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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 1999 > 1930年代の日本彫刻 毛利伊知郎 1930年代展図録

1930年代の日本彫刻

毛利伊知郎

はじめに

1930年代は、わが国の近代彫刻史上、第二次世界大戦以前と以後とを結ぶ過渡期として、また1920年代以前の彫刻表現の総括期として、さらに戦後彫刻の胚胎期として位置づけることができるように思われる。

しかし、現存する作品と比較すれば、1930年代から40年代にかけて制作された作品中、戦中戦後の混乱によって失われた作品はあまりにも多い。また、戦時体制が進む中でブロンズ等彫刻資材の制約が行われるなど、彫刻家たちにとって1930年代、40年代前半は極めて不幸な時代でもあった。

1910年代後半あるいは1920年代から活動を始めていた在野系の作家たちのあるものは、その生命主義的なフランス近代彫刻に連なる造形を日本人固有のものとすることに腐心していた。また、わが国の伝統的な木彫表現を見直して新しい可能性を追究していた作家たちの活動も忘れることはできない。さらに、明治以来、自然主義的な写実表現による作品を制作してきた官展系作家たちは、1935(昭和10)年の帝国美術院改組以降大きな混乱に陥り、多くのグループが結成と解散を繰り返すことになる。

こうした1930年代の日本彫刻界に見られる諸動向についての基礎的研究と問題の鮮明、作品の評価は、当時の絵画史研究と比較すれば未だ立ち遅れた状況にある。1996年に当館で開催した「20世紀日本美術再見Ⅲ1920年代」の展示内容、及び昨年当館で開催した「ヒューマニズムの系譜-日本の具象彫刻10人展:1930s-1950s」、将来開催を検討している1940年代の造形をテーマとした展覧会との関連等を考慮して、本展での彫刻展示は石井鶴三と橋本平八二名に限定している。本論では、そうした本展の彫刻展示の欠を補い、これまで正面から扱われることが少なかった1930年代彫刻の全体像と問題点を検討することとしたい。

(1)官展系の彫刻

1930年代-少なくともその前半期の彫刻は、20年代の延長線上にあると見て大きな誤りはないだろう。作家の活動時期と作品の傾向を見る限り、30年代前半の彫刻と20年代のそれとを分けることに何らかの意味があるとは考えにくい。

官展系では、1880年代前半に生まれ1900年代半ば頃から作品発表を始めていた建畠大夢、朝倉文夫、北村西望らが1910年代後半には帝展審査員をつとめ、母校東京美術学校の教授にも就任して、20年代以降指導者としての地位を確立して大きな影響力を持っていた。

文展・帝展内での世俗的な勢力争いは激しく、特定グループの不出品などトラブルも絶えなかったが、文学的、歴史的、宗教的な主題を採用し、あるいは男女の裸体をモデルとした自然主義的な写実表現になる作品の傾向が変わることはなく、マンネリズムを否定することはできない。

官展は、少なくとも彫刻に関しては、新人作家の登竜門としての役割を果たしていたということはできるが、新しい彫塑表現を生み出す創造的な場としては必ずしも機能していなかったというべきであろう。

1930年代の帝展・新文展には、少ない年で二百数十点、多い年には五百点以上の彫刻作品の応募があり、百数十点の作品が入選とされた。これは、それ以前の帝展と比較すると増加傾向にあるが、内容面での寂しさは否定できない。また、戦時体制へ向かいつつあった当時の日本の状況を反映して、好戦的あるいは皇国史観的主題の作品が次第に目立つようになるのも30年代官展彫刻の特徴の一つである。

1935(昭和10)年の帝展改組は、官展系の彫刻家たちにも大きな影響を及ぼし、帝展改組を契機として多くの彫刻家グループが結成と解散を繰り返すことになる。しかし、現状ではそれらの中に創造性豊かな作品を残した団体を見出すことは困難である。

一方、以下に記すように、在野系では1914(大正3)年に再興された日本美術院彫刻部、1919(大正8)年に藤川勇造を中心に創設された二科会彫刻部、1927(昭和2)年に金子九平次らによって設置された国画創作協会彫刻部(翌年から国画会と改称)の三団体を30年代に入っても活動を続けていた代表的な団体としてあげることができよう。

(2)日本美術院彫刻部

日本美術院彫刻部は、ロダンへの強い傾倒を示した中原悌二郎、戸張孤雁の二人が20年代に早逝し、その後30年代にかけて木彫系では平櫛田中、佐藤朝山、橋本平八、塑像系では保田龍門、武井直也、喜多武四郎、牧雅雄らの他、木彫・塑造いずれも手がけた石井鶴三らの活躍が目立った。そして、30年代後半に入ると、新海竹蔵、山本豊市、桜井祐一、辻晉堂ら若い世代の作家たちの活動が次第に目立つようになる。

院展彫刻部には、再興当初からロダンに代表されるフランス近代彫刻への強い関心を抱く作家たちとともに、伝統的な木彫を指向する作家たちも数多く見ることができる。西洋的なものと日本東洋的なものとの間を行き来しながら、日本人固有の彫塑表現を確立しようとする動きが院展では特に顕著で、そうした傾向は1930年代に入っても大きく変わることはなかった。

たとえば、木彫家として出発しながら、1915(大正4)年に制作した《原田恭平像》でロダン的な立体表現への強い関心を示した佐藤朝山は、1922(大正11)年に日本美術院創立二十五周年記念事業の一環としてヨーロッパに派遣されてブールデルに師事した。朝山は、帰国後も《田中氏像》(1928年)のような塑像を制作する一方で、古代エジプト美術研究のあとを窺わせる《牝猫》(1928年)などを経て、30年代に入ると神話や歴史を題材とした木彫作品を多く制作するようになる。

また、平櫛田中は、1910年代半ばには日本美術院研究所で塑造を研究し、塑造的表現を示す《裸婦立像》(1915年)や《裸婦倚像》(1916年)などを制作したが、20年代以降は歴史上の人物等を主な題材に、鑿の切れ味を活かした彩色像に見られるように、日本の伝統的な木彫像を強く意識した作品を数多く制作するようになった。

さらに、1911(明治44)年に《荒川嶽》を文展に出品して彫刻家として出発した石井鶴三の1910年代から20年代にかけての作品には、裸婦や男性の頭像などが比較的多い。しかし、30年代に入ると変化が現れ、例えば「信濃男」「田父」「老婦」「職工」など一種の土着性あるいは生活感、社会性を感じさせる主題の作品が目立つようになる。

ここに名を挙げた三名の彫刻家のうち、佐藤朝山は、小動物や鳥類をモチーフにした小品を1931(昭和6)年の第18回院展に出品した後は院展に作品を発表しない状態が続いた。また、平櫛田中は30年代も毎回院展に出品を続けたが、古彫刻の木造彩色技法によって制作された一連の肖像や歴史人物像を近代彫刻としてどのように評価するかは意見の分かれるところであろう。

朝山とほぼ同世代で、画家としても活躍した石井鶴三は、院展の彫刻にしばしば見られた歴史的、宗教的主題をいたずらに取り上げることもなく、「凸凹のおばけ」という彼の言葉に示されるように、近代芸術としての普遍的な彫刻表現を追究し続けていた。

佐藤朝山の門人で、朝山や鶴三より十歳ほど若い橋本平八は、20年代前半から院展彫刻部で頭角を現したが、1926年(大正15)には郷里伊勢に戻り、以後は伊勢を制作の拠点としている。徹底した写実表現による初期の《猫》に始まり、20年代後半に日本の原初的な一木像との関わりを想定させる《成女身》(1926年)、古代エジプトの人物表現を連想させる《裸形少年像》(1927年)、自然界の実在・存在の本質に対する関心を示した《石に就て》(1928年)などで新しい彫刻表現の可能性を提示した平八は、30年代に入ると《花園に遊ぶ天女》(1930年)を制作して、伝統的な木彫の特性と西洋的な幻想性との統合を目指した独自の境地を確立した。

1931(昭和6)年に、平八は偶然眼にした江戸時代の円空仏から強い啓示を受けて独自の木彫観を確立し、仏教的な主題の像や動物等の他、幼児が持つ生命力と神秘性を簡潔なフォルムの中に表した《幼児表情》(1931年)や《或る日の少女》〈1934年)を制作している。

平八と円空仏との出会いは偶然であったと伝えられるが、一方で西洋近代の芸術思想にも強い関心を示していた平八が、初めて眼にした円空仏に注目したのは単なる偶然だったのだろうか。

推測の域を出ないが、関東大震災後に奈良の古寺で古彫刻を研究した経験があり、また伊勢神宮にほど近い郷里で日本の伝統的な木の文化を身近に感じていた平八の、日本古来の木の造形に対する好奇心が、円空発見の陰に働いていたと見ることは、あながち的はずれでもないだろう。

また、円空仏という日本の正統的な仏教彫刻の流れに乗らない木彫を平八が発見したことは、その方向は大きく異なってはいるけれども、広い意味では平櫛田中が寄木造彩色像に眼を向けたのと同じく、木彫における伝統の再発見であったということができる。

橋本平八と石井鶴三では作品の内容は大きく異なり、一方の平八は1935(昭和10)年に早逝したけれども、西洋的なものと日本東洋的なもの両者を強く意識しながら、20年代の彫刻表現をさらに展開させて独自のスタイルを確立した点で、1930年代の典型的な彫刻家として位置づけることができるのではないかと筆者は考えている。

(3)二科会

藤川勇造は、30年代初頭に20年代の作品につながる高密度で内省的な雰囲気が漂う《Nの顔》(1930年)《黒き像》(1931年)などを制作した後は、《Mr.ボース》《海鳥を射る》(1932年)のような肖像彫刻や動きの大きいポーズの作品が多くなる傾向があった。

1935(昭和10)年の帝展改組に関連して藤川は二科会を退会したが、ほどなく51歳で死去することになる。藤川以外では、渡辺義知が1931(昭和6)年に会員に選ばれ、また太田三郎、早川巍一郎、笠置季男、菊池一雄らが頭角を現し始め、戦後活躍することになる淀井敏夫や堀内正和も出品を始めていたが、早川や太田らの退会もあって、30年代後半の二科会彫刻部は出品作品の増加にもかかわらず、質的な停滞は否めない状態であった。

藤川勇造に師事して彫刻家として出発した菊池一雄は、30年代前半には二科会に作品を発表したが、1935年には二科会を退会して藤川門下の作家たちで結成された新彫塑協会に属し、滞欧後は新制作派協会に作品を発表するようになった。

菊池一雄の30年代の作品は多くはないけれども、それらは師の藤川やパリで指導を受けたデスピオゆずりの内省的で誇張のない表現を示していて、菊池の関心のありかが後述する国画会系の作家たちと共通するものであったことを窺うことができる。

(4)国画会

1927(昭和2)年に国画創作協会の彫刻部としてブールデルに直接師事した金子九平次を中心に結成された国画会彫刻部は、1910年代以降ロダンの紹介等を通じて若い世代の芸術家たちに強い影響を与えていた高村光太郎が参加していたこともあり、官展とともに多くの青年彫刻家たちの作品を集めた(註)


国画会を中心とする1930年代の彫刻については、『ヒューマニズムの系譜 日本の具象彫刻10人展:1930s-1950s』(1998年 日本の具象彫刻10人展実行委員会他)、“Le Japon Sculptur moderne 1935-1955 musée Despiau-Wlerick(La ville de Mont-de-Marsan)1997を参照。

20年代未から30年代前半にかけては、高田博厚、本郷新、山内壮夫の他、戦後本格的に活躍を始める柳原義達も出品を始め、30年代半ば以降になると佐藤忠良、舟越保武、吉田芳夫らが参加するようになった。

創立会員の金子九平次は1932(昭和7)年に国画会を去り、高田博厚は1931(昭和6)年に渡仏して、パリから国展に作品を送ったこともあったが、日本とは距離を置いて独自の世界を築こうとした。

国画会彫刻部は1939(昭和14)年に会員全員が退会して消滅状態となり、その実質は国画会から移った彫刻家たちが設立した新制作派協会彫刻部に引き継がれることとなる。

国画会彫刻部は、1910年代以来の生命主義的な彫刻表現の系譜に連なる多くの新進彫刻家たちが結集して、日本美術院とともに1930年代の日本彫刻界で一定の役割を果たしたグループと位置づけることができよう。しかし、既に失われた作品があまりに多いために、30年代の彼らの活動を作品を通じて検証することは不可能に近い。国画会に集った若手の作家たちが本格的に活動を展開し、その成果を作品によって無理なく跡づけることができるのは40年代以降のことである。

また、創立会員の金子九平次が早くに退会し、高村光太郎も国展には作品を発表せず、しかも比較的年長の高田博厚が渡欧したために、1930年代に国展に作品を発表したのは20代から30代の若手作家が中心であり、しかも経済状態が逼塞し、国家の抑圧が大きい当時の状況下では、彼らが本格的に活動するのは困難であった。

ただ、柳原義達の《山本恪二さんの首》(1940年)、舟越保武の《N君》(1933年)《つやこ》(1935年)、佐藤忠良の《女の顔》(1941年)など30年代末頃の数少ない現存作品には、素朴さの中に清新で強靭な生命感に満ちた表現を見ることができて、彼らの戦後作品の原点が30年代後半にあったことを窺うことができる。

(5)構造社

最後に、30年代に活動した在野系の彫刻家団体の一つ構造社に触れておこう(註)。構造社は、1926(大正15)年に斎藤素巌と日名子実三とによって創設され、1935(昭和10)年には新構造社と改称することになる。斎藤素巌と日名子実三はもともと官展に出品していた作家だが、朝倉文夫を中心としたグループ東台彫塑会の内紛から構造社を興すことになった。

(註)
構造社については、伊豆井秀一「陽咸二と構造社」『埼玉県立近代美術館紀要』第2号1995年を参照。

構造社は、画一的な人物像だけではなく、群像やトルソ、レリーフや建築装飾、モニュメント等に力を入れ、彫刻の社会化、彫刻と建築との融合を求めた。そうした彫刻のあり方についての構造社の理念には注目すべき点もある。しかし、斎藤らの現存する大形作品を見る限り、彼らの理想は作品の上では必ずしも成功していないように思われる。

構造社の作家では、小倉右一郎門下の陽成二(1898-1935)が、20年代にギリシア彫刻やアール・デコ、キュビスム等の研究を窺わせる独自のスタイルの作品を発表して注目を集めた。また、もと朝倉文夫門下で官展や二科会に出品したこともある荻島安二(1895-1939)が、1933(昭和8)年から構造社に作品を発表している。

荻島は、島津製作所マネキン部の顧問をつとめるなど、いわゆるマネキン人形の作者として知られ、また彫刻だけでなく写真や版画も手がける多才の人であった。大作はないけれども、彼が1930年代に制作した多くの女性像は、通俗性を帯びながらもアール・デコ風の耽美的な雰囲気を強く持ち、30年代の都会的なモダニズム文化との関連を窺わせる興味深い存在となっている。

(6)おわりに

以上のように1930年代の彫刻界を概観してみると、西洋の彫刻表現を視野に入れながらも、日本古来の木彫の再生と塑造表現の日本化を強く意識していた日本美術院の彫刻家たちと、ロダン、ブールデル、マイヨールらフランス近代彫刻の造形の定着をめざしていた国画会(新制作派協会)を中心とする作家たちという二つの動きを、新しい彫刻をつくろうとこの時期の大きな流れと見ることができる。

彫刻と建築の融合を求めて活動を開始した構造社は、その先駆的な理念には注目すべきところがあるが、前述したように作品の評価には難しい問題があると思われる。ただ、20年代を中心に活躍した陽咸二と30年代半ば以降構造社に出品した荻島安二の二人は、指導的な地位にあったわけでもなく、残した作品も多くはないけれども、ロダン以来の内面的リアリズムによる彫塑表現と日本東洋の伝統的木彫という二極構造だけでは語れない彼ら独自の表現は、もっと注目してよいのかもしれない。

ところで、30年代はまた多くの作家を失った時期でもある。1934(昭和9)年には高村光雲、藤田文蔵、大熊氏廣らが死去し、日本の近代彫刻の草創期に活躍した作家たちがこの世を去った。その翌年には藤川勇造、橋本平八らが、また1939(昭和14)年に荻島安二が、1940(昭和15)年には武井直也がそれぞれ死去した。

金子九平次、高田博厚らのように日本の彫刻界と距離を置いた作家や活動が低調になった作家もいる。こうした状況を見ていると20年代以降の彫刻の展開が30年代に入って途絶したかのような印象を筆者は覚えるのである。

その一方で、日本美術院や国画会(新制作派協会)では戦後活躍することになる新進たちが活動を始めていた。しかし、彫刻家たちを取り巻く社会の情勢は悪くなるばかりであった。そうした意味で、日本の近代彫刻における新たな具象表現の展開と抽象表現の確立という課題は、第二次世界大戦後1940年代後半期に持ち越されたと考えられる。

(三重県立美術館学芸課長)

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