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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1996 > 近代における文人画の再生と表現主義の諸相 山口泰弘 1920年代展図録

近代における文人画の再生と表現主義の諸相


山口 泰弘

萬鉄五郎は、1926(大正15)年、アルス美術叢書の一冊として『文晁』を出版する。文・閧ニはいうまでもなく江戸後期の画人谷文晁(1763-1841)を指すが、この一冊はその文晃の評伝として著されたものである。近代の洋画家萬鉄五郎がこの前近代の画人に興味を抱き、それだけではなく、何故わざわざ評伝まで著すようになったか、その理由は評伝中に記されており、これについては後に触れることになるが、何にも増して興味が引かれるのは“大正15年孟夏”の年紀のある自序の冒頭にある次の一節ではないかと思われる。

東洋画を接ずるに、その内容は或る種類の表現主義、其の手段としては構成主義である。天然を一度嚥下して筆墨の骨力に還元し、宇宙的構成に於て顕示する処に醍醐味を置くのである。

ここで萬は、東洋画は、表現主義であり、構成主義であると述べている。表現主義の問題は後で細かく触れることとして、構成主義という言葉は、どのような意味で使われているのだろうか。

構成主義というと一般に、ロシアないしソ連で革命前から1920年代にかけて展開された芸術運動を想起させるが、西欧の同時代美術の動向を敏感に自らの作品に反映させていた萬が、この芸術運動を念頭に置いて、構成主義という言葉を使用したことは間違いない。この芸術運動は、現実の素材を用いて非再現的構成を行うという造形理念のもとに、鉄やガラスなど工業生産物の使用とその社会的効用を主張したが、絵画・彫刻といった既成芸術様式をブルジョワ芸術として否定し、社会主義思想との連携を強める方向へと進んだ。萬がいうように東洋画が構成主義だとしてもそれは、当然のことながら、本来の構成主義がもつ芸術史的概念からはかけ離れている。

洋画家和田三造の次の言葉(1)は、萬の「構成主義」を簡明に説明する言葉かもしれない。「先ず日本画や支那画の慣習的作法の中で私をうれしがらせる点は自分の描きたいもの丈けをかいて外は空白に捨てておいてすましておられるという事、好きなものを抽象して宙に浮かせたりころがしたり一見不合理に見えることが憚りなく出来る事、六カ(むつか)しくいうと無駄な爽雑物を排して造形的要素のみを採るという尊い手段に大なる魅力を感ずる。」。萬自身も『文晁』の末尾に添えた一章「著者の文晁観」のなかで「湖石を置き、蘭を配するが如きはそれである。」と語っており、その「構成主義」の内容を端的に表している。


このように景物を必要に応じて構成する、という程度の文字どおりの「構成主義」に対して、「表現主義」は、大正から昭和の初期にかけてある種時代性をもって唱えられた言葉であった。


萬の『文晁』上梓に先立つ1917(大正6)年、美術史家田中豊蔵は、『国華』330号に掲載した「所謂南画的新傾向に就て」の中で、「(南画が再認識されつつあったこのころの)この新傾向の根底を組み立てる基礎を、近代西洋芸術に於ける非写実的なる新運動と一致させて考へたい。」と述べているが、ここで田中のいう“近代西洋芸術に於ける非写実的なる新運動”が西欧20世紀の最新動向、なかんずく表現主義と重ね合わせられていることは容易に想像がつく。


江戸時代の半ばに日本に移入され、18世紀の半ばから19世紀の前半にかけて隆盛をみた南画あるいは文人画は、幕末から明治にかけて大衆化の極みに達し“つくねいも山水”などと揶揄されるような著しい形骸化をみせていた。さらにアーネスト・フェノロサによって、「油絵ハ磨機の頂石ニシテ文人画は其底石に等シク、真誠の画術其間ニ介リテ連リニ磑砕セラルガ如シ」(2)などと油絵とともに排撃された結果、明治末期には、梅澤和軒が「南宗極衰の時代」(3)と指摘せざるをえないような惨状に陥っていた。


大正時代になって、文人画を西欧の表現主義と結びつける新思考が生まれる。萬が、東洋画を表現主義と呼んだのは、こうした時代の文脈に沿ったものである。


東洋画を西欧近代の美術理論に適用させ、近代芸術として蘇生を促そうとする新思考は、西欧の思考的枠組みに捉われ、近代化そのものにある種無限の可能性を信じていた前代の画家と異なって、東洋的な表現に、行き詰まりをみせる西欧化を打開する何かがあると感じ始めていたこの時代の画家や美術史家のあいだで新たな模索の方法論として採用された感がある。


洋画家として出発し後に水墨画に親しむようになる小杉(未醒)放菴も、1911(明治44)年、『美術新報』10巻11号に発表した「国民性の発揮」と題する一文の中で、「米点法などというふものはなかなか思ひ切つた面白いやり方である。自分はあれなどは、東洋画中の最も極端な印象派だと思つてゐる。」と述べている。“米点”、すなわち山肌に茂った樹木を潤墨による大きな墨点を筆穂の腹を横にして打って表す技法は、中国北宋の画人米ふつ・米友仁父子によって創始されたといわれる山水描法であるが、この技法を、19世紀フランス絵画における点描主義と重ね合わせたわけである。もっとも、色調を原色に還元して視覚混合を行った印象派や新印象派の技法と米点とを結びつけるのは本質的に無理があり短絡に過ぎるが、ともあれ、古びたとして顧みさえもされなかった古画や東洋画を近代的芸術観というフィルターを適して再認識しようとする姿勢が、このように芽生えていた。


そもそも表現主義は、自然主義、アカデミズム、印象主義といった19世紀の芸術に対する反動として、20世紀初頭以来ドイツに相次いで興った芸術運動のひとつだが、芸術は作家の気質を通して見られた自然ではなく、気質すなわち精神的なものが第一で、自然は第二義的。そして現実の再現的描写とか視覚的興味をよぶ現象の外面にはとらわれず、心的過程・精神的体験に支えられた物の意味・本質を直接表現しようとする。そのためには、遠近法、解剖学、採光、陰影などの法則を無視し、線描や輪郭の線の表現力を強調、微妙な色調よりも原色を主とする少数の強烈な色彩を採用し、単純な色彩もしくは色面相互の対比効果を求める(4)


このように“気質すなわち精神的なものが第一”とする表現主義が東洋画とくに文人画のもつ特質に結びつくのは、無理からぬことといえよう。


1911(明治44)年9月号の『美術新報』は、「洋画家の日本画観」という特集を組んだが、そのなかで藤島武二は「ゴーガンやセザンヌやワンゴーグ(ヴァン・ゴッホ)などは、心理的見地から、研究したら、大雅堂や蕪村、蕭白などと、共通の処があるに違いない」と語っており、ゴーガンやセザンヌ、ゴッホなど表現性の強い西欧画家と池大雅や与謝蕪村などの江戸時代の文人画家、あるいは江戸時代の画人のなかでもとりわけ表現性の強い曾我蕭白を共通項として括るために“心理的見地”という言葉を使っている。


萬は、1915(大正4)年7月2日から10日にかけて盛岡市・物産館別館で開かれた第5回北虹会展に素描数点を出品するとともに岩手毎日新聞の7月4・6日の紙面に寄稿した(5)が、その中で、「要は精神の顕現及上昇を目ざして進んで居ると言って差支えない。心的な画家カンヂンスキーは彼の表現主義のプログラムに於て『芸術は人格の根底より流れる響である』を説き『真固の芸術は最高の精神を所現する所である』事を力説して居るが、之が芸術的所産の価値如何は暫くおき自分の現在を説明しようとすれば矢張り同じ事を言わなければならないと思う。」と、表現主義に”精神の顕現”を見、カンディンスキーの言葉を借りて、“芸術は人格の根底より流れる響である”と述べている。さらにカンディンスキーを“心的な画家”と呼んでいる。萬は、1919(大正8)年、病を得て茅ヶ崎に移り住むようになって江戸の文人画の研究に入るようになり、岩手毎日新聞に寄稿した1915(大正4)年当時、萬はまだ文人画に対する関心を露わにはしていないが、このような表現主義観にひとたび立った萬にとって、文人画が親しいものに見えたことは容易に想像される。



1.「私の事・絵の事など」『三彩』26号・1949年


2.講演『美術真説』・1882年


3.『増補 日本南画史』・1919年


4.『新潮 世界美術辞典』の「表現主義」項から引用


5.「七光会に出した絵其他」

こうした風潮に対し、美術史家瀧精一はひとり、「文人画と表現主義」(『国華』390号)と題した論文の中で次のように異論を差し挟んでいる。

「文人画の原理を詮じ詰めれば宋の郭若虚が『図画見聞誌』の中に説いた如く、人格を本意として所謂ゆる心印の如くに気韻の現はれのある事がそれであらう。之を今日の言葉に直して云へば、即ち表現Expressionを眼目とするのである。『心印』の語が丁度『表現』に該当する。要するに文人画の原理は、近頃西洋に起った芸術上の表現主義と合致するのである。」と、同じExpressionを原理とし、さらに東洋画における『心印』の語を表現主義の『表現』という語と同義と解釈することによって、文人画の思想と表現主義に共通する点は認める。しかし、本質に関わる次の四つの点、すなわち、文人画は職業的でなく自楽の境涯を得なければならないこと、詩的でなければならないこと、その筆法において書法的傾向を必要とすること、用墨を尊重することを挙げて、かならずしも全てにわたって同一視することは出来ないと結論づけている。とくに、文人画が遁世的であり、遊戯三昧であり、社会の現実から離れようとする傾向が著しいのに対して、表現主義の画家たちがむしろ現実に積極的に対処しようとしているところに、最大の相違点があると見ている。恣意的で強引なところのある画家たちの付会に似た新思考に対する美術史家として客観的な史観がそうさせたのだろう。

もっとも、大雅や玉堂といった文人画家中の文人画家といった存在には、表現主義と相いれない高みがあることに、萬も気がついていた。

たしかに、「玉堂琴土の事及余談」の中で萬は、「僕は直覚的にカンジンスキーなどのものに共通する或るものがあると思ったのであった」といい、また、”近代象徴派詩人”の姿をみるなど、玉堂琴士すなわち浦上玉堂に深い共感を覚え、また池大雅にも高い敬意を払っていた。とはいえ、文人画あるいは東洋画の近代への蘇生を目的とした場合、大雅や玉堂が必ずしも相応しい存在であるとは思っていなかった。そのあらわれとして、彼らに替えて文晁を萬は採用することになったわけだが、文晁を採用した理由について萬は、『文晁』末尾の章「著者の文晁観」の中で次のように述べている。

文晁に大雅の逸格、紀玉堂の逸韻を求めるものあらば、そは多くの場合に於て誤りである。大雅玉堂は人間の生活から超脱したる如き人々である。文晁は敢て然らず、あく迄人間生活に生き積極的、精力的、征服的に進まんとするものだ。

しばらく措いて、

文晁は平淡自然を主張して居る丈にその作るものはどこ迄も常識的である。恐らく人に理解されないなどという事はない筈で、筆墨の点を理解する者は少ないとしても、その写形構図に至っては誰にでも理解されるだろう。

つまり、瀧精一が指摘した文人画と表現主義のあいだに横たわる最大の懸隔、すなわち、現実から逃避するか、現実にあくまで就くか、という二元論に萬も突き当たり、「人間生活から超脱したる如き」大雅や玉堂を採らずに、「あく迄人間生活に生き積極的、精力的、征服的に進まん」とし、「どこ迄も常識的」であった文晁を選んだものと思われる。表現主義がその主張の中に据えていた“心的過程・精神的体験に支えられた物の意味・本質を直接表現しようとする”現実直視の姿勢をある意味で身をもってあらわしていた文晁を選んだのである。それは、「著者の文晁観」のもう少しあとの部分、「大雅、玉堂の如きは、あまりに高踏的であるため、余程練達の士でない限り本当に理解する事が出来ない。あまりに超越的であるため今の邦画との連絡が取りにくい。故に先ずこの包容力の広い平坦な普遍的性質の多分な文晁からして研究するのが順序である。」という一節により一層明快に述べられている。大雅のもつある種の高踏的性格は、たとえば平福百穂が、「蕪村の筆には依然として才筆と親しみを有するが、大雅堂となるとそれ以上の、吾々の至りがたい世界がある如く思はれる。これは稽古して及びがたく、又筆端の熟練、才では到底及びがたきことと思った。」(6)と語っているように、いわば共通認識であった。

6.「大雅堂のこと」『竹窓小話』古今書院・1935年

実際、文晁の作品や、その生涯、特に名利の尽きた晩年などを知ると、文晁には大雅の高踏性とはかけ離れた、生々しい人間臭さがある。より親しい存在と感じた谷文晁を、では、萬自身はどのように見ていたのだろうか。

『文晁』の「序」には、「文晁は晩年乱筆のため、声価に影響する傾はあるが、寛政盛期のものを以て見れば実に驚くに値するものがある。」。さすがに晩年の文晁は萬としても忌避の対象とせざるをえなかったが、寛政期の文晁は「寛政文晁」あるいは落款の書体が烏に似ていることから「烏文晁」などとよばれ、幾多の文晃作品のなかでももっとも声価が高い。晩年の乱作を採らず、「寛政文晁」を選んだのは、世上の評価と異ならない。「序」ではまた、「殊に能力の点から考えて大雅以後第一人者とすべきであると思う。」ともいっているが、第一人者かどうは異論の余地もあるとしても、極めて高い技術や練度を誇る画人として、江戸の後期を代表していたことは事実である。

『文晁』末尾の章「著者の文晁観」では、「然し文晁の筆墨縦横にして普遍的な点は大雅、玉堂にも求める事は出来ないだろう。」と語り、個性的超俗的なものより、文晁のもつ普遍性、言葉を換えれば、わかりやすさが、文晁の身上であり、文晁の普遍性こそが大雅・玉堂の超俗性を押しのけて、「邦画」の快復に裨益すると萬は考えたのである。

『文晁』末尾の章「著者の文晁観」では、「然し文晁の筆墨縦横にして普遍的な点は大雅、玉堂にも求める事は出来ないだろう。」と語り、個性的超俗的なものより、文晁のもつ普遍性、言葉を換えれば、わかりやすさが、文晁の身上であり、文晁の普遍性こそが大雅・玉堂の超俗性を押しのけて、「邦画」の快復に裨益すると萬は考えたのである。

『文晁』執筆の目的のひとつとして、「邦画」の快復に裨益する啓蒙的な動機があったことは見逃せない。『文晁』序において、「筆墨の骨力を全く欠きたる現下の邦画を再生せしめるため最もふさわしきは、先ず文晁の如き普遍的にして、且つ最も能力に恵まれた画家を研究するのが順序としての第一歩とすべきである。」と語っているところに、その一端を覗かせている。

ここにいう“邦画”とは現在いう日本画を指しているが、萬をはじめとした洋画家たちが、日本画に対してある種の危機感を抱いていたことは、牧野虎雄が述べる次の言葉からもわかる。「純粋に自分の心から湧き出るものを、本当に自分を佯はらない表現法に托して画くことは、とりも直さず南画を描くことに外ならない。それが日本絵具を用ひるものであれ、油絵具を用ひるものであれ、其の中核の精神を南画と呼んで構はない。……古人の精神を比較的よく現代に生かして仕事をしてゐるのは寧ろ洋画家の方に多いのではあるまいか、……尠なくとも自然に対する誠実さ・謙虚さ-もちろん皮相的な現実主義をいふのではなく-の点で古人の態度に近づく人は、率直に言つて今の所日本画より寧ろ洋画の畑の方に数多いやうに思へるのである。」(7)。続けて「自覚ある洋画家が東洋の古画から多くを学ぼうとしてゐるやうに、現代の日本画家・南画家も油絵画家の仕事とその趨向に注意を払わねば嘘だと思う。」。

7.「吾々の有つべき南画的要素」『南画鑑賞』4巻9号・1935年

牧野がこの一文を発表した1935年というと、春陽会の中堅や独立美術協会を中心に、日本人の感性で描く“日本人の油絵”を希求する運動が活発化しており、児島善三郎の文人画とフォーヴの混淆技法による油絵などが登場していたころであり、この一文もこうした運動を背景にして語られているが、「大正16年の画壇は当然の推移として東洋復帰の問題が相当に賑うであろう。」ではじまる萬の「東洋復帰問題の帰趨」(『美術新論』1927年6月号)を併せて読むと、日本画の疲弊がひとり日本画のみの問題ではなく、洋画の問題としても跳ね返ってくることを洋画家自身が危機意識をもってみていたことを示している。「近頃洋風画を捨てて日本画に帰る人は相応にある様であるが、又洋風画に逆転して来るのが順序であろう。日本画に移ってみて初めて洋風画の組織ある広き感情に相応する事が出来る事を知る様になろう。東洋回顧が唱えられる一方、又油絵が日本人の仕事の上に本当に根を下ろし、世界共通する処の技術として抗する事の出来ない根拠を据えるであろう事は疑いを要しないのである。要するに東洋画の研究は、洋画家を益し此処に相応に独創ある境地に立って仕事に従う人が出来て来るであろうという事が想像されるのである。」と「東洋復帰問題の帰趨」は高い調子で締め括られるが、これなどは、日本画の問題がひとり日本画にとどまらず、洋画にとっても決して対岸の火事として楽観できない問題であるという萬の危機意識を示す証左といえよう。

1922(大正11)年の第4回帝展評を、萬は「死滅を宣せられた日本画」と、いささか大仰なタイトルを冠して書いた。「現今の日本画は、その如何なる傾向にあるものにせよ、それは単に目こ見て美しいということ、目に見て気持ちがよいということの範囲に終始する物でないものはない様である。」と皮相的な美しさのみに堕してしまった日本画の現状を嘆いている。このような皮相的な美しさの追求に走らせた元凶をフェノロサあたりに求めるとともに、「洋画の濃麗なる色彩に眩惑され」た、いわゆる朦朧派の後弊にも言及している。

明治以降の邦画は開明的空気に影響され、漸次時代的に発展したので其の間相当の進歩あった事を認めてよい。画題の自由、形式の解放等それである。……然しその結果東洋画としてもっとも重要な物が忘れられて仕舞った。或る場合には排斥されさえもした。例えば無線描法なるものが一時画壇を風靡して以来、幾分かは近代約分子をとりいれはしたろうが、無気力な暈染と繊弱な秒線とによって危うく構成される様になったのが昨今の邦画である。……今の邦画を甦らせる為に何が一番よい薬かと考える説きに思い出されるのが壮年期の文晁でなければならない。何故かならこの位柔軟性と弱健性を兼ねて持ち、諸流派の複雑な分子を抱合した画家は未だ嘗てない。今の邦画は丁度文晁をふり返っていい時に来ている。…大雅、玉堂の如きはあまりに高踏的であるため、余程練達の士でない限り本当に理解する事が出来ない。あまり超越的であるため今の邦画との連絡がとりにくい。故に先ずこの包容力の広い平坦な普遍的性質の多分な文晁からして研究するのが順序である。(『文晁』「著者の文晁観」)

線が描かれるときの早さの変化や肥痩の度合いは、日本画も含めた東洋画では本来、画者の“心印”を“表現”するものである。萬にとって、あるいは萬の同時代にとって、この本来性を失ってしまった日本画が目の前にあることに気づいたとき、その本来性を恢復するための方法として、文人画とそれを近代に蘇生する理論としての表現主義が必要となったのである。

(三重県立美術館学芸員)

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