この画面を前にして何より印象づけられるのは、主人公である拾得のとぼけた表情以上に、彼もふくめてさまざまなモティーフが、画面のいっさいを埋めつくそうと増殖し、そのことでおのれ以外のモティーフの増殖をうながす勢いをも呼びおこしながら、複数のそれらが画面上で出会えば、そこで境界線を描きつつ互いにたち止まらざるをえず、しかしなお、増殖せんとする勢いは完全に停止してしまうのではないという、いいかえて、画面の緊密な充填と増殖の過剰さとが、きわめて微妙な線上で均衡しようとしている、あるいは、揺れようとしているさまであろう。 こうした充填と増殖の接線は、風にはためく衣の襞や滝壷からはねあがる飛沫を描きだす線の、誇張され様式化された軌跡に認めることができる。 同様に雲も、それを型どる小さな弧の重なりがいささか多きにすぎ、画面に息をつかせ空気を吹きこむ余白というよりは、それ自体一つの生きものであるかのように、その場に固着することになる。
しかしこれらは、確かに様式化されているものの、完全に硬直したとの形容をあてるべきともいいきれまい。均衡ないし揺れを分かつ線のこうした微妙さをもたらすのは、闊達に変幻する筆と墨の表情だ。雲の弧の柔らかさ、箒や帽子の丹念さ、左の樹の剛直、画面で唯一軽快に動く、下方の土手の草を措く線、そして何よりも、木の幹の樹皮か龍の表皮とも見える、右手の崖を織りなす菱形の連なり。最後の部分では、明暗の対比とあいまって、パーツの、輪郭というには太くささくれた境界の暗さゆえ、生命を宿したうごめきがもたらされている。こうした細部は、墨の濃さ・筆の太さをさまざまに変化させることで、互いが呼びかわしあい貫入しあう織物をつむぎだす。 そして、上から落ちる枝、箒、土手が空間を右に開こうとする一方、崖と滝は垂直に滞留し、その両者の交差がまた、織り目の一つ一つにざわめきを伝播していくのだ。 (石崎勝基・学芸員) 年報/曾我蕭白展 |