)

1907年
油彩・カンヴァス
74.5×91cm
個人蔵
 くすんだ黄や褐色を主にした色の調律は、1907-10年頃の作品でしばしば採用された。マイヤーはこの点にバクストの教えを読みとり、1908年の制作としている。モノトーンへの還元、モティーフを絵の平面と一致させようとする傾向は、コンプトンが記すように、ホイッスラーを連想させるものである。これはとりわけ、両脚や右腕の観念的な処理にいちじるしい。マリアシュカは妹マルーシアの愛称であるらしく、1907年の制作とすれば、当時5歳だったことになる。

(石崎)
cat.no.49
酒呑み
Le buveur

1923年
グアッシュ・紙
46×57cm
個人蔵
 シャガールは1923年、パリに着いた頃、自分の手もとを離れてしまった旧作の再制作や改作をおこなっているが、本作品もそうした例のひとつであろう。原作は1911-12年頃の油彩(85×115cm、個人蔵)。細部はほぼ忠実に原作にしたがっており、モティーフ間の配置が微妙に変化している程度だ。

 1911年、シャガールは本構図と関連する一連の作品を制作しているが、そのうちのグアッシュによる一点が直接の出発となった。テーブルと男、宙を飛ぶ首と酒瓶、ナイフはすでに本構図と一致する。ただ左奥に窓が開き、外から牛がのぞきこんでおり、またテーブルの上には鳥ではなく、トランプとボールにもった果物がおいてある。首や瓶、牛はともかく、雰囲気は比較的自然なものである。完成作では、テーブルの上が変更されるとともに、背景がオルフィスム風に抽象化された。その結果、シャガールの作品中でもっとも鋭角的な印象を与えるものとなっている。こうした鋭角性は、1910年代の、べた塗りの黒の面と白を対比したペン素描にも通じるものだが、ここでは、背景の黄と赤の抽象的な対比、プロフィールでとらえた頭部に正面向きの目を配するというエジプト絵画風の処理、ナイフの鋭利さなどが、熱を帯びて攻撃的な雰囲気をかもしだしている。胴から離れた首に、アルコールによる酩酊の象徴を読みとることもできるだろうが、その点に関しマイヤーは、「ひっくりかえった椅子や切り離された首を要求するのは、私の色彩なのだ」というシャガールのことばを引いて、図像の意味にとらわれることを戒めている。

(石崎)
cat.no.52
水浴
Le bain

1925-26年
インク・紙
11×10.3cm
三重県立美術館
 挿絵本『七つの大罪』(cat.no.18)にある《嫉妬Ⅱ》との関連を指摘できる素描である。この素描では女と男がともに背面で描かれ、裸婦は知らぬ間に男に覗かれているが、版画作品《嫉妬Ⅱ》の浴女は、垣根越しに彼女を見る男に胸をかくしながら振り返っている。若い男は口を開け、なにかを呟いているようであり、水浴する女の立っている川に仲良く泳ぐ2匹の魚、そして林のむこうに描かれた2頭のシャガール特有の獣たちが、まるで愛撫をするかのように寄り添う姿は、旧約聖書外典「スザンナと長老たち」の主題、つまり邪悪を遠ざける女性の貞淑さとは反対に、この場面の男女の呼応、むしろ共犯関係といえそうな親密さを暗示するようでもある。

(荒屋鋪)
cat.no.57
ラ・フォンテーヌ寓話集
De la série des Fable de la Fontaine

1927-30年
銅版画・紙
28.1×24.5cm、他
個人蔵
 ラ・フォンテーヌの『寓話』に対しては、1668年に出版された第1集以来、くりかえし挿絵がよせられてきた。ざっと見ても、ショヴォー(1668年)、ウードリー(1755-59年)、モンネ(1765-75年)、グランヴィル(1838年)、ジュール・ダヴィッド(1836-39年)、ランベール(1869年)、フルキエ(1875年)などといった例をあげることができ、風俗や動物の描写をさまざまに展開する。そうした中で比較的人口に膾炙しているのは、ドレのものであろう(1867年)。ドレの挿絵は、設定された画面を細部まで描きこんだ、きわめて説明的な性格をもっている。これらに比べ異彩を放つものに、モローの水彩による連作がある(1879-86年)。説明的な細部描写はいまだ大きな比重をしめているものの、色彩の力がそれを圧倒しつつあるのだ。

 シャガールの『寓話』は、ドレはもとよりモローに比しても、絵画としての統一性がはるかに強められている。風俗画的な逸話性はいっさい廃され、それどころか、形象も線の走行のうちにうずもれてしまいそうに見える。『死せる魂』(cat.no.12)においてかなり白地を残していた線が、画面全体を覆うにいたったと見なせるかもしれない。そしてつづく『聖書』(cat.no.22)ほどには、線は形態に収斂していこうとはしていないわけだ。だが『寓話』における錯綜した鋭利な線の網は、地の白と強い緊張関係にはいることで、画面を幾重にもうち重なる光と闇の変幻たらしめている。これは、金属の版と針の交渉によって成立する銅版画、とりわけドライポイントの特性を最大限にいかすことによってえられたものであろう。《狐と葡萄》において、画面の大部分をしめる余白が、黒々とした狐や葡萄と対比され、さらに版の拭きあとを残すことで、いかに厚みをもってみなぎりわたっていることか。《狼と仔羊》では、形がネガのように反転している。こうして、動物も人間もつつみこむ自然のざわめきがとらえられる。

 『寓話』は『死せる魂』につづいて、1925年ヴォラールに委嘱されたものである。1926年から27年にかけては、下絵となるグアッシュを制作している。銅版画にとりかかるのは1928-31年。当初色刷りを試みるが、満足な成果がえられず、白黒におちついたという。それでも、300部の刷りのうち85部には、手彩色がくわえられている。各セットは100点の図版からなる。ただし出版は、1950年になってからテリアードによってなされた。 

(石崎)
cat.no.58
私はマルク・シャガール、または「聖句箱」をつけた自画像
Moi, Marc Chagall, ou l’autoportrait au《tefillin》
1928年

水彩、パステル、グアッシュ・厚紙に裏打ちされた紙
62.9×47.7cm
ベルギー王立美術館
 シャガールは、比較的早い時期から自画像を制作しているが、デッサン類を別にすれば、ほとんどの場合パレットを手に画布にむかう画家としての姿を描いている。土色を主にしたパレットで、写実的な1908年の作品(ポンピドゥー・センター蔵、パリ)や1909年の作品(ノルドルハイン・ヴェストファーレン・コレクション蔵、デュッセルドルフ)でも、いささかの気どりとともにとらえられているのは、ロマン主義的な芸術家像である。以後、写実性の度合いにかかわりなく、自画像は単なる肖像にとどまらず、芸術家の霊感という古い主題をあつかうことになる。本作品でも、相似はほとんど問題とはされていない。頭上を飛ぶ人牛や、輪郭だけの小さな人物は、画家の脳裡にうかんだイメージなのか、画布から抜けだしてきたのか。またここでは、左の木や腰掛け、それに画家の目の前の羽のようなぼんやりしたかたまりなど、はっきりした形をとらない周囲の描写が、夢の中のようにイメージを流動させている。画家のからだも、白のシルエットと赤茶のシルエットと、二重映しになって周囲と溶けあう。

 さらに、朝の祈りのために額につけた聖句入れの箱や、左肩および腰掛けに薄くうかぶダヴィデの星など、この作品ではユダヤ的な要素が強調されている。その点で、1910年代に制作された一連のユダヤ人の肖像画、なかでも、やはりプロフィールでとらえられた《祈るユダヤ人》(1912-13年、イスラエル美術館蔵)との関連を認めることができよう。

(石崎)

5.恋人、花

cat.no.91

La branche
1956-62年
油彩・カンヴァス
146×114cm
三重県立美術館
 「奇跡はある日、それが起こるかもしれないから奇跡なのだ」といったのはG.K.チェスタトンである。それは過去に一度も起こったことがなくても、またそれをみたことがなくてもいいので、そういう風にいうならシャガールはけっして奇跡の絵を描いたことはなかった。夢のなかのように意味の関接がはずれた自由な出来事だといういい方がいちばん近そうだが、ほんとうは夢でなく、まして幻視でさえなく、シャガールはじぶんにとって現実であったものを描いている。超現実である現実にかこまれて、かれはかれがみたものを描く。もっと正確にいうと、みることと描くことが同時である時間を生きるとき、描くことでかれはシャガール的な風景をみる。過去・現在・未来といった直線的な時間のなかから、たとえば《枝》にもみられる鳥、花束、夜の太陽、花嫁と花婿(青、赤、緑のあれらシャガールの色たちもわすれないでおこう)などといった小さな時間の元素がすくいあげられ、そういう元素と元素が結合したり分離したりする。まるでフラスコのなかの化学変化のようなことがおこるのはそのときだ。だから色もかたちも固定されることなく、いつも一種のながれのなかにある。ゆるやかなその速度は、過去の回想とみわけがつかないかもしれない。有限の時間。けれど、かれにとってこれは、現在をふくむことでたぶん無限になった時間であり、繰りかえしはじつは繰りかえしではなかったのだから、シャガールはみる人には繰りかえしとみえる絵を描くことを厭わなかった。

(東)
cat.no.93
ダフニスとクロエ
Daphnis et Chloé

1957-60/1961年
リトグラフ・紙
42×32cm
徳島県立近代美術館/神奈川県立近代美術館
 『ダフニスとクロエ』は、2、3世紀頃のギリシャの詩人ロンゴス作とされる物語に、シャガールのカラー・リトグラフによる42点の挿絵を付した挿絵本である。42点は、ヴェラン・ダルシュ紙を用いて、余白なしに刷られているが、うち16点は見開きの大判サイズである。番号、署名人りの250部に加えて、非売品の2O部(番号・署名人り)と作家、版元用の数部、42点のカラー・リトグラフのみを広い余白のある紙に刷った60部が制作された。

 エーゲ海のレスボス島を舞台に、羊飼いに拾われた二人の捨子、ダフニスとクロエが、様々な試練をくぐりぬけて恋を成就させるというこの物語は、1559年にジャック・アミヨによって初めて仏訳され、また1598年にフィレンツェで初版本が刊行されている。シャガールが挿絵をつけた本文は、ポール=ルイ・クリエが、1807年にフィレンツェの図書館で発見した新たな写本に基づいて、アミヨの翻訳に手を加えた新しい版によっている。

 テリアードから依頼を受けたシャガールは、1952年と54年の2度、ギリシャに赴いている。「私が再びギリシアを訪れたとき、かつてヴィテブスクが『死せる魂』に挿絵を描くのを可能にしてくれたように、ギリシアが『ダフニス』のためにインスビレーションを与えてくれた」と、これらのリトグラフを制作した工房の主であるフェルナン・ムルロにシャガールは語ったという(『シャガール・リトグラフ作品集 第1巻』、p.160)。最初の訪問ではアテネやデルフォイを訪れ、ボロス島にしばらく滞在した。2度目にはボロス島とナウプリアを訪れ、オリンピアにも行った。この2回の訪問の際に、グアッシュやパステルによる素描が描かれ、また54年から56年にかけて『ダフニスとタロエ』のために42点のグアッシュが制作された。しかしこれをリトグラフに移すにはさらに3年の月日を要し、57年に始めて、ようやく61年に刊行された。ムルロは、シャガールが時には20色以上もの色数を用い、やり直すこともしばしばであったと伝えている(同上、p.160)。

 『ダフニスとクロエ』の挿絵群は、ギリシャ体験がシャガールにとっていかに決定的であったかを物語っている。ヴィテブスクやパリ、パレスティナが自らの生活や人生、アイデンティティーの切り離しがたい一部であるとするなら、シャガールにとってギリシャは全く異質な未知の別世界であった。その強烈な印象が、シャガールの他の作品とは趣を異にする、牧歌的で茫洋とした雰囲気を生み出しているのであろう。現実の人生の背後に潜む深淵の闇などとは一切無関係に、ここにはただ光が溢れている。季節と時間のめぐりに従って進行する物語に応じて、シャガールの挿絵もまた、様々な季節、時間のもとでのギリシャの光を捉えており、夜の闇さえもがここでは光の一形態にすぎないことがわかる。こうした光=色彩のもつあまりの力ゆえに、形態はそれらに融け込みそうなほど輪郭を弱め、代わりに各場面における色調の統一が強調されている。

 シャガールは、1959年にパリのオペラ座で演じられたラヴェル作曲、フォーキン振付けによるバレエ『ダフニスとクロエ』の衣装と舞台装置を手掛けている。また彼のギリシャ的世界は、『神々の大地で』や『オデュッセイアといった後の版画集において再現されている。

(土田)
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