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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2000 > 第3部 陶芸家・新井謹也 桑名麻理 新井謹也とその時代展図録

第3部 陶芸家・新井謹也

第1節 華蔓艸社の同人たち

新井謹也の陶芸家としてのデビューは、1921(大正10)年1月、京都商業会議所での孚鮮陶画房展覧会である。鉢100点、花器9点、煙草函及煙草立7点、香盒及肉池22点、その他22点、計160点が目録に記されている。実用品を主に価格もできるだけ低廉におさえられ、新しい中産階級、知識階級を対象としていたという。

1924(大正13)年、新井は河合卯之助、近藤悠三、平舘酋(漆芸)、塚本繁(染織)と華曼艸社を結成する。河合と新井の年齢が40代であったのに対し、そのほかの同人たちはいまだ20代であり、おそらく河合がリーダー的立場であったと推測される。11月に発表された「華曼艸社を結ふの辞」では、日頃の交友関係からうまれた、結成の意志を取り立てて言うほどもないぼんやりとした会としているが、その後の展覧会評では「自然の草木魚介を感激を持て取材する」ことにおいて「既成大家が忘れ又は気付かずに居る。一番ほんとの所を行かうとして居る」とされ、革新的な一派とみなされていたようである。

華曼艸社の展覧会は、結成時に京都で第1回展、翌年神戸で第2回展を開催し、同人として伊東信助(陶芸)、渡辺彦之助(漆芸)を加わえているが新井の名はすでになく、事実上最後となった翌々年の第4回展でも参加はしているもののもはや同人ではなかった。

この頃、関西美術会の展覧会に工芸部が新設され、新井は富本憲吉、河井寛次郎とともに審査員をつとめている。また農展(のちに商工展に改称)にも積極的に出品し、第13回展では3等賞を受賞している。

ここでは、新井の作品の制作年代が大変難しいこと、同人たちも20代の制作であることから、河合卯之助と近藤悠三の作品を紹介するに留まった。

(桑名麻理)


第2節 耀々会の同人たち

1926(大正15)年6月10日、京都陶磁器新聞に関西美術会における洋画と陶芸の合併展覧会の記事が掲載された。陶器部の審査員は河井寛次郎、富本憲吉、新井謹也で、入選者は近藤悠三、河合榮之助、河村喜太郎、八木一艸、楠部禰弌。「古代模倣品と云ふものが一点も見當たらず新人連の苦心研究が窺はれ、洋畫の気分を一致してゐたので、新人間には非常な好評を博した」。

このときの入選者は、(近藤をのぞいて)みな1920(大正9)年に赤土(あかつち)を結成した同人たちである。赤土は、彼らに道林俊正と荒谷芳景を加えた京都市陶磁器試験場伝習所の卒業生たち6人が、伝統や因習にとらわれている陶芸界に対して個性の表出と自由な創作を唱えた会だった。赤土同人は、「池畔暮色」「生まれ出づる悩み」「われは君のために行く」「春怨」などの文学的タイトルを作品に用い、大正期の美術界からの影響をあらわしているが、妥協を許さない若者たちの集まりは自然消滅をたどる。そして1927(昭和2)年、ふたたび彼らを中心に河村蜻山、新井謹也、中島兼亮、内島北朗、高山泰三、川島禮一らを加えて、耀々会が結成された。

陶磁器試験場で学んだ赤土の若者たちが、アマチュア的な味わいをもつ新井を迎え入れたのはなぜなのか。一見不思議な気もするが、冒頭の関西美術会工芸部での新井の位置づけなどから察するに、おそらく、明治末から大正にかけてのモダニズムを身にまとった一回り上の年長者としての革新性が、若い彼らを惹きつけたのだろう。耀々会は、赤土の思想を発展させ、創作による作家性を重視している。また同時に用の美への関心も示し、ここにモダニズムの新たな関心事が組み込まれている。

陶芸家としての新井は、この頃がもっとも充実した時期だったといえる。農展、商工展につづき、帝展にも、第9、10、11回と連続して入選を果たしている。なお1927(昭和2)年は帝展第4部工芸部が設立された年でもあり、この頃から工芸の近代化は個人から組織へと移行していった。

(桑名麻理)


第3節 実在工芸美術会の時代

耀々会は、1929(昭和4)年第4回展の後、会員の自由な研究の進路をたどろうと解散する。おそらく実際には、赤土からはじまり耀々会を経て、同人たちも中堅として活躍するようになり、制作上の意見の相違もはっきりとしてきたのだろう。また、各人の好むと好まざるとに関わらず、政治的な状況に無関心ではいられなくなったことも想像される。1930(昭和5)年には三条会(三条栗田界隈の作家たちの集まり)、五条会(東山五条界隈の作家たちの集まり)、および京都の8つの工芸団体をまとめた日本陶芸協会が結成され、さらに1932(昭和7)年には、日本工芸美術会から清水六兵衛、清水正太郎、伊東陶山、伊東信助が脱会、1935(昭和10)年には蒼潤社の結成、日本陶芸協会の解散など、団体の結成・解散の話題が忙しい。こうした工芸界の組織化がすすむなかで人間関係も複雑さを増し、新井は京都にいながら次第に精神的な距離をおくようになる。

1935(昭和10)年10月、新井は旧无型同人を中心に結成された実在工芸美術会に、耀々会同人で親しくしていた河村喜太郎とともに名を連ねている。高村豊周、豊田勝秋、内藤春治、広川松五郎、山崎覚太郎、磯矢阿伎良、吉田源十郎、木村和一らを同人とする会は、帝展の大作主義、鑑賞中心主義への批判として用即美をかかげ、工芸の真価を問い直そうという気概に満ちていた。陶芸家を志したときから、一貫して用の美を追求してきた新井にとって、会への参加は同じ地平に立つ者として、一方では自然な流れだったのかもしれない。そして、新井謹也が仲間をもって作品を発表するのも、実在工芸美術会が最後となったようである。

(桑名麻理)

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