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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1997 > 描かれた芭蕉・描かれた『奥の細道』 佐藤美貴 松尾芭蕉と「おくのほそ道」展図録 1997

描かれた芭蕉・描かれた『奥の細道』

佐藤美貴
三重県立美術館学芸員

今回の展覧会には、芭蕉自筆資料、あるいは芭蕉門弟の文学資料に加えて、近世・近代の絵画作品が、三四点出品されている。そのうち、松尾芭蕉を描いたいわゆる芭蕉像は21点、「奥の細道」に取材した作品が13点である。以下では、これらの絵画作品を中心として、「芭蕉像」は、肖像画としてどのような意味をもっていたのか、また、「奥の細道」を描くことにどのような意味があったのかをみてゆきたい。

具体的に「芭蕉像」についてみてゆく前に、肖像画について簡単に述べておく必要があるだろう。

日本における肖像画の歴史は古く、奈良時代の「聖徳太子像」にまで遡る。以後、描かれた肖像画は数多く、枚挙にいとまがないが、肖像画は、さまざまな役割を担っており、その制作の目的は実に多様である。たとえば、室町時代にさかんに制作された、武士が出陣する際の姿を描く肖像画は、晴れ姿を記録するという役割を担う。また、頂相と称される禅僧の肖像は、師の肖像が、弟子におくられることで、免許皆伝の役割を果たした。そして、以下に述べるように、像主を讃える役割を担う肖像画もあった。

芭蕉が俳聖と呼ばれるように、歌聖と称された柿本人麿は、和歌を推敲するかのように、脇息にもたれた姿で描かれることが多い。この脇息にもたれるポーズというのは、しばしば指摘されているとおり、維摩居士のポーズを踏襲したものと考えられる。維摩居士が、釈迦に 「智恵第一」と評されたことを考えると、「人麿像」が、人麿を維摩居士になぞらえ、讃えるために制作されたものであることがわかる。このポーズは、連歌の聖、宗祇にももちいられている。

さて、俳聖芭蕉の肖像はどうであろうか。芭蕉にも、人麿や宗祇と同様に脇息にもたれて描かれる例がある。それ以外にも、芭蕉を釈迦にみたてた「芭蕉涅槃図」という作品が残っている。中央に横たわった芭蕉と、それをとりかこむ門弟たち。中央に釈迦が横たわっていたならば、その作品は、涅槃図という仏画の画題である。釈迦入滅の情景を、中央に横たわった釈迦と、釈迦を取り囲んで嘆き悲しむ弟子たちであらわす。芭蕉を釈迦になぞらえるということは、すなわち芭蕉が、俗人ではなく神格化されていたことをものがたっている。芭蕉没後に追慕の念を表現するとともに、釈迦になぞらえて讃えられるべき俳聖なのだという意識をあらわしている。さらに、「あかゝと日はつれなくも秋の風」という俳句とともに描かれる「芭蕉像」では、芭蕉の背後に、赤く輝く夕日が描かれている。この夕日が、芭蕉の光背となっていることはいうまでもない。光背は、身体が輝くといわれる仏の超人性を表現したものである。つまり、ここでも芭蕉は、仏にみたてられ、人間を越えた存在として讃えられているのである。

それでは、「芭蕉像」は、神格化されたものばかりをのだろうか。直接的に、維摩居士や釈迦になぞらえられる「芭蕉像」以外に、八徳を身にまとって坐る芭蕉を描く「芭蕉像」と、笠と杖を持ち、旅姿で描かれる「芭蕉像」が多く残っている。

蕉門十哲のひとり、杉山杉風(1647~1732)は、「芭蕉像」を多く描いている。生前の芭蕉と杉風との親しさを考慮すれば、その面貌表現は信頼のおけるものと考えてよいだろう。「亡師芭蕉翁之像畫杉風」の落款をともなう、頭巾をかぶり、八徳を着した「芭蕉像」もみられ、杉風が追慕の念をもって、制作していることがわかる。また、杉風の描いた「芭蕉像」は、蕉門でも大変珍重されたようである。蕉風の復興に生涯を捧げた蝶夢が、京都の画家吉田偃武に模写させた「芭蕉像」も杉風のものであり、杉風の描く「芭蕉像」が、後続の「芭蕉像」に少なからず影響をおよぼしていたと考えることができる。事実、杉風の描いた、八徳姿の芭蕉坐像と同じ構図であらわされる「芭蕉像」は、数多い。

つづいて、旅姿の「芭蕉像」としてもっとも知られているもののひとつに、森川許六(1656~1715)の筆になる「芭蕉曾良行脚図」(天理大学附属天理図書館所蔵)がある。許六は、狩野安信に絵を学んだといわれており、芭蕉は、許六を絵の師としている。芭蕉と曾良の旅姿が描かれた「芭蕉曾良行脚図」は、「奥の細道」行脚の様子を描いたものであると考えられ、落款から、元禄六年(1763)に描かれたことがわかる。元禄六年といえば、芭蕉はまだ存命中であり、像主が生きている間に描かれた寿像である。つまり、杉風の「芭蕉像」と同様、その容姿も、ある程度信用できると考えられる。

笠と杖を描き、旅姿の芭蕉をあらわす肖像画は、芭蕉が旅を愛したという側面を強調しているといえるだろう。許六の作品だけでなく、笠と杖を描くことで、芭蕉を表現する例は多い。たとえば、側面からとらえられるために、ほとんど顔が描かれていない「芭蕉像」があるが、笠と杖を描くことで、芭蕉を表すことに成功している。そして、その究極のかたちが、酒井抱一(1761~1829)筆の「芭蕉像」である。抱一の「芭蕉像」は、笠と杖のみで、芭蕉を表現している。芭蕉に対する知識のない人間がみると、笠と杖を描いた絵にしかみえないが、芭蕉を知る人は、笠と杖の背後に、描かれていない芭蕉をよみとるだろう。抱一の描いた「芭蕉像」が、芭蕉の像として受け入れられるためには、抱一だけでなく、その絵をみるものもまた、芭蕉イコール旅というイメージをもたなくてはならない。そして、抱一が活躍した時期が、江戸の後期であることを考えると、ひとびとが意識した旅が、「奥の細道」である可能性は高い。

『おくのほそ道』は、元禄15年(1772)に元禄版とよばれている版本が刊行されて以来、明和版、寛政版、そしてそれぞれの異版など、数多くの版本が刊行されている。また、解釈書の類などもつぎつぎに刊行される。このことを考えると抱一や次に述べる蕪村が制作をおこなった時期に、芭蕉イコール「奥の細道」というイメージが定着していたと考えても、差し支えないだろう。

芭蕉の没後に活躍した俳人であり、画家でもあった与謝蕪村(1716~84)は、肖像画だけでなく、「奥の細道」そのものも画題とした。蕪村は、絵巻と屏風というまったく異なる画面に、「奥の細道図」を描いている。蕪村は、少なくとも10点の 「奥の細道図」を制作したといわれ、現在は、4点が確認されている。絵巻にも、屏風にも、『おくのほそ道』の全文が記され、旅立ちの場面から、奥の細道紀行の最終地点である、大垣の近藤如行邸の様子までを描いている。これまでにみてきた芭蕉の肖像画と、蕪村の描いた「奥の細道図」では、どのような点に違いがあるだろう。

「芭蕉像」を制作するのと同様に、芭蕉に対する尊敬の念が、「奥の細道図」制作の背後にあったことは、容易に想像できる。ただし、芭蕉自身を描くことと、「奥の細道」という芭蕉の奥州北陸紀行を絵画化するということとは、作者の意図にも何らかの違いがあるはずである。つまり、俳聖芭蕉個人に対する尊敬の念を表すだけならば、「芭蕉像」でも可能であるが、「奥の細道図」を描くことで、単に俳句をよむ芭蕉のみに敬意を表したのではなく、芭蕉の人生観や、その人生観に基づいておこなわれた「奥の細道」 の旅にも敬意を表したのではないだろうか。

当然のことながら、「奥の細道図」は、芭蕉のおこなった奥州紀行の旅を視覚化するという役割を担っている。蕪村は、「奥の細道図」において、芭蕉を神格化し讃えるのでなく、芭蕉をはじめとして、芭蕉が「奥の細道」でかかわったひとびとすべてを、滑稽味あふれる軽快な俳画として、描いている。蕪村は、客観的に「奥の細道」の旅をとらえているといえるだろう。みずからも俳句をよくした蕪村が、芭蕉を敬愛してやまなかったことはいうまでもない。蕪村にとっては、芭蕉の「奥の細道」の旅そのものが、尊敬にあたいするものであった。その「奥の細道」という旅の行程と『おくのほそ道』の全文を記すことで、蕪村は、芭蕉にたいして尊敏の念をあらわした。このことは、蕪村の「奥の細道図」制作が、芭蕉の再評価運動がたかまった時期にあたっていることからも容易に想像できる。

「奥の細道」の絵画化を試みたのは、もちろん蕪村ばかりではない。近代の画家たちも「奥の細道」を描いている。「奥の細道図」を描いた画家として、川端龍子、小野竹喬、小杉放菴がよく知られている。芭蕉とは異なる時代に生きた近代の画家たちが、「奥の細道」を描くことにどのような意味があったのだろう。そして、それらは蕪村の描いた「奥の細道図」とどのように異なっているのだろう。

洋画家としてスタートした龍子(1885~1966)は、後に日本画に転向している。龍子は、66歳から70歳にかけて、実際に芭蕉と同じ季節に同じ行程で「奥の細道」を旅し、「連作・奥の細道」を描いている。日本画の顔料を使っているものの、「連作・奥の細道点描」の斬新な構図や大胆な筆遣いは、龍子が洋画の出身であることをわれわれに感じさせる。この旅について龍子は次のように述べている。

「自分は昭和26年から昭和30年まで、四次にわたって奥の細道を巡遊した。この巡遊は俳聖芭蕉翁の有名な『奥の細道』にしたがって同じ季節、同じ行程を辿り、その間の触目した自然の美、風土的な所産、歴史的な遺物、人事関係などを対象に、心たのしい写生を試み、それを素材にして、『連作・奥の細道点描』と銘打った個展を4回催しました」(4次、4回がそれぞれ5次、5回の誤りであることが、指摘されている。)

この龍子のことばどおり、「連作・奥の細道点描」は、龍子自身がみずからの目でみた「奥の細道」の情景である。蕪村のように、『おくのほそ道』の全文を記し、芭蕉の「奥の細道」行脚を客観的に描写するものではない。龍子の個性があふれた「奥の細道図」である。

竹内栖鳳に師事した竹喬(1889~1979)もまた、86歳のとき、「奥の細道」の地を訪れ、「奥の細道句抄絵」の連作を制作している。芭蕉の俳句を1点1点のタイトルにつけたその作品は、明るい色調で、平面性を強調したものが多い。他の晩年の作品と同じく、日本の風土をおだやかに描き出している。竹喬は、芭蕉とみずからの「奥の細道」について次のようなことばを残している。

「芭蕉の句は、日本の風土にぴったりと足をつけている。(略)芭蕉の人生観が、常に自然を愛し、絶えず旅の心を抱いて、孤独に徹しようとした。風景画家である私は、これに心をひかれないではいられなかった。奥の細道句抄絵も、このような思慕のもとに連作として取組んでみたかったのである。取材については、事情の許すかぎり現場に出かけていって、芭蕉の句意を汲みながら、現在の私の感覚の上に創造しようとした。竹喬は、芭蕉がよんだ俳句から10句を選び、その句がよまれた地に赴き、みずからの目でその場の風景を描く。みずからの目で「奥の細道」の風景を捉え、作品を描くという点においては、龍子と共通している。しかし、龍子が、実際の風景をもとにダイナミックに描き出すことが多いのに対して、竹喬は、芭蕉が句によんだ情景を象徴的に描き出す。シンボリックな「奥の細道図」である。

また、放菴(1881~1964)も、「奥の細道」を描いた画家としてよく知られている。放菴も、はじめは高橋由一門下の五百城文哉の内弟子となり洋画を学んでいる。しかし、のちに中国旅行を機に、おもに日本画、水墨画を描くようになってゆく。渇いた墨で描く、滑稽味溢れる画風は、放菴独特のものである。昭和2年に、46歳で「奥の細道」を旅し、翌年から『奥の細道画冊』の制作に入っている。略筆で、俳画的にあらわされる『奥の細道画冊』には、以後晩年に放菴が深く追求してゆく、水墨表現がすでにあらわれており、放菴の画業において重要な位置を占めているといえるだろう。『奥の細道画冊』は、「奥の細道」を旅する芭蕉の姿が描かれており、すでに述べた龍子、竹喬の「奥の細道図」とは異なっている。

「絵は蕉翁の文意を考え、或いは実験の山水に依る。、絵の解題を兼ねて添へた本文は、旧蔵素龍本初版と称する古書を写さしました。」昭和7年に刊行された『奥の細道画冊』序文のことばである。

龍子、竹喬、放菴の共通点は、実際に足を運び、連作として「奥の細道」を描いていることである。その「奥の細道」の旅で、目にしたもの、そして描きだしたものは三人三様である。しかし、芭蕉の歩いた「奥の細道」を体験し、創り出した作品が、それぞれの画業において、大きな意味をもつものであったという点は共通している。彼らに、芭蕉への尊敬の念がなかったわけではない。先に引用したように、旅を愛した芭蕉の人生観に共感し、憧憬する気持ちもあっただろう。しかし、それ以上に、新しい芸術を生み出したいという彼らの創造意欲がまさっていたといえよう。だからこそ、芭蕉と同じ道を歩き、創造するインスピレーションを得ることができたと思われる。

芭蕉も、芭蕉のおこなった「奥の細道」紀行も、それにより生み出された『おくのほそ道』も絶大な影響力をもっている。ここでは、近代絵画まで、しかもごく限られた作家と作品に言及したにすぎない。しかし、その影響力は、現在もおとろえていない。そしてこれからも多くのひとびとが、「松尾芭蕉と奥の細道」にインスピレーションをうけて創造を続けるだろう。

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