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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.71-74) > 新井謹也の文字文様陶芸

新井謹也の文字文様陶芸

白石和己

三重県鳥羽出身の新井謹也は、京都で画家、陶芸家として活躍した。大正末から昭和初期にかけては、先進的な陶芸家として高い評価を受け、京都陶芸界では、重要な立場だった。彼は染付磁器による、実用的な器を中心とした制作を進めた作家だった。それら染付で表した文様は、写生を基としてデザイン化された草花や文字などがほとんどだった。この中で、文字文様は新井陶芸の中では量的に大きな位置を占め、彼の作陶を特色づける一つといえよう。染付で書いた、独特の雅味のある文字は、趣味的には味わい深いものであるが、しかし、当時の立場や評価を考えると、こうした作品は新井陶芸をわかりにくくさせている一因となっている。それは文字文様の意味づけの問題と、文人趣味の気分が次第に濃厚になってくることによるものだ。こうした作品群を眼のあたりにすると、当時の評価とのギャップが大きく感じられ、どう解釈すればよいのかとまどいを覚える。

 

新井の文字文様について、外狩素心庵が次のように語ったという。「大したうまい文字だとは思はれないが、屈託なしにサラサラと描けている処に一種の味ひがあるし、今迄の単純な洋画くづしの草花文のものよりもずつと調子が高くていい。実用に供してもその図案の効果が一倍であらう」(昭和9年12月、東京・資生堂での個展を見て)。ここでは文字文様についてそれほど深い意見を述べているのではないが、本質の一端に触れているようだ。昭和9年といえば、新井の陶芸作家としての最盛期といえる時期である。その頃から、彼は文人的気分を強く示した作品を制作していたのかもしれない。しかし、新井の文字文様はそれだけのものなのだろうか。

 

ここで、新井謹也の文字文様について見てみると、文様としての文字と詩の表現の二通りがあることに気づく。まず、文様としての文字であるが、陶磁器の装飾に文字を積極的に用いた陶芸家には、富本憲吉などがいる。新井は富本と交流があり、親しい間柄であったことが、いくつかの資料から窺えるし、「時代的工芸」を制作し、「日本の特色あるもの」、「創作的」な工芸を押し進めていたとして富本を高く評価していた(台湾日日新報、昭和8年5月14日)。そのこともあって、富本が新井の制作に何らかの影響を与えたことは十分考えられる。鳥や草花の文様などには富本の作品に似たものも散見されるのである。文字文様についても富本の作品から、示唆を得ていたことがあったのかも知れない。富本の文字は装飾的デザインとして文様化されているが、新井の作品にもまた、同じような処理をされている作品が少なからず見られる。しかし、新井の文字文様は全く富本の影響だと理解すれば簡単だが、あれほどの執着には何か他にも、理由が有りはしないだろうか。その一つとして考えられるのが、西洋に対する東洋ではなかったろうか。大正時代、新井がまだ画家として活躍していた頃、仲間たちが次々とヨーロッパに出かけ、新しい画風を持ち帰ってきたとき、彼はヨーロッパに留学しなかった。次々と新しい芸術思想が持ち込まれ、その影響の下に次々と変化してゆく当時の画壇の趨勢に対し、ある種の疑問を感じたのではないだろうか。ほんとうに変わらないものは何だろうかと。そして、実生活の中で役に立つ工芸(陶芸)に思いが至り、実用的なさまざまな器を制作するようになったのではないかと思われる。

 

そして身の回りにある草花から文様を生み出すと同時に、自分たちの最も身近な文字を文様として利用することを考えたのではないだろうか。漢字は中国、朝鮮、日本と東洋を象徴するものである。後に、李朝に深く魅せられるようになってゆくが、彼にとって中国や朝鮮の陶磁器に拘泥することは、自分の拠って立つ所を確認することでもあったのではなかったかと思われる。そのためだろうか、昭和初期、いわゆる无型調といわれる、アール・デコ様式の作品が工芸界に氾濫していた中にあって、実在工芸美術会などに所属し、自分が新しい傾向の陶芸家と評価されていたにもかかわらず、そうした傾向をうかがわせる作品はわずかしか制作していない。新井にとっての文字文様とは、アール・デコと同様に、まさに自己を表現する近代的なデザインではなかっただろうか。

 

しかし、後年の詩文を染付で書いた花瓶や壺などの作品を見ると、文人趣味的な感覚が強くなっているのが感じられる。このあたりの曖昧さが、新井謹也の立場をより一層不明瞭にしている大きな要因だろう。文人的な性格は、彼自身初めから持っていたのかもしれないが、ある時期、共感もし、同じようなスタイルの作品を制作していた富本憲吉や、あるいは一時期、共に団体を組織していた楠部彌弌ら、京都の陶芸家たちと、どうしてこんなにも離れていってしまったのだろうか。

 

工芸の近代化は、富本や藤井達吉らの、従来の技術至上主義といえる保守的な制作態度を打破する動きから始まった。それはきわめて個人的な意識、努力というレベルからはじまって、周囲の近代的創作への意欲に燃えた人々を巻き込みながら、集団による運動へと展開していったのである。新しい工芸を創作する運動の中で互いに刺激しあい、さらに新しい創造へと発展展開していったのだといえよう。しかし、その中で新井の場合、華曼艸社、耀々会、実在工芸美術会といったさまざまなグループに所属しているが、個としての関心がより高かったのではないだろうか。だから会場で多くの人々に鑑賞される作品よりも、個人が手にとって親しく使ったり、身辺において置いたりするものに、より大きな関心をもっていた。そのためには手頃な大きさや、あまり派手ではない装飾、味わいのある李朝のような作品に思いが強かったのだろう。つまり当時の主流になりつつあった鑑賞陶芸としての方向から、実用的な陶芸を自身の制作の基盤と考えたのだろう。帝展に連続入選を果たし、これから本格的に陶芸作家として立場を築いてゆこうという時期に出品しなくなったのは、そうした理由もあっただろうし、文人趣味的な作品に偏っていったのも、一個人としての意識が彼の中心を占めていれば、止むを得ないことだったのかも知れない。彼の文字文様もそうした流れの中で考えられることだし、文様から詩の表現という変化についても、理解しなければならないのではないだろうか。

 

(しらいしまさみ・館長)

 

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制作年不詳

 

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