ある時期鳥海青児とふかい交渉のあった画商のAさんに、「鳥海さんってどんな人でしたか」ときくと、うてばひびいて、即座に「洒落者だったね。」という返事がかえってきた。「高間惣七や木村荘八も都会的な洒落者だった。でも鳥海さんはそれを超えてたね。」とも。そんな風にいわれると、そういえば鳥海は小唄がうまくて、ずいぶん粋だと感心されもしたらしくて、その「洒落」ものぶりになんとなく納得してみたくもなるが、絵からたちあがる鳥海の印象はといえば、どこか肝心の点で微妙に洒落からずれているようにもおもえる。鳥海の半身をつくったのは、たしかに江戸、明治になって東京と名を改めてもなおしばらくはその余香が町並にも人にも残っていた江戸という一文明だろうが、方寸のうちにそれをかかえても、肉体の鳥海が投げだされたのは極東の海国の近代だった。 鳥海のこととして、かれもまた洒落と野暮を同時に生きるべき、そんな時代が近代であって、時代のちからはさからいがたい。かれでさえ、かつて自分はゴヤやレンブラントの遥かなる亜流だとかたったことがあるくらいだから、たとえば木に例えて、天上大風、この西からの強風に曲ることがないどころか、そよ風が吹くだけでもう大げさに曲がってみせた木も少なくなかったのである。 ところで時代の風に倒れないためには、幹を太くするか、もっと根をはるかすればいい。鳥海はあきらかに後者に属して、もっとふかく、風土に堆積する地層をかたく噛み、そこから色とかたちの精をとって、そのことでごく自然に幹も又ふとっていった画家のひとりだった。そのとき地層というのは、ようするに生まれ育った国の古美術に端的にあらわれてくる自然の相であり、それに対する鳥海のふかい愛情であり、それによって歴史は刻刻に現在というあたらしい時をえて、色にもかたちにもその姿を現成する。たとえば日本の黄色と、またその底に沈んで息づいている錆びたはなやかさ。 (東 俊郎・学芸員) |
鳥海青児 彫刻(黒)をつくる1953年 油彩・キャンバス 100x80cm
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