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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 1995 > 常設展示1995年度第4期(1996.1-3)

常設展示1995年度【第4期展示】 1996年1月4日(木)~3月31日(日)

第1室:昭和後期の洋画〈2月25日(日)まで展示〉

 戦後50年の節目にあたった昨年、戦後美術を振り返る展覧会が相次いで行れた。なかでも目黒区美術館など4館で開催された 『戦後文化の軌跡』展は、洋画や日本画といった分野からファッションやいけばなに至るまで、視覚文化を現在の視点から検討する大規模な展覧会であった。同展図録の「覚書」を読むと、戦後の視覚文化を回顧する際、戦後文化はふたつの「二重構造」から規定されることを念頭に置いてすすめられたようで、そのひとつは「欧米先進文化への劣等感と、それとは裏腹の伝統的文化への屈折した自負」であった。

 この二重構造はなにも戦後にはじまったことでなく、はるか昔からつづいてきたということは「覚書」にも説明されているが、これは戦前の洋画についても同じことが言える。過去の洋画家たちは、はじめて出会った西洋画法をどん欲に学び、その後もあたらしい西洋美術の動きを摂取しつづけたわけだが、そこには常に借り物としての劣等感がつきまとっていた。そして、その劣等感を克服する願望が、多くの洋画家を文人画的境地へと向かわせた。また、梅原龍三郎や満谷国四郎といった、渡欧して西洋文明にどっぷりと漬かった画家たちも帰国直後ジレンマに陥り、その突破口を過去の日本美術から見いだしている。

 さて、こうした画家たちの「劣等感」と「屈折した自負」が、それまでのどの時代よりも強烈にあらわれたのは、やはり戦中から戦後にかけてのことであろう。かの戦争は、画家たちを美術の分野から社会全体への視点へと否応なしに向けさせた。挙国一致体制で挑んだ戦争で、画家は民族としての「日本」をより一層意識したが、その日本は惨敗し、戦後は占領軍の支配下に置かれた。この過程で欧米各国との力の差をまざまざと見せつけられることになった。

 もしこの二重構造が現在も消滅していないとするならば、明治以来の精神構造を変革する絶好の機会となった戦後まもなくの時期に、戦争体験をふまえた検討が十分でなかったことに原因があるのかもしれない。民主化や婦人参政権の獲得など戦前と比べ戦後の社会体制は大きく変革されたが、それが占領軍の指導によるものであったこと、それにこの戦争がひと握りの人間によって操られたという被害者意識が戦争体験を早く忘れてしまいたいという願望にすり替わってしまった。

 敗戦の年の10月、朝日新聞紙上に画家宮田重雄が「美術家の節操」と題する文章を出し、日本軍のために力を尽くした画家が、戦後になってアメリカ軍のために展覧会を開こうとする節操のなさに非難を浴びせた。それに対し、この展覧会の世話人の一人伊原字三郎は「戦争美術など」(『美術』昭和20年11月号)でひととおり弁明したあと、「多難多事な美術界の前途を思へば、戦争問題など早くすつぱり『ゲームセット』と行きたいものである」と述べている。伊原がもらしたこの心情は戦争体験自体をはやく清算したい一般の気持ちの代弁とも受け取れる。

 戦争直後わずか二三年のうちに、二科会、美術文化協会、独立美術協会、国画会、春陽会などの美術団体が再開したことも、それまで表現の自由が剥奪されていた画家たちの自然な欲求と見てとれる。これらの団体のなかには主張のズレから分裂し、あらたな展開を示した団体もあるが、戦前の画壇を中心にした制度はほぼ継続されるかたちとなった。

 今日、世界的に情報のネットワーク化が進み、美術においても国境意識はなくなってきてはいる。それでもこの「劣等感」が存在し、伝統文化への「自負」が屈折していると考えるならば、過去の戦争前後の状況を何度も検討し直すことが必要になろう。

(田中善明)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
森  芳雄 (1908-   ) 大根など 1942(昭和17) 油彩・キャンバス  
森  芳雄 (1908-   ) 1952(昭和27) 油彩・キャンバス  
松本 竣介 (1912-1948) 建物 c.1945(昭和20) 油彩・板  
北川 民次 (1894-1989) 海への道 1942(昭和17) 油彩・キャンバス  
鳥海 青児 (1902-1972) 彫刻(黒)をつくる 1953(昭和28) 油彩・キャンバス  
金山 康喜 (1926-1959) 静物 1951(昭和26) 油彩・キャンバス  
麻生 三郎 (1913-   ) 母子のいる風景 1954(昭和29) 油彩・キャンバス  
香月 泰男 (1911-1974) 芒原 1968(昭和43) 油彩・キャンバス  
坂本繁二郎 (1882-1969) 1960(昭和35) 油彩・キャンバス  
脇田  和 (1908-   ) 鳥と横臥する裸婦 1955(昭和30) 油彩・キャンバス  
中谷  泰 (1909-1993) 煤煙 1957(昭和30) 油彩・キャンバス  
田中阿喜良 (1918-1982) 父子 1957(昭和32) 油彩・キャンバス  
岡 鹿之助 (1898-1978) 廃墟 1962(昭和37) 油彩・キャンバス  
原  精一 (1908-1986) 黒いタイツの二人 1963(昭和38) 油彩・キャンバス 原理一郎氏寄贈
向井 潤吉 (1901-1983) 遅春 1962(昭和37) 油彩・キャンバス 作者寄贈
朝井閑右衛門 (1901-1983) 仕事場(メキシコ犬のある) 1964(昭和39) 油彩・キャンバス  
柳原 義達 (1910-   ) バルザックのモデルたりし男 1957(昭和32) ブロンズ  
佐藤 忠良 (1912-   ) 賢島の娘 1973(昭和48) ブロンズ  
 
斎藤 義重 (1904-   ) 作品 1963(昭和38) 油彩・合板  
難波田龍起 (1905-   ) 創生A 1961(昭和36) 油彩・キャンバス  
村井 正誠 (1905-   ) うしろ姿 1956(昭和31) 油彩・キャンバス  
鶴岡 政男 (1907-1979) 黒い行列 1952(昭和27) 油彩・キャンバス  
桂 ゆき (1913-1991) 作品 1958(昭和33) 油彩・キャンバス  
杉全  直 (1914-1994) コンポジションA 1961(昭和36) 油彩・キャンバス  
磯部 行久 (1936-   ) WORK 63-28 1963(昭和38) ミクストメディア  
田淵 安一 (1921-   ) 一は全て 全ては一 1965(昭和40) 油彩、水彩、インク・キャンバス  
前田 常作 (1926-   ) 空間の秘儀(出現 その5) 1965(昭和40) 油彩・キャンバス  
菅井  汲 (1919-   ) 森の朝 1967(昭和42) 油彩・キャンバス  
宇佐美圭司 (1940-   ) 銀河鉄道 1964(昭和39) 油彩・キャンバス  
吉原 治良 (1905-1972) 作品(赤丸) 1967(昭和42) 油彩・キャンバス  
元永 定正 (1922-   ) 作品 1966(昭和41) アクリル・キャンバス  
白髪 一雄 (1924-   ) 黄龍 1965(昭和40) 油彩・キャンバス  
松谷 武判 (1937-   ) OBLIQUE-3-86 1986(昭和61) アクリル絵具、鉛筆、ビニール接着剤、キャンバス・和紙  
向井 良吉 (1918-   ) 発掘した言葉 1958(昭和33) ブロンズ 作者寄贈
保田 春彦 (1930-   ) 都市 A・B 1985(昭和60)  
 

第2室:横山操「瀟湘八景」

 松や植物油などを燃やして得られた煤と膠を主原料としてつくられる墨を画材として、中国や朝鮮半島、日本などでは水墨画(墨絵、墨画)という絵画のジャンルが生まれた。

 水墨画は、文字通り墨だけによる絵画表現であるが、墨の種類、墨の溶き方、筆使いなどにより、複雑で微妙なトーンを持つ変化に富んだ多彩な絵画表現が生み出され、東アジアの絵画の中で重要な位置を占めるようになった。

 この水墨表現は、西洋の絵画表現を否応なく視野に入れざるを得なくなった日本近代の画家たちにとっても重要な課題であり、明治から現代に至るまで、多くの作家たちが水墨画に挑戦してきた。当館に所蔵される横山操の「瀟湘八景」は、そうした意味で第二次大戦後における水墨表現の新たな可能性をめざした果敢な試みであったということができる。

 八点で完結する瀟湘八景という画題の選択は、変化に富んだ水墨技法をこの画家に要求し、八景それぞれに中国8世紀以来連綿と続いた歴史の中で生み出された様々な水墨技法が、新たな生命を吹き込まれて登場している。

 横山操は、日本画は日本画として独立すべきで、水墨画は日本画の帰結点であると考えていたようだが、苛酷なシベリア抑留から帰国した後作画活動を開始したこの画家は、製鉄工場やダムなど戦後日本社会の復興を象徴するモニュメントを好んで画題に取り上げ、またアンフォルメルやサロン・ド・メなど当時新しく我国に紹介された西洋の絵画表現にも接していた。

 そうした現代と向き合った作画を行ってきた横山の「瀟湘八景」には、たらしこみや没骨画法、濃墨・淡墨の使い分けといった古典的な水墨技法も駆使されているが、一方で横山は墨を溶く膠の濃淡を大胆に使い分けたり、さらに筆や刷毛以外にペインティングナイフを併用し、さらに偶然性を活かすなど、新しい技法や画法がこの作品には盛り込まれている。このように古典を学びながらも、新しい意識で墨を扱うことによって、彼は水墨による瀟湘八景に現代人の内面的な心象を投影することに成功したといえるだろう。

 一方、木版画家として出発した斎藤清は、1963年(昭和38)に初めて墨画を描いて発表し、1970年代以降、墨画は木版画とともにこの作家の中で重要な位置を占めるようになった。

 斎藤が1970年頃に韓国やパリに取材して制作した作品は、部分的に彩色をまじえ、濃い墨を木版画用の厚手の和紙にこすり込むようにして描かれている。そこには、木炭やコンテなどによるデッサンのように、画家の手の動きをはっきりと見ることができる。

 1980年代に入ると、斎藤は故郷会津地方の冬景色を好んで描くようになったが、それらの作品は比較的薄く溶かれた水墨の濃淡の差を活かした、詩情豊かで抒情的な風景画に仕上げられている。

 斎藤清は、伝統的な水墨画を全く意識していないという。裸婦デッサンを描くのと同じような意識で墨絵を描くようになったと彼自身は述べている。私たち日本人には墨への親近感が無意識のうちにあるけれども、東洋的な伝統から距離を置いたところでも、墨という画材が新しい表現の可能性を持っていることを斎藤清の墨画は改めて示しているということができよう。

(毛利伊知郎)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
横山   操 (1920-1973) 瀟湘八景
 平沙落雁
 遠浦帰帆
 山市晴嵐
 江天暮雪
 洞庭秋月
 瀟湘夜雨
 烟寺晩鐘
 漁村夕照
1963(昭和38) 紙本墨画  
横山   操 (1920-1973) 富士雷鳴 1961(昭和36) 紙本着色 横山基子氏寄贈
工藤  甲人 (1915-   ) 曠野の鴉 1962(昭和37) 紙本着色  
斎藤   清 (1907-   ) 会津の冬(2) 1972(昭和47) 紙本墨画 作者寄贈
斎藤   清 (1907-   ) 会津の家 1972(昭和47) 紙本墨画 作者寄贈
 

第3室:ヨンキントの版画と印象主義

 印象派の風景画には北と南の血が流れている。北と南とは美術史でいうところのオランダ、フランドル地方とイタリアを意味し、客観的に見つめる写実描写の絵画と劇的な物語性によって感動を誘う絵画のことである。風景にも何らかの英雄性を与えるような南の血はミレーやコローらバルビゾン派によって印象派の画家たちに持ち込まれた。そして、カメラ眼のような北の血はヨンキントとブーダンが流し込んだのである。

 ヨハン=バルトルド・ヨンキントとウジェーヌ・ブーダン。それぞれ「海を描く第一人者」、「空を描くセラフィム(熾天使)」として、当時は大変な敬意を払われていた。しかし、今や二人の名は印象派の画家たちに圧倒されている。年齢的には彼らの一世代前にあたる二人だが、後輩の画家たちとは世代を越えて親交を結んでいた。そして、その親交こそが物語性を越えた瞬間の描写のエスプリを次世代に伝えたのである。そのために選ばれた場所はノルマンディーであった。

 1819年にオランダのラトロプ村に生まれたヨンキントが画家を志したのは、20歳前だった。1846年にフランスの画家ウジェーヌ・イザベイの勧めでパリに出て本格的に絵の勉強を始め、公式の発表場所であるサロンに入選するなど画家として順調に歩を進めていた。ヨンキントの最初のノルマンディー詣では、イザベイに同行した1847年に遡る。しかし、作品の霊感源として本格的にかの地を意識し始めたのは、おそらく1862年に再訪した時からであろう。奇しくもこのときオンフルールでブーダンとモネに出会っている。これが美術史にとって決定的な出会いになるとは。二人に対するモネの言葉がすべてを語っている。「私が画家になったのはブーダンのおかげだ」。「ヨンキントから観察する眼を学んだのだ」。1860年代後半のモネの絵画は、ブーダンとヨンキントからの影響が顕著である。モネ絵画の基本はこのようにして育ったのだった。

 二人の芸術はバルビゾン派以上に印象派と近かった。イタリア譲りの物語性が欠如している風景描写は、むしろ17世紀オランダの海景画の流れに属す。そして、光を追い、天候の変化を意識し、瞬間の有様を小さなタッチで描き留めたのである。彼らの新しい姿勢は、すぐさま先見者の琴線に触れた。1850年代末にはボードレールが、二人の作品の特質が「印象」にあることを見抜き、63年の「落選者」展でもカスタニャリが同じ指摘をしている。「印象」の絵画という言葉は、1874年の印象派展の際に、批評家ルロワによって名付けられるより10年も早くに語られていたのである。

 ところで、ノルマンディーとはどのような場所だったのか。パリを流れるセーヌ川が英仏海峡に流れ込む地であり、オンフルール、ル・アーヴル、エトルタなどには1860年代頃から次々と画家が訪れていた。マネやクールベに始まり、印象派の主だった画家たちはほぼ全員この地を訪れて作品を制作している。実は、この現象は単に芸術的な問題からだけではなかった。産業の発達によって交通期間が飛躍的に発展し、パリから離れた場所へのレジャーが可能になったのである。経済成長によって力をつけたブルジョワ(中産階級)たちが、そうした鉄道旅行、海水浴を最も楽しんだ階層だった。そして、いわゆる知的ブルジョワである画家たちもまた例外ではなかったのである。世紀の変わり目に南仏が第2ノルマンディーとして、若い画家に注目されるまで、この地にインスピレーションを受けて制作しようというノルマンディー詣では、あらゆる画家に経験されたのだった。

(桑名麻理)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
J.Bヨンキント (1819-1891) オランダ風景銅版画集 1862 エッチング・紙  
J.Bヨンキント (1819-1891) オンフルールの木の桟橋 1865 エッチング・紙  
ロドルフ・ブレスダン (1822-1885) 善きサマリア人 1861 リトグラフ・紙  
ロドルフ・ブレスダン (1822-1885) 鹿のいる聖母子 1885 リトグラフ・紙  
シャルル・メリヨン (1821-1868) プチ・ポン 1850 エッチング・ドライポイント・紙  
シャルル・メリヨン (1821-1868) ノートルダムの給水塔 1852 エッチング・ドライポイント・紙  
カミーユ・ピサロ (1830-1903) 農夫モロン親爺 1879 エッチング・紙  
カミーユ・ピサロ (1830-1903) 鋤で耕す農婦 1890 エッチング・紙  
ジェームス・ティソ (1836-1902) 1878 エッチング・ドライポイント・紙  
エドガー・ドガ (1834-1917) 裸婦半身像 c.1891 コンテ、赤チョーク・紙 (財)岡田文化財団寄贈
クロード・モネ (1840-1926) ラ・ロシュブロンドの村 1889 油彩・キャンバス (財)岡田文化財団寄贈
オーギュスト・ルノワール (1841-1919) 青い服を着た若い女 c.1876 油彩・キャンバス (財)岡田文化財団寄贈
トゥールーズ=ロートレック (1864-1901) ムーラン=ルージュのイギリス人 1892 リトグラフ・紙  
ヤン・トーロップ (1858-1928) 種蒔く人 1895 リトグラフ・紙  
パブロ・ピカソ (1881-1973) ロマの女 1900 パステル、油彩・紙 三重県企業庁寄託
マルク・シャガール (1887-1985) 1908 鉛筆・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 扇を持つ女 1908-25 鉛筆・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 男と女 1908-25 インク・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 働く男 1908-25 鉛筆・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 荷車を引くロバ 1914 鉛筆・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 水浴 1925-26 インク・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 水夫と女 1925 インク・紙  
マルク・シャガール (1887-1985) 1956-62 油彩・キャンバス (財)岡田文化財団寄贈
マルク・シャガール (1887-1985) 版画集 サーカス 1967 リトグラフ・紙 (財)岡田文化財団寄贈
ジョルジュ・ルオー (1871-1985) 受難(パッション) 1939 木版・紙  
ジョルジュ・ルオー (1871-1985) キリスト磔刑 c.1939 油彩、紙・キャンバス (財)岡田文化財団寄贈
オーギュスト・ロダン (1840-1917) 化粧する女 不詳 ブロンズ 寄託品
アリスティード・マイヨール (1861-1944) 歩むマリー 不詳 ブロンズ 寄託品
バルトロメ・エステバン・
ムリリョ
(1617-1682) アレクサンドリアの聖カタリナ c.1645-50 油彩・キャンバス  
スルバラン派の画家 (1617-1682) 聖ロクス 17世紀 油彩・キャンバス 有川一三氏寄贈
 

ギャラリー、ロビー

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
オシップ・ザッキン (1890-1967) ヴィーナスの誕生 1930 ブロンズ 岡三証券寄贈
イサム・ノグチ (1904-1988) スレート 1945 ブロンズ  
脇田  和 (1908-   ) きもの Ⅰ 1983 リトグラフ・紙  
脇田  和 (1908-   ) きもの Ⅱ 1983 リトグラフ・紙  
渡辺 豊重 (1931-   ) デュエット 1988 アクリル・キャンバス  
佐藤 忠良 (1912-   ) 円い椅子 1973 ブロンズ  
清水九兵衞 (1922-   ) FIGURE-B 1986 アルミニウム  
飯田 善國 (1923-   ) Xのコンストラクション 1987 木、着色麻ロープ  
多田 美波 (1924-   ) 1982 テラコッタ、ステンレススティール  
江口 週 (1932-   ) 漂流と原形 1981  
湯原 和夫 (1930-   ) 意味の自由区 No.2-1988 1988 コールテン鋼・鉄・亜鉛メッキ  
江口 週 (1932-   ) ふたたび翔べるか 柱上の鳥 1963  
 

屋外彫刻

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
ジャコモ・マンズー (1908-1991) ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 1973 ブロンズ 百五銀行寄贈
多田  美波 (1924-   ) 作品91 1991 ステンレススティール  
湯原  和夫 (1930-   ) 無題 1982 鉄・ステンレススティール 井村屋製菓寄贈
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 82 1982 鉄・ステンレススティール  
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 85-6 1985  
番浦  有爾 (1935-   ) 1990 ブロンズ  
田畑  進 (1944-   ) NOKOSARETA―KATACHI 1982 ステンレススティール・黒御影石  
八ツ木 のぶ (1946-   ) 象と人(異邦の夢) 1988 ステンレススティール・ウレタン塗装  
梶 滋 (1951-   ) 円柱とその周辺 1986 アルミニウム  
石原  秀雄 (1951-   ) 暗室の王 1994 白御影石  
松本  薫 (1952-   ) Cycle-90° 1992 ステンレススティール  
 

常設展示室から」 毛利伊知郎 友の会だよりno.41, 1996.3.25

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