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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.71-74) > 工藤甲人「曠野の鴉」

館蔵品から

工藤甲人「曠野の鴉」

 「私はこれまで長い間、あれこれ苦闘し絵を描いてきたが、最初からあったあの心の中のドロドロした得体の知れないものは一向になくならない。…(中略)…結局、思いを無明の中に沈潜させなくては、そして、そこからさらに光の彼方を求めなくては、真にそれらの対象は生きてこないことを知る。現実と非現実、夢と覚醒、光と閣、いずれにせよ、それら相反するものの合体にこそ、すべてのものの機微がうかがわれそうに思えてならない。」(昭和41年7月)

 

 「現在私は、作家というものは心の底に闇を持っていなくてはいけないのではないかと考えている。人間のイメージというものは、決して明るさいっぱいのところから生まれてこない。すべてのイメージは闇の中からのみ生まれる。しかしながら、闇の中だけにいてはそれが真に生動してこない。そのイメージを闇の中から光の中にいったん解放してやるべきだと考えている。」(昭和56年2月)

 

 これらは、工藤甲人による言葉であり、彼の表現を解き明かす上でよく引用されるものである。ここにあるように、彼は、その画業の中で〈光〉と〈闇〉などの相対するものを如何に一体化させるかといったことを画面上で追求し続けてきたのである。

 

 当館に収蔵されている「曠野の鴉」を見る上でも、これらの言葉は、重要な手がかりになると考えられる。まず、主題となっている《鴉》であるが、われわれの一般的なイメージは、〈死〉とか〈不吉〉といったところであろうか。これに対して、後方には、《太陽≫の〈光〉が描かれている。これらは、相対する二つの色によってそれぞれのイメージをより強くしながら表されている。しかし、《鴉》は、ギリシャ神話では、〈希望〉の擬人像の持ち物であったり、キリスト教などの伝説では、エリヤ、パウルス、オヌフリウスといった聖者が荒野にいるときに、食料(西洋画では、多くはパンとして描かれている。)を運んでくる物語が広く語り伝えられている。この絵に描かれている《鴉》にこのような意味を込められているかは不明であるが、[曠野一荒野]、[鴉がついげんだ麦→食料]を連想させる。逆に、荒野における《太陽》は、〈人々の飢えを促すもの〉 ともイメージできる。つまり、《鴉》と《太陽》が互いに相対しつつ、単独でも、それぞれに〈光〉と〈闇〉や、〈希望〉と〈不安〉のイメージが複合され一体化しているとも考えられる。

 

 さらに相対するイメージの一体化ということを考えれば、あまり明確に描写されていない《大地》は、草一本生えていない《砂漠》や《岩場》のようでもあるが、下に描かれた鴉の足元には、《落ち葉》を連想させるような形が描かれている。つまり、ここでは〈生を荒々しく拒絶する自然〉と〈自然の中での生の循環〉の相反するイメージを同時に見る者に与えているのである。そして、《大地》と《空》は、溶け合うように無限の彼方へと繋がっており、〈永遠に続く時〉を感じさせるし、動きのある《鴉》の姿は、〈ある一瞬〉を感じさせる。

 

 この作品は、工藤甲人の作品としては画面の中に描かれたものが少なく、一見シンプルな構成で作られているもののひとつである。しかし、それが故に、相対するものがより強くぶつかり合う。色においても、形においても、主題においても、これらを一つにまとめ上げ作品にすることは、非常に難しいことであるが、それが見事に響き合っており、強い存在感と緊張感が生みだされている。

 

(近藤真純・主事)

 

作家別記事一覧:工藤甲人

工藤甲人(1915年~)

曠野の鴉

 

1962(昭和37)年

 

紙本着色

 

159.0×128.0㎝

 

 
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