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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.71-74) > 《都会女性職譜》について

研究ノート

《都会女性職譜》について

佐藤美貴

 当館には、中村岳陵が描いた《都会女性職譜》という作品が所蔵されている*1。その明るい色彩や装飾性などから、当館でも非常に人気の高い近代日本画のひとつであり、また、他館で開催される展覧会において展示される機会も多い作品である。それは、作が岳陵の代表作のひとつであることに加えて、昭和初期の風俗を描き出しているという点で人々の目を楽しませるからだろう*2。にもかかわらず、これまで各図について検討される機会は少なかったように思う。ここでは、伝統的な「職人絵」と比較し、《都会女性職譜》の「職人絵」としての性格を検討したい。さらに、各図再調査の第一段として、今回は「エレベーターガール」について報告しておきたい。

 

 現在は7図から成るシリーズだが、当初はもっと多くの職種をとりあげる予定であったらしい。しかし、各図の制作に予想以上の時間を要し、7図にとどまったと岳陵自身が述べている*3。なるほど、綿密に練られた画面構成や配色は、タイトルに相応しい都会的センスを感じさせ、制作に時間を要したであろうこともうなずける。はじめに、各図について簡単にまとめておくことにしよう。

*1 〈チンドンヤ〉〈エレベーターガール〉〈レビューガール〉〈女店員〉〈女給〉〈看護婦〉 〈奇術師〉の7点から成るこのシリーズは、各タイトルが示す通り、働く女性を主題とした、第二十回院展の出品作である。

 

*2 河北倫明氏は、「今日、昭和史を語るほとんどの史書が、このシリーズを挿図としてかかげているところをみると、当時の風俗をこれほど適切に描いた作例が容易に他に求められないのであろう。」(『河北倫明美術全集』第二巻1978年 p.475-479)と述べている。

 

*3 「初めの計劃は二十図位の予定のところ思ひの外写生に手間取れた為め所期の半分も措くことが出来なかつたことは自分としては残念でした。(『美術新論』8巻10号昭8・10)」(『日本美術院百年史』日本美術院百年史編纂室1997年p.663)。「現代の女性の職業を描かうと兼てから発想して初めの予想は凡そ二十種位数えていて、いざ着手すると一向に 写生が進捗しないのと時日の掛るのに予想と進行とは逆比例して展覧会期日迄に「チンドンや」「エレベーターガール」「看護婦」「女店員」「奇術師」「レビューガール」「女給」の七種しか進展しないので、拠所なくこの儘第二十回院展に出品した」(『中村岳陵画集』便利堂1968年p.3)。

〈エレベーターガール〉*4(fig.1) エレベーターの内と外にそれぞれ一人ずつエレベーターガールが描かれており、現在とかわるところないデパートの一場面のようにみえるが、「押すな入口 越すな定員」の貼り紙のあるエレベーターには、洋装と和装の男性がひとりずつ描かれており時代を感じさせる。少し離れた階段の上からエレベーターのある位置をみているのか、俯瞰的に捉えられている。本図については、場所が特定できる可能性があるが、その点については後述することとする。

 

〈チンドンヤ〉*5(fig.2) 窓から3人のチンドンヤのメンバーを見おろす構成になっているが、はっきりと全身が確認できるのは、一人の女性のみである。「眼検」の看板に描かれた大きな目が存在感を示す。街頭にみえる左方向を指さす手や、画面左へ走り去る犬は、左への方向性を強調しているようにも思える。画面に描かれているモチーフもそれらの構成も最も複雑な一図である*6

fig.1 エレベーターガール

 

*4 右上に「エレベーターガール」右下「昭和八年八月作 「岳陵」」

 

fig.2 チンドンヤ

 

*5 画面右上に「チンドンヤ」右下「昭和八年八月作 「岳陵」」

 

*6 石崎勝基氏は、「これらのなぞめいた仕掛けは、しかし心の迷宮を暗示するのではなく、軽快な機知によるものと解され、作品を当時のモダニズムの好例としている」と指摘。(中日新聞三重版「美術館だより」1987年7月4日)。

〈看護婦〉*7(fig.3) レントゲン台に手をかけてたつ看護婦が主役である。グレーのカバーがかけられたベッドやレントゲン台の配置に加えて、斜めからの視線が暗い病室の奥行きを強調している。清潔さを求められる職業に相応しく、女性が髪をすっきりと束ね、他の6図と比較して非常に薄い化粧である点も特徴的である。

 

〈女店員〉*8(fig.4) デパートの催事場を思わせる売り場の店員を描く。店内には、衣類や装身具、「IMPERIAL UNIV.」「WASEDA」「RIKKIO」「SHODAI」など大学名のペナントも飾られる。商品はもちろん、空調機の吹き出し口の表現などから、季節感溢れる一図となっている。また、売り場ということもあり、画面の充填性も高い。

 

〈奇術師〉*9(fig.5) 舞台上の奇術師と、ピストルの音とともに空中に舞い上がったと思われる花束やトランプ、鳩などが描かれる。ピストルからは白い煙があがっており、引き金がひかれた直後の華やかな場面が描かれたことがわかる。黒い背景が、ピストルの煙やトランプ、鳩、背後の幕、そして何より女性奇術師を目立たせる。この奇術師は、華麗な舞台で人気を博した松旭斎天勝か*10

fig.3 看護婦

 

*7 右上に「看護婦」右下「昭和八年九月作「岳陵」

 

fig.4 女店員

 

*8 左上に「女店員 昭和八年八月作「岳陵」」

 

fig.5奇術師

 

*9 左上に「奇術師」左下「昭和八年九月作「岳陵」」

 

*10 天勝に関する資料は多くないが、11歳(明治28年)で松旭斎天一に弟子入り、日本人離れしたスタイルを活かして、素足を出す華やかな洋装で観客を魅了し、アメリカでの興業を経験したのちは、さらに洗練した舞台を披露したという。仮に、岳陵の描く奇術師が天勝であるならば、本作の制作年である1933年には49歳だが、天勝は昭和12年、52歳まで現役であったらしい。

〈レビューガール〉*11(fig.6) 女性のドレスは二種類描かれ、これを交互に配することでリズム感を生みだしている。さらに、意識的に高低をつけたスカートのフリルや、扇、スカート、背後の幕の扇形を繰り返すことによって、そのリズムが増幅される。一方で、本作中最も多くの女性が描かれていながらも、表情は皆一様で、女性達の背後にうすくあらわされた影とあいまって、一種独特な暗さのある画面となっている*12

 

〈女給〉*13(fig.7) 画面の大部分を占める衝立には、妖しげに寄り添う男女の影を、画面左端にはその様子に興味を示す女給を描く。全体的に色数はおさえられているが、女性の持つ銀色のトレイ上の黄色いカクテルやテーブルにおかれた赤いカクテル、そして画面上方から男女の影に向かって伸びる植物の緑によって画面には緊張感が与えられている。なお、本図は風紀を乱すとして展示の撤回を求められた。

 

 この7点以外に、岳陵がどのような職種をとりあげる予定だったのか興味深いが、残念ながらその点については、岳陵は言及していない。いずれにしても、上述の職業が女性の花形職業だったことはまちがいないだろう。

fig.6 レビューガール

 

*11 左上に「レビューガール」左下「昭和八年八月作 「岳陵」」

 

*12 玉蟲玲子氏は『中村岳陵展』図録(静岡県立美術館他1990年)の作品解説中に、「それぞれの画面に、当時の不安を秘めた世相を想起させる劇的空間をつくり出している」と述べているが、本図はもっともその特徴が顕著である。

 

fig.7 女給

 

*13 左上に「女給」画面左下「昭和八年八月作「岳陵」」

伝統的「職人尽絵」との比較

 さて、このシリーズを語る際には、「職人尽絵」の影響が指摘されることが多い。岳陵が古画の学習にはげんでいたことは広く知られるところであり、《都会女性職譜》制作にあたって、「職人尽絵」が無関係であるとは考え難い。本囲と「職人尽絵」に共通点はみられるのか。

 

 働く人々を描く現存例には、14世紀から16世紀にかけて描かれた《東北院歌合》《鶴ケ岡放生会職人歌合》など絵巻物形式の「職人歌合」があげられよう。そして、これらの「職人歌合」は、《東北院歌合》が五番、《鶴ヶ岡放生会職人歌合≫が十二番、三十二番、七十一番…と時代とともに描かれる職人が増していく。このように、職人が絵画化されるようになった理由のひとつに、手工業技術によって生活を支えることが可能になった職人の台頭があったことが指摘でき、とりあげられる職業が増加していく背景には、鎌倉時代の終わりから室町時代にかけての手工業の発達があげられよう。岳陵が≪都会女性職譜》を制作したころにも働く女性が著しく増えており、職人が絵画化されるにいたった社会的な状況と共通しているという点には留意しておいてよいだろう。

 

 ところで、「職人歌合」に限らず、「洛中洛外図」を母胎とする近世初期風俗画とよばれる作品には、多くの働く人々の姿が絵画化されている。しかし、当然のことながら、これらに描かれる職人の姿は、賑やかな都の情景を彩る点景として捉えられる。さらに、《機織図屏風》(MOA美術館所蔵、fig.8)のように働く女性を大きくとりあげる作品もあらわれるが、女性そのものに対する興味や女性が身につける、あるいは女性の手からつくりだされる美しい小袖に画家の興味は向かっている。近世初期風俗画に描かれる職人の姿は、職人群が興味の対象であった「職人歌合」とは明らかに一線を画している。

 

 しかし、《色紙形職人尽絵》(天理図書館、fig.9)は、近世に描かれた「職人尽絵」ながら、先述の「職人絵」とは明らかに趣が異なっている。49枚からなるこの作品は色紙に描かれているが、絵巻物に特有の構図を意識的に用いていると思わせる俯瞰的な視点が特徴的で、伝統的な「職人歌合」に触発されて制作されたとの指摘がある。この作品と同様に、岳陵の《都会女性職譜》は、俯瞰的構図が特徴的であり、〈チンドンヤ〉〈エレベーターガール〉〈女店員〉〈看護婦〉-舞台を描いた〈奇術師〉〈レビューガール〉、衝立にうつる男女が重要な役割をもつ〈女給〉以外-の4図は斜め構図という点でも絵巻形式を思わせる。もちろん、人物のおもいきった切断等も試みており、俯瞰的な視点や斜めの構図を用いることで画面構成上の面白みを追求していることはまちがいない。したがって、岳陵が「職人歌合」や《色紙形職人尽絵≫をどれほど意識したかはわからないが、風俗を描き出すこと以上に、職人群を描くことに主眼をおいたこれらの作品と画面構成の点で類似しているという点は興味深く、今後さらに検討していくことにしたい。岳陵の《都会女性職譜》シリーズも20種ほどの職種を描く予定だったのである。。

 

 岳陵の長男である中村渓男氏は、岳陵が興味本位で風俗を描いたのではないと述べている。社会に進出しはじめた女性にエールをおくるという大きな意味あいがあったようだ。近世初期風俗画、特に女性が主役である《機織図屏風》と比べても、「職人歌合」、《色紙形職人尽絵》の延長線上に位置するように思われるのは、画家の興味の持ちようも関係しているのだろうか。伝統的な「職人歌合」にも、社会的地位の低いものの苦悩があらわれているものが少なくなく、社会的弱者に向けられる視線は共通のものである。

fig.8 機織図屏風

fig.8 機織図屏風

 

fig.9 色紙形職人尽絵「筆屋」

fig.9 色紙形職人尽絵「筆屋」

エレベーターガールについての報告

 さて、さいごに、7点の中でも特に場所を特定する要素が含まれたエレベーターガールについて、現時点で調べたことを報告しておくこととしよう。

 既に中谷伸生氏が指摘しているように*14、エレベーターガールに描かれた店内は、銀座松屋である可能性が高いように思われる*15。松屋店内の様子について、本図を検討する上で興味深い記述や写真がのこされているので、ここに紹介しておきたい。

 

 建築として最も意を注いだのは一階の広間で、ここは客の一番の通路でありますからここに装飾を施しました。今迄のデパートメントストーアにもホールはありますが、割合に簡単で人目を惹くに足るものを見ません。松屋のホールは目新しく快感を与へることに可成苦心をしました。而して従来余りないアラビア風の手法を用い、装飾も余り極彩色にしますと非常にうるさい感じがしますから、瀟洒なる色彩を選びましたが、ホールばかりは誇り得る自信を持って居ます。(略)

 

 この記事は、銀座ビル建設の顧問であった大熊喜邦工学博士が『今様』(新築開店記念号)に寄せた文章である。この文章から、松屋が、品位を保つよう装飾に留意していたことがうかがえる。大熊博士が言及しているホールは、8階までの吹き抜けで、天井のステンドグラスもローザリーの華やかなもの、ホール内部の柱はモザイク模様がとりつけられており、一階ホールの四方はサラセン風の漆喰模様で飾られていたという。さらに、2階踊り場には、岡田三郎助の描いた≪羽衣≫が掲げられており、ホールの華麗さとともに評判となっていたようだ。銀座店開店当初から、松屋は、東京を代表する新しい感覚をもった繁華街・銀座に相応しい洗練された存在を目指していたことがわかる*16

 

 さらに注目しておきたいのは、「従来余りないアラビア風の手法」を用いているという点である。残念ながら、松屋内エレベーター付近を写した当時の写真にはまだ出会っていないが、ホールの写真にうつる装飾と岳陵作品に描かれるアラビア風装飾は類似している(fig.10)。同時に、銀座松屋は8階まであったことも報告しておこう*17。岳陵画中のエレベーターも「一階一八階」との貼り紙や、時計のようにみえるエレベーターの階数を示す表示が、建物が8階までであることを示している。

 

 さらに、付け加えるならば、松屋では、銀座店開店後、とくに展覧会や文化的催しものにカをいれていた。なかでも一八公会には、岳陵も参加しており、岳陵と銀座松屋が無関係でなかったことを示している*18。また従業員についての記述では、震災後の東京で多くの職業婦人があらわれたのと同様に、松屋でも女性従業員が急増したとある。震災前の男女比がおよそ8.5対1.5であるのに対して、銀座店の開店当時(1925年)は6.5対3.5に変化している。

 

 当時の写真との比較で明らかになったアラビア風の装飾の類似、建物が8階であるという共通点、文化活動に力を注ぎ、デパートの内部装飾にもカを入れ、さらには女性従業員が急増するという状況をみると、岳陵が銀座松屋を取材した可能性はきわめて高いといえるのではないだろうか。

 

(さとうみき・学芸員)

 

作家別記事一覧:中村岳陵

*14 「当時もっともモダンな職場であった銀座の百貨店「松屋」の内部を描いた」(中日新開 三重版「美術サロン」1987年6月6日,『125の件品 三重県立美術館所蔵品』(三重県立美術館 1992年 p.27))。

 

*15 デパートの具体的店名についての岳陵のことばはいまのところみつかっていない。

 

*16 顧問として、東京帝国大学工学博士塚本靖、元鉄道省経理局長別府丑太郎、元賞勲局総裁天岡直嘉等とともに、文学博士笹川臨風、東京美術学校長正木直彦、東京美術学校教授岡田三郎助、日本画家久保田米斎、意匠部顧問として鹿島英二を迎えていたことからも、松屋の意気込みがうかがえる。

 

fig.10 銀座松屋ホール

fig.10 銀座松屋ホール

(『松屋百年史』より)

 

 

*17 『建築雑誌』第39輯474号(1925年p.456)

 

*18 日本画家の作品を展覧して販売する会。『松屋百年史』(1969年 社史編集委員会編)に掲載された、第2回十八公会の記録には、岳陵の名が記されている。

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