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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > イポールの鹿子木孟郎-作品《ノルマンディーの浜》を巡って 荒屋鋪透 鹿子木孟郎展図録

イポールの鹿子木孟郎──作品《ノルマンディーの浜》を巡って

荒屋鋪 透

(1)海の風景

モーパッサンの小説『女の一生』に,ある風景が描かれている。それは,フランス北西部,ノルマンディー地方の海岸の描写で,主人公が薄暗い修道院での学校生活を終え,結婚までの束の間の幸福を味わう海の光景である。「鳥の翼のようにまっ白な帆がいくつも,沖をすぎていった。右にも左にも,巨大な断崖がきっ立っていた。岬のように突き出たのが,一方の視線をさえぎっていたが,反対にもう一方の方は海岸線が限りもなく延びていて,捉えがたき一線となるまでに霞んでいた。」(杉 捷夫訳・岩波文庫)

明治40年の夏,鹿子木孟郎は『女の一生』の舞台となった,その海を主題にした作品を制作している。翌年秋の文展に出品した≪ノルマンデイーの浜≫〈図版A-37〉である。作品は,1907年(明治40)7月下旬から10月下旬にかけて制作され,翌年春のフランス芸術家協会サロンに入選している。同展カタログに記載された題名は≪イポールの浜≫。イポールとは孟郎のフランス留学時代の師,ジャン=ポール・ローランスの別荘があった場所,ノルマンディー地方の地名である。そこはまた小説『女の一生』の舞・艪ナもあった(挿図1)。当時のローランスの別荘の写真が残されているが(挿図2,3),そこには,モーパッサンが書き留めた,その地方の典型的な邸宅の外観が写っている。「それはノルマンジ特有の農園とも邸宅ともつかぬ背の高い宏大な住居の一つであった。(中略)非常に大きな玄関兼廊下が家を二つにしきって,前後両方の正面に大きな扉を開いていた」(前掲翻訳)。ローランスは毎年夏をこの別荘で過ごし,息子たちと制作に励んだようだ。『女の一生』のヒロイン,17歳までルーアンのサクレクール修道院に通った娘ジャーヌは,ローランスの別荘に大変よく似た,父祖伝来の古風な家,レ・プープルと名付けられたイポール付近の断崖の上に建つ館で生涯を送った。海岸に突き出した断崖とは,浸食の進んだ結晶岩質の海蝕台地のことで,付近一帯の海岸はラ・コート・ダルバートル(石灰の海岸)と呼ばれている。この地方特有の絶え間なく吹きすさぶ強風のため,断崖には背の低いエニシデ,ハリエニシデ,ヒースの類が一面に生い茂るばかりである。≪ノルマンデイーの浜≫の背景に描かれた断崖の景色がそれである。前述した『女の一生』の風景描写で,「岬のように突き出たのが,一方の視線をさえぎっていた」とある断崖(挿図4)。≪ノルマンディーの浜≫習作には,そのオイルスケッチが見られる(挿図5、6)。ローランスにも≪断崖下の小舟≫(1875年頃)という小品があり,現在オルセー美術館に展示されている。この荒涼たる海岸風景は,一般に「ランド」の景観と呼ばれているもので,アイルランド,スコットランドの海岸に代表される,ヨーロッパ大陸西岸の海洋性気候の顕著な地帯に見られ,フランスではブルターニュ半島西部およびコタンタン半島西部に存在するという(註1)。その崖に吹く西風,ブルターニュやノルマンディー地方特有の風は,南西風をシュロアといい,北西風はノロアといわれている。特にシュロアには,英仏海峡沿岸に吹く強い南西風という意味以外に,水夫の防風上着や防水帽の意味が付加され,年中吹き荒れる強い西風と漁民との闘いを連想きせる。この地方の家の屋根が特産のスレート葺きであることも頷けるる。『女の一生』のジャーヌの家は,楡の木によってこの強風から守られており,邸内には白楊樹の並木通があるため,館はレ・プープル(ノルマンディー地方の白楊樹の呼称)という名で呼ばれている。白楊樹の並木道は,ジャーヌの住む館と管理人の住む農園を分かち,玄関の正面からは芝生が植えられ,館の前には哨兵のようにスズカケ,菩提樹が立っている。芝生の端は小さな林で,それが屋敷の境界となっている。白楊樹の囲いの向こうにはハリエニシダが群生し,「鋤のはいらぬ広い野原が拡がっており,その上を夜となく,昼となく,潮風が音を立てて吹き渡っていた。それからとつぜん傾斜がつきて百メートルほどのまっ白にきっ立った断崖となり,断崖の足もとは波に洗われていた」。『女の一生』の読者であれば,こうした断崖が後に悲劇の場となることを知っているが,この地を訪れる多くの避暑客にとって,それはひとつの美しい景色に過ぎない。孟郎の習作には「岬のように突き出た」断崖と,もう1点,「海岸線が限りもなく延び」た断崖も描かれている(挿図7)。ただ,こちらの習作では,海岸に放置された小舟や避暑客のための脱衣小屋などの建物に重点が置かれているため,空を遮る断崖は僅かに緑の部分のみ彩色されており,写真でも見ない限り(挿図8),場所に不案内の者には,果たしてそこに断崖があるのかどうか判断出来ない。明治40年10月21日付,孟郎の妻春宛の書簡には,既に≪ノルマンデイーの浜≫をほぼ描き終えた孟郎が,この丘の上に登り,夜の海を眺める様子が記されている。「此夜月色千里明カナリ近傍ノ高地ニ登リテ Normandie ノ明月ヲ賞ス叢ノ虫鳴ケル遠ク yport ノ村ノ家ニ燈光ノ点々スル海ノ彼方ハ之レ英国ナル遥カノ沖二三艘ノ船燈ヲ認ムル高丘處々ニ森アリ稲小屋アル折々馬ノ鈴ノ聞コユル総テー幅広大ナル絵画テアル」(註2)これは,10月20日のイポール日記の一節である。また同月7日付の書簡には,「朝日新開ノ虞美人草モ面白イカ余レニハコノ yport ノ浜辺ノ海辺ノ寄セテハ返ル濤ノ方ガ十分興味カ探イ」(註3)とある。孟郎にとってイポールは,黒田清輝や浅井忠にとってのグレー=シュル=ロワンと同様,絵画主題の源泉,興味尽きない原風景となっていたであろうことが推察される。因みに,前掲書簡中の話題に『虞美人草』が登場するが,漱石夏目金之助が朝日新聞社に入社し,『虞美人草』の連載が始まったのは,明治40年6月23日。孟郎は既に前年,渡仏しているので,この話題の提供者は,妻の春であったと思われる。連載は10月29日まで続いており,書簡が交わされた当時『虞美人草』はまだ連載中である。

註1

日高達太郎著『ふらんす 音の風景』,六輿出版,1989年,93頁以下。

註2

山梨絵美子編『研究資料「鹿子木孟郎滞欧書簡(三)」』(『美術研究』第346,平成2年3月)より,明治40年10月21日付,妻宛書簡,10月20日の「イポール日記」。この日の朝,鹿子木孟郎は,パリ留学中の彫刻家本保の死去を知る。【同書,p.218,(二四頁)】

註3

前掲研究資料より,明治40年,10月7日付,妻宛書簡。【同書,p.218,(二四頁)】

 
挿図1 

挿図1 1900年頃のイポールを撮影した絵葉書。鹿子木が滞在した下宿は,海岸に面した建物のいずれかだと思われる。


左:挿図2

左:挿図2 イポールのローランスの別荘。中央下に,制作中のローランスが写っている。

右:挿図3 イポールのローランスの別荘。入り口に立つ人物は,使用人のエティエンヌか。その上階にローランスらしき姿も見える。

挿図4

挿図4 1900年頃のイポールを撮影した絵葉書,魚の陸揚げ。


挿図5

挿図5 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(海岸)油彩。37.5×54.2cm


挿図6

挿図6 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(断崖)油彩。26.0×41.0cm


挿図7.9

左:挿図7 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(海岸)油彩。 40.5×32.7cm

右:挿図9 イポールのローランス広場のプレート(1990年筆者撮影)


挿図8

挿図8 1900年頃のイポールを撮影した絵葉書。

さて『女の一生』のジャーヌは,レ・プープルに着いた翌日,父の男爵に伴われてイポールの海岸へと向かうが,そこで彼女の見た漁村の光景は,孟郎が滞在した当時とさして変わらないであろうと思われる。(1900年頃に撮影された絵葉書を,筆者はパリで入手することが出来たが,そこには,まだ閑かな避暑地が写っている(挿図1,4,8,12)。ノルマンディーが完全に変貌してしまうのは,本当は第二次世界大戦末期だからだ),ジャーヌは前の晩,新しい生活の始まりと,未知の男性との出会いを空想して,眠れぬ夜を過ごした。館のあるエトゥヴァンの村から,谷に沿って迂回し,海までだらだら降りる傾斜地の森を見ながら,ふたりはイポールの通りに辿り着く。「まもなくイポールの村が現われた。家の戸口に腰かけて,着物のつくろいをしていた女たちは,二人の通るのを見送った。まんなかに溝川が流れていて,家々の戸口のまえに難破船の破片などの堆積がだらしなくころがっている傾斜のついた往来は,塩漬の強い匂いを発散していた。小さな銀貨に似た光る鱗がところどころ残っている褐色の網が,見る影もないあばら家の戸口にかけてほしてあった。そういう家々からは,たった一部屋にうごめいて暮らしている大勢の家族の臭気がもれてきた」。恐らく,ふたりの来た道とは反対の方向に,先程の孟郎の習作(挿図7)では,真ん中に小さく描かれた防波堤から真っすぐ延びたイポールのメインストリートを登ると,現在は郵便局や観光案内所のある広場が見えてくる。今日その広場は,ジャン=ポール・ローランス広場と命名されており,道伝いに丘へ向う途中,現在もなおローランスの別荘だった建物が健在である。今は著名な画家が住んでいるという。イポールの浜は,ル・ポール・デシュワージュといい,小舟ならば乗り上げても安全な海岸であり,前掲習作に見られる小舟は,既に漁を休業した漁師たちが,避暑客相手の釣りに出るためのものである(挿図9,10)。孟郎がフランスから妻の春に送付した書簡の中に,1907年夏,イポールから投函した一連の封書が見られる。そこには,彼の代表作≪ノルマンディーの浜≫の制作過程が克明に記録されており,ローランスと孟郎との交流を,パリの画塾アカデミー・ジュリアンでの単なる師弟関係を超えて知ることが出来るので,大変貴重な資料となっている。「イポール日記」という言葉は,1907年8月2日付書簡に始めて登場する。

挿図10

左:挿図10 イポールの海岸(1990年筆者撮影)

右:挿図11 1907年のサロン入選作《少女像》


挿図12

挿図12 1900年頃のイポールを撮影した絵葉書。岡精一と孟郎が遊んだカジノと思われる。

(2)イポール日記

1907年(明治40)7月28日,鹿子木孟郎はパリのサン=ラザール駅からノルマンディー地方の避暑地 イポールに出発した。朝8時30分の汽車を見送ったのは,リュ・デュ・テアトル16番地のホテルに同宿していた白瀧幾之助,菅原直之助(一斎),津田亀次 郎(青楓),安井曾太郎である。こうした事実は,東京国立文化財研究所の山梨絵美子女史が編纂した『鹿子木孟郎 滞欧書簡』によって全て詳細に知ることが 出来る(註4)。

イポールはノルマンディーのコー地方,漁港フェカンとエトルタの中間にある避暑地。今日,人口1200人 程を数えるかつての漁村である。ノルマンディーの中心の街ルーアンから75キロ,ル・アーヴルから38キロの地点にあるため,今ではル・アーヴル経由でバ スを利用する方法もあるが(註5),孟郎はルーアン経由でフェカン駅 に到着し,そこから乗合馬車を利用した(イポール日記には,他にフロベルヴィルという停車場が登場する)と思われる。午後1時30分イポール着。出迎えた ピェール・ローランスに案内されて,浜に面した下宿へと向った。下宿の主人はマダム・モリスという漁師の女将で,5人の子どもを養いながら大の留守を預か るしっかり者。到着した夜,ローランス家の晩餐に招かれた孟郎はローランス夫妻と歓談し,別荘の使用人エティエンヌが料理したご馳走を頬張り,ローランス の次男ピェールと撞球に興じている。孟郎がイポールを訪れるのは,実はこれが初めではないのである。既に前年の夏,短期間ではあるが,彼はこの地に滞在し ている。マンテから投函した,明治39年(1906)8月29日付,妻春宛の絵葉書,「今日巴里ヲ去テ斎藤君ヲ同道シテ此ノ町ニ遊コノ景色ヲ賞シ申候コレ カラ一週間ローランス先生の別荘ニ遊フ筈ダ英佛海峡ニ臨ミタルイポールト云フ村ナリ」。文中の斎藤君とは斎藤与里のこと。この葉書には「八月廿九日午后七 時認ム」とあり,次のイポールから投函した葉書と照合すると,孟郎の旅程がわかる。「昨日巴里ニ返ル此ノ處ニ七日間滞在セリ九月七日 孟郎」。1906年 8月29日,孟郎と斎藤与里はマンテに宿泊し,翌30日,与里を伴ったのかは定かでないが,孟郎はイポールに到着した。

挿図13

挿図13 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(構図),油彩。 46.0×37.3cm

 

註4

山梨絵美子編『研究資料「鹿子木孟郎滞欧書簡(一)~ (三)」』(『美術研究』,no.344-346,1989年~1990年。)

註5

筆者は本年冬に,美術館連絡協議会の海外研修でイポールを訪 れる機会を得た。早朝のサン=ラザール駅(6:45)を発ちル・アーヴル着(9:00)後,駅前のバスターミナル(9:30)からフェカン行の定期便でイポールに到着(11:00頃)する順路を選んだが,定期便の本数が僅かであるため,実際には,ル・アーヴルで1泊を余儀なくされた。このコースを辿ると,エトルタ経由で海岸を楽しむことは出来るが,現地の観光案内によると矢張り恐らく鹿子木が辿ったであろうコース,ルーアンから国鉄のフェカン行に乗り換えフェカンからバスを利用した方がよいと思われる。イポールからフェカンは6キロ、エトタルへは9キロである。

註6

『中央美術』(第2巻,第4号,大正5年4月)拉甸巷人の署名で「巴里の下宿と日本の画家」(上)という文が掲載されている。p.59-65.

9月6日にはパリに戻ったとあり,この年のイポール滞在は,1906年8月30日から9月5日の7日間と思われる。孟郎は第2回フランス留学時代(1906-08),アカデミー・ジュリアンにおいて優秀な成績を修めサロンにも入選しているが,ローランスとの関係においてより重要であると思われるのは,このイポール滞在ともうひとつ,ローランスの≪マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀達≫(1877年)を住友家が購入するにあたっての周旋である。これについては興味深いエピソードが伝えられている。大正5年4月号の雑誌『中央美術』に岡精一がパリの下宿について書いているが,そこにマダム・ルロワなる人物の下宿を訪れた孟郎が登場する。「鹿子木はルロワに泊りはしなかったが,ただ折々食事をしに来たりした。ヂャン・ポール・ローランスの『マルソー将軍の死』が売物に出た時鹿子木は早速それを住友に報じ,其購入を承知した住友から四万フランの電報為替を受取り,郵便局へ行って其れを現金に替えた。大金を懐にして居たので市中の料理屋へ行くのさえ危険に思はれて,鹿子木は其日ルロワへ来て食事をした。其晩も心配の為に稀々寝られなかったと彼は後で友人に話した」。(註6)≪マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀達≫の購入は,雑誌『美術新報』の明治40年3月5日号に報じられているので,購入時期も前掲の挿話も同じ頃であろう。同年のサロンには初めて≪少女像≫が入選している(挿図11)。明治40年4月2日付,妻春宛の葉書,「作品肖像画ハ五月一日ヨリ当地ノグランバレーサロンニ陳列シテ公衆ニ示ス事ニナッタ」。この年のイポールへの再訪は,あらかじめ長期滞在と作品制作を目的としたものであったようだ。明治40年6月28日付,母,妻宛書簡,「八九十ノ三ケ月ハローランス先生ニ従フテ海岸ニ行キ大作ヲヤラカス都合ダ」。山梨絵美子女史の『鹿子木孟郎 滞欧書簡』によると,イポール再訪の期間は,1907年7月28日から10月30日(夜7時頃,パリ,サン=ラザール駅着)であったことが分かる。この三箇月間,孟郎は,午前8時に起床し正午まで,昼食後暫く休憩した後,午後4時から8時まで,規則正しく制作に励んでいる。この間にあった出来事というと,友人の岡精一の訪問(8月29日から9月6日朝まで。岡と遊んだカジノは,前掲習作(挿図7)に描かれているが,当時の絵葉書からもその賑やかな様子が伺える(挿図12)),伊庭真吉からの手紙で知らされた,パリ留学中の彫刻家本保某の入院の報せと訃報,留守家族の転居の問題などで,イポールの孟郎は当時こうした避暑地を訪れた日本人としては恵まれた日々を送っている。彼はほとんど毎晩のようにローランスの別荘を訪問し,撞球を楽しみ,時に晩餐に与った。絵の勉強は到着翌朝から開始されている。以下≪ノルマンディーの浜≫の制作過程を辿ることの出来る,イポール日記に記された作品を列挙してみる。

 

7/29.午前≪鉛筆スケッチ数葉≫,午後≪船のデトランプ(グワッシュか?)≫。7/30.午前≪子どものスケッチ数葉≫,午後≪船のデトランプ≫。7/31.午前≪モデル(漁舟の前)の油彩スケッチ(ポシャード)≫,午後≪子どものスケッチ≫,夕方≪舟のポシャード≫。8/1.午前≪モデル(浜辺にて)のスケッチ数葉≫,午後≪風景(室内から)のデトランプ≫。8/2.午前≪モデル(老婆)のスケッチ2葉と一点のポシャード≫,午後≪浜辺(室内から)のスケッチ≫。8/3.午前≪風景(室内から)1点≫(老人のモデルを予定のところ来ない),≪二人の男(船辺に働く)のスケッチ≫,午後≪浜辺のスケッチ2,3葉≫,≪8/2.の油彩の続き≫。8/4.午前≪老人のスケッチ数葉≫,午後≪モデル(浜辺の婦人)2葉≫。8/5.午前≪画稿(浜)≫,午後≪8/4.のモデル(浜辺の婦人)の続き≫。8/6.午前≪画稿(油彩)≫,午後≪モデル(老婦)の写生≫。8/7.午前≪漁夫が網を整えている図のためのスケッチ数葉≫,午後≪モデルの写生≫。8/8.午前≪8/7.の画稿に基づく作≫,午後≪モデル(婦人〉の画≫。8/9.午前≪エスキース≫,午後≪モデルの写生≫。8/10.午前《エスキース≫。8/11.午前≪浜辺のスケッチ1点≫,午後≪鉛筆のコンポジション≫,≪モデル(婦人)の写生≫。8/12.午前≪浜辺の写生(油彩1点)≫,《老婆(舟辺に立つ〉の鉛筆写生≫,午後≪下宿の子ども,アンドレの写生≫,≪漁夫の写生≫。8/13.午前≪奇人の老人とその娘の写生≫,≪コンポジション≫。午後≪モデルの写生(鉛筆画)≫。8/14.午後≪7歳の娘とその4歳の弟の写生≫,≪船の写生≫。8/15.午前≪エスキース≫,午後《モデル(浜辺に婦人を立たせる)の写生≫。8/16.午後≪二人の子どもの写生≫,≪漁師ゲルピオンの写生≫。8/17.≪二人の子どもの写生≫,≪漁師ガルピオンの写生≫。8/18.午前≪子どもの写生≫,午後(モデルが釆ないので)≪船の写生≫。8/19.午後≪子どもの写生≫,≪老婦の写生≫。8/20.午前≪漁師ガルピオンの写生≫,午後≪子どもの写生≫,再び≪漁師ガルピオンの写生≫。8/21.午前≪子どもの写生≫,午後≪少女の写生≫,≪漁師ガルピオンの写生≫。8/22.午前≪子どもの写生≫,≪少女の写生≫,≪漁師ガルピオンと老婦の写生≫。8/23.午前≪子どもの写生≫,午後≪少女の写生≫,≪老婦の写生≫。8/24-28.午後≪浜辺のモデルの写生≫。8/29.午後≪モデルの写生≫。9/1.午前≪奇人の老人,マイヤール宅での写生≫,午後≪浜辺のモデルの写生≫。9/2-4同上。9/8.午前≪マイヤールの写生≫。9/8.-16.≪浜辺のモデルの写生≫,≪マイヤール宅での写生≫,9/17.午前≪マイヤール宅での写生≫,午後≪完成作のエチュード≫,≪波の写生≫。9/18.午後≪波の写生≫。9/19.≪マイヤールの写生≫,≪海岸の写生≫。

 

その後,9月23日,孟郎は初めて完成作となるカンヴァスに向かっている。ここで分かることは,その習作類の制作時から,一貫して画家はその主題の中心に,漁師とその家族を据えている事である。8月5日の日記に「作画ヲ考フー察ヲ思ヒ出シ画稿ヲ作ラン為ニ海浜ヲ奔放シテ云々」とあり,当初,漠然としていたであろう作品の構想が,この辺から徐々に固まっていく過程が辿れる。そして,8月15日の日記には,かなり具体的に主題とその構成に関する記述が見られる。「作ハ漁舟ノ前ニ漁夫網ヲ整フ其ノ婦来リテ物語ヲナス側ラニ小児二人ヲ加へ両親ノ物語ヲ開カシム題シテ「静カサ」ト云フ時刻ヲ午後五時半頃ノ満潮時トナス天気ヲ曇天トナス」。≪ノルマンディーの浜≫は,初め≪静かさ≫と題されていたのだ。その後,フランス芸術家協会サロンに出品するにあたり,≪イポールの浜≫(La Plage d’Yport.)となり,明治41年の第2回文展には≪ノルマンヂーの濱邊≫,還暦画集では≪ノルマンデーの濱≫とされている。≪静かさ≫という題は,謂れは明らかでないが,イポール日記には海岸を描写して「静謐ナル」という言葉が使われている(9月28日)ので,海の静かな様子と漁師の家族の静かな一時を重ねたものかと思われる。完成作への着手は,パリからカンヴァスが届いた1907年9月16日以降,9月23日である。27日までは輪郭を施し,彩色は10月1日から,まず男の体が描かれた(3日まで)。4日から6日までは漁師の女。7日から一艘の船(10日まで),14日は他の一艘の船,16日は画面全体の調子(ハーモニー)の修正。21日には背景の海と空,断崖が描かれている。そして最後に,22日から27日まで海岸の石の研究に苦労したようだ。作品が完成したのは10月28日。30日の午前の汽車でパリに戻っているので,制作は予定ぎりぎりまで行なわれたことになる。前述の作品一覧にある,モデルの漁師ガルピオン(Garpion)が,画面上の漁夫のモデルの名であろう。習作類中,素描の≪ノルマンディーの浜習作(構図)≫(図版B-27)を見ると,当初,子どもは男の子を含めて6人であり,左奥に大きく描かれた舟の前に,もう一人の漁師がいたこと,また他のエスキースからは(挿図13),幼い女の子が漁師の父親に抱かれる瞬間も描かれ,孟郎が構図に若干の修正を加えたことが窺える。ところでこうした習作類に「奇人マイヤール翁」なる人物が登場する。孟郎は「岩穴ニ家ヲ作リ楽シミニハ画ナト画イテ居ル勿論頗ル下手ダ石ヲ集メテ居り数々珍石ナト見セテ呉レタ一種ノ奇人ダ」(8月10日)と評しているが,この老人の許へ彼は頻繁に通っている(8/10.14.15.16.17.9/8.-16.17.19.)ことが書簡から分かる。自称ナポレオンという(8月14日)この翁は,孫娘と二人暮しの孤独な老人である。翌年春のサロンに≪イポールの浜≫とともに入選した≪漁夫の家≫のモデルは,あるいはこの翁かもしれない。

(3)画家たちのノルマンディー

孟郎は,第1回フランス留学時代(1901-04)に,当時ルーヴル美術館に展示されていたクールベの≪嵐の海,通称『波』≫を模写している。≪クールベ『海』模写≫(図版A-27)という作品である。クールベの油彩は,現在オルセー美術館が所蔵しているか,1878年に国家買上げとなり,89年までリュクサンプール美術館に展示され,89年12月からルーブルに移管されている。この移管の意味するところを語るひとつの証言がある。1886年9月28日付『ジル・プラス』紙に掲載された,モーパッサンの「ある風景画家の生涯」の一節である。「彼は海のほうにまともに面して,西の絶壁によりかかった小さな家に住んでいた。それにこの家は以前海洋画家のウージェーヌ・ル・ポワットヴァンの持ち家であった。なんの飾りもない大きな部屋のなかで,油に汚れた太った男が,大きな生地のカンヴァスの上に台所用のナイフで白い絵具を板のように塗り重ねていた。時々彼は窓ガラスに顔をくっつけにいって,嵐を眺めていた。(海は泡と大音響で家を包み,ぶつかるのではないかと思われる程すぐ近くに押し寄せて来た。塩水がまるで雹のように家板を打ち,壁を伝って流れた。)マントルピースの上には林檎酒の壜がそれを半分入れたコップと一緒に並べられてあった。ときどきクールベはそれを一口か二口飲みにゆき,ぶつぶつ言いながら,再び画架のところへ戻ってくるのだ。‥‥‥そのとき彼が描いていたのは『波』だった。(その絵は,巷で少し評判となった。)」(註7)。 1869年,エトルタに滞在したクールベは,モーパッサンの親戚筋にあたる海景画家,ウージェーヌ・ル・ポワットヴァンがかつて住んでいた海の家で制作に励んだ。若き日のモーパッサンはそれを目撃し,その時の作品が,件の≪嵐の海,通称『波』≫だという。つまり既に,この文章が書かれた1886年当時,クールベの作品は発表時の話題性に加えて,古典としての確固たる地位を得,リュクサンブールからルーヴルに移された訳だ。日本の留学生である孟郎もまた,この油彩をアングルの≪泉≫(図版A-25)などとともに,ルーヴルで模写した。また同時期の模写に≪ジョセフ・バイユ『厨女図』模写≫(図版A-26)があるが,孟郎がクールベと並んで,シャルダンの系譜を引くレアリスムの画家,ジョセフ・バイユ(1862-1921)に注目した事実は興味深い。この≪ 厨女図≫はパイユの代表作であり,動物画,静物画とともに厨房や食卓の情景が画家の主要なテーマであった。トランプ遊びや料理女,喫煙者といったバイユの風俗画は,テオデュール・リボの影響が見られ,バイユは第三共和制下の典型的なレアリストだったといえよう。ジャン=ポール・ローランスの歴史画のみならず,これら第三共和制下のレアリスムは,孟郎の風俗画に色濃く繁栄されているが,≪ノルマンディーの浜≫と≪クールベ『海』模写≫を結び付ける,ひとつの重要なモティーフがある。それは,クールベの≪嵐の海,通称『波』≫に挿入された二艚の小舟である。後年,孟郎は同じような小舟を≪ノルマンディーの浜≫ に描くことになるが(何点かの習作にも小舟が描かれている(挿図14,15)),こうした大自然の風景に添付された点景,もしくは孟郎の作品の場合のように,風俗画の主要なモティーフとしての漁船や漁師は,19世紀後半のノルマンデイーの状況を語る貴重なドキュメントであり,それは,絵画主題と密接に関わっているという。

 

1988年,ニューヨークのブルックリン美術館で開催された『クールベ再考展』カタログには,クールベのレアリスムの萌芽を初期の風景画の中に観て,その延長線上に一連のノルマンディーの海景画を位置付ける試論がなされている。論者に拠れば,フランシュ=コンテ地方を描いた作品から,ノルマンディー地方の海景画に至るクールベの風景画には,画家の眼前に立ちはだかる現実の変化,社会の近代化に伴う経済構造の変化と先端技術の導入が読み取れるというのである。敢えて,同展カタログの挿図≪嵐の海,通称『波』≫には,≪委棄された小舟のあるノルマンディーの海岸≫という題が付けられている。「彼の多くの≪委棄された小舟のあるノルマンデイーの海岸≫という作品は,ロマン主義の常套句(クリシェ)というよりも,地元の漁業に関して観光産業が厄介を引き起こした徴候と見放すことが出来るだろう。海水浴,それは第二帝政期に大流行したのだが,漁師達を徐々にノルマンディーの海岸から追い遣った」(註8)。ここに描かれた小舟が,果たして委棄されたものか否かはともかく,論者が引用する次の歴史家ミシュレの1861年の言葉は無視出来ぬものであろう。「私はそこで,使いものにならない,多くの委棄された釣舟を見た。漁業は無駄な事になってしまった。魚は逃げた。ディエップが衰弱するのとほとんど同時に,エトルタは憔悴し死滅した。次第に,海水浴という算段が謀られていく。海水浴客の生活,ある時は貸され,ある時は空っぼの気紛れな別荘が待ち望まれているが,それも近い将来,貧困を齎らすだろう。こうしたパリとの交わり。確かに金離れはよいが,俗悪なるパリとの交雑は,この地方にとって禍の種である」(註9)。孟郎が滞在したイポールは,ル・アーヴルからディエップに向う道の途中に・り,エトルタからは9キロ。コートダルバートルは,この時代ひとつの転換期を迎えていた。孟郎のイポール日記には,モデル料に不服な老人が仕事に来ない場面が登場するが,このエピソードなども俗化された漁村の現実を投影して葬り興味深い。「七時半起モテル老人ヲ傭フ筈ナリシモ傭賃ニ不平アリシカ来ラス総シテコノ浦人近来巴里人ノ侵入ニヨリ大分ズルクナリタリト見ユ」(註10)

 

孟郎がノルマンディーに滞在した同じ夏,1907年8月,矢張りノルマンディーの避暑地カブールを訪れていた作家マルセル・プルーストは,同地を背景にした小説『花咲く乙女たちのかげに』のなかで,この地方の教会を見い出した時の軽い幻滅を,こう描写している。「この教会の円屋根とならんだ鐘塔は,突風が巻きおこり,鳥が渦巻いているノルマンディーの荒々しい断崖そのものである,と書いたものを読んでいたから,その鐘塔のすそはさかまく大波の最後の泡沫にぬれているであろうとつねに想像したものだが,いま見る鐘塔は,軽便鉄道車(トラムウェイ)の二本の線路の分岐点にあたる広場にそびえたっていて,その向かいにカフェがあり,そこには金文字で,「撞球」という看板が出ていた。鐘塔は家々の背景に浮きだしていたが,その家々の屋根のあいだには,一本のマストもまじっていなかった」(註11)。この教会は,物語のなかでは,主人公が滞在する海岸から五里以上離れた,港でも海岸でもない町の教会なのだが,主人公は,海岸のある駅に到着した時,その海で更に大きな幻滅を味わうことになる。「私は,これから訪ねに行こうとする海,『かがやく太陽』とともにながめたいと私が望んでいる海の,風景画を頭に構成していたのだが,バルベックでは,この海の風景画は,俗悪な,そして私の夢がとうていゆるさない,雑多なものの割りこみ,海水浴客とか,脱衣室とか,遊覧ヨットとかによって,あまりにもきれぎれにされたものしか考えられなかった」(註12)

 

1988年6月11日から9月26日にかけて,ノルマンディーのカーン美術館において『油彩エスキース・ノルマンディー:1850-1950,匿名の瞬間』展という展覧会が開催された。同展カタログには,ノルマンディーの変貌と芸術家との関わりが,何人かの論者によって述べられている。オランジュリー美術館長のミシェル・オーグは「それぞれのノルマンディー」という論考(註13)のなかで,1909年に出版された,評論家で小説家のジュール=フィリップ・ウゼイの著作『ノルマンディーと画家』を採り上げた。テーヌの方法論に固執したウゼイは,環境が芸術家を刺激する例を挙げ,シェルブールから西へ17キロ,ラ・アッグ岬に向う途中,グレヴィル・アッグの村グリュシーに生まれた画家ミレーと自然との関わり,ル・アーヴルでのブータンとモネの邂逅が,新しい芸術の地平を生み出す端緒になり,原動力となったことを強調した。それらは,この地方固有の自然環境から創造されたものだと。しかし,恵まれた自然環境に加えて,いわば触媒のような機能を果たす,社会的環境が準備されなければ,優れた芸術家は参集しないことを論者オーグは見逃してはいない。①19世紀半ばからの鉄道の敷設。②第二帝政期の海水浴の流行。③べリー公爵夫人による観光地としてのノルマンディーの宣伝。これらの要因に依り,この地方は一躍フランス第一の観光地に変貌する。オーグが指摘するように,プッサンの風景画などにその前例が見られるものの,19世紀前半,1820年代の英国人画家ターナーの訪問(彼は1821年の夏もしくは秋に,ディエップに旅行している)。続いてリチャード=パークス・ポニントンの滞在。彼は1824年のサロンにノルマンディーの風景画を出品し,以来ノルマンディーの風景画はサロンの重要なテーマとなった。若き日のコローは,ボニントンの水彩画を観て画家を志したという。そして1823年から24年頃に,ディエップの湯治場を世に紹介し,流行させたペリー公爵夫人ことマリー・カロリーヌの登場。彼女はナポリ公国の王女として生まれたが,シャルル10世の子ベリー公爵に嫁ぎ,王党派の領袖である夫君が1820年に暗殺されると,毎年夏をディエップに過ごすようになる。1832年8月1日,この地方を訪れていた詩人ハイネは,『アウクスブルク一般新聞』に以下のような通信を送っている。「シャルル王党派はこの地方でかなりの数にのぼる。そしてこのことは,ある特別の関心が当地にまだ存在するという事実から説明できる。つまり,いつもこの地で夏を過ごし,あちらこちらでうまく人気を博した,かの没落王朝の成員への愛着の念が当地に存在しているのである。とくに人気を獲得したのがベリ公爵夫人である。」(註14)ベリー公爵夫人の義父シャルル10世に寵愛された画家のひとりに,ルイ・ガブリエル・ウジェーヌ・イザペイがいる。ボニントンの影響を受けたイザペイは,細密画家であった父ジャン=バティストと同じ道を歩まず,主に外光のもと,戸外で制作する海景画家として活躍する。彼は,ボニントンが金メダルを獲得した1824年のサロンで,矢張り一等賞牌を得ている。このように,ノルマンデイーの風景画を確立させたのは,ロマン主義時代の海景画家たちだが,とりわけ重要であったのは,フランス人画家に影響を与えた,優れた英国人画家の存在であると言うことが出来る。前掲した『油彩エスキース・ノルマンディー:1850-1950,匿名の瞬間』展カタログにおいて,同展を組織・企画したアラン・タピエは以下のようにロマン主義時代の英国人画家を評価している。「ノルマンディーの画家たちは,クレヨンと水彩を巧みに扱う英国人画家を受け入れ,忘れられた,いにしえの中世の美を蘇らせようとした。自由な主題を好むために,英国人たちは旅行者のもつ無駄のない,実用的な技法を齎らした。つまり手早く制作される水彩,マッスを単純化し,いかなるトリックも修正も施すことなく,その技量を上手く用いることの出来る水彩画である。カズンズ,ガーティン,コットマン,ターナーといった英国の水彩画家たちは,新たに,主題の抒情性に様式の叙情性を融合させるという道標を提示したのである」(註15)。ノルマンディーで制作した画家たちの多くが戸外の外光のもとで作品を完成させたので,オンフルール派やルーアン派と呼ばれる画家の油彩は,従来の絵画の大画面にべて小さく,未完にも見えるエスキースの体裁をとっており,これが後の印象派のみならず外光主義全般の特徴になるのだが,一方,その外光主義の一翼をロマン派の英国人画家が担ったために,特にノルマンディーで制作した海景画には,英国絵画の影響が顕著になる。孟郎の≪ノルマンディーの浜≫には,例えば英国の海景画家チャールズ・ネーピア・ヘミーの作品に観られるのと同じ特徴,暗い褐色を基調にしながら随所に明るい原色を挿入する色彩構成,描かれる対象の質感を強調した筆致,風景画というよりも,物語性を強調した風俗画的な画面構成といった特徴が観られる。ヘミーはその師ウィリアム・ベル・スコットとともに,故郷の地名を採りニューカッスル派と呼ばれているが,孟郎の≪ ノルマンディーの浜≫もまたニューカッスル派の影響の窺える仕上がりとなっている(註16)。因みにヘミーはロンドン時代のジェームズ・ティソの友人であり,ティソ同様,アントワープ留学時代に,ベルギーの画家アンリ・レイスの影響を強く受けている。レイスは16世紀フランドル絵画の伝統を継承した歴史画家で,ローレンス・アルマ=タデマやティソに影響を与えた。ローランスの技法にも若干,このニューカッスル派経由のレイスの影響が見られるかもしれない。




挿図14 

挿図14 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(舟),油彩。 32.0×49.0cm



挿図15

挿図15 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》習作(舟),油彩。 40.0×33.0cm



 

註7

アルマン・ラヌー著/河盛好蔵・大島利治『モーパッサンの生涯』,新潮社,1973年,p.43-44.( )内は,同書中で翻訳を割愛した部分であるが,原文に基づき筆者が補った。



 

註8

Petra Ten-Doesschate Chu,“It Took Millions of Years to Compose That Picture”,Courbet Reconsidered ,Esh.cat.,The Brooklyn Museum,Nov.4,1988-Jan.16,1989,pp.66-61. この試論は,ロバート・ハーパート(1979年)やポール・H・タッカー(1982年)らのモネ研究,リチャード・ブレッテルが『印象主義とフランス風景画』展(1984年)に寄せた論者などに観られる視点,つまり,絵画の主題選択と歴史的状況の接点を強調する方法論が採られている。



 

註9

前掲論文中に引用された,ミシュレの以下の文献から。Jules Michelet,La Mer,1861,pp.406-07



 
註10

山梨絵美子編「鹿子本孟郎 滞欧書簡(三)」,明治40年8月14日付、妻宛。この書簡中にある日記(8月3臼)の冒頭に記されている。【同書,p.211,(十七頁)】



 
註11

井上究一郎訳『失われた時を求めて 第二編 花咲く乙女たちのかげにⅠ 第二部 土地の名,───土地』から。筑摩書房『ブルースト全集2』,1985年,p.305



 
註12

井上究一郎訳『失われた時を求めて 第二編 花咲く乙女たちのかげにⅠ 第二部 土地の名,───土地』から。筑摩書房『プルースト全集3』,1985年,p.26.



 
註13

Michel Hoog,“A chacun sa Normandie.”Esquisses Peintes Normandie:1850-1950, Moments anonymes, Exh.cat., Musee des beaux-arts,Caen,11 juin-26 Septembre,1988.pp.72-82.



 
註14

木庭宏(責任編集)『ハイネ散文作品集 第1巻 イギリス・フランス事情』から,松籟社1989年,p.265



 
註15

Alain Tapie,“Esquisses peintes en Normandie,sources d'un expressionnisme de la nature.”,Esquisses Peintes Normandie: 1850-1950 Moments anonymes, Exh,Cat., Musee des beaux-arts,Caen,11juin-26 septembre,1988.pp.13-32.



 
註16

≪ノルマンディーの浜≫に英国海景画の伝統を見る点については,東京国立近代美術館の児島薫女史のご教示による。



 

『油彩エスキース・ノルマンデイー:1850-1950,匿名の瞬間』展カタログにおいて,アラン・タピエは,ミレーに代表されるバルビゾン派に対して,敢えてノルマンデイー派に見られる特色を明確に対比してみせた。バルピゾン派では,①まずグループの主義主張,精神の在り方が重要であり,絵画の様式や技法に先行している。そこに描かれた作品は,②物語性の強い,文学的なロマン主義に貫かれており,それは,③感情の起伏が激しい表情や姿勢の採られた,形而上学的な思索をする風景の肖像画であり,④悲壮で神秘的でさえある。画家たちは,⑤田園生活や自然の美しさを賞賛するが,そこには,精神の本質的な在り方を探求するレアリスムが一貫している。⑥要するにバルビゾン派には,精神の総合的な映像,ロマン主義の帰結としての絵画的なジンテーゼが存在する。一方,ノルマンデイー派の作品では,①有機的な世界の断片としての風景を,確実に画面に走者させようとする,芸術家の科学的な態度,職人芸的な技巧が,思想や主義主張より優位に立っている。作品は,②自然の現実を客観的に投影しているが,③描かれた絵画のあるものは抽象的であり,文学的な主題や物語性の入り込む余地はなく,④色彩と形体,部分と全体,視点の位置,断片と連続,明暗法と光学的色彩処理といった,純粋に絵画的な諸要素が作品を支配しているのだという。つまり,伝道師としてのバルビゾン派とその後継者が,自然とその風景をロマン主義的な理想のなかで再構築していた時,ノルマンデイー派は,絵画をノルマンデイーの自然の法則に結び付ける作業に没頭した訳である。論者タピエは,この相違点は重要であると指摘する。

 

鹿子木孟郎は,ノルマンディー滞在中,翌年のサロンに出品するため1点の風俗画を制作した。完成した≪ノルマンディーの浜≫には彼の理想とするレアリスムが結集されているが,その要素を詳細に検討すると,ローランスの演劇的な人物構成のみならず,ニューカッスル派の堅実な海景画,そして何よりもノルマンディー派に共通する資質,描く対象をまず絵画的に徹底的に分析する態度が見られるのではないだろうか。ただ,イポールに題材を採った孟郎は,その避暑地に集う観光客,当たり前の幸福を貪る中産階級を描くのではなく,また風光明媚なファレーズ(絶壁)に捉われることなく,初めから,素朴ではあるが逞しい漁民の物語にする積りであったのだ。イポールを舞台にした小説『女の一生』がジル・ブラス紙に連載されたのは,1883年。孟郎がそのモーパッサンの小説をどの程度意識していたかは分からないが,少なくとも完成した作品を見る限りにおいて,彼の選択したテーマは,例えばモーパッサンのノルマンディー地方の浜辺を舞台にした短編小説で扱われる主題,19世紀の辺鄙な漁村を背景に,当時の下層階級に強いられていた苦渋をギリシャ悲劇のように格調高く表現した短編と同じ設定であることが分かるだろう。イポールの海の風景が,その風景とともにある漁民の生活が,彼の芸術の封印を解いたのであろう。

※ 拙稿は,美術館連絡協議会の海外研修(1989年度)に参加できたこと,また東京国立文化財研究所の山梨絵美子女史の研究資料がまとめられたことにより,執筆が可能となった。改めて感謝申し上げるしだいである。

 

(あらやしき・とおる 三重県立美術館学芸員)

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