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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1995 > 動物美術館-日本の動物表現をめぐって 酒井哲朗 動物美術館展図録

動物美術館-日本の動物表現をめぐって

酒井哲朗

1.人間と動物

地球上に現在130万種の動物がいるという。未知のものを入れれば、その数はもっとふえる。この場合、動物の-般的規定は、感覚器をもち、運動し、他の生物を食べて生きているものを指している。人間もまた動物の一種である。しかし、このように動物を分類する人間は、神の座のような特別の位置にいる。130万種の動物がいるとしても、実際に人間が直接かかわる動物は、造形化されたイメージなどを通じてみる限り、意外に少ないような気がする。動物として人間は、地球上で新参者である。たとえば、犬は人間がー番はじめに家畜化した動物である。頭蓋骨や血液中の因子、染色体数から、犬の先祖は狼だとされているが、狼はこの地球上に2000万年くらいは生き続けており、狼だった時期を加えると、犬は人間よりも古くからこの地上に生存していたといえる。

2万年くらい前、おそらく南アジアあたりで、人間が洞穴に住み、狩りと採集によって食物を得ていた頃、夜、洞穴の外に捨てた人間の獲物の残りをあさりにきた犬が、しだいに食物を人間に顆るようになつた。用心深い習性の犬は集団で生活し、不審な気配を感じると吠えて仲間に知らせるため、人間も外に犬がいると安心して眠ることができた。高い知能をもっていても、肉体的能力に劣る人間にとって、犬は実に頼もしいパートナーとなり、「犬は人間の最良の友」といわれるようになった。犬と人間は、双方の合意によつて家畜化した唯一の例だという。

愛玩動物として、犬と人気を二分するのが猫である。猫が家畜になったのは犬よりずっと後で、人間が飼い馴らして家畜にした理由は、貯えた穀物を鼠から守るためだったといわれている。古代エジプトは、ナイル河の恵みを受けて農耕文化が発達し、エジプト人はさまざまな動物を家畜化し、動物に神格を与えて崇拝した。猫もまた古代エジプト文明が生んだ家畜である。古代エジプトの人々は、猫を神聖な動物として大切にし、飼い猫が死ねば人々は喪に服し、ミイラにして葬ったという。鼠は穀物に被害を与えるだけでなく、伝染病を媒介する。エジプト人はこの有用な動物の国外持ち出しを禁じたが、フェニキアの商人が猫をヨーロッパにもちこんだという。

猫は、犬のようには飼い馴らされない。猫は人間と共同生活をしていても、人間社会の秩序にしたがって生きているのではなく、独自の猫社会を形成しているという。犬も猫もともに食肉目に属する肉食の動物である。犬科の動物は、狐などを除いて、その多くは集団で生活する習性があり、集団内にボスがいて序列がある。飼主は犬にとってボスであり、犬は飼主の愛情を求め、飼主を満足させたがる。だが、猫にはボスはいない。猫は人間の愛情を求めても、人間に忠節をつくすことはない。美しくしなやかで、人間におもねらない、独立独歩の自由な猫の習性を愛する人々も多い。このように両者は対照的な性質をもつため、古く分らペットをめぐって犬派と猫派の二大勢力が形成されることになる。

犬と猫のように、しばしば対概念で比較されるのは馬と牛である。「牛馬のごとく」といわれるように、いずれも家畜として使役されるきれめて有用な動物である。『日本書紀』に、牛馬ともに保食神(うけもちのかみ)の死体の頭から生まれたと説かれており、日本の歴史にははじめから家畜として登場する。

野生の馬は、東ロシアか西アジアの草原地帯で、いまからおよそ5000年前の青銅器時代に家畜化したという。非力でのろまな人間が、馬のスピードとパワーを味方にしたことは、人間の文明を一新する画期的な出来事だった。機械の動力を馬力という尺度で表すのは、その威力の名残りであろう。「犬馬の労をとる」という言葉が示すように、馬は犬とともに人間にもっとも忠実な信頼できる動物として、人間と運命をともにしてきた。人間の愚行の最たるものは戦争であろうが、馬は権力や暴力の行使に必需品であった。

神と馬を結びつける信仰は世界各地にあり、神の乗物として白馬や金色の馬はインドでもギリシアやケルトの神話にもみられ、日本でも神馬や聖徳太子の乗馬(黒駒太子)として、あるいは馬頭観音や東北地方の民俗神であるおしらさまなど、さまざまなかたちで神格化されている。しかし、ありとあらゆる動物を神にしたてあげた古代エジプトで、馬が聖化されなかったというのはおもしろい。馬は異文化であったためであろうか。

野生牛の家畜化の起源は、豊作を祈って月に捧げる供物つまり犠牲として必要であったと考えられていたが、最近では、野生牛は作物を荒らす害獣として捕獲され、餌を与えられ、食肉として利用されるようになったという説が有力らしい。飼育されているうちに野性を失い、農耕を助ける益獣となったわけである。牛もまた多くの家畜同様、ヨーロッパ、西・南アジア、北アフリカなどの各地で飼われ、日本に渡来したのは紀元前3世紀頃の弥生時代だったといれれる。アジア産の家牛は、農耕用の家畜として渡来したというが、牛は運送用として役立ち、食用にもなった。

インドでは牛はヒンズー教の聖獣として崇拝され、その信仰は現在も存続している。ギリシア神話にゼウスが雄牛に姿を変えてエウロペを誘惑するように、西洋では、牛はしばしば猛々しい力を象徴するが、仏教などを通じてインド文化の影響を受けた日本では、牛は穏和でねばりづよい献身的な力をもつ動物として表されることが多い。「牛を馬に乗りかえる」というように、牛は馬に対して、マイナス・イメージとして表現されることもある。また、馬と牛、犬と猫、男と女という対比が行われる。馬と犬を男性的、牛と猫を女性的として類別する見方であるが、それは生物としての特性の比較を通じて、性差に対する文化的、歴史的あるいは社会的な価値観を反映している。

犬や猫、馬や牛は、洋の東西を問わず、人間ともっとも親密な関係をもった動物であるが、東洋の十二支、西洋の黄道十二宮、あるいは世界各地の神話や民話にあるようlこ、人間はさまざまな動物と深いかかわりをもち、それぞれの文化を形成している。この展覧会は、今世紀の日本の造形表現にみられる動物のイメージを探る試みで、そのことを通じて、動物と人間の関係をもう一度考えてみたいのである。


2.日本人の動物イメージ

中野玄三氏の『日本人の動物画』(朝日選書)によれば、日本でもっとも古い動物表現は、青森県の長谷沢岩壁の鹿、秋田県矢島町で発見された鮭石など、縄文時代あるいはそれ以前とみられる線刻の原始的な動物画である。狩りや漁の豊かは収穫を祈ったものらしい。弥生時代の銅鐸や土器には、線だけで表された狩猟や漁猟の図が鋳造されている。香川県出土の『袈裟襷文銅鐸』いは、トンボ、トカゲ、クモ、カマキリ、スッポン、イモリなどの小動物や二羽の渉禽が、鹿を射る人、踊る人、米をつく二人の人物などとともに描かれ、弥生人の生活や心情を想像させる。

古墳時代の埴輪には、馬、猿、鹿、犬、鶏、水鳥、魚など、当時の人々に身近な動物がかたどられている。また、古墳出土の鏡などに鹿や狩りをする人物などが表されているが、やはり埴輪に通じるきわめて素朴な親しみ深い表現である。福岡県の王塚古墳には、朱や黒の図案的な馬の壁画が描かれており、五郎山古墳や熊本県の弁慶ケ穴古墳にも馬の壁画がある。福岡県の竹原古墳の壁画は、一対の翳の中央に馬を曳く人、馬らしき怪獣、鶏や蛇のような動物が描かれている。九州だけではなく、福島県の清戸迫(きよとさく)古墳でも、騎馬人物と鹿、猪、犬などの動物が朱一色で描かれた壁画がある。これらの壁画の動物は、死者の葬送儀礼にかかわるプリミティヴな抽象的表現が特色である。

動物表現は、6世紀に仏教が百済から伝来して以来一変する。ごく初期の例は飛鳥時代の聖徳太子ゆかりの『天寿国繍帳』の亀、月に住む兎、鳳凰などの刺繍画や『玉虫厨子』の「舎利供養図」の獅子、「捨身飼虎図」の虎、「須弥山図」の須弥山に巻きつく竜と日輪中の三本足の鳥、「釈迦説法図」の鳳凰などである。これら仏教説話に基づく動物の表現は、飛躍的な発展をとげている。
白鳳期には、法隆寺金堂壁画の普賢菩薩の乗る象や薬師寺金堂薬師三尊中尊薬師知来像台座の四神図浮彫、高松塚壁画の四神図などが描かれている。四神とは、四方を守護する神で、北に玄武(亀に蛇が巻きつく形)、南に朱雀、東に青竜、西に白虎を配置する、中国伝来の信仰である。高松塚では、朱雀は失れれ、玄武は剥落が甚だしく、青竜と白虎がほぼ全容を残すが、鉄線描により良質の顔料で華麗に彩色されたそれらの壁画は、原始絵画とは異質の感性に基づいている。

6世紀中頃とされる奈良県の藤ノ木古墳方ら豪華な飾り金具をつけた鞍が発見され、その文様に10種35点の動物文様が描かれていることが、橿原考古学研究所から報告されている。それらは四神図のほか、獅子、象、兎、鳳凰、獣形魚などで、シルクロードを経由したインド、オリエントの文様であるライオンや象が、オリエントに起源をもつ忍冬唐草文とともに、早くも登場しているのが注目される。

奈良時代の『正倉院御物』は、動物表現の宝庫である。それらは聖武天皇の遺愛品や大仏開眼供養の仏具類がおもであるため工芸品が多く、動物表現はデザイン化されている。獅子、象、水牛、孔雀、鸚鵡、豹、犀、駱駝、スキタイ風の虎など、異国の珍奇なさまざまな動物が文様化されており、猿、馬、犬、猪など十二支にちなんだ動物も描かれている。これらは日本でできた作品は少なく、大部分が大陸からの請来品であり、シルクロードを通じて西方の文物を移入し、東西文化を融合した世界帝国唐の文化を直接に反映するものであった。
唐文化の圧倒的な影響下にあった日本美術は、平安時代に和様化する。動物表現もインドにおける人間と動物の関係を反映しつつ、中国で変容を受け、日本化される。この日本化は、密教絵画と大和絵という、宗教画と世俗画の両面で展開される。

日本の動物絵画を代表するのは、高山寺本『鳥獣戯画』である。甲、乙、丙、丁4巻のうち、とくに藤原時代の甲、乙両巻がすぐれている。甲巻は蛙、兎、猿が主人公で、狐、鹿、猪、猫、鼠、雉、鼬、コノハズクなど身近な動物が白描で描かれ、擬人的物語を展開している。乙巻は馬、牛、鷹、鶏、鷲、犀、麒麟、豹、山羊、虎、獅子、竜、象、獏など大型の鳥獣や霊獣が描かれており、画風の類似によって両巻は同時期のものと推定されている。

中野氏は、『鳥獣戯画』乙巻の虎の表現が、平安時代の仁和寺本『十二神将国』及び鎌倉時代の醍醐寺本『十二神将図』の寅神の乗る虎と酷似し、この猫のように首が長く頭の小さい虎の形姿は、高松塚や薬師寺金堂薬師三尊台座の四神図の白虎に源流をもつことを指摘している。密教は教義の師資相承にあたって図像の書写を行い、そのさい油紙をトレーシング・ペーパーのように用いて転写したため、図像が厳格に伝承されたという。また、『鳥獣戯画』乙巻の獅子と他の密教図像集(『十巻抄』」)の獅子、さらに醍醐寺本『十二神将図』の十二支の丑、寅、辰、巳、午、酉、戌、亥などが『鳥獣戯画』甲乙両巻のそれぞれに類似することなどから、『鳥獣戯画』は、密教図像から脱化してすぐれた芸術性を獲得したという見解である。

涅槃図の動物表現は豊富である。釈迦が涅槃に入る光景を描いた涅槃図は、日本では2月15日の涅槃会の本尊として祀られ、涅槃図に描かれた動物は、藤原時代の金剛峯寺本の獅子1頭からはじまって、鎌倉時代末期には80をこす動物が描かれるようになったという。初期の釈迦を大きく表した涅槃図は、やがて釈迦の姿が小さくなって会衆の数がふえ、悲嘆の身振りが大きくなっていったが、それにともなって登場する動物も多くなり、釈迦の枕頭における生類大集合の図となった。その動物表現は、鎌倉前期までは密教絵画をはじめとする仏画や大和絵のそれを踏襲したが、鎌倉中期以降は、従来の仏画や大和絵に新来の宋元画を融合し、多数の動物を描き分けた。

世俗画における動物表現は、たとえば『伴大納言絵巻』のような大和絵の牛は、輪郭を掘塗りの細い線で、体躯を墨の濃淡で表し、密教図像の抑揚のきいた線による猛々しい威力に満ちた牛とくらべ、穏和で親しみやすい。馬についても、『伴大納言絵巻』『信貴山縁起絵巻』『粉河寺縁起絵巻』などに各種の馬が描かれているが、人間に身近な動物として表現されており、それは大和絵の動物表現一般にあてはまるようだ。

大和絵の動物画では、鎌倉時代の『駿牛図』は主題が動物そのものであり、この時代の動物表現の原点を示すものである。平安、鎌倉時代を通じて、貴族たちは乗物に牛車を用いたため、牛に特別の愛着をもち、たがいに牛の優劣を競い合った。『駿牛図』は、当時世に聞こえた駿牛を描いたもので、それぞれの牛の個性の表現を意図しており、鎌倉時代に盛行した肖象画にちなんで牛の似絵ともいれれる。もと絵巻であったものが切断され、現在それぞれ独立している。
馬を描いたものに『随身庭騎(ずいしんていき)絵巻』がある。この絵巻は、馬術の秘術をつくす9人の随身、つまり貴族を警護する武士を描いたもので、人物は似絵の肖像画の手法で表され、3種類の作品クループに分かれること方ら、筆者は藤原信実とその子専阿で、信実の父隆信の粉本を用いたのであろうと推定される。『随身庭騎絵巻』に描かれた馬は、大和絵の馬の典型を示すもので、平安から鎌倉時代に分けて制作された多くの絵巻、『平治物語絵巻』のような多数の馬が描かれる絵巻も含めて、馬の表現の特色を集約している。

東洋絵画において、花鳥画は山水、人物とならぶ三大主題である。中国の六朝時代にすでに画題として独立しており、五代蜀の黄筌の輪郭線でくくって色彩を充填する黄氏体と南唐徐熙の色彩の濃淡叢淡によって表現する没骨法の徐氏体が知られ、宋代において、鋭い自然観照に基づいて黄徐二体を融合した新しい花鳥画の様式が完成し、元、明、清代に継承された。花鳥画には、花卉図、草虫図(犬、猫、兎、鹿などの小獣や穏和な動物)、鷲鳥図(鷲、鷹など)、猛獣図などが含まれ、松と鷹、牡丹と獅子、竹林と虎などが組み合わされる。しかし、動物表現には、「帰牧図」「籠虎図」「猿図」などの花鳥画におさまりきれないものもある。

宋の花鳥画の影響は、鎌倉時代の絵巻の画中の屏風などによって推測されるが、室町時代のものも含めて障屏画は伝世しない。初期の水墨花鳥画は、何点かの小品がのこっているにすぎないが、室町時代には大徳寺などに墨谿や蛇足らの水墨花鳥面がある。幕府御用絵師の系譜では狩野正信、元信父子が漢画的花鳥画と大和絵的花鳥画を融合して、平明て装飾的な新しい花鳥画の世界を拓いた。大徳事大仙院や妙心寺霊雲院の花鳥図襖絵がその実例である。

桃山時代は城廓建築の盛行とともに、武家の気風を反映した豪壮な大画面の障壁画が描かれ、狩野永徳、山楽、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔、曾我直庵らが活躍した。この時代の動物表現は、龍虎図や雲龍図、唐獅子図などの霊獣がダイナミックに描かれ、鳥類も鷲、鷹などの猛禽類が好まれた。

江戸時代は、永徳の孫の探幽が江戸幕府の御用絵師となり、狩野派アカデミズムの基礎を築いた。探幽は永徳の蒙華絢爛とは対照的な余白の多い瀟洒な作風である。探幽は大名や社寺所蔵の多くの画を鑑定し、それらの古画を模写した『探幽縮図』をのこしたが、そのなかに鳥獣の写生図がまじっている。実物写生という実証的精神は江戸後期に顕著になるが、探幽はすでに先駆していた。江戸前期は、狩野派よりも俵屋宗達、尾形光琳ら琳派の花鳥画が精彩を放っている。鳥、鹿、犬、象、麒麟など、情趣豊かに対象の形体を的確にとらえた大胆な装飾性は、時代をこえて新鮮である。

江戸後期、写生派といわれた円山応挙の場合は、花鳥画というより動物画という方がふさわしい。応挙は伝統的な画題の龍虎はもとより、猿、鹿、馬、牛、猪、仔犬、猫、羊、兎、雀、鶏など多くの動物を描いた。応挙の動物画は、日常身辺の動物の写生に基づく親和的表現に特色があり、霊獣として猛々しい威力の表象であった虎も猫のように穏和である。弟子の長沢蘆雪も動物画が多いが、たとえば和歌山無量寺の『猛虎図』や草堂寺の『岩上白猿図』、あるいは『象・唐子図』や『黒白図』の牛や犬は、応挙よりも自由奔放で斬新である。応挙以後、岸派の岸駒、森狙仙、徹山らも動物画を得意とし、岸駒は虎、狙仙は猿によって知られた。奇想の画家といわれる伊藤若冲は、『動植綵絵』(宮内庁)30幅のうち8幅が鶏で、『群鶏図』や『百犬図』などもあり、対象の熟視のうえに幻想的な絵頓世界が表現されている。曾我蕭白の『群仙図屏風』などの怪異な画面に登場する鷲、鷹、鶴、馬、獅子、竜、鳳凰、蟇、センザンコウなど、奇矯な動物表現も注自すべきものである。

写生よりも写意を重んじた文人画にも、与謝蕪村の『新緑杜韻図』『鳶・鴉図』のような写意的花鳥図があり、蕪村はまた、『野馬図六曲屏風』のような来舶漬人沈南蘋の写生画の影響を思わせる作品ものこしている。谷文晁は沈南蘋や清の惲南田を学び、『孔雀図』のような花鳥図を描き、門人の渡辺華山に『海錯図』や『渓澗野雉図』があり、文晁、華山ともに多数の写生スケッチを試み、『ヨンストン動物図譜』を写している。

『ヨンストン動物図譜』といえば、江戸の本草・物産学者平賀源内がこれを秋田蘭画の佐竹曙山、小田野直武に模写させている。これらは霊獣として想像上の動物だった獅子をはじめて現実のライオンとして描いたものであった。洋風画は、江戸の司馬江漢が銅版画や油絵の研究にすすむが、江漢の油絵の作品こ『捕鯨図』や『寒柳水禽図』などがある。

浮世絵花鳥画に、喜多川歌麿の『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』の花鳥画三部作、葛飾北斎に肉筆の『軍鶏図』(MOA美術館)や『群蟹図』(フリア美術館)などがあり、それぞれに鋭い観察眼とすぐれた表現力によって、独自の画境をみせている。鍬形蕙斎の『海舶来禽図彙』『鳥獣略画式』『龍の宮津子』は、江戸人の実証的な好奇心が生んだ鳥類図鑑、魚貝類図鑑というべきものである。歌川広重も、風景画と共通する叙情的な花鳥図版画を描いている。


3.近代以降の動物表現

このようにみてくると、日本美術における動物表現は豊かなものであったといえよう。明治維新以来、西洋の人間中心の合理主義思想を受容し、近代的な制度整備がすすむなかで、日本の美術は大さく変わった。流派による技術の伝承のシステムは崩れ、美術家たちは学校教育制度のなかで、「個」の立場で制作することになる。近代の美術家は、西洋と日本、伝統と革新というアンビヴァレンツな状況のなかで、自らの位置を定めなければならなかった。人間中心の思想は、当然のことながら動物表現をも変容させる。しかし、近代日本画は、動物という主題を新しく甦らせた。

京都の画家たちは、円山・四条派の写生に西洋のリアリズムを融合させることによって日本画の近代化を図った。岸竹堂は、岸派のお家芸の虎を写実的に描いた。竹内栖鳳の『虎・獅子図』は、霊獣としての虎や獅子ではなく百獣の王として双璧をなす、まさしく動物としての虎とライオンが描かれている。素材形式に日本画の特色をhルに活かしているが、ここにみられるのは西洋のリアリズムを通過した普遍言語で表現された動物である。『熊』などは、対象の生態を的確にとらえ、卓抜な画技によって単なる写実ではない、内的リアリズムとでもいうべき主観的な自在さを獲得している。

村上華岳の『羆』は、純朴な感受性がとらえた自然の一場面である。この作品が、あの近代の隠者のような、至純な魂の出発点であったのはおもしろい。華岳とともに国画創作協会に結集した榊原紫峰は、花鳥を終生の主題とした。『奈良の森』は、日本画におけるリアリズムの追求であるとともに、パブロ・カザルスのチェロの旋律をオーヴァー・ラップさせた近代性を内包している。紫峰の自然研究は、写実の徹底から中国宋元の花鳥画に向かい、『獅子』のような再び超越的な力をもった霊獣に回帰するかのような精神性を求めた。

稲垣仲静の『猫』や玉村方久斗の『鶏図』には、動物と人間の幸福な親和的関係よりも画家の自意識を強く感じる。批判的精神がとらえた動物表現であろう。小茂田青樹の『樹上猿』『春の夜』は、写実と装飾の統合を求めた青樹が、細密描写の時期を経て様式化に向かった頃の作品であり、単純化されたフォルムと華麗な色彩に清新な感性を示す。吉岡堅二の『奈良の鹿』は、青樹の『母子鹿』や土田麦僊の『舞妓林泉』を連想させる。この装飾的な大和絵の背景に、アンリ・ルソーやセザンヌの研究がある。

池田遙邨の『森の唄』は、児童画のような牧歌的な世界を表現している。近代の都市文明は、一方でプリミティヴなものへの志向を強めたが、遙邨はここでは徹底してメルヘンのような理想世界を描いた。徳岡神泉は、深い自然観照と鋭い造形感覚によって、極度に単純化し装飾化した新しい花鳥画を創出した。『仔鹿』もまたそのひとつである。

第二次大戦後、「世界性に立脚した日本画の創造」をめざした創造美術が、新制作展と改め日本画の再生をめざしたが、そのなかから稗田一穂の『豹のいる風景』や加山又造の『月と駱駝』が生まれた。稗田はプリミティヴな生命感情によって、加山はまったく新しい造形秩序によって自然を再構成している。いずれも動物表現を手がかりに、新しい美意識によって、世界のイメージを表現しようとしている。工藤甲人の『愉しき仲間(一)(二)』も新制作展の作品で、人間や動物が共生する世界のイメージを幻想的に表している。『曠野の鴉』は、工藤の絵画的イメージが、現実と非現実、夢と覚醒、光と闇の相克のなかから立現れてくることを示している。
京都の前衛的日本画グループ・パンリアルのなかでも、下村良之介の『鳥たちの壁 B』」は先鋭な作品である。紙粘土を用いた暗く重い色調のまるで始祖鳥の化石のようなこの作品は、強い存在感をもって勧者にせまる。

洋画の動物表現は、日本画のように、動物が自然と等価の意味をもつほど重要な主題ではない。しかし、ピカソの馬や鳩が象徴的な意味をもつように、洋画においても、動物の役割はしばしば大きい。夏目漱石は、坂本繁二郎の描いた馬の絵について、「何かを考えているようだ」といったことがある。藤田嗣治の眈美的な作品の世界には、美しくしなやかでわがままな猫がふさわしい。古賀春江の『サーカス』は、ハーゲンベック・サーカスを描いたこの画家の絶作であるが、不思議に静かなこの絵の動物たちは、前衛画家であるとともに仏教徒であった古賀の輪廻転生の姿にもみえる。谷中安規の『虎ねむる』は、この薄幸の版画家のユートピアのイメージであり、ねむる虎は谷中自身であろう。

東西の美術の深い研究の上に、両者を総合したより高い次元のリアリズム絵画の創造をめざした須田国太郎の芸術において、『波斯猫』や『黄豹』などの動物のモチーフは重要な位置を占めている。脇田和は、『鳥が生きもののなかでいちばんシンプルで美しく、つぎつぎとデフォルメできる』」というように、そのすぐれた造形的構成による純化された抒情の世界に、鳥の形象は特別の意味をもっている。

清水登之の『蹄鉄』」は、アメリカン・プリミティヴの影響を受けたこの画家らしい、アメリカン・シーンの作品である。東北地方の土俗的な人間像を描いた阿部合成は、メキシコ旅行によって広大な風土で躍動する馬のモチーフを得た。海老原喜之助の『友よさらば』は、構築的な画面に死んだ馬と悲しむ家族が描かれており、別離によってひとつの時代を表象している。悲劇的な馬のイメージを表しているのは、靉光の『馬』である。痩せさらばえて、ただ死に向かってよろめくかのようなこの馬は、戦争によって若くしてその命を絶たれたこの天才的な画家の姿と重なってみえる。

古茂田公雄の『正安寺狸』や長谷川りん次郎の『猫』は、動物と人間の交歓のなかから生まれた絵画的イメージである。斎藤清の猫を描いた『目(14)』もそういった作品であろう。5匹の猫を大胆にデフォルメして構成したユーモラスな作品であるが、作者の猫に対する暖かい愛情が感じられる。須田寿『群』、三輪勇之助『パストラル』は、いずれも牛をモチーフとしているが、須田は写生をもとに群像を構成し、三輪は牛のイメージを集積する。いずれの作品も、人間と牛の親和的関係の上に、それぞれに固有の詩情を表現している。

彫刻による動物表現として、橋本平八や石井鶴三の猫がある。前者は木、後者はブロンズだが、木や粘土という無機的な素材こよって猫の生命感を見事に表現している。柳原義達の鳩や鴉の動物彫刻は、作家がそれらを「道標」と名づけるように、柳原彫刻の主要モチーフとして、その彫刻精神を凝縮している。淀井敏夫の『牛と女と地中海』は、溶岩のような荒い肉づけと細くひきしまったデフォルメによって、新鮮な造形のダイナミズムを示し、『幼いキリン・堅い土』は、キリンの首の垂直と大地の水平を拮抗させて斬新な彫刻空間をつくっている。

池田龍雄の『ボス鳥』『闘鶏』『「ぬえ」禽獣記』などの素描のシリーズは、醜悪な人間世界のパロディーとして、あり得べからざる動物の姿が描分れている。瑛九の『シルク(サーカス)』や『渡り鳥』も、一種の心象風景である。桂ゆきの『親亀の背中に子亀をのせて』は、狐、狸、猫、鴉などさまざまな動物に親愛感をもち、ユーモラスな諷刺的作品を制作してきた桂のコラージュによる作品である。亀の表情や形体のおもしろのなかに、「貯蓄」「マル優」「house」などの文字が、諷刺の針として高度成長下の日本人の生活意識を鋭く突いている。秋山泰計の『筋のない話 B』も諷刺的作品であるが、動物や人間が密集したその作品世界は、生きとし生けるものの共生を表している。

若林奮の鉄の彫刻『中に犬2』は、現実の犬とは異なった作品のコンセプトにおける作家の犬のイメージであり、辻晉堂、鈴木治ら陶芸作家たちのオフジェ、『馬と人』『馬』も、作家の造形のフォルムのイメージである。熊倉順吉はオフジェとは別に、『十二支』のような洗線された陶芸デザインも手がけた。ネオ・ダダから出発した吉野辰海は、昔飼っていた猟犬の形姿をデフォルメし、激しくよじったり、伸び上がったりするパフォーマンスを演じさせ、世界を異化する。

今日の若い世代の作家たらの間で、動物表現はジャンルをこえ、さまざまな素材や技術を駆使して多彩である。それらの表現は、人間中心の文明の限界が明らかになり、地球環境の危機がいわれ、芸術自体が拡散している状況のなかで、人間と動物の共生をモチーフとしている点が共通しているといえよう。
『犬モ歩ケバ…』の藪内佐斗司は、ユーモアの背後に東洋的世界観の再生を試み、浅井健作は『FASHION 虎の衣を借るキツネ』のような動物のファンタジーを表現する。天野裕夫や安藤泉、馬田純子らの動物イメージは、太古の動物を現代化した時空をこえた幻想的動物である。大谷まやの『星使い』など猫の作品は、伝統を現代的装飾性によって再生したものといえよう。グラフイック・デザイナーの戸田正寿の『赤いクジラ』は、白木の梯子に緋鯉を描き、『三月のライオン』は、白木の机の上面が赤く塗られその上に一匹のエイを置いたもので、これらのシルクスクリーンの作品のイメージは、白昼夢のように不思議な鮮やかな印象を与える。

これらの動物のイメージは、ひところ「E.T.」や「ネヴァー・エンディング・ストーリー」などといった架空の動物が登場する映画が人気を集め、ペット・ブームがいわれる社会現象と同じ根から生じているものであろう。人間は、自らが失ったものを動物のなかに求めようとする。転倒したユートピア志向とでもいえようか。

(さかい てつを・三重県立美術館長)


参考文献

・中村凪子「アニマル・レクシンコ ⑥犬、⑳猶、⑯牛、⑱馬」『is』(ポーラ文化研究所)
・中野玄三 『日本人の動物画』1986年 朝日新聞社

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