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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 2000 > 常設展示2000年度第2期(2000.6-10)

常設展示2000年度【第2期展示】2000年6月28日-2000年10月1日

第1室:明治・大正の洋画

作家名/生没年/作品名/制作年/材質/備考

チャールズ・ワーグマン (1832-1891) 風景 不詳 油彩・キャンヴァス 寄託品
五姓田芳柳 (1827-1893) 婦人像 水彩・絹 寄託品
高橋由一 (1828-1894) 光安守道像 不詳 油彩・キャンヴァス 寄託品
川村清雄 (1852-1934) ヴェネツィア風景 c.1913-34 油彩・紙 井村二郎氏寄贈
川村清雄 (1852-1934) 梅と椿の静物 油彩・絹 藤井一雄氏寄贈
五姓田義松 (1855-1915) 狩猟図 1894 油彩・キャンヴァス 寄託品
浅井忠 (1856-1907) 小丹波村 1893 油彩・キャンヴァス
浅井忠 (1856-1907) フランス郊外 油彩・キャンヴァス 寄託品
安藤仲太郎 (1861-1912) 梅花静物 1889 油彩・板
長原孝太郎 (1864-1930) 自画像 1900 油彩・キャンヴァス 長原担氏寄贈
黒田清輝 (1866-1924) 雪景 1919 油彩・板
黒田清輝 (1866-1924) 夏の海 不詳 油彩・板
久米桂一郎 (1866-1934) 秋景下図 1895 油彩・キャンヴァス
藤島武二 (1867-1943) 浜辺 1898 油彩・キャンバス
藤島武二 (1867-1943) セーヌ河畔 1906-07 油彩・キャンヴァス
藤島武二 (1867-1943) 朝鮮風景 1913 油彩・キャンヴァス
岡田三郎助 (1869-1939) 岡部沽Y像 1898 油彩・キャンヴァス
中村不折 (1866-1943) 裸婦立像 c.1903 油彩・キャンヴァス
満谷国l郎 (1874-1936) 裸婦 c.1900 油彩・キャンヴァス
鹿子木孟郎 (1874-1941) 狐のショールをまとえる婦人 1902 油彩・キャンヴァス
鹿子木孟郎 (1874-1941) 京洛落葉 1904 油彩・キャンヴァス
青木繁 (1882-1911) 自画像 1905 油彩・キャンヴァス
萬鐵五郎 (1885-1927) 建物のある風景 1910 油彩・板
萬鐵五郎 (1885-1927) 山 1915 油彩・キャンヴァス
萬鐵五郎 (1885-1927) 枯木の風景 1924 油彩・キャンヴァス
萬鐵五郎 (1885-1927) 庭の花 油彩・キャンヴァス  寄託品
中村彝 (1887-1924) 婦人像 c.1922 油彩・キャンヴァス
中村彝 (1887-1924) 髑髏のある静物 1923 油彩・板
安井曾太郎 (1888-1955) 裸婦 c.1910 油彩・キャンヴァス
安井曾太郎 (1888-1955) 女立像 1924 油彩・キャンヴァス 第三銀行寄贈
岸田劉生 (1891-1929) 麦二三寸 1920 油彩・キャンヴァス
岸田劉生 (1891-1929) 自画像 1917 クレヨン、コンテ・紙
岸田劉生 (1891-1929) 照子素画 1919 水彩、木炭
清水登之 (1887-1945) 風景 1921 油彩・キャンヴァス
清水登之 (1887-1945) チャプスイ店にて 1921 油彩・キャンヴァス
清水登之 (1887-1945) ロシア・ダンス 1926 油彩・キャンヴァス
石井鶴三 (1887-1973) 中原氏像 1916 ブロンズ
中原悌二郎 (1888-1921) 若きカフカス人 1919 ブロンズ
戸張孤雁 (1882-1927) 虚無 1920 ブロンズ
    *
梅原龍三郎(1888-1985) 霧島 1936 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈


 わが国で本格的に西洋画が描かれるようになったのが、明治維新以降であることはほとんど常識に属する事柄といってよい。

 しかし、対象をありのままに描写することができる実用技術としての西洋絵画技法ー特に透視遠近法や陰影法等の利点が日本人に意識されるようになったのは、古く江戸時代中期の18世紀後半にまでさかのぼる。

 秋田蘭画の佐竹曙山・小田野直武、江戸の司馬江漢らがいわゆる第二次洋風画を代表する画家として広く知られるが、その後も江戸や長崎に多くの洋風画家が輩出した他、円山四条派や狩野派、浮世絵師たちも洋風表現を試みた。今期の常設展示第二室に展示される伊勢の画僧月僊にも、西国旅行の途次、伊勢に立ち寄った司馬江漢から洋風画を学ぼうとしたエピソードが伝わっている。江戸時代後半期の人々にとって西洋絵画の技法と表現は誰もがあこがれる最先端技術であった。

 わが国の洋画史は、明治維新によって忽然と幕を開けたわけではなく、オランダから直接に、あるいは中国経由でもたらされた西洋絵画の表現や技法は、明治維新の半世紀以上以前から日本人の心をとらえていたのである。

 第二次洋風画の画家たちが、明治以降の近代洋画に直接与えた影響は必ずしも大きくはなかった。しかし、たとえばわが国近代洋画の祖高橋由一は、司馬江漢から強い影響を受け、第二次洋風画の継承者と自任していたし、彼の作品には江戸時代的なモチーフや視覚、表現が色濃く残っていることが指摘されている。

 幕末から明治初期になると、ワーグマンやフォンタネージら来日した西洋人画家から直接教えを受けたり、ヨーロッパに留学して西洋画法を学ぶ機会を得る画家たちも現れるようになった。高橋由一の他、川村清雄、五姓田義松ら近代洋画草創期の画家たちの作品には、近代的な視覚・表現と前近代的なそれとの混淆から生まれる不可思議な絵画世界を見ることができる。

 近代的=西洋的な表現と対峙する前近代的な要素は、時として日本東洋的な表現の衣をまとって、その後も長く日本の洋画の中に残存していくことになる。この本来西洋的であるべき洋画に立ち現れる日本東洋的な要素ーこれは日本洋画の宿命でもあったのだが、この問題に対してどのようなスタンスをとるかは画家たちにとって避けられない課題であった。

 今回展示される明治大正期に活躍した画家たちの多くは、西洋世界に対する強いあこがれを抱いていたが、時として東洋絵画に立ち戻りながら自己の表現を追究する意識をあわせ持っていた。萬鐵五郎や岸田劉生らにその象徴的なありようを見ることができるが、また小出楢重のようにパリに留学しながらも、パリの画壇に対して批判的な言説を残した画家の存在も忘れることができない。

 今回特別出品される梅原龍三郎円熟期の作《霧島》は、これまでほとんど公開されたことがない作品。梅原が好んだ鹿児島の桜島を霧島山から遠望した風景が描かれているが、ここにはルノワールに直接師事し、滞欧作披露の個展(1913年)で日本の洋画界に大きな旋風を巻き起こした梅原が自らに課した「日本的洋画」の創造という新たな課題に対する一つの回答を明瞭に読み取ることができるだろう。

(毛利伊知郎)


第2室:三重の近世絵画

作家名/生没年/作品名/制作年/材質/備考

池大雅(1723-1776) 山水図 紙本淡彩
池大雅(1723-1776) 二十四橋図 絖本淡彩
韓天寿(1727-1775) 山水図 紙本墨画淡彩 寄託品
曾我蕭白(1730-1781)林和靖図 1760 紙本墨画
曾我蕭白(1730-1781)松鷹図 旧永島家襖絵 1760頃 紙本墨画淡彩
曾我蕭白(1730-1781)牧牛図 旧永島家襖絵 1760頃 紙本墨画
月僊(1740-1809)西王母図 1770 絹本著色 小津家寄贈
青木夙夜(  -1802)琴棋書画図 1795 紙本墨画淡彩
青木夙夜(  -1802)富嶽図 絹本著色
増山雪斎(1754-1819)百合に猫図 絹本著色
歌川広重(1797-1885) 東海道五十三次(丸清版・隷書東海道)


 曾我蕭白(1730-81)が描く人物の多くは、グロテスクで、現在のわたしたちからみると違和感を覚えるようなものも少なくない。たとえそれが、《旧永島家襖絵 竹林七賢図》や《許由巣父図襖》あるいは《林和靖図屏風》などに描かれた中国の隠者たちであっても、である。

 西湖の孤山に隠棲し、300本の梅を植え、2羽の鶴を飼い、それらを愛でて風流三昧の生活をおくったといわれる北宋の詩人・林和靖。理想的な高士として知られる林和靖は穏やかで品位のある表情をしているはずだ、と信じて疑わないわたしたちの予想を蕭白はもののみごとに裏切るのである。

 ところで、江戸文学の研究者である中野三敏氏は、異なる時代の文物について検討する際のことを次のように述べている。「古典をこちら側から見るか、あちら側がわから見るかは、結構大きな問題だと思う。こちら側とはつまり近代の側であり、さらにいえば、今生きている自分が尺度。あちら側とはその古典の生まれた時代をいい、江戸文芸ならば江戸に即した見方ということになる。」中野氏の提言はさらに続く。現代人は前者、つまり自分の側に物事を引き寄せて見る方が容易であると考えがちだがはたしてそうであろうか。つまり、尺度が自分であるから、自分の完成度が低ければ、そのものの見え方もそれなりになってしまう。逆に、自分がその時代に出かけて行けば、楽しくもあり、一廻りも二廻りも大きくなって帰ってくる可能性があるのではないだろうか、と。蕭白が描くエキセントリックな人物たちについても、わたしたちの経験からではなく、江戸時代の文化背景において捉えなおす必要がありそうだ。蕭白と文化的な背景を同じくした当時のひとびとは蕭白作品をどのように見ていたのか。

 石川淳はその著書『江戸人の発想法について』において、「やつし」という操作に、江戸市井文学を貫く俳諧化の方法があると説いている。「見立て」は、日常卑俗な存在を高貴なものに仮託する発想、「やつし」は高貴なものが卑俗の外見をまとうという発想である。

 一般に江戸の市井に繼起した文學の方法をつらぬいてゐるものはこ の俳諧化という操作である。およそ江戸文  學といふ精神上の仕事は後 世のいかなる研究法をも戸惑ひさせるやうな出来ぐあひになつてゐる。

 蕭白も直接的にこの俳諧と関わりがあった。蕭白が地方の俳諧層のひとびと-知的余裕をもった教養層-と交流があったことが、山口泰弘氏によって指摘されている。彼らは充分に蕭白の描き出した滑稽を受け入れ、楽しんでいたのだろう。雅語と俗語が衝突して俳諧が生まれたように、俳諧に親しんだ蕭白も、みずからの作品において、「雅」と「俗」を衝突させ、笑いを生んだ。

 梅と鶴を愛で、世俗とのかかわりをきらったはずの林和靖の表情のなんと退屈そうなことだろう。理想的な隠君子として数多く絵画化されている林和靖であるが、蕭白描くこの林和靖がもっとも俗っぽいといってよい。

 俳諧化が盛んであった当時、蕭白の描く俗化した林和靖は、知的サークルにおいては賞賛され、ひとびとの心を捉えたにちがいない。そして、240年を経た現在のわたしたちも、蕭白作品が生まれた時代の空気を感じながら《林和靖図屏風》を観ることで、蕭白の描く人物たちの表情がなんと身近に感じられることだろう。

(佐藤美貴)


第3室:ゴヤとスペイン美術

作家名/生没年/作品名/制作年/材質/備考

バルトロメー・エステバン・ムリリョ(1617ー1682) アレクサンドリアの聖カタリナ(1645-50)油彩・キャンヴァス
スルバラン派の画家 聖ロクス 17世紀 油彩・キャンヴァス 有川一三氏寄贈
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828) 旅団長アルベルト・フォラステール c.1804 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828) 戦争の惨禍 c.1810-20 銅版画・紙
パブロ・ピカソ (1881-1973) ふたつの裸体 1909 銅版画・紙
パブロ・ピカソ (1881-1973) 女の顔 不詳 陶板画 寄託品
サルバロール・ダリ (1904-1989)パッラーディオのタリア柱廊 1937-38 油彩・キャンヴァス
ジョアン・ミロ(1893-1985) 女と鳥 1968 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
ジョアン・ミロ(1893-1985) アルバム13 1948 石版画・紙
ジョアン・ミロ(1893-1985) 岩壁の軌跡 1967 銅版画・紙
アントニ・タピエス (1923-) ひび割れた黒と白い十字 1976 ミクスドメディア・木
エドゥアルド・チリーダ (1924-) ビカイナⅩⅥ 1988 銅版画・紙
エドゥアルド・チリーダ (1924-) エルツ 1988 銅版画・紙
ホセ・ルイス・アレクサンコ (1942-) ソル・ダイヴァー 1990 油彩他・キャンヴァス
ホセ・マリア・シシリア (1954-) 衝立・小さな花々Ⅳ 1998 油彩、蝋紙・板
ホセ・マリア・シシリア (1954-) 衝立・小さな花々Ⅴ 1998 油彩、蝋紙・板


 一面の花。色彩の海。むせ返る濃密な息づかい。この絵の前に立つものは、炸裂する花火のごとき光の炎に幻惑される。画家の名はホセ・マリア・シシリア。1954年マドリッド生まれ。1980年パリに居を移し、ありふれた道具を画布になぞる作品で注目され始める。5年後ニューヨークに降り立ち、過去の様式をぬぐい去り、大胆に区画された生の色面を背景にぶっきらぼうな輪郭線で一輪の花を閉じこめた。「フルール(花)」と題された連作の幕開けである。大いに歓迎されたこのシリーズであったがそれに留まるを潔しとせず、80年代後半には白が基調の静謐な画面へと移行した。

 ここでシシリアは、もう一度我々の期待の地平を飛び越えてくれる。画布にアクリル絵の具というなじみのマテリアルを捨て、90年代末蜜蝋による画面を構想し始める。それは神話と追憶の古代の技法であった。優等生的に手元の辞書をひもとき太字の見出しを追いかければ、伝説の技法を発明したとされる画家パウシアスの名を見つけるのに時間はかからない。プリニウスが語る数々の逸話の中に輝くのは青年期の巨匠にふさわしいひとつのロマンスである。

 「若い頃はグリケラという名の、同じ町に住む女性と恋に落ちた。この女性は花輪を発明した。それに負けまいと思って、彼女に倣い、きわめて変化に富んだ花を現そうと、焼き付け絵(注:蜜蝋画のこと)の技術を進めた。遂に彼は、その女性その人が、花輪をつけて坐っている絵を描いた。これはもっとも美しい絵のひとつである」(※)

 2000年近く経ても褪ぬ名高き『博物誌』を残したこの古代人には、塑像の発明者としての栄誉を恋人の面影をとどめんとする乙女に授けたり、モデルであるアレキサンダー大王の愛妾に横恋慕した稀代の画家アペレスに寛容な裁きを見せたりと、甘美なエピソードに筆が流れるという欠点は確かに認めなければならない。されど、いま我々の胸を突くのは、その技法の曙において取り結ばれた蜜蝋画と花とのあいだの幸福な結合である。それはシシリアの絵について思いをめぐらさんとするものにとってはあまりに美しくあまりにも危険な誘惑である。

 もう一度テクストにかえって、恋人たちのたわいない戯れに少々意地悪い読みをこなすならば、ここでグリケラは単に美しき若き乙女の名ではなく、自然がその力の一端を駆使して出現させた、数限りない色彩と形態が奏でる美そのものと解読可能できよう。人為の結晶、すなわち芸術作品を生業とするパウシアスが、彼女を模倣し、ついにはその心さえも手に入れるということは、芸術が自然を凌駕した勝利宣言とも受け取れなくもない。画家は自らの愛と自信の証を誇らしげに恋人に差し出したに違いない。

 ここで、シシリアにもご登場願うとしよう。

「私は一人立ちしている絵を描きたい。その裏に思想やメッセージがあったり、何か歴史を語っていたりする絵ではない。こういった類のものは何もない方がよい。絵が一人立ちするのは、グレーがあり、そのグレーのとなりに赤があるといったようなことからなのだ」(※※)

 乳白色の蝋の水面に我々の花々は枯れることなき命を咲かせている。色彩は再現のための代替物としての従順な役目を越え、それ自体でまったき存在を主張し、何の支えも必要ともせずただ輝くのみである。めくるめく光の明滅により図と地の境界は指示体の彼方に交代し、後退と介入を同時に見せる世界が現前する。子細に花びらをたどれば、一枚一枚、絵筆によって位置を定められたのではなく、揺らぐ風紋のごとき痕跡を残していることがわかる。予想外の配合で色は混合しあい、画家のイデアの痕跡という近代的な幻想を洗い流す。ここでふたたび古代の世界に遊び、息を切らした犬の口に吹く泡という不定形の仕上げに苦心し、自暴自棄に投げた海綿により皮肉にも、「自然に」「ほんものそのものが描かれている」ように見せることが可能となったことから、「偶然がその絵に自然の効果を生み出し」たとの誉れ高きプロトゲネスの教えを見ることは、衒学趣味に陥ったとの批判を受けるであろうか。

(生田ゆき)


(※)プリニウス著(中野定雄・中野里美・中野美代 訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版)第3巻、p.1433(XXXV、125-126)
(※※)雑誌『コメルシアル・デ・ラ・ピントゥラ』(マドリッド、1984年10月)に掲載されたマルガ・パスのインタビュー記事

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