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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1985 > 日本画の原始性 牧野研一郎 日本画の現在をみる展図録  1985

日本画の原始性

牧野研一郎

「我の眼には日本絵は丁度小供の絵の技巧そのままを大人に成まで描きつづけて,数百年代の習練を重ね一種特別の面白さを得たるものの如くに見える。しかし其面白さはどこまでも原始的で,何となく小児らしき俤が存している。又その面白さは所謂古拙とか稚気の面白さで,少しも近代科学的思想の圧迫を蒙らぬ所の面白さである。然るに芸術は時代の変遷に伴いて技巧も変化するものである。ましてや西洋の四五百年を一足飛にしたる現代日本人の絵画は今正しく変化せざるべからざる時期と成ている。それで先ず変へるとするには折衷などという姑息手段を採らず根本より一度洋風の技巧を習練して,我々の眼に自然界が映ずる如くに明暗光線によりて物体を描くようにして,而後我国数百年間に出でたる名家の研究によりて一度到達し得たる雅致ある色調や印象的形態の妙などをも参酌して,気韻生動を主とするに至らば確に立派なる近代風の絵画が出来るようになるは必然と信ずる。もし不然して何等の道理もなく単に線條を用いずに画を作て見たり,又は旧来の絵の具を用いて絹素の上に水彩画や油絵の真似したりなどするのは最も愚なる仕事である」

この文章は,明治44年12月の「美術新報」に掲載された「現代の日本と日本画」と標題がつけられた洋画家長原孝太郎の談話記事の一部である。長原はこの中で,日本画が原始的,小児的段階にあることを指摘して,日本画の近代化のためには折衷的な西洋画の受容ではなく,徹底的な写実という段階を通過することの必要性を説いている。長原がここで付けている東西美術の折衷による日本画近代路線というのは,言うまでもなく「今ヤ則チ進ンデ東西ノ美術ヲ渾化シ,適チニ造化二接スルノ覚悟ナカルベカラズ。是レ実ニ,今日美術家ヲ以テ自ラ任ズルモノノ天職ナリトス」。(「真真会」趣意書)とし絵画における線に対する色彩の優位性を説いて,当時「朦朧体」と批難された無線描法を生んだ,岡倉天心を指導者とする横山大観,菱田春草らの日本美術院の路線である。春草はこうした行き方の実事な成果である「落葉」(明治42年)をのこして,長原のこの一文が草された年に歿している。また長原が勧めている写実への方向は,既に平福百穂や結城素明を中心として結成された无声会によって明治30年代から進められている。長原の思考は,絵画の実用性を強調した司馬江漢や佐竹曙山らの江戸洋風画の延長線上にあって,近代西欧合理主義の急激な摂取を至上目的とした明治人の一つの典型的パターンを示している。

明治40年代は白樺の文芸運動などによって後期印象派が日本に紹介された年代であるが,長原のこの一文でもそれに触れ,「セザンヌやゴーガンなんどの画については,まだ充分に其伝を調べても見ないが,頗る東洋趣味を帯びて居る様に思ふ」として,その原因として「元来西洋人は幼少の折から,写真や活動写真などに眼が慣れて居て,さう云ふ風な側から,画を視る傾があるから,日本画の様に,飛び離れたものに依って,兎角実物に執著し易き彼の画風の束縛から脱出する必要があるのかも知れない。」と述べている。

長原がこうした考えを述べている頃,京都では土田麦僊や小野竹喬らが黒猫会(シャノワール)や仮面会(ル・マスク)を組織して,後期印象派の研究を熱心に進めている。土田麦僊はその成果として,大正元年に「島の女」,翌2年に「海女」を発表するが,これらの作品には麦僊のゴーギャンへの傾倒が顕著に示されていた。やがて麦僊らは文展を離れ,「生るるものは芸術なり,機構に由って成にあらず。此れを霊性の奥に深めて人間の真実を発揮し,此れを感覚の彩に潜めて生命の流動に透徹す。」と宣言して国画創作協会を結成,新日本画の創造を企図するが,宣言に見られるように,ここには長原ら明治人には不問に付されていた内面の表現が第一義的な関心事であり,その際に参照されたのがゴーギャンやセザンヌあるいはムンクであった。そこには長原の言うように「日本画の原始的性格」とゴーギャンらのプリミティビズムとの間の親和性からくるある種の共感があったのかも知れない。

× × ×

「マチスヘの親近感は,日本古典,否,原始芸術に見る純一無雑な直観的表現にあるのであって,芸術の到達する共通のものへの共感にあるのではなかろうか。……芸術は日本古典のように原始的形態そのまま自然に洗練されて高度の形式の完成をみたものもあり,又,西欧的なリアルな合理的追求が近代に於けるマチスのように三次元から二次元的表現にかえってくると云った東洋とが表と裏の関係になった感じのものもある。」

これは土田麦僊に師事し,戦前は新日本研究会(昭和9年結成),新美術人協会(昭和13年結成)の中心人物として,戦後は創造美術の創立会員として叫質して日本画の革新を図ってきた福田豊四郎が,昭和26年に東京国立博物館で開催されたマティス展を見ての感想である。

福田豊四郎の文章と,先に挙げた長原の文章とを比較すると,日本画を原始的芸術であるとする見方では一致している。原長はそれを否定的に捉え,西欧的な写実の訓練を経てはじめて日本画の近代化が成しとげられるのではないかと説いたが,福田は逆に,原始的であることが日本画の特質であり,その原始性を徹底することこそが,日本画が世界性を獲得しうる途であると主張している。

高山辰雄の戦後の出発点を示す言葉としてしばしば引用される「アミーバーの心」には次のように記されている。「エジプトより前,原始時代よりももっともっと前から生物本然の何かと共通したあるもの,地上に生を受けた時の心,アミーバーの心とでも云いたいものです。つかめないかも知れないが,死ぬ迄にはアミーバーの心とでも云うものを知りたい。」こうした希求は,造形面ではゴーギャンと結びつき高山の戦後の仕事を生んでいる。あるいは,工藤甲人は早くから福田豊四郎の影響を受け,「工藤甲人芸術の在り方は,根本のところでは福田豊四郎の日本画観を忠実に突きつめていったもの」(河北倫明)と評されるほどであるが,「我々が絵を描くのも,もちろん無意識のいわば原始的時間の中で,それだけまた喜びと困難も大きい。しかしその仕事の成果というものは,常に現在の時間の中に意味を持たなければならぬ運命にある。原始的衝動と近代的意識,この空間にも全く抵抗するものの中に,やはり人間らしい一種のときめきを感ぜずにはいられない」という言葉からうかがえるように,工藤甲人はプリミティビズムのなかで自らの仕事を展開してきている。あるいは加山又造の,新しい画家の誕生を世に告げた作品の題名が「原始時代」であったのが衆徴的だが,戦後の日本画革新にもアリミティビズムは大きな役割を果している。

このように,大正初期の麦僊をはじめとする国画創作協会の画家たち,昭和期に入っては福田豊四郎,岩橋英遠などの新しい日本画を創造しようと苦闘した画家たちばかりでなく,戦後の苦しい世代の画家たちにも,旧弊から脱して新しい日本画を創ろうとする際には,プリミシティビズムによって鼓舞される点が多かったように思われる。

材料や技法の制約によって,ともすれば技術主義,形式主義のわなに陥り易い日本画を,常に時代とともに新鮮さを保っていくのには,それらをふるいおとすためにプリミティビズムが有効に作用してきたかのようである。また特に戦後の一時期は,敗戦によるそれまでの価値基準の崩壊によって,裸形の人間,社会と直面せざるを得なかったことも,戦後の日本画におけるプリミティビズムの豊かな収獲へと結びついたのかもしれない。

(三重県立美術館学芸員)

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