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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 1995 > 絵画と写真:1910年代から20年代へ 毛利伊知郎 1920年代展図録

絵画と写真:1910年代から20年代へ


毛利伊知郎

わが国では、明治時代後半から大正、昭和初期にかけて、記録としての写真にとどまらず、写真における芸術表現をめざした「芸術写真」が、主にアマチュア写真家たちの問に流行した。日本の経済発達、欧米製品を中心とした写真機材の普及、写真家の個性重視といった諸要因がその背景にあったが、いわゆる芸術写真がモデルとしたのは、同じ平面芸術である絵画であった。写真家たちは、絵画のような写真を追求し、1910年代から20年代はピクトリアリズム(絵画主義)の全盛期となった。絵画作品のような深味のある画面の質感を得るために、ゴム印画やブロムオイル印画に代表されるピグメント印画が多用されるようになったのもこの時期のことである。

もっとも、一口にピクトリアリズムといっても、現存する作品や記録を見れば、年代により、また写真団体、写真家、地域によって内容が一様でなかったことは明らかである。そこで、この小論では1910年代から20年代に至るわが国の芸術写真の展開の中で、絵画と写真がどのようにかかわっていたのかをスケッチしてみたい。

わが国のピクトリアリズム系統の写真やその後の芸術写真については、近年開催された展覧会「日高長太郎と愛友写真倶楽部」、「構成派の時代」(1990、92年、名古屋市美術館)と「日本のピクトリアリズム」(1992年、東京都写真美術館)で多くの作品や資料が紹介された。こうした展覧会に出品された作品を通覧すると、1910年代を中心に1923年(大正12)の関東大震災頃までに制作された作品の大部分は、素直な自然観照を主体として、山岳や海岸、農村等に取材した風景写真である。絵画作品との関係ということでは、それらの作品は明治後半から大正期の穏健で自然主義的な水彩画との関連を予想させる画面構成やモチーフを示しているといって大きな誤りはないだろう。

中には、京都出身の写真家黒川翠山が京都とその周辺に取材して制作した一連の作品のように、かなり趣を異にする写真も見出すことができる。それらは1900年代初頭頃の作と考えられるが、そこには幕末から明治期頃の円山四条派の真景図あるいは山水図を連想させる世界が繰り広げられているのである。個々の作品に即して黒川の写真と円山四条派の作品との関係を指摘することは困難であるが、霧や靄におおわれた渓谷、あるいは月夜の琵琶湖の風景は、縦長の画面の他、近景、中景、遠景の相互関係にも掛幅との関連を想起させるところがある。画中に、日本画風の雅号「翠山」の朱文円印が捺されていることを見ても、黒川は京都を中心に流行した円山四条派的な日本画を規範にしていたと考えられる。
 実作品は明らかでないが、円山四条派の絵画作品に倣った写真としては、雑誌『太陽』の懸賞写真に応募していた京都の写真家今尾掬翠(日本画家今尾景年の甥)のことを米谷紅浪が「写壇むかし物語(一)」に紹介している。こうした例は、絵画と写真との関係のきわめて日本的な在り方を示しているだけでなく、同時に日本における「絵画」の一般的なイメージがいかなるものであったかを示唆しているのかもしれない。

1910年代になると、ピクトリアリズム写真に見られる絵画的要素から伝統的な日本画的特徴は影をひそめ、当時流行した水彩の風景画を連想させる穏やかな自然観察を主とした作品が大部分となる。

わが国において水彩画は、明治時代後半の1900年代に大流行し、1901年(明治34)に刊行された大下藤次郎による水彩画の独習書『水彩画之栞』は、1904年(明治37)までに15版重版されて、水彩画ブームのはしりとなった。水彩画は、全国各地のアマチュアの美術愛好青年たちに受け入れられ、大下以外に織田一磨、三宅克己、丸山晩霞らも相次いで水彩画の技法書を著した。大下による水彩専門雑誌『みづゑ』創刊(1905年)、水彩画講習所設立(1906年)、日本水彩画会結成(1913年)など、いずれもこの時期における水彩画隆盛を物語る出来事であった。

ところで、こうした絵画界における水彩画の流行と、特に1910年代における風景写真の流行との間には何らかの関連があるのだろうか。水彩画と芸術写真、この二つに共通する要素ということでは、(1)作者の多くがアマチュアであったこと、(2)日本の自然風景を主題とする作品が多かったこと、(3)写真を手がけた水彩画家が少なくなかったこと等があげられる。

前述したように、大下藤次郎、三宅克己らによって先導された水彩画を受け入れたのは、主に美術や西洋文化に関心を持つ全国各地の市民層であった。一方、プロの営業写真を別にすれば、当時の芸術写真は、やはり西洋文化に好奇心を抱き、経済的な余裕もあわせ持った知識人や趣味人が主な担い手であった。すなわち、当時の水彩画と芸術写真は、ともに西洋文化にあこがれを持つアマチュアという相共通する階層の人々によって行われていたといってもよいだろう。

また、水彩画、写真ともに、1923年(大正12)頃までの作品では、日本の自然風景を主題とする作品が多い。大下藤次郎は、「吾元来自然を愛す、この故に吾は風景の美を撰ぶ」と日記に記し、初めての渡欧から1898年(明治31)に帰国した三宅が信州小諸に居を構えたのは、自然研究を基にした制作を行うのが主たる目的であった。その背景には日清戦争後の時期における日本人の自然観の変化があるというが、三宅以外に丸山晩霞や吉田博らが、信州や飛騨地方各地で風景写生に励んだのも、自然風景に親しみを寄せる当時の自然観を反映した制作態度であった。

こうした水彩画家たちの姿勢は、1910年代の風景写真の作家たちと共通するところがある。たとえば、日高長太郎を中心とする名古屋のアマチュア写真家団体「愛友写真倶楽部」では、中部地方各地での野外撮影会が重要な事業の一つであったが、こうした野外撮影会はアマチュア写真家たちにとって、水彩画家の写生旅行と同様に、制作の場として大きな意義を持っていた。

さらに、水彩画と写真の関連ということでは、水彩画家による写真の啓蒙普及も見逃すことができない。たとえば、三宅克己は1916年(大正5)に『写真のうつし方』を刊行して以来、1934年(昭和9)の『新しい写真のとり方』に至るまで合わせて9種類の写真関係の著書を残したが、他の水彩画家にも写真に関心を抱いていた人は少なくない。

このように、1910年代を中心とする自然風景を主題とした芸術写真の流行は、それに先立つ1900年代における水彩画の隆盛と関連すると思われるところが少なくないのだが、1920年代に入って水彩画自体が変化を見せ始めたのと同時に、自然風景を主体とした芸術写真も大きく変化して行った。その要因として考えられるのは、1910年代後半からわが国に盛んに紹介され始めた表現主義、キュビスム、未来派、構成主義など西洋の新しい造形表現の動向と、関東大震災を契機として起こった日本社会の大きな変化であろう。

萬鉄五郎の「もたれて立つ人」(1917年)や東郷青児の「パラソルさせる女」(1916年)「彼女のすべて」(1917年)などの洋画の先駆的作品に見られるように、1910年代半ば以降新しくわが国に紹介された表現主義、キュビスム、未来派、構成主義など同時代西洋の造形スタイルは、青年作家たちの心を強くとらえた。20年代に入ると、こうした新しい傾向の表現へ傾斜していく作家は数を増して、新興美術運動に見られるように前衛的な造形表現が絵画や彫刻、工芸など多くのジャンルで試みられるようになる。
 そして、芸術写真の規範として大きな役割を果たしていたと考えられる水彩画も、大正期にはいると大きな転機を迎えていた。明治以降、わが国で行われた水彩画は、イギリス流の透明絵具によるものであったが、大正期に入ると個性表現重視の風潮の中で水彩専門画家たちによる穏健で優美な自然主義的絵画表現は、限界に達しつつあった。時代の雰囲気と作者の個性を伝える水彩画は、古賀春江、村山槐多、萬鉄五郎、岸田劉生ら洋画家たちによって描かれるようになり、水彩専門の画家として、不透明水彩による作品を描き、「水彩画の革新者」といわれた中西利雄が本格的に活動を始めるのは1920年代も終り頃であった。このような状況に至って、1920年代には水彩画はもはや写真表現のモデルの役割を果たし得なくなった。

一方、1923年(大正12)に首都圏を襲った関東大震災は、その後の復興過程で全国主要都市における都市計画を生み、日本の都市には耐震・耐火の鉄筋コンクリート建築が建てられるようになった。また、モダニズムを基調とする大衆的な都市文化が普及するなど、関東大震災を契機に日本の社会は都市を中心に大きく変化していった。
 芸術写真の担い手であったアマチュア写真家の多くは、経済的には富裕な階層に属し、もともと写真という西洋伝来の技術に親しんでいた人々であったから、彼らが新しい都市文化に好奇の眼を向けるのは当然のことであった。1920年代半ば以降は、東京や大阪などの都市風景が、風景写真の主役をつとめることになった。都市風景と同時に、新しい感覚を盛り込んだ静物写真や人物写真も数多く制作された。また、自然風景を被写体とした写真であっても、20年代のものでは撮影位置の設定やトリミング等に、10年代のものとは異なる感覚が取り入れられるようになった。

1910年代の風景写真においても、焼付けの際に不必要な部分を消去したり、逆に必要なものを描き加えたりする作業が行われる場合があったが、完成した作品はそうした作者の作為をほとんど感じさせない穏やかな雰囲気をたたえていた。

1920年代に入っても、ソフトフォーカスによる撮影やピグメント印画法によるプリントは前代に引き続き多用されていたが、焼付けに際して印画紙を湾曲させてデフォルメを施すなど、それまでにない新しい技法も盛んに試みられた。こうした新しい技法が用いられてはいるが、依然として絵画的表現が写真の規範であることに変わりはない。

もっとも、20年代の写真と対応する絵画表現を具体的にあげることは困難であるが、中には有馬光城の「無題」(1927年)のように、いかにも未来派風の作品、あるいはキュビスム風の静物や人物写真も見出すこともできる。しかし、そうした例はむしろ少ないようだ。

20年代の写真家たちは、当時の画家たちが表現主義、キュビスム、未来派、構成主義などをはっきり区別せず、これらのすべてを漠然と受け入れていたのと同じような意識で、この新来の造形表現を写真に取り込もうとしていたのかも知れない。

1920年代に始まるこうした写真の新しい傾向は、瀟上白陽主宰の豪華写真雑誌『白陽』に作品を発表していた「構成派」と呼ばれた写真家たちの写真に典型的な作例を見ることができるが、類似の傾向は他のグループの作家たちの作品にも共通して認められ、程度の差はあってもこの20年代の芸術写真に共通するものであった。

ところで、1920年代における新しい動きとして、当時の写真雑誌に掲載された村山知義や仲田定之助、岡本唐貴ら新興美術運動の作家たちによるリシツキー、モホリ・ナギやマン・レイらの紹介記事も無視できないであろう。

20年代において日本の写真家たちがどの程度こうした紹介記事の内容を理解したか明らかにし得ないが、こうした記事が絵画を規範とした写真づくりが行われてきた日本の写真界に何らかの新しい刺激を与えたことは間違いないだろう。

しかし、フォトモンタージュやフォトグラム等の技法を用いた、写真自身が持つ新しい表現の可能性を追求したいわゆる前衛写真が現れるのは、1930年代になってからのことであり、この時期に至って、日本の写真も絵画から独立した独自の展開を始めたということができよう。

(三重県立美術館学芸課長)

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