このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.51-60) > 薊のモティーフと1910年代の工芸

薊のモティーフと1910年代の工芸

土田真紀

 「自分のうつり住む土地に、/此の強健で美しい花が、/無かつたら實にさびしいだらう(後略)」。1940年に刊行された富本憲吉の著書『製陶餘録』にこの「薊」と題された詩が含まれている(註1)。富本が生涯を通じて最も愛したモティーフの一つ薊は、初期のスケッチや楽焼のジョッキにすでに登場する。つまり1910年代前半からということになるが、実は1910年代に薊を好んだのはひとり富本だけではなく、注意してみると、工芸の分野に限らず、しばしば目につくことに気付かされるのである。

 

 まずは今回の展覧会の出品作のなかで拾い出してみよう。河合卯之助の木版画による模様集『伊羅保』に含まれた、壺のフォルムの中で窮屈そうに身をよじった薊。藤井達吉が厚手の木綿地に木版で摺った丈高い薊。北野恒富の〈五月雨〉では、物思いに耽ける女性のなまめかしい後ろ姿の着物を薊が覆っている。津田青楓の薊と蜂を組み合わせた木版の装幀図案。新井謹也の皿の図案も薊のようである。富本では、木版による『富本憲吉模様集』に一葉だけ、写真版の薊のスケッチが含まれている。出品作以外では、恩地孝四郎の『月映』時代の木版で、薊を左右相称に配した〈うかむ種子〉のほか、関根正二の〈天平美人〉、彼の絶筆となった〈慰められつつ悩む〉にもやや唐突に薊が登場する。

 

 キク科の多年草である薊は、ごく最近までどこの山野でも目にする日本人にとって最も身近な野草の一つであった。絵画や工芸品に登場するのは江戸時代以降のようで、遠山記念館所蔵の小袖に代表される染織品や、伊万里、漆器など身近な工芸品に加え、琳派もしばしば取り上げている。素朴な野草で、また刺をもつ故か、文様としての登場は遅いが、江戸期以降は十分ポピュラーな装飾モティーフであったと思われる。

 

 しかしながら、こうした伝統は、1910年代の作家たちが薊に新鮮な魅力を感じる妨げとはならず、また彼らの取り上げ方は、従来のものとは明らかに一線を画している。特に恩地孝四郎、北野恒富、関根正二といった画家たちの描く薊に伴う、一種文学的な独特の感情なり感覚なりは、これ以前にはなかったものであろう。あくまで推測でしかないが、その背後に、この時期絶大な影響力を誇った北原白秋の詩集『思ひ出』(1913年刊)に収められた一編、「酒の黴」の薊をうたった節などが想起させられるのである(註2)

 

 さて、多かれ少なかれ、何らかの情緒的な要素が1910年代の薊愛好に通底しているように感じられるのであるが、工芸に話を絞るなら、もう一つ別の観点からこの愛好を捉えることができるのではなかろうか。工芸家が図案モティーフとして、薊に限らず、路傍の草花の類を好んで取り上げているという点である。富本憲吉、河合卯之助、藤井達吉、津田青楓、高村豊周らは、多少の程度の差はあれ、みなそうした草花の写生に精を出し、そこから模様集を制作したり、工芸品に応用する文様を生み出しており、そこにはどこか共通点が感じられるのである。

 

 富本は『美術新報』に掲載した「模様雑感」で次のように語っている。

 
去年春以来私は如何も古い模様に囚はれて困ると思い出しました。・・・全く古い模様を忘れて、野草の美しさを無心で見つめて、古い模様につかまれずに、自分の模様を拵へ様とアセリました。・・・それ以來、私は一切畫室では模様を考へない事にきめて、野外ヘスケッチブックを持ち出して、模様を描いて居ます。偉い人は私の作を一々之は何から来て居る、それは何から来て居ると、指摘されるかも知れませんが、私は自然に對して模様を描いて居るといふ、その心持に安んじて居ります(註3)

 単に戸外で写生を行うのみでなく、「一切画室では模様を考えない」という。こうした「模様」の一部が今回の展覧会に出品された『模様集』の原画である。「模様雑感」が発表された年と原画が描かれた年はほぼ一致しており、富本の言にしたがえば、野外で対象を前に直接描かれたものであろうが、これらは確かに「写生」という以上に、大胆な単純化によってすでに「模様」となっている。その証拠に、原画と『模様集』の木版を見較べても、「模様」としてはほとんど手が加えられていない。

 

 名高い富本の「模様から模様を造らず」という言の出発点がここに見出されるが、当時、こうした態度は富本に限らなかった。河合卯之助は植物の写生を中心とするこの頃のスケッチブックを遺している。大正初年に河合とともに軽井沢で草花のスケッチを行ったという藤井達吉は後の著書で次のように書いている。「自然を觀つめる、言ひ換えれは、自然を愛するといふこと、それよりほかにどんな道がありませうか。私の頭が古いのかも知れませんが、私はそれを唯一無二の道だと心得て居るものであります。ひとり圖案といはず、總ての藝術のそれが根本態度ではないかとさへ信じて居るものであります」。これに続いて藤井は、純粋絵画か図案かの区別を問わず、「自然の全斑を、簡約された数條の線描で現はすやうな場合は、いづれにしても大切な必要なことであります」と、やはり自然を写生的に写し取るのではなく、単純化することの重要性を説いている(註4)。高村豊周の自伝『自画像』によれば、高村の友人の西村敏彦は、美術学枚在学中にすでにこの藤井の影響を受けて、既成の模様を利用したり真似したりするのではなく、直接自然に基づいた独自の図案に取り組もうとしていたという。一例として「アザミのトゲのある茎や葉をうまく扱って、非常に清新さを感じさせた」といい、薊のモティーフ一つがいかに革命的であったかを語っている(註5)

 

 大正の初め頃、様々な形で彼らの間にこうした態度が芽生えていたことは明らかである。しかしながら、すでにみたように、薊は全く新しいモティーフというわけではなかったし、彼らが好んだような草花への眼差しが過去になかったわけでもない。彼らにとっては、直接「自然」に還るということに加えて、そこに新たな何かを見て取り、表現そのものに新しさを生み出すことこそ重要だったのではなかろうか。

 

 たとえば植物の直接の写生ということであれば、板谷波山も1900年以前から盛んに行っている。しかし比較してみると、草花の好みが異なるのに加え、宮本に代表されるように、彼らのスケッチや図案は、写生に基づきながら、波山のように決して忠実に細部を写し取ってはいない。作家による相違はもちろんあるが、単純化によって個々の草花の特徴を明快に捉えている点はほぼ共通している。その結果、簡素ながら生き生きとした図案が生まれているのである。

 

 他方で富本らの図案は、1900年のパリ万博以後盛んになった図案改革の動きのなかで、浅井忠が試みた図案とも異なっていた。万博開催中のパリを訪れ、アール・ヌーヴォーを目の当たりにした浅井は、そこから琳派を中心とする過去の美術を図案の観点から再発見し、杉林古香らとの共同作業を通じて、当時としてはきわめて質い漆器等を生み出している(註6)。しかし1910年代の工芸家の支持者であった小宮豊隆は、浅井の図案の性格を正確に見て取っていた。浅井は「誠意と虚心とを以つて『自然』を凝し、其凝視から得たものを誠意と虚心とを以つて表現すること」(小宮によれば「圖案の藝術化」)に「心を用ゐ」ているものの、「新らし様式が持つを常とする様な大胆な率直な自由な感じに欠けてゐる」(註7)。浅井の図案における試みを評価しつつも、従来の「型」、すなわち淋派を充分に脱しきっていない点を指摘しているのである。光淋自身が「自然」を直接見つめていたのに対し、浅井の場合、光琳を通して「自然」を見ているということであろう。

 

 再び富本のスケッチに目を転じるなら、モティーフは簡素な線描で捉えられているが、その太い線の帯びた生命が図案に生動感を与えている。また富本や河合の木版による図案の場合、木版独自の彫り跡や彫り残しによって、草花の持つ息吹のようなものを伝えようとしているのが感じ取れる。単純化イコール「様式化」あるいは「パターン化」ではなく、単純化によってむしろモティーフのもつ生命力を引き出すのが彼らの共通した意図と考えられる。

 

 こうした意図は恐らくモティーフ選択の時点ですでに働いているにちがいない。草花の中でもとりわけ素朴で力強い生命力を感じさせるもの、すなわち薊が好まれた理由もそのあたりに求められそうである。典型は藤井達吉の木綿に木版の薊であり、素材と技法の選択もさることながら、丈高い薊の燃え上がるような姿はまさに生命力の権化である。薊は花、葉、刺のある茎、いずれをとっても特徴的で、いかにも力強い。初夏と秋の2回花をつけ、至るところに見出される薊の現実の旺盛な生命力に加え、姿形も野草の生命力を代表する力強さに満ちている点が、1910年代の工芸家には好ましく感じられたのであろう。彼らが概して茎の表現を重視しているのも興味深い。

 

 西洋近代デザインに新しい局面をもたらしたアール・ヌーヴォーの根底には自然に対する新しい態度が潜んでいた。デザイナーたちはデザインの源を直接自然に求めることを主張し、自然の生命力はS字曲線を通して典型的に表現された。1900年代の日本の図案界を席巻したのは、おおかたこのアール・ヌーヴォーの表面的な模倣であり、浅井の場合でさえ折衷的表現を充分に脱してはいなかった。これに対し、1910年代の工芸家は、表現方法は異なるものの、自然への態度の根底においてアール・ヌーヴォーに通じており、日本の工芸に真の「近代」をもたらしたのである。

 

(つちだまき・学芸員)

関根正二「慰められつつ悩む」1919年

関根正二「慰められつつ悩む」1919年

 

『富本憲吉模様集』(1915年刊)より

『富本憲吉模様集』(1915年刊)より

 

河合卯之助『伊羅保』(1916年刊)より

河合卯之助『伊羅保』(1916年刊)より

 

註1

富本憲吉『製陶餘録』昭森社 1940年 127頁。

 

 

註2

17 酒屋の倉のひさしに

 

薊のくさの生ひたり、

 

その花さけば雨ふり、

 

その花ちれば日のてる。

 

18 計量機に身を載せて

 

量るは夏のうれひか、

 

薊の花を手にもつ

 

裸男の酒の香。

 

19 かなしきものは刺あり、

 

傷つき易きこころの

 

しづかに泣けばよしなや、

 

酒にも黴のにほひぬ。

 

 

註3

富本憲吉 「模様雑感」(談)『美術新報』 1914年10月号 8-9頁。

 

 

註4

藤井達吉「園案についての言葉」『美術工藝の手ほどき』博文館 1930年 18、23頁。また津田青楓は、『老畫家の一生』(中央公論美術出版 1963年 145頁)で、明治30年代半ば、高島屋図案部に勤めていた前後に、それまでの仕事のやり方を反省し「自然の一草一花を寫生してそれを模様化することを考えた」と回想している。

 

 

註5

高村豊周『自画像』中央公論美術出版 1968年 115-6頁。

 

 

註6

クリストフ・マルケ「浅井忠と漆工芸」『美術史』第134冊 1993年3月。

 

 

註7

小宮豊隆「圖案の藝術化」『文章世界』1914年 10月号 260頁。

 

ページID:000055651