荒屋鋪 透 大正10年代、さかんに創刊された写真雑誌のひとつに『ライト』という同人誌がある。菊倍判に近い縦22.5、横30.0センチ、本文20頁に写真図版が10点印刷されており、表紙・裏表紙と広告を入れて計48頁の冊子である。奥付に「大正十二年五月二十日発行、編集兼発行者野田藤吉、京都市下京区東山線通四条南五三七番地、印刷者土山定治郎、京都市綾小路柳馬場東塩屋町五五番地、印刷所土山文隆堂印刷所」とある。『ライト』誌創刊号表紙fig・1をデザインしたのは鹿子木孟郎。彼はまた同誌に「ライト芸術写真社同人諸君に対して名所写真 端書の改良を望む」という一文を寄せている。同誌に作品を掲載した写真家はライト同人の10名、寺田忘筌、杉本廣洋、児玉素光、三浦静湖、岡本東洋、鈴木旦海、永野峰月、鈴木南山、大森登月、野田青波。巻頭には同人からの「創刊の辞」があり、「大正の新時代に最も相応しき手段を以て永久にその作品を遺したいと思ふ希望を以て茲に同人相謀り印画集を創刊した」抱負とともに、6回を1期として発行しながら毎回作品を募集して掲載し表彰する旨、春秋に 展覧会を催す予定などが記されている。第1回懸賞印画には一等《閑寂》遠矢良知(千葉)、二等《春雨》中川英字呂(大阪)、三等《山荘》川面長男(神戸)と佳作10名、選外佳作54点が選ばれた。このライト懸賞入選画は大正12年6月20日から25日まで京都図書館で開催された「京都写友会写真印画展覧会」に展示されている。飯沢耕太郎氏によれば「大正十年代になると・・・アマチュア向けの写真雑誌が次々創刊され、長い伝統を持つ『写真月報』『写真新報』とともに、空前の雑誌ブームがおきてくることになる。・・・これらの多くは大正十二年九月の関東大震災以前、あるいは震災によって廃刊に追いこまれていく」(『「芸術写真」とその時代』筑摩書房、1986年、P.88)というが、大正12年5月発行の『ライト』は、そうした写真雑誌としては比較的遅れて誕生したものだといえよう。事実、前掲した「創刊の辞」には「東都に於ても大阪及び其他の都市に於ても各有力な写真雑誌なり印画集なりが刊行せられて居るにも拘らず、我国美術の淵叢地たる京都には遺憾乍ら寡聞にしてその具体的な刊行物のある事を知らぬ故に茲に同人予ねての宿題たりし該事業のスタートを切った次第である」とある。『ライト』誌に鹿子木がどのようにかかわっていたかは今後の課題として、まず彼の写真絵端書論に注目してみよう。長くなるが全文引用する。「近来写真術の隆盛に伴い我国各地名勝の写真端書なるものも亦盛んに行はるる、に到り、遊覧探勝の人士を益する事少なからざるも一般に写真の構図乃ち位置の選択往々にして頗る拙劣なるものあり、折角の勝地も却て写真の為めに大に侮辱せられて心ある人をして噴飯に堪へざらしむるものあり。思ふに写真端書なるものは其の普及する範囲頗る広大にして其の区域は世界的なり。されば構図の拙劣なるものにて観者をして嫌悪の念を起さしむるものは、各所を侮辱すると同時に遊覧者を其の地に引き附けるの力なく却て之れを遠ざからしめ大に発行の目的をあやまるものなり。又これ等の写真が我国の国境を越へて外国に送らるゝや日本人の非審美的なる事をそれ等の国々に紹介して大に国辱となる事も其例決して少なからず。写真絵葉書の事小事に似て決して小事にあらず、切に写真家諸氏の深重なる注意と研鑽を望まざるべからず」(同誌本文 P・2)。1900年万博から第1次大戦にかけて、三回のフランス留学で鹿子木は 多くの海外の絵葉書を見る機会があったはずだ。近年ジョヴァンニ・ファネッリらによって著された『アール・ヌーヴオーのポストカード』(1)などからも判るように、この時代の葉書意匠は実に多様で興味深い。しかし鹿子木はあえてそうした絵葉書ではなく写真葉書に使用される写真の質をここで問題にしている。鹿子木は(1)複製芸術である写真の影響力に着目し、(2)従来の風景写真の構図を批判しているが、それが単に絵画的効果を狙ったものではないことは、彼が推薦する写真家の作品からもうかがえる。実は前掲文のすぐ後にライト同人の野田青波を絶賛する鹿子木の一文があり「氏は写真機械を利用して自然を活躍せしむる画家なり」と記されているが、野田は《汽車待つ暇に》fig・2と題する作品を同誌に発表している。野田青波こと野田藤書は祀園石段下南に野田写真店を開業していたが、同店は京都写友会事務所となっており、ライト誌も写友会の印画集として発行された。同誌に《温室の一隅》を寄せた岡本東洋は、KPS(京都写真協会)会員。また同人は以下の作品を掲載している。寺田忘筌《梅見頃》、杉本廣洋《漁村の朝》、児玉素光《農家雑感》、三浦静湖《春戸》、鈴木旦海《木蓮》、永野峰月《川岸》、鈴木南山《浅間の道》、大森登月《隠棲》。岡本東洋は昭和8年に『東洋花鳥写真集』(芸艸堂)を出版するが、鹿子木は「岡本東洋君は絵筆を持たぬ画人である」と同写真集に推薦文を寄せている。ところで『ライト』が創刊された年の9月、関東大震災にあたり庶子木は急遽現地に駆け付けたことが知られている。京都下鴨にある鹿子木の家の前に当時住んでいた池田遙邨は、自作《惨禍》を制作した頃を回想して「先生(鹿子木)に誘われましてね、それも今日行こうというのです。そんな訳にはいかんといいながらお伴しました」(2)と証言している。現場の写生には危険が伴い、同行した遙邨は朝日新聞社の腕章をつけてスケッチに励んだという。鹿子木の《大正12年9月1日》(東京都美術館蔵)fig・3はこの時描かれた多くのスケッチ類、撮影された写真に基づいて制作された。画家の手元にあったいくつかの資料が残されているが、その1枚の写真fig・4は破壊された壁、土蔵、街灯などが左右を反転し、油彩の背景に応用されたことが判る。また当時発行された『関東震災画報』(第一輯、大阪毎日新聞社編纂、大正12年9月15日)掲載写真の一部fig・5は油彩下中央の行李をもつ男の参考になった。鹿子木が持っていた写真には『大震災写真画報』(第二輯、大阪朝日新聞社、大正12年9月25日発行)に掲載された「残骨を路面に横たへた電車と自動車――繁盛殷賑の街銀座尾張町災後の姿」(同誌p.9.)の紙焼も含まれている。とすると鹿子木もまた報道写真家として東京に赴いたのだろうかという疑問も生じるのだが一事実、別のところで造郡は、鹿子木が写生だけでなく、しきりにシャッターを切っていたことも証言している――鹿子木が新聞社から入手したのか、彼自身による撮影かは定かでない写真、震災直後に発行された輪転グラビア印刷によるグラフ雑誌などを参照しながら制作を進めたようだ。これら震災を報じたグラフは「写真の情報伝達と記録の能力を人々に強く印象づけることになる」(飯沢氏の前掲書p.100)のだが、鹿子木はそのグラフを意識しながら、自らの描いたオイルスケッチ、素描類、写真とによる《大正12年9月1日》を最初の報道画への試みとしたのではなかったろうか。フランス最後の歴史画家ジャン=ポール・ローランスから学んだ技術を用いて、日本的歴史画をいかに構想するのかという彼の課題は、全く偶然に起きた大事件により、神話や古典から離れて、絵画による事実の伝達と記録へと方向転換していく。その制作のなかで決して補助的ではない機能を果たしたのが他でもない、画家が従来から関心を抱いていた写真であり、画家は全く躊躇することなく、その写真を再構築しながら彼の「報道画」を組み立てた。現在、東京都美術館に所蔵されている鹿子木の50点の素描類には、油彩下絵と震災スケッチがあるが、形態を速写するアカデミックな技法により部分と細部を強調しながら、廃墟と化した都市空間がまるで写真のようにトリミングされ、ある時は俯瞰されて描かれている。そしてことの細部と部分へのこだわりこそ、画家晩年の風景画に見られる写実性の本質に繋がっていくのである。 (あらやしき とおる・学芸員) |
fig.1『ライト』創刊号表紙 大正12 鹿子木孟郎註1.Giovanni Fanelli and Ezio Godoli, Art Nouveau Postcards, 1987 London. fig.2野田青波「汽車待つ暇に」大正12 註2.池田遙邨・鈴木進「対談 若き日々の思い出など」、『三彩』、No.383, 1979年, 8月, p.30. fig.3鹿子木孟郎 大正12年9月1日 大正13 fig.4 鹿子木孟郎所蔵資料「関東大震災(仮題) fig.5『関東震災画報』より 大阪毎日新聞社 大正12 |