右下に、小川だか掘をまたぎこして、奥の家屋に通じる門が見える。水路は左の方へのびている。草や木立ちが豊かなこの景色は、しかし、あるゆらぎと動きを感じさせはしないだろうか。何ら奇妙なところがあるわけではない。それでいて景色は、ながめる内に蜃気楼のように、とらえようとする視線から逃れ、ふっと消えてしまい、そこにからっぽのひろがりだけを残しそうだ。 これは何よりも、水彩の透明感を最大限にいかした、大ぶりな塗りによって得られた。絵具をたっぷり水で薄め、紙の上におく。筆を動かして形を描きだすというより、水がにじむにまかせた部分が少なくないのだろう。それが幾度か重ねられ、奥からしみだしてくるような光を宿らせることになる。 他方そうした不定形さに対し、右側の家屋の連なりが、どっしりと重しのような役割をはたしてはいる。それにしても、右下と左下では、何も描かれないひろがりが大きく取られ、家屋の実在感を押しかえすことになる。とりわけ左下は、奥へしりぞく水路の向きとあいまって、景色全体を紙の上からずり落としそうな勢いをもたらしている。 そして左奥の暗い緑の領域-あたかも、視界が幻としてゆらいだ、その向こうから現われた別の次元の予兆といっては大げさか。緑の暗さは、橋や柵の、これはゆっくりとおかれた小さな白によっていっそう際だたせられる。 何の変哲もない景色が幻として現実から滑りおちていく。こうした画面作りを、近代における空間の変容に応じたと見なせるかもしれず、実際、後にラーションが家族や自宅を描いた作品においても、さまざまなしかけを潜ませることになるだろう。 (石崎勝基・学芸員) |