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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 1996 > 生きられた混沌-1920年代の日本美術 酒井哲朗 1920年代展図録

生きられた混沌(カオス)-1920年代の日本美術


酒井 哲朗

1 1920年代という時代

大正9年(1920)10月1日に第1回国勢調査が実施された。政府が施政の対象とすべき国民の正確な人口動態を把握しようとしたのである。その結果、国民総人口は5,596万3,053人。この調査の過程で、思わぬ所に集落が発見されたり、一方で、幻の秘境や伝説の集落は神秘のヴェールをはがされ、伝奇的ロマンに代わって民俗学など学問の対象となっていく。明治8年(1875)に明治政府が着手した近代測量による国土全実測図の計画が、五万分の一地図として完成したのが大正13年(1924)。日本全土の地形や地勢が科学的に確定され、そこに住む人々の実態が明かにされていった。

また、大正9年に「時の記念日」が制定されている。天智天皇10年4月29日(太陽暦6月1日)に初めて漏刻を用いて時を知らせたことにちなむが、それは明治5年(1872)に制定された新時制、新暦制が定着したことを意味する。翌大正10年に度量衡法が改正されメートル法が採用された。このように日本人の生活空間や時間観念が、普遍的で均質な近代的な諸制度によって統括されるようになったのである。ちなみに、「時の記念日」を発案したのは生活改善同盟であったが、たとえば雑誌『改造』、「住宅改良会」「住宅改善調査委員会」「生活改善展」など、「改良」「改善」は、この時代の合言葉であった。

「大正文化年表」によれば、大正9年には、大丸デパートの開店、松坂屋大売出しに客が殺到したという事件があり、上野駅に上京青年の人生相談所設置、阪急電鉄神戸-大阪間開通、東京地下鉄会社設立、借家人同盟大会、キリンビール飛行機ビラ広告、ライオン歯磨大阪に大広告塔を建てる、などの記事によって、東京や大阪の都市化が進み、消費文化が拡大していく時代の動向の一端がうかがえる。

大正9年は、大正デモクラシーの行動目標であった普選運動が最高潮に達した年であった。3月15日に株価が大暴落し、各地の銀行で取付け騒ぎがおこったため、政府は財界救済に乗り出した。戦後景気の中で激しいインフレと投機ブームがおこり、その反動で恐慌となったが、財界は首切りと賃金カットによって苦境に対処しようとしたため、労働争議は頻発した。労働争議はすでに大正8年にピークに達し、労働組合が激増したが、大正9年に入ると争議の規模は大きくなり、小作争議は増加した。この年上野公園で行われた初めてのメーデーに1万人が参加したという。このような社会状況に対処するため、同年8月、政府は内務省に社会局を設置した。
 美術界では、この年「革命芸術の運動」を主張した黒燿会展、普門暁、木下秀一郎らによる第1回未来派美術協会展、尾竹竹坡の八火社展などの新興美術運動がはじまり、分離派建築第1回作品展が開かれ、従来の美術の枠組におさまらない新しい動きがおこっている。このように大正9年という時点に限って、生じているさまざまな現象をみても、政治、経済、社会、文化などあらゆる分野で、大きな変化がおこりつつあることが感じられる。

アメリカでは、すでに1910年代にコンベアー・システムを採用してフォードT型モデルによる大量生産方式がはじまり、大衆的な消費社会が到来していた。ロシア革命は、これまで経験しなかった新たな社会システムと新しい生活様式への期待を人々に抱かせていた。日本でも工業化の進展とともに、機械文明は日常生活に浸透しはじめ、新しい社会環境や生活様式への期待と不安が高まっていた。1920年代は、テクノロジー、メディア、芸術、生活環境、それらすべてが世界的な共時性の中で、文化的、社会的に激しく変動した時代である。

1920年代の最大の事件は、何といっても関東大震災である。それは単なる災害などではなく、人々はひとつの時代の終わりと新しい時代のはじまりを予感し、震災と第一次大戦のイメージが重なって、そこに文明の崩壊と再生のシミュレーションをみたのである。

1910年代が新しさを志向したとすれば、1920年代は新しさが次々と現実化し、さらに新しさを求めた。今日われわれに耳なれた価値観の多様性という事態が本格的にはじまったのである。1910年代が個の解放をめざしたのに対し、1920年代は社会の解放をめざしたといえよう。

1920年代は、あらゆる実践が可能性として存在した。今世紀の文明の課題が出揃い、多様な混沌の様相を示している。その中で、1920年代の芸術家たちは、新しい生活の基準や新しい芸術のあり方を求め、総合芸術の夢を紡いだ。結末を知ってしまった今日のわれわれの目には、空しく不毛に見えるとしても、1920年代は夢が信じられた時代であり、彼らの実践は輝きに満ちた「生きられた混沌(カオス)」というべきものであった。

2 世界の中の日本

(1)海外との交流

美術家の外遊は、明治以来珍しいことではない。西洋の文物に学んで近代化が進められた日本では、美術に限らず、広義の文化一般に、西洋の風土や文化に直接触れ、そこで本格的な教育を受けるという留学経験が重視された。高橋由一や岸田劉生、萬鐵五郎、あるいは夭折した青木繁、村山槐多、関根正二らがむしろ例外で、日本の近代美術の主流をなしたのは外遊経験をもつ美術家たちであった。

しかし、1920年代になると、外遊の状況は変わりはじめる。第一次大戦後の経済の活況もあり、多くの美術家が外遊した。滞在先は主としてパリであった。彼らはアカデミー・グランド・ショミエールやアカデミー・モデルヌに通い、美術館や画廊を見学し、画室を借りて制作した。この頃の留学生は、比較的自由に師を選び、自由に研究した。マチスに学んだ中川紀元や硲伊之助、ヴラマンクに学んだ里見勝蔵や佐伯祐三、アンドレ・ロートに学んだ黒田重太郎や川口軌外らさまざまであるが、前田寛治の『パリの豚児たち』(『美之国』昭和2年5月)や里見がのちに『独立美術6』に寄せた回想などは、彼らの自由な絵画研究のもようを伝えている。

彼らが学んだパリは、フォーヴィスムやキュビスムは運動として終息した後、これらが切り開いた地平で多彩な造形表現が展開されつつあったエコール・ド・パリの時代であった。1930年協会の画家たちにみられるように、1910年代に白樺派の感化をうけて、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンら後期印象派に憧れて渡欧した若い画家たちが、フォーヴィスムやキュビスムと出会い、エコール・ド・パリの圏内でそれぞれに各自のスタイルを見いだしていったのである。彼らはサロン・ドートンヌに出品したり、パリで個展を開く画家も現れ、パリにおける交流が結社となり、日本で新しい潮流を形成するというような現象が生じた。

外遊は洋画家だけではなかった。国画創作協会は会員の小野竹喬、土田麦僊、野長瀬晩花らが大正10年から11年にかけて外遊したため、展覧会を3年間中断することになった。後を追うように、入江波光と彼らの理論的指導者であった中井宗太郎、帝展の菊池契月も外遊しており、同じ頃、日本美術院の小林古径と前田青邨がヨーロッパを訪れ、この時彼らは大英博物館で中国六朝の古画顧愷之の《女子箴図》を模写している。洋画と対等の新しい日本画、普遍的絵画としての日本画をめざした日本画家たちの西洋体験は、これらの画家たちのその後の画業に、さらには近代日本画の歴史の上でも重要な意味をもつものであった。

フランスばかりではなく、村山知義のようにドイツに学んだ画家もいる。村山はベルリンでシュトルム画廊のヘルパルト・ヴァルデンと知り合い、永野芳光とともに、表現主義やダダ、構成主義、新即物主義など、大戦後のドイツの社会不安の中で活気づいた過激な芸術運動の渦中に身を投じ、帰国後、意識的構成主義を主張して1920年代の日本美術において大きな役割を果たした。

一方、1920年に「ロシア未来派の父」といわれたダヴィット・ブルリュークが、革命後のロシアを逃れてシベリヤ経由で来日して、日本で個展を開き、結成されたばかりの未来派美術協会と合流し、未来派の実作を示すとともに、木下秀一郎と共著で『未来派とは?答える』という本を出版し、同行したヴィクトル・パリモフは日本の画家たちにコラージュの手法をみせた。翌年には、やはりロシアのワルワーラ・ブブノワが来日して未来派美術協会や三科に加わり、ロシア構成主義の実例を示した。二科会も第8回展にブルリュークやブブノワの作品を展示した。

また、二科会は1920年の第7回展にジェレニウスキー(ポーランド)やシェルバコフ、ニエダシコウスキー(ロシア)らの作品を展示して以来、毎回外国作家の作品を加えてきたが、大正13年には10周年を記念してサロン・ドートンヌと交換展を開き、日本ではマチス、ピカソ、ブラック、デュフィー、ロート、ビッシェールらの作品32点を展観した。また翌年には、アスラン、ロート、ビッシェール、ザッキンらが在外会員あるいは会友となった。このように短期間の間に急速に国際的な同時性という意識が成立し、事実の上でも示されたのがこの時代の特色である。

(2)モダニズムと伝統

1920年に渡欧した若い美術家たちによって、直輸入とでもいうべき新しい表現スタイルが画壇にもたらされた。二科展は新帰朝の画家たちの作品を特別陳列し、会員に加えていった。10周年を迎えて現代フランス美術展を併設して意気上がる二科展を評して、梅原龍三郎は、「それが仏蘭西新画の出店芸術と云う気がします」(『明星』大正13年10月号)と感想を述べている。1920年代洋画の新傾向の一面は、1930年を期し会派をこえて新しい絵画の創造をめざした1930年協会の画家たちに典型的にみられる。在仏の青年画家たちが結集したこの1930年協会展の作品は、フォーヴィスムの影響が顕著であったために、フォーヴィスムの第二次移植ともいわれる。

フォーヴィスムはすでに1910年代に紹介され、明治45年には萬鐵五郎の《裸体美人》のような作品が出現している。フューザン会などではフォーヴィスム的作品が多くみられたが、これらはゴッホ、ゴーギャン、セザンヌら後期印象派の感化を受けた表現主義的傾向の作品であった。1920年代の画家たちが影響を受けたのは、マチス、ドラン、ヴラマンク、ロート、ピカソ、シャガール、レジェら多様な同時代の画家たちであり、絵画自体の内実はどうあれ、世界的な共時性の意識に立ったこれら日本の画家たちは、エコール・ド・パリの外縁に位置していたといえよう。

彼らに共通しているのは、色彩表現の新しさと画面構成である。里見勝蔵は、ヴラマンクにテーブルの上の白布と白い皿、その上に置かれた砂糖など、それぞれの質感をどう表現するかという課題を与えられたと伝え、川口軌外は滞欧期の習作で実際にそれを試みているが、これは対象を描き分けるというより、対象に即しつつ絵具自体の質感、つまり絵具の物質性をどう表現するかという問題である。このため色彩は感情の等価物としてでなく、画面の質感、マチエールという意識が強く出てくる。また、キュビスムによって、遠近法や重力の支配を解かれ、絵画は色彩と形体、線と面によって成立することを学んだ彼らは、画面を自由に構成し、形体を自在にデフォルメする。しかし、それらはたとえば、クールベを敬愛して新しい写実の道を求めた前田寛治、ロートやシヤガールを学んだ川口の構成的な幻想表現、ユトリロやヴラマンクを手がかりにパリの街頭に独自の繊細な詩情を表現した佐伯祐三らと多彩である。また、坂田一男のようにレジェに学び、色彩と形体の自律を求めて造形詩ともいうべき明快な抽象的表現にいたった画家もいる。

梅原は、前述の『明星』の二科展評の中で、「出店芸術」発言に続けて、次のようにいっている。

「もう少し無意識の内に、自然と伝統を異にし、より複雑な教養ある種族としての性情がにじみ出るのがほんとうの吾等の芸術でなければならないと思います」。

日本の自然と伝統に立った「ほんとうの吾等の芸術」いう芸術目標によって結集したのは、大正11年に結成された春陽会であろう。小杉末醒ら院展洋画部の脱退組に梅原と岸田劉生、萬鐵五郎らが合流したものである。劉生は大正初年から反モダニズムの姿勢をみせ、細密描写による触覚的な実在表現を試みていたが、1920年代には、麗子像のような一種神秘感を伴った表現の境位にいたる。劉生の写実の追求は、あるところで写実を欠如させてその欠を写実以上の深い美によってうづめるという、さらに深い独自の「内なる美」の世界を構築する。

梅原自身はルノアールの呪縛を脱して、日本の自然と伝統に根ざしつつ、豊醇な人間感情を表現する固有の形式を創出していた。二科会でも、1910年代に梅原とともに後続の1930年協会の画家たちの指標となった安井曾太郎は、《立女像》(1924)のような、日本人の身体的特徴をよくとらえた裸婦像を描き、小出楢重もヴォリューム豊かな日本的裸婦像を独特の堅牢なマチエールによって表現した《裸女立像》(1925)を制作するなど、それぞれに外来の表現形式を消化して固有の自然と伝統に基づいた、「日本の洋画」を追求している。

様式移植という点では、彫刻も洋画と事情は基本的に変わらない。1910年代に荻原守衛や高村光太郎が、「生の芸術」としてロダンの塊量的な動勢豊かな彫刻概念を移入して以来、1920年代も日本の彫刻界は、大勢としてロダニズムが大きな影響力をもった。藤川勇造は晩年のロダンに師事したが、保田龍門、清水多嘉示、木内克、武井直也らは、アカデミー・グランド・ショミエールでブールデルに彫刻の構築性を学び、山本豊市はギリシャ美術を愛したマイヨールに彫刻の純化を学んだ。日本の彫刻家は、デスピオ、ザッキン、リプシッツ、アーキペンコら同時代の作品に接し、彫刻のモダニズムは多様化しはじめた。陽咸二は、新しい様式を取り入れて、大胆な形体感覚による斬新な造型性を示した。

院展の木彫の橋本平八は、「木に仙あり」という素材に対する独特のアニミスティックな態度に基づいて、徹底した対象研究の上に成立した写実的作品の《猫》(1922)、石の写実に基づいて、石でありながら石を超越する実在のあり方を探求した《石に就て》(1928)などを制作している。このような橋本の彫刻における反モダニズムは、西洋とは異質な、しかし、同等の現代性をもつ彫刻芸術を定立する試みであった。

(3)日本画家たちと西洋

世界的な共時性という意識は、日本画のような伝統的形式を基盤とする領域では、日本画は現代絵画であり得るか、現代的表現と信じられた洋画と拮抗し得るか、という問いとなる。1910年代に国画創作協会の画家たちは厚塗りの色彩を用いて日本画を洋画に近づけたが、1920年代には細密描写によってリアリティーを表現しようとする傾向が現れる。速水御舟は大正8年にグロテスクなまでに人間的真実を追求した細密描写の《京の舞妓》を制作して話題になり、土田麦僊や村上華岳、榊原紫峰らも一時期試みたが、1920年代の後期国展では、杉田勇次郎、吹田草牧、甲斐荘楠音、伊藤柏台、石川晴彦ら後続の新入会員により、「国展の悪写実」といわれるほど細密描写がふえた。中井宗太郎は、このような現象を、日本画の伝統的な様式性や装飾性に対するアンチテーゼとして、近代化の過程でやむを得ぬことと弁護した。その中から、小松均の《八瀬》のようなプリミティヴな表現も生まれた。

しかし、1920年代の日本画の主流は、日本画の洋画化よりも、近代的な造形意識によって伝統を再解釈し、新しい日本画を創造する方向に向かったといえるだろう。たとえば麦僊や竹喬、晩花らは、外遊によって、西洋は1910年代のような「白樺」的な憧憬の対象ではなくなり、異なった文明として存在することを知らされた。彼らの西洋体験は、日本画の近代化は、固有の伝統に拠るほかないことを確認することであった。しかし、それは単なる伝統回帰ではなく、近代的な造形感覚によって伝統を再生することであった。大正13年に再開した第4回国展以後の彼らの作品がそのことを示しており、後続の新会員たちとの間にギャップが生じはじめている。

伝統の近代化という点は、日本美術院が先行していたし、帝展の画家たちについてもいえる。この展覧会に出品されている作品では、安田靫彦《日食》、菊池契月《敦盛》、吉川霊華《羅浮僊女》など、それぞれの方法意識によって、歴史的主題を新しく解釈し、近代化された清新な線描や色彩の世界を創出している。平福百穂は、日本画の将来について、批評家の問いに答えて、「日本画の道は、日本古来の文化の特質に立って、写生の道を専念にすすむの外はない。即ち古を学ぶことと、自然に学ぶことの二つを離れない」(『中央美術』大正10年2月号)と言明する。また百穂は、芸術は科学とちがって、先人の為し終えたところからはじめるのではなく、先人の為しはじめたところから出発しなければならないもので、それが古を学ぶという意味だという。百穂と考え方はちがっても、近代的知性や感性によって、伝統や自然との関係を原点に立ちかえって再構築するという点は、1920年代の画家たちに共通していた。

1910年代に南画を一種の表現主義的芸術とみなす南画の再評価がはじまったが、1920年代には新しい伝統として定着されたかにみえる。美術史家の瀧精一は、カンディンスキーの「内面の音響」と郭若虚のいう「気韻」には共通するところがあり、「文人画の原理が、大体に於て最近西洋の表現芸術の主張と一致するものはある」(「文人画と表現主義」『国華』大正11年11月)という。瀧は、南画という様式概念よりも文人画という知識人芸術の側面を重視して文人画という用語を用いるが、今日文人画に意義があるとすれば、それは「自娯」の精神と詩的精神であるとし、文人画の再生は、原理の問題で形式は自由であるべきだという(『文人画概論』大正11年、改造社)。洋画家の萬鐵五郎も、南画の「人間的リアリズム」という言葉で表わされる、精神性と人格主義、詩的精神に共感するのだ(「玉堂琴士の事及び余談」『純正美術』大正11年7月号)と、同じ頃同じ見解を示している。1920年代は、萬、劉生、小杉放庵、中村不折ら洋画家の南画が多く描かれたのも特色で、放庵などは南画家に転向してしまった。

1920年代という時点において、青邨、古径、靫彦、御舟、あるいは麦僊、竹喬、百穂ら1910年代に頭角を表してきた画家たちについて、それぞれ個人史としてみれば、作風展開の過渡期であることに気づく。1920年代の日本画全体にこのことがあてはまるように思われる。1910年代を覆った特有の情調、豊満な感覚性、官能性が1930年代の主智的な新古典主義に変わっていく過渡的な時代であったように思われる。しかし、その変容をうながした濃密な感情は、時代の感情でもあり、それ自体としてきわめて興味深い。

(4)新興美術

「新興美術」は、当時一般に用いられた用語で、今日前衛芸術と呼ばれる、既存の美術の制度に対立する先鋭な芸術運動である。未来派、表現主義、ダダ、構成主義など第一次大戦後に盛んになったヨーロッパの前衛芸術の影響が1920年代の日本に及び、短期間だが激しい運動を展開した。それは大正9年9月に普門暁らが結成した未来派美術協会にはじまる。普門は二科会の新進画家であったが、二科展の落選を機会に反旗を翻したといわれ、未来派は単に未来の美術というほどの意味で使われ、明確な芸術上の主張があったわけではなかった。しかし、この年多くの作品を携えて来日したブルリュークが、同行のパリモフやチェコ人のヴァーツラフ・フェアラとともに未来派美術協会に加わることによって、新興美術運動は大いに活気づいた。ブルリュークは、国内各地でロシア未来派の実作を示すとともに、日本の美術家と交流した。八火社の日本画家尾竹竹坡もブルリュークらと交歓している。ロシア革命に対する関心もあって、一種の社会現象として、一般ジャーナリズムが熱心に取り上げたのが注目される。

大正10年の第2回未来派美術協会展は、前回出品した医師の木下秀一郎が中心になり、重松岩吉、戸田久輝、浅野孟府、尾形亀之助、渋谷修、柳瀬正夢、大浦周蔵らに、ブルリューク、パリモフ、フェアラが加わり、作品は飛躍的にふえ、内容も充実した。木下はブルリュークを通じて、未来派や前衛芸術の状況を知るに及んで、大正11年の第3回展は、二科よりもさらにすすんだ「三科インデペンデント」とし、表現領域を拡大しようとした。

大正11年に二科会の前衛的傾向の作家たちが「アクション」を結成した。中川紀元、矢部友衛、神原泰、古賀春江、吉邨二郎、横山潤之助、飯田三吾、泉治作、吉田謙吉、難波慶爾、山本行雄、重松岩吉、浅野孟府の13人で、のちに岡本唐貴、中原実が加わった。「アクション」は二科の別動隊のような存在であったが、その後二科会が前衛的傾向の作品に対する鑑別を厳しくしたために対立が生じ、中川、古賀、横山らは「アクション」を脱会した。同年日本画の小団体、高原会、蒼空邦画会、行樹社、赤人社、青樹社が第一作家同盟(D・S・D)を結成し、反画壇の姿勢を表明した。高原会の村雲毅一郎や行樹社の小林源太郎らは社会主義的主張を打ち出し、院展を脱退した高原会の玉村善之助は、この頃表現主義的傾向を強めていた。

1920年代の新興美術運動の中心人物は村山知義である。ベルリンで前衛芸術の洗礼を受けた村山は、大正12年に帰国すると、意識的構成主義による形成芸術を主張して活発な活動をはじめた。未来派美術協会の大浦、尾形、柳瀬らと村山、村山に共鳴する岡田龍夫、高見沢路直、矢橋公麿らが集まって「マヴォ」(MAVO)を結成した。浅草伝法院で開かれた第1回展には、木の板などに紙、布、鉄板、コンクリート、ガラスなど日常的素材によるコラージュやオブジェ的作品など、当時として奇想天外な作品が氾濫した。また「マヴォ」は、既成団体に対する挑発行為や街頭進出などスキャンダラスなパフォーマンスによって先鋭な批評精神を示し、公衆の注目を集めようとした。関東大震災による破壊と混乱を目のあたりにして、「マヴォ」の運動はさらに過激なダダ的様相を強めた。

大正13年に新興美術諸派が合同した三科造形芸術協会が結成された。医師として福井に赴任していた木下の呼びかけで、旧「未来派美術協会」と「アクション」の会員、「首都無選展」の中原実、「マヴォ」の村山、二科会の横井弘三、日本画の玉村善之助、ブブノワらが参加した。翌大正14年5月に会員展を開いたが、コラージュやオブジェなど反芸術的な「形成芸術」のデモンストレーションであった。同じ頃築地小劇場で、「劇場の三科」と名づけた前衛劇が演じられた。「ハプニング」の先駆である。
 三科は9月に東京自治会館で公募展を開いた。出品作品は122点というこの種の展覧会として最大規模のものとなり、構成的作品が多くを占め、ダダ的傾向が強かったという。この展覧会では、「マヴォ」の岡田や高見沢、戸田達雄らの共同制作による「三科展門灯」や「移動切符売場」が異彩を放った。この公募展の結果、新帰朝の仲田定之助が会員になった。だが、三科は、内部対立によって、会期の終了を待たずに解散してしまう。

「劇場の三科」の舞台となった築地小劇場は、1920年代の新興美術運動にとって重要な存在である。大正13年6月にゲーリング『海戦』によって幕開けしたこの劇場は、劇場の構造、演劇のスタイルなどどの点でもこれまでの新劇、新派、歌舞伎などと異なったものであった。絶叫調の恐ろしく早い台詞、直線的な激しい動き、ダイナミックな構成的な舞台装置によって、観客に衝撃を与えた。そこには新しい時代の予感と総合芸術への夢があり、村山や吉田謙吉は舞台装置などを通じて、この革新的な演劇活動に深くかかわっていった。

1920年代の新興美術運動は三科あたりが頂点だった。その後「単位三科」が三科復活を企てたが、三科の結束の弱さに対する反省から、団体として三科である前に個人として三科であるべきだとする「単位三科」は、運動として以前のエネルギーが失われていた。「アクション」系の浅野、岡本、神原、矢部らは「破壊から建設へ」「芸術から造型へ」というスローガンを掲げて、大正14年に「造型」を結成した。当時ロシアにおこっていたマシコフ、ゴンチャロフスキーら明るい民衆の生活を表現するリアリズム絵画の影響を受けたもので、彼らは翌年「新ロシア美術展」を開いて新リアリズムの作品を紹介した。

1920年代の新興美術運動は、その反芸術の姿勢の故に、間もなく急速に政治性と党派性を強めたプロレタリア美術の運動の中に解消してしまう。作品の性格上、ほとんど伝世しなかったために、今日それらの実作を断片的に知るのみで、運動として語られるしかない。彼らのいう「形成芸術」は、芸術集団として分裂と集合を繰り返したように、諸芸術の総合というより、解体と集合の表象であったように思われる。しかし、たとえ夢想に終わったとしても、そこは強烈な実験精神と新しい社会や芸術に対する希求があったことは忘れるべきではないだろう。

新興美術運動の刺激を受けて、震災後、写真の領域でも「構成派」と呼ばれた前衛的傾向が現れた。1910年代に写真のファイン・アートというべき「芸術写真」が登場し、印画に手を加えて絵画的効果を表現するこの日本のピクトリアリズムは、自然と人間の細やかな感情の交流を、ソフトフォーカスの柔らかな光によって表現した。1920年代も、「研展」という全国的な公募展を組織した東京写真研究会の野島康三、「光と其階調」の理論を主張して日本写真会を結成した福原信三らが、抒情的な自然観照を印画の上に定着していたが、浪華写真倶楽部の安井仲治は《分離派の建築と其周囲》のような都市環境に向けた新しい視覚を示した。

日本光画芸術協会を主宰した淵上白陽は、対象を「マッスとライン」に解体して画面上で再構成した、のちに「構成派」と呼ばれる斬新な写真を創出した。機関誌『白陽』大正14年第4巻1号に掲載された《静物》について、白陽は、「マッスとラインとの有機的なはたらきに仍る抽象美を味わいたい欲求から、此の畫を刷りました」と「感想」をのべている。また、白陽は、当時神戸で親交のあった前衛美術家の岡本唐貴に執筆を依頼して「画面構成」という記事を掲載している。

だが、このような白陽らの「構成派」の写真について、金子隆一は、『構成派の時代』(名古屋市美術館、1992年)の中で、「確かに『芸術写真』が持ちえなかった表現領域を拡大しはしたが、その写真意識はほぼ同じ頃胎動し始めた「新興写真」といわれた「近代写真」への橋渡しにはならなかった」といい、「芸術写真」が自然に対して抱いたロマンティシズムにモダニズムの意匠をまとわせたもので、ピクトリアリズムの変容であるとの見解を示している。

3 芸術と社会

1920年代のマシーン・テクノロジーの発達やそれにともなう新しい社会システムヘの模索など、この時期の大きな社会変動は、建築、工芸、グラフィック・アート、ブック・デザインなど実用と結びついた応用美術といわれる分野に大きな影響を与えずにはおかなかった。新しい社会や新しい生活様式への期待が、総合芸術への夢を育み、海外の新思潮に敏感に反応しつつ、活況を呈した。1910年代には「芸術と人生」というかたちで個の解放と結びついて提起された問題は、1920年代には「芸術と社会」という、より強い緊張感をもったかたちで展開された。いわゆる純粋芸術といわれる絵画の領域においても、前田寛治のように、一時期ではあるが社会主義に接近し、きわめて社会性の強い、新しいリアリズム絵画の追求が見られたり、民衆の生活シーンが洋画のモチーフに多出する。さらにまた、山本鼎の農民美術研究所の活動のような、農民の生活と芸術を直結させて生活改善を図ろうとする運動も現れた。

(1)工芸

伝統工芸は、1910年代に職人的な技術から個性に基づく創造的な芸術への脱皮を企てたが、1920年代は、工芸界あげて帝展の工芸部設置をめざした。すなわち、工芸が芸術として、近代的制度の中に参入することを求めたのである。その念願は昭和2年に実現した。
 大正8年に装飾美術協会が結成され、新設の兜屋画堂で第1回展を開いた。メンバーは洋画家で東京美術学校の教官である岡田三郎助と長原孝太郎、西村敏彦、高村豊周、今和次郎、斎藤佳三、広川松五郎、原三郎ら東京美術学校卒業生と藤井達吉、評論家の渡辺素舟だった。工芸に代えてフランス語のアール・デコラティフ(art decoratif)に相当する装飾美術という用語を用いて、新しい工芸への姿勢を示した。この会は翌大正9年に第2回展を開いて終わるが、工芸界に投げかけた波紋は大きく、ここに集まった工芸家たちは、1920年代の伝統工芸革新の中心となった。また、陶芸の楠部彌弌は、芸術としての陶芸を主張して大正8年に「赤土社」を創設し、翌大正9年第1回展を開いた。この個性的創造の新風は、大正11年まで続いた。

大正10年1月から藤井達吉が『主婦之友』に「手芸」に関する記事を連載し、実際に講習会を開いた。同年、羽仁もと子は自由学園で手芸教育を行っており、手芸が学校教育の中で普及しはじめたのは、この時代の芸術の社会化の動きの一面とみなせよう。この年文化学院が創設されたが、創設者の西村伊作は大正11年1月号の『中央美術』に、「新生活と日用品の美」を寄稿し、人間生活に役立つ美術品を主張して、「新しい我々の生活に於ける日用品は何の装飾もなくして而も美しいものがよろこばれると思ひます」とのべ、機能主義的立場を表明した。さまざまなかたちで、芸術と生活の関係が問題になりはじめたのである。同年11月号の『中央美術』には、宮下孝雄が「欧州に於ける工芸図案界の革新的機運」と題して、戦後ヨーロッパの状況を紹介した。

日本の工芸界が激しく動きをはじめるのは、大正14年頃からである。この年にパリ万国装飾美術工芸博覧会は開かれたが、日本の工芸品の評判は散々だった。国際審査委員に加わった金工家の津田信夫は、若い金工家たちに世界の情勢を説き、これに呼応して高村豊周、杉田禾堂、北原千鹿、佐々木象堂、山本安曇らは研究会をつくり、やがて彼らはその問題意識を日本の工芸全体のものとして「无型」を結成し、新しい工芸運動をはじめた。参加者は、高村、杉田、佐々木、西村、北原ら金工家、漆工の太田自適、松田権六、山崎覚太郎、染織の広川松五郎、それに藤井達吉、渡辺素舟ら21名であった。のちに磯矢阿伎良(漆工)も加わっている。翌大正15年「无型」を軸に津田、赤塚自得(漆工)らが東京の工芸家に呼びかけて日本工芸会を結成し、これに伝統重視の香取秀真、板谷波山、六角紫水ら、さらに京都の工芸家も加わって、帝展と同時期に展覧会を開いた。こうして工芸界が総力をあげて結集した結果、翌昭和2年、帝展に第四部として美術工芸部が設置されることになった。

第1回帝展で金工の高村、佐々木、北原、染織の山鹿清華、漆の森川柴山が特選になったが、「无型」同人の金工が目立った。彼らの作品は構成的なもので、芸術性とともに実用的な機能美を追求した。同昭和2年に、北原、信田洋、山脇洋二らが工人社を結成して、工芸の実用性を主張した。これら1920年代の伝統工芸の新様式は、アール・デコやロシア・アヴァンギャルドなどのヨーロッパのデザインを引用して、同時代の新感覚を示すものではあったが、工芸美と結びついた新しい生活様式を提案するものではなかった。

この点で注目されるのは斎藤佳三である。斎藤は総合芸術的作品《想ひを助くる部屋》を帝展に出品して落選したため、審査をめぐる公開状を発表して話題になったが、次の帝展で《食後のお茶の部屋》が入選した。この作品は、「お茶」という伝統的作法を意識しつつ、ユーゲントシュティール的美学によって統一された美的空間を創出したもので、ここには芸術による新しいライフ・スタイルの提言があった。

工芸の刷新は、産業界からも求められた。日本のデザイン教育は、図案教育として行われていたが、工業製品のデザインと断絶していたため、産業工芸育成の運動がおこり、大正10年に東京高等工芸学校が設立された。この学校は、工芸図案、金属工芸、木材工芸、印刷工芸の4科を置き、翌11年開校し、日本の産業工芸の拠点となった。産業工芸の潮流は、大正15年に、ドイツ工作連盟をモデルにした帝国工芸会の創設、昭和3年の商工省による工芸指導所の設置というかたちで展開していく。

東京高等工芸学校の教官として、家具のデザインを担当した木檜恕一(こぐれじょいち)は、インテリア・デザインを通じて生活空間の改善を主張した。木檜は文部省の生活改善同盟の委員でもあり、自宅を「改良」して生活改善のモデルを示し、日本間の洋風化や実験的なユニット家具を紹介した。森谷延雄も東京高等工芸学校の教官であったが、洋家具デザイナーとして「木のめ舎」を主宰し、洋家具による生活様式を普及しようとした。森谷は、家具という応用美術によって、美と生活が一致した美しい詩のような生活空間を創出することを提案した。

木檜も森谷も椅子による生活を理想としたが、この点は斎藤佳三や梶田恵、さらに「型而工房」を創設した建築家の蔵田周忠ら同時代のインテリア・デザインに共通していた。生活空間の洋式化とはとりもなおさず生活様式の変革を意味するが、生活空間の洋式化といっても、表現主義的デザインをのこす斎藤や森谷、さまざまなデザイン言語を引用する梶田らは、生活空間の詩的演出を重視し、木檜や蔵田は機能主義に徹しようとした。

鑑賞本位の伝統工芸や生活の西洋化に対し、柳宗悦は「民芸」を提唱した。大正14年に「民芸」という用語を発案し、翌15年「日本民芸美術館設立趣意書」を公表し、この「民芸」運動に濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉、黒田辰秋らが同調した。柳は、無名の工人たちによる匿名の日用雑器に自然で健康な真の美を見いだしたが、この「民芸美」は、近代の個人主義的な芸術観や美術の制度、西洋的なモダニゼーションの対極に措定されたきわめて倫理的な美意識である。柳はまた、上加茂民芸協団によって工人たちの協同作業を試みたが、ここにも芸術と社会に架橋するユートピア志向がみられる。

(2)建築

大正9年に大学を卒業したばかりの新進建築家堀口捨己、山田守、石本喜久治、滝沢真弓、森田慶一、矢田茂が分離派建築会を結成した。宣言書は「過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために」という。過去建築圏とは、コンドル、辰野金吾以来の折衷的歴史様式と野田俊彦の「建築非芸術論」(『建築雑誌』大正4年10月号)に代表される構造派の工学的技術主義と経済合理主義による構造万能論をさしている。『分離派建築作品集第一』において、掘口や石本は、建築が芸術であることを力説した。集団としての分離派は、大正11年の平和記念東京博覧会第二会場のパビリオンを担当し、塔や機械館などの斬新なデザインによって新しい時代の到来を示した。

分離派以前に岩元禄は京都中央電話局西陣分局のデザインで彫刻やレリーフなどに近代的表現をみせたが、岩本がいた逓信省営繕課に、吉田鉄郎や分離派の山田らが所属し、郵便局や電信電話局の庁舎建築において、斬新な建築理想を表現した。分離派の森田は京都帝国大学助教授となり、表現派的新感覚によって同大学の楽友会館(大正14年)を設計した。堀口、石本、滝沢、これら分離派の建築家たちは、ドイツやオランダの表現派やセセッションのデザインに多くを学んでいるが、決して直接的な模倣ではなく、たとえば堀口の《紫烟荘》(大正15年)は、屋根や壁面にオランダ表現派やデ・スティル、インテリアにはウィーン工房の影響を指摘されながら、内部に茶室を設けて、諸様式を融合した独自の表現に達している。

大正12年に分離派のドラフトマン(製図工)だった山口文象らが創字社をつくった。分離派は日本の表現派と呼ばれるが、彼らは、1920年代末には、一斉にデ・ステイル、バウハウス、ル・コルビュジェらのモダンデザインに向かった。作品としてのこるのは、むしろこの時期のものが多い。

1920年代の時代相をよく示すのは住宅建築の分野である。堀口も住宅建築によって知られるが、京都帝国大学建築科の藤井厚二は、住宅の環境工学を研究し、住宅の改善を考えた。日本の気候風土にあった快適な住宅を追求し、京都郊外の大山崎に1万坪の土地を購入して実験を繰り返した。インテリア・デザインの木檜と同じく、藤井も自邸を実験住宅として、《聴竹居》(昭和2年)を設計した。《聴竹居》は、通気を考えた「一屋一室」のポリシーによって住宅の諸機能が分節され、和風建築がモダンな感覚で再生されている。藤井は、湿度の高い日本の風土に適する椅子式の生活様式を提唱した。

20世紀を代表する建築家のひとりであるフランク・ロイド・ライトが1920年代に自由学園や帝国ホテルなど初期の代表作を設計したが、ライトに学んだ遠藤新は《銀座ホテル》を設計している。

鉄筋コンクリートや鉄骨構造をもつ高層のアメリカ式オフィス・ビルが立ち並びはじめたのは1920年代である。東京駅前に、曾禰・中條建築事務所による《郵船ビル》(大正12年)が建てられ、通称「丸ビル」と呼ばれ人々に親しまれてきた《丸の内ビルヂング》ができたのも同じ年である。アメリカから新しい技術を導入してつくられたこのオフィス街の一画は、明治の赤煉瓦の「一丁ロンドン」に代わって、「一丁ニューヨーク」と呼ばれたが、経済合理性に基づく、余分な装飾をもたない機能的な建築群が出現し、都市景観を形成しはじめた。

百貨店や新聞社など都市大衆文化を表象する建築は、横河民輔事務所による《三越本店》(1927)、石本喜久治の《朝日新聞本社》(1926)、《白木屋》(1928)など、相次いで建設された。大阪でも御堂筋を軸に近代的なビルが立ち並び始めたが、1920年代の代表的なものとして、渡辺節の《大阪ビルヂング》(1925)、安井武雄の《大阪倶楽部》(1924)、《高麗橋野村ビル》(1927)などがある。

大正13年に震災後の住宅対策として、内務省社会局の外郭団体として同潤会が設立された。同潤会は、鉄筋コンクリート造りの集合住宅を建設して、深川猿江裏町のスラム解消を図り、昭和2年に一期工事を完成し、昭和5年まで継続した。同潤会は、さらに、山の手にも展開し、昭和2年に青山アパートメントハウス、代官山アパートメントハウスを完成させた。猿江町の同潤会アパートは、裏長屋の住人を想定して居住面積の単位は狭かったが、衛生設備や福利厚生施設を配慮した合理的設計で、ここには共同住宅形式による新しい生活様式の提案があった。

1920年代の建築シーンに特有なのは「バラック装飾社」である。震災後焼け跡に続々と建ちはじめたバラック建築に、「マヴォ」の芸術家たちがかかわったのである。《マヴォ理髪店》《バー・オララ》《東条書店》《吉行美容院》など、それらの奇抜な設計や装飾は、《東条書店》の装飾を、「野蛮人の装飾をダダでやる」といったように、建築におけるダダイズムであった。今和次郎は、バラック建築に人間が家をつくり暮らすことの始源状態を見いだし、バラック装飾社に加担したが、復興が本格化すると仮設小屋から街頭に視線を移し、「考現学」を提唱して路上の博物学的調査をはじめた。

バラック装飾社の活動について、「表現の悪傾向」(矢田茂「表現の悪傾向について」『建築世界』18巻2号)などの批判があったが、今は、「人間の美と魂を賛美」する建築美に対し、バラック装飾社の活動は、「人生の世相を、生活を、そこで醸さるる人の気分」(「装飾芸術の解明」『建築新潮』5巻20号)を表現した、異なった芸術的立場であることを指摘した。バラック装飾社の運動には、アナーキーな狂躁とユートピアへの夢想が交錯しており、表層に徹することによって、深層を射抜こうとするラディカルな批判性が内在していた。

(3)グラフィック・アート

機械時代のテクノロジーの発達を背景に、1920年代はマスメディアや消費文化が急速に拡大した。消費社会と不可分の商業広告の急成長の中で、印刷メディアの黄金時代が到来し、グラフィック・アートはめざましい発展をとげた。大正15年に、杉浦非水、新井泉、久保吉朗、須山浩、小池巌、原万助、岸秀雄、野村昇らが「七人社」を結成して、翌年『アフィッシュ』を創刊、同じ年、浜田増治、多田北烏、藤沢龍雄、室田久良三が「商業美術家協会」を設立している。三越、大丸、資生堂、森永製菓など企業広告や商品広告を通じて、今竹七郎、山六郎、山名文夫、矢部季、田中良、武田比佐、持田卓二、三好唯一ら多くのデザイナーが輩出した。

モダニズムの浸透は、日常生活の次元では風俗の洋風化として現れ、新しいファッションやライフ・スタイルが流行した。服装、化粧品、装身具など、とりわけ女性風俗にその傾向は顕著であった。商業広告は、こうした人々の欲望を増幅するため、モダンな現代生活のイメージを提示して多様な表現を生んだ。

1920年代のデザインは、HBプロセス(多色写真製版)の技術によって、以前のように画工の手によって製版する必要がなくなり、写真やイラスト、図表、文字などを使って、自由にレイアウトできるようになった。グラフィック・デザインは、絵画的描写よりも、文字通りグラフィックな要素の構成力の問題となったのである。1920年代は、言葉の正当な意味でのグラフィズムというものが成立した時代といえるだろう。1920年代のグラフィック・デザイナーたちは、アール・ヌーボーや表現主義、構成主義、当時世界的に流行したアール・デコなど同時代の海外のデザインの特徴を取り入れながら、商業広告を通じて、消費社会における大衆的イメージを伝播していったのである。

1920年代の最も先鋭なグラフィズムの実践者は、村山知義と柳瀬正夢である。彼らの活動の舞台となった雑誌『MAVO』は、日本のグラフィック・デザイン史上重要な位置を占めるものである。村山や柳瀬だけでなく、「マヴォ」会員の戸田達雄は「ライオン歯磨」のグラフィック・デザイナーだったし、大浦周蔵は丸善書店の社員であり、村山らはロシア・アヴァンギャルドの最新の文献に接することができたといわれている。ロシア・アヴァンギャルドは、新社会の理想実現のため、ポスターや印刷物などの大衆的メディアを重視したが、「マヴォ」のグラフィック・アートに対する関心も水準もともに高かった。

1920年代は無産運動やマルクス主義が高揚したが、日本はマルクス主義関係の文献の受容に関して世界有数であり、こうしたマルクス主義関係の文献とともにロシア・アヴァンギャルドの芸術理論が数多く紹介され、時として情報の最先端に位置することもあったといわれるほどである。村山や柳瀬は、アッサンブラージュやモンタージュ、新しいタイポグラフイーを用いて、斬新なグラフィック・イメージを創造した。若き日、竹久夢二の愛好者であったという柳瀬は、とりわけこの領域における活動は多彩であり、ゲオルゲ・グロスに深く傾倒した。村山や柳瀬らは、ロシア・アヴァンギャルドがボルシェビズムに溶解するのに歩調をあわせ、ダダ的構成主義から社会主義リアリズムに移行していった。

1920年代は、大衆文化の中に「子供文化」が成立した時代でもあった。童話集、絵本、児童雑誌など子供向けの出版物が多出し、岡本帰一、武井武雄、初山滋らは日本童画家協会をつくり、村山や柳瀬はこの分野でも活躍した。彼らは、『コドモノクニ』『子供の友』などに「童画」を描き、『日本童話選集』『未明童話集』『コドモエホンブンコ』などの挿絵や装幀を担当した。いうまでもなく「子供文化」を演出したのは大人であり,「童心」という子供の世界に大人の夢を託した。それぞれの画家が、それぞれの方法で、日常生活の情景やさまざまな時代のさまざまな国の物語を描いたが、この「童心」の王国は、一様にモダンな感覚で彩られている。それらのイメージは、彼らの夢の投影であった。

21世紀を目前に、我々はいま、ハイ・テクノロジーによる情報化社会といわれる、グローバルで均質な社会に生きている。マシーン・テクノロジーの時代に描かれた夢が終わってしまった時、21世紀に向かって、どのような世界や生活様式を構想するのか。1920年代を生きた芸術家たちの軌跡をたどる時、彼らに対する問いは、我々自身に返ってくるように思われる。

(三重県立美術館長)

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