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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.51-60) > 増山雪斎「虫豸帖」

研究ノート

増山雪斎「虫豸帖」

山口泰弘

 大坂の医師寺島良安が、明の『三才図会』に倣って正徳2年(1712)頃に完成させた図入り百科事典『和漢三才図会』には、虫とは生物のうちの微少なものをいいその種類は無数にあるが、そのうち足のあるものをとくに「虫」といい足のないものを「豸」という、と記されている。「虫豸帖(ちゅうちじょう)」(東京国立博物館蔵)と題箋に記された増山雪斎の博物図譜は、その名のとおり多種多様な虫豸を描き集めたものである。

 

 増山雪斎(1754~1819)は、宝暦4年(1754)10月14日、伊勢国長島藩主増山正贇(まさよし)の長子として江戸に生まれ、父の死去にあたり、安永5年(1776)23歳の年に遺領二万石を襲封した。諱は正賢(まさかた)、雪斎はその号で、ほかに巣丘隠人、石顛道人、顛々翁、君選、括嚢小隠、玉園、潅園、雪旅、長洲、愚山、松秀園、蕉亭など多くの別号がある。48歳になった享和元年(1801)、家督を長子正寧に譲って江戸巣鴨の下屋敷に退き、自娯自適の生活に入った。雪斎は花鳥画家として知られるが、その画は、専門画工のそれではなく、脱俗遠塵を理想とする文人の自娯の楽しみというべき性質を帯びている。

 

 雪斎の自娯の楽しみは、画はいうにおよばず、書・詩文・囲碁・煎茶など、文人が嗜みとすべき諸方面にひろがっていた。著作も多く、『國書総目録』を引くと、『観奕記』(一冊 享和3年)=囲碁、『松秀園書談』(三巻三冊 寛政5年)=書、『煎茶式』(文化元年刊)=煎茶という書目があげられている。ほかにも 『松秀園書談』の奥付には、「雪斎膝侯著追刻書目」として『礼談』『楽談』『射談』『御談』『通雅』といった著作の出版が予告されており、雪斎の文人的教養のひろさをうかがわせる。

 

 このように風流に親しんだ雪斎を、江戸時代の画論は、「風流抜群」(雲室『雲室随筆』・文政10年)あるいは「風流自在」(金井烏州『無声詩話』・嘉永6年)の人と呼んでおり、また、相撲番付に見立てた文人番付では行司を任されるというように、生前、文事に秀でた風流の人として敬まわれる存在であった。「虫豸帖」も雪斎の幅広い関心をものがたるひとつの例である。

 

 雪斎は、写生のために心ならずも殺した虫の死骸を糞壌に帰してしまうに忍びず、小箱にしまい、「これはわが友である。いつか適当な地に埋めて供養したいものだ。」と常々語っていたというが、遂げることなく没した。その遺志を継いで葛西因是ら知友が菩提寺である勧善院に立てた「虫塚」が、上野寛永寺に移されて現在も残る。

 

 「虫豸帖」は春・夏・秋・冬の四帖の部立てから成る。各帖には、一頁ごとに、大きいもので一枚、小さいもので四枚くらいまでの紙片が貼られている。それぞれの紙片には、図とともに写生の日付や書き入れがあり、さらに「雪」「斎」の小さな聯印が捺される。

 

 春の帖は蝶がすべてを占めており、四帖のうちでももっとも美しい。夏の帖にはトンボ・バッタ・セミ、秋の帖にはガ・ハチ・イモムシ・カブトムシなどの甲虫、冬の帖にはクモ・水生の虫類・淡水魚・トノサマカエルなどが纏められている。カエルやトカゲを虫豸に収めるのは、ミミズやカタツムリ・ナメクジなどとともにこれらを「虫部湿生類」に分類する『本草綱目』などにしたがったものだろう。 上記のとおり、「春の帖」では蝶がすべてを占めている。そのほとんどが 表裏二面からひとつの蝶の形態を捉えるという定式にしたがって描かれているが、このようにひとつの個体を多角的に記録しようとする姿勢は「虫豸帖」全体を通してほぼ一貫する姿勢で、知的な関心に裏打ちされた科学的な雪斎の観察姿勢を示している。

 

 さらに、形態の非常に正確な把握とともに、その細部を細密に観察し、対象に即して再現しようとする姿勢に貫かれていることも特筆すべきであろう。

 

 面白いのは金泥と銀泥を使用している図がいくつかあることで、本来装飾的効果を期して使われる金泥と銀泥が、たとえば蝶の翅の即物感を効果的に再現しているのは、発想の見事な転換といえよう。

 

 第二の帖「夏の帖」にはトンボ・バッタ・セミ・ウマオイムシ・キリギリス・カマドウマなどが集められている。

 

 そのなかで、バッタは、地上で餌を捕食する態と飛翔する態が描かれる。胴は墨の濃淡でモデリングが施され、拡げた後翅は上部を淡墨で描くほか、下部には薄い金泥を掃いて後翅の透明で光沢ある質感の再現を試みている。

 

 キリギリスは、雌のみを表裏(腹背)二面から描き、カマドウマは雌雄を前後二面から描く。カマドウマの短縮法による把握と巧みなモデリングが、雪斎の綿密な観察の成果を見事に画像として定着させている。

 

 第三の帖「秋の帖」にはガ・ハチ・イモムシ・カブトムシなどの甲虫が集められている。なかには、「馬尾蜂」と雪斎の同定するめずらしいハチが収められている。馬尾蜂は、幕府医官で江戸俳譜の草分けのひとりといわれる半井卜養旧蔵の標本を写したものであることが書き込みからわかる。「真予未見生」とみずから記すとおり、雪斎も、生体を実見したことのない珍種であった。翅を金泥で描き、おそらくはその上から膠を施したらしく、対象の質感を再現するためにあらゆる工夫を試みる雪斎の画人としてのこだわりと科学精神が彷彿される。カブトムシは雄の腹背両面を描くほか、雌が硬い前翅と柔らかい後翅を拡げて飛ぶ様子を併せて描く。その甲の硬質さやつややかな胴の光沢を巧みに再現している。

 

 画帖に貼られた紙片の書き入れには『三才図会』の名がときおりみえるが、雪斎は、虫を新たに採集すると、座右にある『三才図会』(あるいは『和漢三才図会』)や『本草綱目』などの図解百科事典を参照して同定を行ったらしい。その博物学的探求心の旺盛さが偲ばれる。

 

 第四の帖「冬の帖」にはクモ、水生の虫類をはじめとして淡水魚、トカゲ・カエル・ゲンゴロウなどが収められている。

 

 カエルを虫豸の属に収めているのは、現代の眼には奇異にみえるが、雪斎たちの通念では、カエルもまた虫豸に属するものであったらしい。雪斎のみならず当時の人々の動植物知識の源泉であった『本草綱目』では、カエルをミミズやカタツムリ、ナメクジなどとともに「虫部湿生類」に分類する。

 

 カエルは計五態が描かれている。鳴嚢を膨らませて鳴声を発する態、跳躍しようとする態、水面を泳ぐ態など、生態によるヴァリエーションを描き分ける。また、ゲンゴロウは、例によって腹背二面から描かれているが、紙片全体を水色で埋め、その棲息の場を表しているのが背景を描かない「虫豸帖」全体からみて珍しい。いずれにせよ、その生態への関心は漢方的な効用や信仰的意味でみる古い動物観とは明らかに異なって、新しい博物学的方法への歩みを進めていることがうかがわれる。

 

 日付に付された年紀は文化4年(1807)から文化9年(1812)に亙っており、膨大な紙片はこの間に集中的に描き溜められたとみられる。これを整理し画帖に纏めたのが雪斎自身であったかどうかはわからない。しかし、東京国立博物館の松原茂氏のご教示によると、各帖とも余白頁が多く残り、さらに貼り加える余地を残していること、画帖を収めた木箱の題箋に「君選生写真画帖(君選は雪斎の別号)」と謙譲表現を用いていることから、雪斎自身に編者を帰する蓋然性は高いといわなければならない。

 

 『虫豸帖』は、本画制作のための習作という意味での写生帖ではない。一匹の昆虫をさまざまな角度から写し、さらには飛翔する姿までも描き、また、写生の日付を付し、『本草綱目』や『和漢三才図会』など本草の書物から得た知見を書き添えるといった博物学的手続きも踏む。漢方的な効用や信仰的意味でみる古い動物観とは明らかに異なって、新しい博物学的方法への歩みを進めているのである。その表現をみると、徹底した写生の態度に裏付けられているが、いっぽうでは装飾的効果のために本来使われる金銀泥や雲母が蝶の鱗翅の質感を表すために使われており、その意味ではきわめて絵画的でもある。芸術と科学の未分化の混沌のなかに遊ぶ雪斎の楽しみがそこにうかがえる。 

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

 

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